長安の春の夜は少し肌寒い。
住み慣れた者ですら、春の夜を過ごし易いと感じるのは、夏がもうすぐそこに迫っている、ほんの僅かの間の事でしかない。
そんな長安の春の夜であるにも拘らず、教経は肌寒さを感じるよりもむしろ盛夏の夜の如く、ジワリとした暑さを感じていた。
その理由は、今日は長安で『数え役満☆姉妹』が舞台を行っていた為だ。
急遽決定されたものであった為、長安近隣からしか人は集まらなかった筈であるのだが、思った以上の盛況ぶりを示していた。
観客たちは予定されていた演目を終えても一向に解散せずにその場に留まって再演を何度も要求していたが、それに応えて天和、地和、人和の三人が舞台の上に再臨しては一曲歌うことを数度繰り返したことで満足し、三々五々家路についていった。
今回も舞台会場の整理や三人の身辺警護を親衛隊が行ったが、いつかのように暴徒化する事が無かったことで、皆ホッとしていた。
暴徒化した際の反省を踏まえ、観客を煽るような演出を控えめにしたことが奏功したと言えよう。
無事舞台を終えて、教経は舞台裏に用意されていた楽屋で寛いでいた。
「しかし思いの外、人が集まっていたな」
教経の発言に、高順が応える。
「そりゃそうだろう。大将がどう思ってるか知らないが、前回長安で催したコイツらの舞台は、相当に噂になっていたんだ。噂が噂を呼んだ結果として、今回のあの数の観客になったんだろうさ」
「それはそうかも知れんが……」
しかしなぁ、と教経は思う。
自分が嘗て生きていた現代社会においては、生活の心配をしなくても済む人間ばかりであった為、娯楽に労力を費やすことが出来る人間は数多く居た。
だからこそ、有名一流アーティストのライブともなれば、万余の人が押し寄せることも珍しくは無かった。
有名一流どころか、著名二流程度のアーティストのライブでさえ、万余の人が押し寄せることもあったのだ。
そしてそれは、豊かであればこその話であるだろう。
だが、今教経が生きているのは古代と呼んでも差し支えのない、三国時代だ。
娯楽にのめり込めるほど生活にゆとりのある者の数は少ないはずである。
それにも拘らず、彼女たち三姉妹の公演には万余の人が押し寄せる。
その事が、それを行うだけのゆとりを自分の政が創り出せている良い証左であるのか、それとも三姉妹の人を惹き付ける力がそれほどまでに強いのか、そのどちらであるか教経は判断に困っていた。
「ちょっとアンタ!ちゃんとちぃの話を聞いているの!?」
「おぉ!?」
教経が声の上がった方へ顔を向けると、ケ忠が地和に絡まれていた。
二人の関係は、まだ深いものにはなっていないらしい。
それは掴みかかる地和に対する、ケ忠の身体の捌き方を見れば分かる。
出来るだけ接触しないように気を遣っているのが一目瞭然であった。
接触を嫌っているのか、接触を恥ずかしく思っているのか。
教経から見る限りでは、後者であるように見える。
剣を志すものとして、『ロリ・即・斬』の正義の下に切り捨ててやろうかとも思ったが、それよりも後で姉である百合に今のこの態を言いつけてやった方が遥かに面白かろうと思い、内心ほくそ笑むに留めていた。
「教経様、舞台どうだった?わたし、頑張ってたでしょ?」
「ちょ、ちょっと天和姉さん。観客が居なくなったとは言え人前なんだからそんなにくっつかないで」
その教経の傍ら、と云うより両隣には三姉妹長女の天和と、三女の人和とがそれぞれ陣取っている。
ここ最近、特に天和が教経に対して、積極的なスキンシップを取ってくるようになった。
積極的に、ではなく、積極的な、である。
要は体を密着させるなどしてくるようになったと云うことだ。
それを見た嫁から激しい愛の鎌、剣、刀、槍、ハンマーをその顔面などに突き付けられ、あるいは叩き付けられながらも、教経はとある理由から天和の行為を止めさせることが出来ないでいた。
「え〜、いいじゃんいいじゃん。ね〜、教経様」
「いや、良くないから」
「え〜!」
不満も露わに声を上げた天和は、顔を教経の耳に近付けて、
「……蝶人・パピヨンの正体、ばらしちゃおっかな〜?」
と囁いた。
それに対して、
「グッ……」
と呻き、教経がその右手を強く握り締める。
そう……教経は天和に謂れのない脅迫を受けていたのだ。
飽くまでも、教経の主観に拠れば、だが。
世間一般的には、自業自得と云うものだろう。
というより、目撃した者達の殆どが、今まで気が付いていなかったことの方が異常であると言っても良い。
しかし、だからこそ、この脅し文句には効果があった。
教経自身、殆どの人間にバレていないと信じていればこそ、今後も『蝶人・パピヨン』として活動を続ける為にも、何とか天和の口を塞いで、此の天下の秘事が公にならぬようにしておかなければならないと考えていた。
それ故に、天和を窘めることが出来なかったのだ。
「何が望みだ」
小声で、語りかける。
「え〜っとね〜、後で私達の家に来て欲しいな〜」
「……家に行けば黙っていてくれるんだな?」
「さあ〜?でも来なかったら黙ってないかも〜?」
ふふふ、とにこやかに、機嫌よく微笑む天和。
それに対し、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる教経。そんな表情を浮かべながらも、
───今の会話、四つん這いになれば免許を返して頂けるんですね、って感じだったな。
等と普段通りにアッー呆なことを考える辺り、実は精神的にはそれほど苦痛を感じては居ないのかも知れない。
「分かった。後で訪いを入れる」
「絶対だからね、教経様。約束だからね?」
「あぁ」
教経の返事に、天和は、やったね、と喜色を露わにしていたが、妹の人和は、その姉の行動に思う処があったのか、
「教経様、その、天和姉さんが済みません」
と言って、教経に謝った。
「まぁいいさ。気にすることは無い」
「そうだよ人和ちゃん」
「いや、お前さんは気にしろ」
「ひっど〜い!人和ちゃんにだけ優しくするなんて〜!」
「人和は誰かと違って俺を困らせないし、なにより、可愛いからな」
「そ、それ程でもない……」
教経の、人和を評した『可愛い』と云う言葉に、照れから来るものであるのか、人和が頻りに右手で眼鏡を弄り始めた。
その人和の様子を見て、教経は何かに必死に耐えるかのような表情を浮かべたのだが、誰もその事には気が付かなかったようだ。
「と、兎に角、後で訪いを入れる。それで良いだろ?」
「うん」
「話がまとまったところで、一旦解散しよう。着替えを済ませて来る」
「じゃあ、待ってるからね〜」
「はいはい」
天和たちに背を向け、ひらひらと手を振りながら帰路に就いた教経は、その時天和が浮かべていた表情───してやったりと云う黒い笑顔───に気付くことが出来なかった。
そして普段通りであればそう云った姉の悪巧みを阻もうとするはずの妹は、少し申し訳なさそうな顔をしていたが、当然それにも気付くことはなかった。
夜。
教経は天和たち三姉妹が住まう住居に訪いを入れた。宮殿の外であると云う事もあり、親衛隊の約半数が彼に付き随い、住居周辺に二重に円を描くように人を配置して警護に当たっている。
訪いを入れた教経を出迎えたのは、地和一人であった。
「天和に言われて来てみれば、出迎えが地和だったってどういうことだよ」
「なによ!ちぃに出迎えて貰えるなんて光栄に思いなさいよね」
心無い教経の独白に、地和が抗議の声を上げる。
「はいはい。ケ忠貸してやるから大人しくしてろ」
軽い冗談のつもりでそう言った教経に、
「……本当でしょうね。二言は無いわね?」
と、応じる地和。
教経はこの時点で何かおかしいことに気が付くべきであったが、ケ忠のネタを新たに百合に提供できるという目算と、自分自身がケ忠をからかって遊べるだろうと云う期待感が先行しており、余事を考える余裕が無かった為、違和感を抱かなかった。
「あぁ、好きにすれば良い」
「そ、そう。じゃあ、アイツを呼びなさいよ。後、家に招待したのはアンタだけだって聞いてるから、アンタとアイツ以外は入って来ないように!良いわね!?」
「はいはい。
───ダンクーガ、話聞いてただろ?そう云う事だから」
「分かった。俺らはこの辺で警護してるよ。中での警護はケ忠に任せとけば良いんだよな?」
「必然的にそうなるな」
「了解」
高順と話を交わしている内に傍らにやって来たケ忠と共に、教経は目の前にある扉の中へ身を投じた。
地和の先導で家の中を進む。外観から、中々広い家だと思っては居たが、これほど奥行きがあるとは思ってもみなかった。
「広いな」
と、思わず呟いてしまった風情のケ忠に、地和が先導しながらも反応した。
「そうね。ちぃ達が長安(ここ)に来て最初にやったのが、事務所兼住宅になり得る立派な家屋を探す事だったのよ」
「へえ〜、そりゃまたどうして」
「それはちぃ達が一流の歌い手だからよ。変な所に住むわけにはいかないでしょ?」
「そうかあ?」
「なによ!?人和だってそうしようって言ったんだからね!」
「ふ〜ん」
「アンタはもうちょっと私……達に興味を持ちなさいよ!」
「へいへい」
───二人の夫婦漫才も中々居たについてきたじゃないか。
教経は普段の自分を棚に上げて、ケ忠たち二人を心中でそう評しつつ、黙って後ろをついて歩く。
恐らくだが、人和がそれなりに立派な家を探したのは、イメージ戦略と云うものだろうという当たりをつけた。
憧れのアイドルが余りにみすぼらしいあばら家に住んでいたのでは、ファンが自らの中に勝手に作り上げた偶像との差分にがっくり来ることになる。
出来るだけ彼らがその心中に描いている偶像を演じてやることが、最も効率の良いファンサービスであることを理解しての事だろう。
「にしても、暗い廊下だな」
「ちょっと油を切らしてるのよ。だから必要最低限の燭台にしか火を灯していないのよ。もう少しだから我慢しなさいよね。あ、そこ、足元に資材があるから気を付けて」
「お……っと、気付かないモンだな、意外に。兄貴、気を付けてくれ」
「大丈夫だ、聞こえてるし見えてるよ」
「なら良いんですがね」
「ほら、さっさとついてきなさい!」
「へいへい」
暗い廊下を進む中、先導する地和が左へ折れる。
それに続いてケ忠が続き、少し離れて教経が進んで行く。
教経が廊下の角を曲がった瞬間、何かが横から腰に巻き付いて、暗い部屋に引き摺り込もうとしてきた。
ケ忠に声を掛けようとして、自分の腰に巻き付いている『何か』に思い当たった教経は、声を掛けるのを止め、そのまま引き摺り込まれるに任せた。
ひょっとすると、あちらを二人きりにしたいから、此処で教経を引き離そうとしているのかも知れない。
自分の腰に巻き付いている『何か』に見当がついている以上、このまま引き摺り込まれても特に問題は起こらないと判断しての無抵抗であった。
───まぁ頑張れや、シスコン。
前を歩いて遠ざかるケ忠に心の中でそう声を掛けて、為されるがまま引き摺り込まれていった。
「……おい、何やってるんだよ天和」
引き摺り込まれるまま体を預けていた教経であったが、自身が寝台らしき床に押し倒されるに至って腰にしがみ付いている影に声を掛けた。
「えへへ〜、やっぱり気が付いた?」
「そりゃな。柔らかい何かが腰に当たってたし、普段から抱き着かれてるから誰が抱き着いてきたか直ぐに分かったさ。そうでなかったら、お前さん、もう死んでるそ?」
腰の清麿を少し抜いて、教経がそう凄む。
「まあまあ、いいじゃない。教経様に話があったから引き摺り込んだんだもん」
「はぁ……話、ねぇ」
「うん。でも、抱き着いただけで私の事をちゃんと分かったのは良い傾向だよね」
「良い傾向って何だよ……人和はよ?」
教経がそう云うと、後ろから背中に、これもまた抱き着いてくる影が一つあった。
「……ここにいる」
その行為と返事に、教経は体を捻って両脇に二人を抱えるような体勢になった。
「ふむ。お前さん達、一体どうしたんだ?酒にでも酔ってるのか?兎に角暗いから燭台に火を灯してくれ。まだ目が慣れてなくて良く見えないンだよ」
「あ〜、それはね教経様、月が出てないから暗いだけで、月が出たら見えるようになるよ」
「いやいや、それだといつになるか分からんから燭台に火を……」
「ほら、ね?」
燭台に火を灯してくれ、と教経が言いかけたその時、雲が晴れ、その隙間から差した月光に室内が明るく照らし出された。
「……いやいやいや」
月明かりに照らし出された室内で教経が目にしたのは、衣服がはだけた状態で自分に抱き着いている天和と、同じく服がはだけた状態で、これまた同じく自分に抱き着いている人和の、瑞々しい肢体であった。
教経は、今自分が置かれている状況をこれ以上ないほど正確に把握はしたが、それをすんなりと受け入れるには少々衝撃が大きすぎ、何度も頭を振った。
教経には、この二人に好意を寄せられる理由が全く分からなかった。
今まで関係を持ってきた娘達は、平家と云う勢力において、進退を共にする者達であった。
それ故に、接する機会も時間も多く、其処から所謂良い仲になる、若しくは、好意を寄せられると云う話であれば、まだ理解出来た。
しかし天和たちとは長い時間接したことは無く、強いて言えば暴徒化したファンからその身を守ったり、街中で暴漢から二人を護ったことはあるが、思い返してみても自分から積極的に愛を囁いたりするような真似はしていない為、好いた惚れたという話に発展することは無いはず、と云うのが教経の思考であった。
「何だ?どう云う事だ?」
「見たら分かるでしょ?そう云う事だよ」
「い、いや、唐突すぎるだろう、流石に」
「唐突じゃないもん。ずっと意思表示してたつもりだもん」
天和にそう言われて、教経はやたらと体を密着させてスキンシップを取ろうとして来ていた、最近の天和の行動を思い出した。
「……誰にでも抱き着いている訳じゃなかったのか」
「も〜、当たり前でしょ!そんなはしたないこと、する訳ないもん!」
「わ、分かった、分かったから落着け、身体を擦り付けるな!」
教経の、自らの貞操観を疑うかのような物言いに、右から体を密着させて力一杯に抗議をする天和に対して、左から遠慮がちに体を寄せてきた人和が、恐々と教経の耳元で言葉を紡いだ。
「……その、私達の気持ちは、教経様にとって、迷惑でしょうか」
『私たちの気持ち』。
そう言われた教経は、次の句を継ぐ前に、言葉を選ばなければならないと考えて少し黙り込んだ。
元々、気付いて居たかどうかで言えば、勿論好意らしいものを抱かれているのかも知れないとは思っていた。
それが自意識過剰の産物であったら少々恥ずかしい、と考えていた為に、出来るだけそう云う方向で考えないようにしていただけであった。
「確認したいことが有るんだが、良いか?」
いつもの教経とは違う、真面目な、真摯な態度を見せた教経に、彼が今から重要な話をするのだろうと二人は考える。
教経が確認したいと云う事の内容は、十中八九自分達が想像している事に間違いないであろうが、聞き間違えの無い様に注意すべく、意識を改めた。
「なんでしょうか」
「俺の自惚れでなければ、その、お前さん達は俺の事が好きだって事で良いのか」
「はい」
「どうしてまた俺の事を」
「それは……」
「それは?」
問い返した教経に、人和が何かを思い返すような様子で話し始める。
実際、人和は自らの記憶を辿り、思い出していたのだ。
観客が暴徒と化して舞台に乱入し、その手に囚われんとしたまさにその瞬間に、颯爽と現れて自らを掬い上げてくれた教経の横顔を。
或いは、姉と自分が暴漢に暴力を振るわれた際、凄まじい怒気を発して助け出してくれたにも拘らず、自分が助けたことを一言も口にせず、気遣ってくれた教経の奥ゆかしさや優しさを。
その際、教経は変態のような恰好をしていたのであるが、盲目になる病に既に罹患している人和には、その程度の事は些細なことであった。
いや、些細どころか、異常な恰好などしていなかったと、記憶の改竄まで既に完了している始末だった。
また、教経は奥ゆかしさから助けたことを口にしなかった訳ではなく、あれは『蝶人・パピヨン』がやったことになっているから、と口にしなかっただけである。
が、本人ならぬ人和にはそんなことは分からないし、その頃には草津の湯でも治らない不治の病に冒されていたので、良い方向に解釈した結果として、美化されているのであろう。
「他にも、自らの地位を必要以上に振りかざさないようにしているところとか、いろいろあるけど、好きになった契機はそれだと思う」
自らの真情を口にする内に、口調に気を遣う事すら忘れて、人和がその思いの丈を言葉にして教経にぶつける。
その人和の言葉を肯定するように、天和が教経に確りと抱き着いてきた。
暫く、互いの顔を見合わせる。
雲が月を蔽い隠し、再び月が雲の間からその顔を覗かせた。
皆無言の内に、幾度かそれが繰り返される。
何度目かの、再び月光が雲に遮られたその時に、教経の我慢が限界に達した。
抑々眼鏡っ娘が三度の飯より好きな教経にとって、人和から寄せられた好意に応えるのは最早神から命じられた崇高な使命に等しいものであった。
こう云う状況に至って猶我慢をしていたのは、流石に嫁が多すぎると感じていたからである。
だが、教経の嫁たちには不幸なことに、そして天和と人和には幸運なことに、平教経と云う人間は、両脇に感じる女性性の象徴との直接的な接触に抗い続けることが出来る程、出来た人間ではなかった。
しかもその女性性の象徴の持ち主に、眼鏡と云うオプション───いや、主菜(メインディッシュ)が付いていると云うのであれば、120%の力が出せてしまうのは仕方がないことであった。
二人に抱き着かれていたこれまでと違い、自分から二人を抱き寄せる教経に、一人は嬉しそうに、もう一人は恥ずかしそうに、自分の躰を預ける。
自分に組み敷かれた後、嬉しそうにしている二人を前に、こうなった責任は取ろうと心に決める教経であった。