忙しなく脚を動かして、道を急ぐ影が一つ。
偶にその影の進行方向からやって来る人間が、その急ぎ様に思わず道を譲ってしまう程の急ぎぶりであった。すれ違う者の中には眉を顰め、気を付けるようにと荒い声を上げる者も居たが、影は一向にその歩みを止めようとしない。
その影───司馬懿は議場へ急いでいた。
その理由は、現在長安に居る文官の中心的な役割を果たしている稟から呼び出しを受けた為だ。尤もそれだけであれば此処まで急ぎはしない。これから向かう議場に集う予定の面子を考えると、悠長に移動する気にはとてもなれないだけだ。
稟を始めとして、詠、音々の、所謂軍師と目される面々だけでなく、愛紗、碧、翠、月、琴、雪蓮、百合、華琳、白蓮、瑛、焔耶などにも声が掛けられているのだ。
教経の近臣や平家の要人の内、長安に居る者の中で最も新参なのは自分である、と司馬懿は考えるようにしていた。実際にはそうではないのだが、如何せん密偵の取り纏めとして市井に居た時間が長すぎた。人によっては突然近臣に取り立てられたように見えるであろうし、そう云った人間への配慮からそう考えて振舞うように気を付けていたのだ。
その最も新参である自分が、最も遅れて議場に到着したのでは礼を失することになる、と云うのが司馬懿の価値観と云うものであった。また、集まる者の殆ど全てが皇帝たる教経の伴侶であり、その伴侶の内の一人である稟に呼び出されたと云うことを考えても、抑々遅参は許されるべきではないように司馬懿には思われた。
通路を幾度も折れ、議場の扉がその目に映るまで飛ぶようにやってきた司馬懿は、其処から速度を落としてゆっくりと、呼吸を整えながら扉に向かう。かなり急いで歩いてきた為、それなりに体を動かしている司馬懿と雖もその息は少々荒いものになっていた。
扉の左右で警戒していた、教経の妻たる者に付いている近衛の人間が、司馬懿を認めてゆっくりと議場への扉を開く。彼らに軽く会釈して入った議場では、稟と詠とが既に着席して皆の到着を待っていた。召集が稟から掛けられたこと、そして現在その稟と最も近い立ち位置に居るのが詠である事を考えると、その二人に先を越されてしまうのは仕方が無く、司馬懿が二人の後に到着したと云うのは妥当であろう、と自分を納得させた。
司馬懿は二人と目礼を交わし、最も下座に位置する席に着席した。
その司馬懿を見て、稟も詠も薄い笑みを浮かべた。その父母の教育が余程厳しかったのか、司馬懿は分限を越えた振舞をすることをあまり好まない。公式の場でない以上、席順など到着順で構わないではないか、と云うのが主人たる教経の気質であり平家の家風であるが、身に沁みついた習慣と云うものなのであろう、司馬懿はこういった場でも自分の分限を弁えて行動する事を心掛けているように見える。
ある日突然近臣として仕えるようになり、かなりの権限を与えらたように見える司馬懿は、事情を知らぬ人間からすれば妬まれて当然の存在だが、そう云った姿勢が多くの人間に好意的に受け入れられている要因なのだろう。勿論、全ての者がそうである訳ではなかったが。
席に着いた司馬懿は、この度の召集が何を目的としたものであるのかについて考えを巡らせる。
今後の方針については既に一度話し合いが持たれており、教経の意が那辺にあるのか、それぞれ接する中で感じ取ったことを交換し、基本方針として麗王朝は覆滅すると結論を出している。詳細については追々、となっていた筈で、早それを決めてしまおうとはしないはずである。
───何事か出来したか。
そう思わないでもないが、それにしては稟も詠も落ち着いているように見える。色々と考えては見たが、結局のところ話を聞いてみるまで分かりそうにないと云う結論しか出せなかった。
あれこれと考えていた司馬懿が我に返って周囲を見渡すと、既に幾人かがやって来ており、召集が掛けられたであろう者の内で此処に居ないのは雪蓮だけと云う状況であった。
「来ていないのは雪蓮だけみたいね」
詠がそう発言する。少々キツめの口調ではあるが別に責めている訳ではなく、唯の確認であった。
「そのようですね。待っていても埒が明きそうにありませんし、先に始めてしまいましょう」
詠の言葉を受けて、稟が話を始める。
この場では稟が議事進行を行い、詠がそれを補足する形で話が始まった。その事に誰も疑問を差し挟まないのは、この二人が平家の戦略を握っていると皆知っているからだ。
「今日皆さんに集まって頂いたのは、私が受け取ったある書翰について意見を伺いたいからです。詠」
「分かってるわよ、稟」
詠がその手に持った竹簡を皆に配り始める。稟が受け取った書簡の内容を写し取った竹簡である。此れだけの人数で話をするのに、資料となるのが書翰一つと云うのでは皆がその内容を確認するのに時間が掛かってしまうし、読み返すことも出来ぬと云うのでは話が碌に進まない恐れがある。その為、前もって詠が用意していたものだ。
竹簡を受け取った者は、それを見て薄ら笑いを浮かべる者、眉間に皺を寄せる者、隣の者と何事か小声で言葉を交わす者と様々な反応を示しているが、稟の話がまだ終わっていないことが明白な為、誰一人話の腰を折る事は無かった。
「……皆の手に行き渡りましたね。では、話を続けます」
司馬懿は自分の手元に配られた竹簡に目を通した。
竹簡には、平家と争うのは本意ではない、と云う事が連綿と綴られていた。
誤解やすれ違いがあり、現状矛を交えることになっているものの、自分としては争いたくはないのだと。
途中様々なことが書いてあるが、最終的にはこう書いてあった。
『降伏したい』。
直截的な表現で、そう書き付けてある。
その後、追って正式に使者を遣わすので口添えを宜しくお頼み申し上げる、と続いていた。
それは良い。大いに結構な話だ。
だが大きな疑問が一つ、どうしても避けられない疑問が一つだけある。
目線を戻して周囲を見渡すと、丁度雪蓮が遅れて部屋にやって来たようで、華琳に小言を言われている様だった。
「この書翰が一昨昨日、私宛てに届きました。書翰を持ってきた者は、王城の門衛にこれを託して直ぐにその場を離れた為、直接面語した訳ではありません。その為、この書翰の内容の真偽は定かではありません。これをどう扱うべきか、その事を皆に諮りたいのです」
稟は眼鏡をついと押し上げながら、衆を見渡した。その中で音々が手を挙げ、発言の許可を求める。稟が頷き返すのを確認した音々が、先ず質問を投げかけた。
「一つ訊きたいのです。良いですか?」
「何ですか?音々」
「恐らく皆疑問に思っていることが一つあると思うのです。先ず、それを明らかにして貰わないと困るのです」
「疑問、とは?」
恐らく、この場にいる全ての人間が疑問に思っていること。それは、書翰を受け取った者が先ず確認するであろう、単純明快なものだ。
───書翰の送り主は誰であるのか。
この竹簡には、それが記されて居ない。それこそが、この書翰にどう対処するのか、基本的な方針を決定する際に重要な判断要素になり得るものであるのに。
「だから先ずはそれを明らかにして欲しいのです。これは、誰からの書翰なのですか?」
音々に問い掛けられた稟は、少し間をおいて、
「袁紹殿です」
と答えた。
その場に居た殆どの人間がハッとしたような顔をする。稟の口から出た名前は、恐らく誰もが予想していなかった人物の名前であった。議場の空気が大きく揺れ動いたような、そんな感覚に司馬懿は囚われた。
「……麗羽に間違いないの?」
「はい。筆跡が袁紹殿の物でした」
「見せて貰えるかしら?」
「ええ、どうぞ」
袁紹と最も親交のあった華琳が、稟から書簡を受け取ってその内容を確認する。華琳は暫く書翰を眺めた後、一つ息を吐いて稟の言葉を肯定するように頷いた。
「……内容は兎も角、筆跡は麗羽の物に間違いなさそうね」
「はい。ですから、これが本物であるとして、どう対処するか意見を聞きたいのです」
華琳から返却された書翰を懐に収めながら、そう稟が返事をする。
暫くの間、皆それぞれに考えを纏めていたのであろう、誰一人話始めようとはしなかった。そんな中、先ず一石を投じようと瑛が話し始める。
「確認させて頂いても宜しいでしょうか」
「どうぞ」
「書翰の中に、配下の者との意見が合わないと云う記述がありますが、これは本当でしょうか」
「現在事実を確認すべく細作に指示を出してありますが、そのような話は聞いたことが有りません。詠、貴女の処にそう云った情報は入って来ていますか?」
「いいえ。ボクの方にも入って来ていないわ」
「そうですか……」
稟と詠からそれぞれ情報は得ていないと答えを得た瑛は、どうにも判断が付かない、と云った様子だ。それを引き継ぐ形で、今度は愛紗が口を開く。
「先ず稟の意見を披歴して貰いたい。私などが意見を述べるより、進むべき方向ありきで話をした方が余程建設的だろう」
その言葉に、碧や翠、琴が一様に頷いた。
皆、戦場におけるある種の理を観照する事には長けているものの、話が政治に及ぶと権柄ずく、力尽くの方向に思考が偏りがちである。その愛紗達がこれはこうすべき、と主張したところで、それは一面的な見方しか出来ていないものであるだろう。
それであれば、先ず稟の意見を聞いた上で、それに対して愛紗達がどう感じ何を思うかを伝えた方が得るところは多いのではないか。そう、愛紗は主張する。
「成程、確かにそうかも知れません」
愛紗の意見に一理を見出した稟が、自分の意見を披歴する。
「袁紹殿が降伏したいと仰っている、その真偽を確認することが何よりも求められる事でしょう。しかし、追って使者を遣わすとのことですので、これについては待っていれば自ずと真偽は判明することになります。
それよりも、家中が割れていると云う話が本当であるのかを確認したいところです。ですから、細作からの情報を待つ必要があります。あちらがどう云う状況であるのか、それによって今後の戦略は変わってくるものであるからです───」
稟が語ったそれは、至極真っ当なものであった。
平家と袁家が相争うに至るには、当然双方がそういう決断をしたればこそである。その内の片方に争う気が無いと云うのであれば、もう片方もそれに相応しい対応を取らんとするのが自然である。
「───通常であれば、ですが」
やや突き放すような口調で稟が言葉を継ぐ。
そう。飽くまでもそれは通常であれば、だ。
司馬懿は考える。
主である教経は、嘗て袁家の政治力の前に屈し、并州から逐われた。そして先頃、今度は武力で弘農を奪われた。嘗て華琳が諸侯として教経と並び立っている時、教経を『范雎の如き人』と評したことを司馬懿は知っている。恩讐に関する教経の対処の仕方はそう評するに値するものであるだろう。果たしてその平教経と云う男が、意趣を返さずして相手を容れるような真似をするだろうか。
またその妻の中にも、袁紹と決して浅からぬ因縁を有している者が居る。月と詠は反董卓連合にその命を脅かされ、弘農からの撤退においても何か対処を一つ間違えていれば殞命(いんめい)していたかも知れない。華琳もまた官渡大戦において苦杯を嘗めさせられ、弘農であわや非命に斃れる処であった。
そして家臣の中でも、袁紹に対する恨みが骨髄にまで至っている者が居る。白連は領土とその近臣の悉くを喪ったが、彼女をその境遇に墜としたのが袁紹その人である。平家に降った白蓮の心中では、決して風化する事のない袁紹への復讐心が燻っている。
これらの事を不問に付すことを、果たして教経が、そして本人たちが納得するだろうか。
───いや、それはあるまい。
考えて、即座に否定する。
『怨讐を捨て去り、手を携えて天下を経略する』。
言葉にすれば聞こえの良い、美しいそれは、しかし同時に軽薄さと白々しさとを感じさせる。司馬懿が仕える平教経と云う人は、それを行う人間ではない。それを言うのが堯や舜、成湯ら古の聖王とも言われる名君であれば、実を伴った感じ方が出来るのかも知れないが、教経が口にしたのでは全く説得力に欠ける。
教経の心中には、袁家に対する敵愾心があるのは間違いない。反董卓連合時、恩を返すと云う積極的な理由から月を助けたが、それと同時に袁紹に与したくなかったと云う消極的な理由もあったはずだ。雍州へ追い出された遺恨は、反董卓連合軍の意図を挫いて多少溜飲を下げたことと時の経過によって薄まっていたかも知れないが、弘農侵攻によって掘り起こされて、より深い遺恨となった。
教経がその遺恨を捨て去ると言うだろうか。腹に遺恨を抱えたまま、面に袁紹降伏の歓びを浮かべることが出来るだろうか。
司馬懿には、教経がそうする様をとても想像できなかった。
やりたいことをやりたい時にやりたいようにやる。その為に、余人に有無を言わせぬだけの力を付けんと勢力を伸長させてきたその教経が、ここに来てそのような欺瞞、それも自らを欺くと云う最も忌むべき愚かしさに満ちた行為を行うとは思えないし、何より、自分が仕える主にはそうであって貰いたくはない。
稟の言葉に、愛紗が、
「どう云う事だ?」
と言って、詳しい説明を求める。それに応じて、稟が話し始める。
「教経殿が袁紹殿に意趣をお持ちであるのは間違いありません。そしてその意趣を返さずして交流を温める事は無いでしょう。降伏を受け入れるにせよ、それは意趣を返した後で検討されることであり、意趣を返していない今それを受け入れることはありません」
稟が話しながら、出席者を見渡す。
「故に降伏の真偽を問わず、袁家と会戦することになるでしょう」
「では、断りの書翰を返す、と云うことか」
「いいえ」
「だが今の時点では降伏は受け入れぬと言ったではないか」
「はい」
稟の答えに、愛紗が首を振る。
「分からぬ。はっきりと言ってくれ。どうしようと云うのだ、稟は」
「先方の意図する処は分かりませんが、此方の方針は決まっている状態です。ですが、未だ教経殿が思う通りに軍を再編出来ていません。揚州でも軍を再編していることでしょうし、此方の準備が整うまでは相手の話に付き合うという事ではどうでしょうか」
「降伏交渉に応じることで軍を再編する時間を稼ぎ、此方の準備が整い次第問答無用で侵攻を開始する、と云う事か?」
「降伏交渉の最中、前触れなく攻め込むことは避けた方が良いでしょう。ですから、何らかの形で交渉を決裂させる必要がありますね」
「宣言なしに攻め込んだ方が楽に戦えると思うが……教経様はそれを呑まれぬか」
「そうでしょうね。今私達が行っているのは天下争覇の戦です。民だけでなく、天もこの戦を御照覧になっていると考えておくべきでしょう。騙し討たなければ勝てないと云うのであれば騙し討つのでしょうが、順当にやって勝てるならそのような真似はしないと思います」
「まあそうだろうな。それでこそ教経様らしい」
納得して愛紗が何度も頷く中、それまで静観していた華琳が、
「今後どういう将来を描くのか、については、一旦それで構わないでしょう。但し、それをする前に教経の意見を聞いた方が良いわね。私は此処では反対しないけれど、恐らく教経は貴女達が考えていることよりも別の事を考えることでしょう」
と含みのある言い方をした。その言葉に、稟が食いつく。それはそうだろう。自分が教経の事を華琳に比して理解していない、と言われたに等しいようなものであるのだから。その表情に少し険しいものを滲ませて、華琳に問い掛ける。
「どういうことです?」
「そのままの意味よ。教経はきっともう少し違う結論を出すはずよ。そしてそれは私が此処で口にするべきものではないでしょう。教経自身の口から、私が思っている通りの言葉を聞きたいものだわ」
華琳はそれを心待ちにしているかのように、そして誇らしげに笑った。
「何れ降伏の使者は来るだから、それが来てから改めて教経の話を聞きましょう。それまで、この話は一旦おしまいよ。それよりも、抑々この書翰にある降伏云々は本当なのかしらね」
「何とも判断できませんね」
「本気で降伏を申し出ている可能性もある、と?」
「はい」
「詠、貴女はどう考えているのかしら」
「ボクも稟と同じ。先が見える人間が居て、袁家の存続だけを考えたなら、思いつかない事もない方法だと思う。そう云う華琳はどうなのよ」
「信じられない思いが半分、信じてみたい思いが半分、かしらね」
「何よ。結局調査待ちってことじゃない」
「そうね。でも丁度便利なモノがあるから、それに訊いてみれば良いのよ」
ニヤリと笑って、華琳がある人物を眺めやる。
それに釣られて目線を向けた先には、雪蓮が座っていた。その雪蓮が心外そうな顔をして食って掛かった。
「ちょっと華琳。言うに事欠いてモノって何よ、モノって」
「あら。そんな些細なことを気にするの?」
「するわよ!」
「そう。なら次から気を付けることを検討してあげても良いわよ?」
「……検討するとは言ったけど、気を付けるとは言っていない、なんて言わないでよ?」
「さぁ、どうかしらね?ま、そんなことはどうでも良いでしょう。
……雪蓮。貴女はどう思うのかしら。麗羽は本当に降伏するつもりかしら」
どうでも良くない、と言わんばかりの不満顔をした雪蓮ではあったが、華琳の質問に少し考えた後、自分の考えを述べ始める。
「ん〜……降伏するつもりはない、で良いんじゃない?」
「一応訊いておくけれど……どうしてそう思うのかしら?」
「分かりきってるでしょ?勘よ」
恐らく誰もが予想出来ていた回答であっただろう。議場に居る人間全てが、それぞれに呆れたような、それでいてその理由を受け入れるかのような表情で、首を振ったり小さく笑ったりした。
「勘、ね……でもこの場合、雪蓮の勘が正しいと云う前提で物を考えた方が良いのかも知れないわね」
「珍しいじゃない、華琳。漸く私の偉大さが分かって来たのね?」
「そうね。勘だけで最良の未来を手繰り寄せた貴女はある意味偉大だと思うわ」
「ちょっと、どう云う意味よ」
「そう云う意味よ」
雪蓮の勘には実績がある。不確かなものでしかないが、積み上げられた実績は無視できるものではない。不確かなものであるが故に外れることもあるだろうが、勘が外れた場合を想定しても、降伏するつもりが無い、と云う前提で物を考えていた場合であれば、降伏を受け入れるだけで良い。逆の場合、油断している処を衝かれて、思いも寄らない損失が発生する恐れがある。
例え降伏が佯りであったとしても、遅滞なく対処できるように備えておこうと云うのが華琳の真意であり、それを皆の意識に刷り込むために、態々言葉にして見せたのだろう。そう司馬懿は看取する。
「……では、今後も今までと変わらず、麗を覆滅させる為に力を尽くす、と云う事で宜しいですね?」
議論を纏める稟の言葉に、皆が頷く。
その後暫く、それぞれが行っている準備の状況を確認し合い、きりの良いところで解散となった。
「へぇ。そんな話があったのか」
「はい」
議場を後にした司馬懿は、主である教経に報告を行っていた。
皆が居なくなったことに気が付いていた教経から、皆がどこで何をしているのか知っているかと質問をされた為、そのままあったことを報告したのだ。あの場に居た者より下位の者に漏らすのは問題であるだろうが、最上位者たる教経に口外してはならない、とは誰も、そして一言も言って居なかった為、告げても構わないだろうと判断してのことであった。
「降伏、ねぇ……」
話を聞いた教経が、そう呟いて眉を曇らす。
教経にすれば、何を今更、と云う感が強い。降伏したいのであれば、弘農を攻める必要は無かった。殴りつけておいて、今のは何かの間違いだから仲良くやろう、と言われているに等しい。はいそうですか、と頷ける話ではなかった。勿論、それは相手の出方次第ではあるのだが。
眉を曇らせた教経の表情を見て、司馬懿が宥めるように、
「稟様始め、皆様陛下がそれをそのままお受けになる事は無いだろう、と申されておりました」
と言って、教経の不快は既に皆察していることを伝えた。
その司馬懿の言葉に、
「まあ、相手の出方次第ではあるがね」
と教経は返し、少し戯けた様子で肩を竦めつつ言葉を続けた。
「お前さん、あっちが何を考えてそんなことを言い出したのか、分かるか?」
「分かる、とは申せませんが、こうであろうと推測はしております」
「ふむ」
教経が目線で、先を続けるようにと促す。
「降伏を申し出てきた敵国の主の使者を、陛下はどう扱います?話も聞かずに追い返しますか?それとも、話だけは聴いてやろうと仰いますか?」
「……話だけは聴いてやるだろうな。戦なんぞその気になればいつでも出来る。どう云う話を持ってきたのか、それを確認してからでも遅くはあるまい」
「そうでしょうな。きっとあちらもそう考えればこそ、敢えて袁紹から降伏話を持ち出させているのでしょう」
「要するに時間を稼ぎたい、と云う事だな」
「はい」
司馬懿に自分の言を肯定された教経は、目線を足元に落とし、顎に右手を添えながら己の考えを吐露し始める。
「時間を稼ぐ以上、事態が好転することを見越しての事でなければならないだろう……ただ時間が経過すれば俺の感情が穏やかになるという訳ではないのはあちらも承知しているに違いない。であれば、平家側の変化を待っているのではなく、麗側に生じる筈の好ましい変化を待っている、ということだ。そうなると……」
頷いた教経が、再び目線を司馬懿に併せて断言する。
「麗に朝貢している烏丸と高句麗の戦力を当て込んでの事か」
「ご賢察、と言わざるを得ません」
恐らく教経の言う通りであるだろう。司馬懿はそう考える。
「何とも阿呆なことを考え出したものだな」
「はい。ですので、稟様や詠様は此方の準備が整うまでは先方に付き合い、整った後理由を付けて交渉を決裂させて戦を行おう、と云う話をなさっておられました」
「皆賛成したのか」
「華琳様だけは、この場では反対しない、と云う言い方をなさっておられました。陛下の意見を聞いた方が宜しかろう、と」
その言葉を聞いて、教経が片頬を上げて笑う。
「成程、流石は華琳だ。『自分だけは俺と対等で居てあげる』、と宣うだけのことはある」
教経が愉快で堪らない、とでも言わんばかりの満面の笑みを浮かべて、機嫌が良さそうに声を上げる。
事実、教経は愉快であった。人臣の上に立つ君主と云う存在は、天と地との狭間で独り佇み、地の声に耳を傾け天意に沿って政を行う、孤高の存在である。孤高であるが故に君主とは孤独なものであり、それであればこそ、国君の一人称は独りを意味する『孤』と言ったり『寡人』と言ったりするのだ。
だが、華琳は教経と同じ高さに立つべく努め、教経とは異なるが、しかし近しい座から教経を支えようとしてくれている。無論、何かを決する時には、孤独の中でそれを行う事には違いないが、それでも近しい存在から助言なり諫言なりを貰うことが出来ると云う事実は、教経に心安さを与えてくれる。
その心安さが、教経に精神的な余裕を与えてくれていることを思う度に、
───自分は良き伴侶を得たものだ。
と、教経は熟熟(つくづく)感じる。
「どう云う事でしょうか。私としては、稟様や詠様の策は十全であると思いますが」
「そう、策としては、な」
真面目な顔で教経が言う。
確かに、稟と詠とが言う策で勝利を容易く掴むことは出来るだろう。が、交渉を『決裂させる』と言っている以上、やはり無理矢理に戦に持ち込むと云う印象を世間に与えることは否めない。それよりも、相手が降伏したいと言っているのだから、たとえそれが見え透いた時間稼ぎであったとしても、相手からもう十分だと交渉を決裂させてくるのを待っているべきだろう。
「そうは思わないか?」
「そうでしょうか。あちらが準備を整えれば、それなりに苦労すると思いますが」
「降伏したい、と言っているのはあちらだ。自ら言い出したことを自ら破る。信と、礼と、そして義とを欠く行為だろう。『無信不立』(信無くんば立たず)、と云う言葉もある。春秋時代の一国を治めるに過ぎない君主でさえそれが求められたと云うのに、天下を治めんとする者がそれを棄ててどうするんだ。詐妄を以て国が成り立つはずもなし、覇者たらんとするならば、先ず信を立てることだ。
それにだ、あちらが十分に準備をした、と言った処でこちらが優位であるのは変わらない。時間を経過させても、結局国力差は開く一方だ。何ら憂えることは無い。此方がただ待っているだけで天下が転がってくる、そういう状況を進んで作ってくれると云うならこれに勝る慶事は無いではないか」
教経の言を聞くまでは、司馬懿も稟や詠と同じことを考えていた。これ以上の良策はない、そう考えていたが、教経の言を聞いて、そちらの方が正しいのではないかという思いが強くなった。
佯りであると思っても、敢えて信じてやり、そして裏切られるまで信じ続けることで、人は教経の言葉や行動に信を見るようになる。その信は、中々揺らぐことが無いものになるだろう。何故なら、怪しい素振りが見え隠れしたにも拘らず、裏切られるまで信じたからだ。教経の言には千金の価値があると世人が思うようになれば、政は容易くなる。
恐らく、華琳は教経がこう考えるであろうことを分かっていたのだろう。
教経の器量を見込んで仕えたとは言え、自分が仕える主が覇者に相応しい人物であると云う事をこうして改めて実感させられると、自分が満たされるような、そんな感覚を覚える。この充足感を得る為に、司馬懿は教経に仕えていると言っても過言ではない。
「まあ、まだ少し気が早い話ではあるがな。先方の降伏が偽りであると決まっている訳ではないし、その手の予断は禁物だろうさ。それより、新しく開発した、兵装についてお前さんの意見を聞かせてくれ」
「はっ」
司馬懿は新兵装の開発・配備の話をし始めた教経を前に、やはり自分が仕える主はこうでなければならぬと云う、先程から続く陶然とした感傷に浸っていたのだった。