「聞いたか」
「ああ、聞いた聞いた。徐州でも勝ったらしいじゃないか!」
「そうとも!やはり袁家は強かったんだ!」

 洛陽市中に屯する兵達が、興奮した様子で言葉を交わしている。

 話題は、先頃袁家が収めた軍事的勝利について。
 内容は、平家何するものぞ、と云うもの。

 時折彼らの傍らを通り掛かる袁家高官に敬礼を行いながら、高官が通過したらまた顔を寄せ、輝かしい勝利について語り合うと云う事をもう幾度となく繰り返している。彼らにとっては、何度繰り返しても未だ飽きぬ、充足感と将来への希望を強く感じさせてくれる話題だ。
 口にすることで自らが強者に従っているのだということを再確認し、この先も勝つ、いや、勝てるに違いないのだと自らを奮い立たせることが出来る。そうして感じることが出来る高揚感は、これまで不安に頭を押さえつけられてきた彼らにとって、何とも心地の良い物であった。

「どなたがあちらの指揮を執ったんだ?」
「麹義殿と沮授殿らしい」
「その二人に指示を出していたのは、諸葛亮様らしいぞ!」
「大軍師様様だな!」

 遠く離れた二つの場所で袁家の勝利を演出して見せた『諸葛亮』。
 彼らは未だ目にしたことが無いが、各々の中で勝手にその像を作り上げていく。実績が、そしてそれを基にした噂が、『諸葛亮』の虚名をより大きくし、それを更に互いが互いに語り合う事で、彼らの心の中により大きな染みを作る。

 『諸葛亮』様が居れば、袁家は勝てる。
 『諸葛亮』様が負けることは無い。
 『諸葛亮』様は、全能である。

 『諸葛亮』が為したであろうと云う推論と、きっと『諸葛亮』がやったに違いないと云う盲目的な断定とによって導き出された『諸葛亮』の実績を基に、『諸葛亮』を論じ続ける。いつしか兵達の心中では、『諸葛亮』はその実像から乖離して、神にも等しい存在に祀り上げられていた。

 その存在を強く信じ、それが事実であると認識することで、自分達が思い描く将来は間違いなく保証されていると云う根拠のない確信のようなものが湧いてくる。それは、上手く制御出来るなら武器にも成り得るものではあるが、扱いを誤れば墓穴を掘ることになる危険な代物だ。

「流石の平家も袁家と諸葛亮様には一歩譲るって処か」
「所詮平家など、今出来の家に過ぎないってことさ」
「違いない!」

 どっ、と笑いが沸き起こる。

 傍から見ていてもそれと分かる、高揚感と、そして少しばかり倨傲を感じさせる会話。
 その兵達の会話は、先程彼らの前を通り過ぎた袁家高官の耳に届いていた。

───徐州での勝利は余計であった。

 袁家高官、朱里は眉を顰めてそう思う。

 朱里は、弘農で平家に勝利したと云う結果にさえ、それを得る過程を想って忸怩たる思いを抱いていた。国や家と云うものを家屋に例えると、家屋を支える屋台骨が有能な家臣ならば、それらの拠り所となる基礎のようなものが民だ。基礎がしっかりして居なければ、屋台骨は歪み、家屋そのものが揺らいでしまう。揺らぐだけであればまだしも、倒壊してしまう可能性だってある。それを指摘したのに、敢えてそれを行ったのだ。予想していたより楽に勝てはしたものの、得られたはずの、そして失わなかったはずの何かが、掴まんと握り締めたこの手の内から零れ落ちて行ったような気がしてならなかった。

 そこに加えての徐州での勝利。洛陽を見て回った朱里としては、袁家の兵達の中に毒を撒き散らされているかのような錯覚を覚える。
 弘農での勝利は、世間から圧倒的に不利だと思われており、自らもまた不利であることを自覚していた兵達の、『勝てない』という先入観や恐怖感、ある種の諦念のようなものを払拭する良薬になるだろうと思っていた。
 その見込み自体に間違いはなかった。函谷関へと引き上げる平家の背を見送った後から、兵達の士気はこの上ない状態であったし、洛陽入場後に行われている訓練でも、目に見えて身が入った訓練を行っている。だが徐州での勝利の報が伝わって後、必要以上に平家を恐れなくなるばかりか侮ったような発言をし、またそのような態度をとる者が増えている。

 徐州の麹義と沮授からそれぞれ詳細な報告があったが、彼らの報告には『侵攻してきた平家軍の将の気が知れない』とあった。自ら攻め寄せてきたにも関わらず、あちらは城を強引に攻め落とすような動きをしなかったのだ。寄せられた報告や自ら集めた情報を検証する限り、戦意が無かったという訳でもなく、寄せてきた兵の士気は高く、実際何度か城門を破られそうになっている。
 通常ならそこで、全力を傾けてくるはずではないか。城門をまさに破らんとしているその時に、予備として控えさせてある兵や他を攻めている隊から無理矢理に引き抜いてきた兵を、叩き付けないと云う事があるだろうか。常識で考えれば当然そうする。何故ならば、今回の場合、城を落とすことが戦の目的となるべきであろうから。

 しかし彼らはそれを行わなかった。

 平家首脳は優秀だ。戦略目的と戦術目的とを履き違えたりするはずはない。求められる達成条件を、過たずに遂行出来るだけの実力と、判断力と、そして自制心とを兼ね備えている者しかいないと考えた方が良い。まして攻め寄せてきたのは、少々融通が利かない性格をしているらしい孫権を将帥とした軍だったのだ。もし落城が目的なら、落城に拘りを見せた戦い方をするであろう。

 それをしなかったのだ。
 それはつまり、戦の目的はそこには、合肥城陥落には無かったと云う事に他ならない。

 それがどう云う事なのか。あまり考えたくない仮説が、朱里の頭を過(よぎ)る。平家は、実際の戦を訓練の場としたのではないか。無理をしないで落とせるようなら落とすが、主目的が訓練であるので無理はしない。その心算で攻めて来たと云うのであれば、色々と辻褄が合う。

 戦を訓練の一環として捉え、負けても構わないと思い定めることが出来るだけの、心理的・物理的な余裕がそこには感じられる。そしてその余裕とは即ち、袁家と平家との間に横たわる力の差そのものである。

 溜息を一つ吐いて、歩を進める。

 周囲に居る者達のその表情は、皆一様に明るい。平教経の思惑に気が付かず、唯只管に勝利したことを喜んでいるのだ。それを目にする度に、朱里の表情は険しくなる。だが、兵達を責めるのは酷だろう。張コウや審配でさえその勝利に少々浮ついたところを見せていたのだ。この先の展望を知らされていない、平家の恐ろしさを十分に把握できていない兵達がそうなるのは、半ば必然と言って良い。
 ちなみに、将達が浮ついていたのは、『朱里が居れば勝てる』と云う事実を確認できたことに、純粋に希望を見出せたことが原因だ。朱里が憂えているように、平家を侮ったり、今後の展望を楽観視しているからではないのだが、朱里自身は丁度良い機会なので一度引き締めを行っておこうと考えていた。

「妙な処で遇うな、孔明」

 どう引き締めたものか、と考えながら歩いていた朱里に、郭図が声を掛けてきた。先の戦の後、朱里は将達の様子を陰に日向に観察していたのだが、将達の中で郭図だけが陰で何やらやっているのに気が付いた。使者をどこかへ遣ったのは確認出来たが、誰の下へ何の用で遣るのかを確認する機会を逸したまま、今日に至っている。

「丁度良いところに居てくれました……付いて来てください。話したいことが有ります」

 あの日出立した使者が何の使者であったのか。
 それを確認する良い機会が出来たとばかりに郭図を誘う。

「うむ、良いだろう。此方も話したいことが有ったからな」

 先を進む朱里の後を、郭図が付いて行く。互いに相手の話したい事が何であるのか、想像を巡らせながら。





 朱里の執務室に到着した二人は、暫く会話もなく卓を挟んで佇んでいた。
 話を切り出しにくかった訳でもなく、それぞれに、執務室に至るまで浸かっていた思考の海から抜け出さなかった為だ。向かい合って腰掛けながら、思い思いに思索に耽っている様だった。第三者が見れば、この二人は何をしているのかと怪訝な表情を浮かべるに違いない、その一見異様な静寂を破ったのは郭図だった。

 「さて……孔明。もう良いか?」
 「……ええ、構いません」
 「先の戦で平家に打ち勝った訳だが」

 郭図はそこで一旦言葉を区切り、朱里の様子を窺う。平家との戦が自分の想定とは異なる経過、異なる結果を見せたにも拘らず、その表情には何の感情も浮かんでいない。面白いはずがないのにその色を見せないのは、過ぎ去り終わってしまった事に拘る愚かしさを知っている為か。

 そのまま、郭図が言葉を続ける。

「状況はまだ予断を許さない。事態が好転しそうではあるが、得てしてそう云う時に何かしらを怠った為に思い通りに行かなかった例は古今東西を問わず溢れている」

 それは、史書を見れば明らかなことだ。

 斉の桓公と王位を争った公子糾の腹心であった管仲は、桓公を弓で射殺したと油断した結果保庇すべき公子糾の衰運を招いた。魏のホウ涓(ほうけん)は斉軍の竈の数が日に日に減っていくのを見て、孫ピン(そんぴん)を遂に殺せると喜び勇んで猪突した結果、その命を無惨に散らすことになった。

 物事が上手く行っているように見えている時こそ、気を引き締めておかねばならない。

 最終的に目指すところは袁家の勝利であるが、それを為すのに不足しているのは、何はともあれ先ず兵力だ。現状、沮授が高句麗を、田豊や審配が烏丸を袁家に取り込むべく工作を行っているが、その結果が出るまでに平家が攻め寄せて来ては工作が失敗する可能性がある。

「そうさせぬ為に、策を弄する必要がある。時間を稼ぐための策を」

 策。その言葉が、朱里の頭脳を刺激する。

「……先日発した使者は、その為のものですか」
「そうだ。やはり気付いて居たな」
「それで、何をしようと言うのです?」
「何、簡単なことだ。降伏すると一言言わせるのよ」

 郭図が発したその一言を耳にして、朱里は目を瞑って暫く沈思する。郭図の発言は最小限まで短縮された言葉だったが、その目的とする処から推測すれば、ある程度の確度を持った推論は成り立つ。

 目的は、平家が侵攻してくるその時期を先延ばしにすること。
 それに必要な策として、『誰か』に降伏すると『言わせる』と云うものを用意している。
 ならば、その策がどう作用すれば平家の侵攻を先延ばしに出来る可能性が高いのかを考えれば、施した策の内容は知れる。

 有力な将、例えば張コウや麹義、沮授でも構わないが、彼らの内の誰かに降伏したいと言わせたとする。その場合、もし朱里が平家の軍師であったなら、埋伏の毒としてこれを使用する。彼をそのまま袁家に留まらせておき、侵攻した際決定的な場面で裏切りを行わせるだろう。
 平家にとっては勝利するに容易い状況が現出することになるが、埋伏の毒と云うものは時間を置けばおくほど不確かなものになる。本人が心変わりをする可能性がある、と云う事でもあるし、埋伏の毒であることを見抜かれて排除される可能性がある、と云う事でもある。それを想えば、時間を置くことは望ましくなく、侵攻はむしろ早まると言って良い。

 そうならず、むしろ調査などに時間を掛けねばならないと思わせることが出来る、降伏したいと言わせる『誰か』とは一体誰なのか。

 一つ頷いて、しかし目は瞑ったまま、朱里が正答を導き出す。

「成程。陛下に、と云う訳ですね」

 たった一言から正答を導き出した朱里に、郭図は驚きも見せず静かに笑みを浮かべて頷き返す。

「うむ。それによって調査、検討を行うだけの時間が必要になるからな。あちらには劉備殿も居るし、上手く踊ってくれれば真実味が増すだろう」
「……演技が出来る人ではありませんからね」
「麗羽様が全てを明かして相談するか、それとも隠して協力を頼むか。何れでも構わぬよ。望む結果は得られるであろうからな」

 俯き加減に口の端を少し吊り上げ薄ら笑いを浮かべる郭図。
 目を瞑ったまま静かに佇む朱里。

 対照的な二人の態度ではあるが、その二人に共通しているのは、平家との戦に対してある程度の自信を持っている処だろうか。

「それで?貴様が話したい事とは何だ?」
「一つは今終わりました。もう一つあるのですが、それが何だが、貴方に分かりますか?」

 静かに、朱里が問い掛ける。
 郭図は浮かべた薄ら笑いを収めることをせず、穏やかに、しかしはっきりと答えを返した。

「分からいでか。引き締めを行おうと言うのであろう」
「その通りです」
「どう引き締める?」
「それをこれから貴方と話したいと考えています」

 朱里の、自らを当てにしているかのような言動に、満足して頷く郭図。
 そうでなくてはならないだろう。郭図自身としては、そう思っている。何せ、この身は『諸葛亮』でもあるのだ。孔明が『諸葛亮』として何かを考えたいと言うのであれば、自分に相談するのは当たり前の話なのだから。















 高句麗の首都、丸都。
 故国川王の死去により王位継承戦争が発生した際、現国王である位宮が拠点として新たに建設した城であり、位宮が王位を継いだことを不服として叛旗を翻した兄を駆逐する為に新たに建てた国の首都である。

 丸都を建設した時点では高句麗の王が二人居ると云う状況であったものの、高句麗を代表する五族の内で位宮の兄に付き随った族は一つだけであり、位宮を支持した族が四族であった為に、端から結果が見えた争いであった。兄と兄が恃んだ公孫度の連合軍を撃ち払い、行き場の無くなった兄を暗殺して、兄の勢力をそのまま吸収・併合し改めて高句麗王となった為、丸都はそのまま高句麗の首都となった。
 丸都を新たな首都としたことで、丸都が高句麗五族それぞれの地盤から離れていたこともあり、軍事や政治における五族の影響力が低下することになった。極端な表現をするならば、それまで五族の部族連合としての側面が強かった高句麗と云う集団が、中央集権化して国家となる端緒となったと言っても過言ではない。

 位宮は、それらの状況を漏れなく把握していた。いや、むしろそう仕向けるのが目的で、丸都へ遷都したのだ。これを機に先王が推し進めてきた貴族の弱体化を更に進め、最終的には絶対的な王権を確立したい。自分にはそれが出来る筈だと思っているし、それだけの器量があると云う自負があった。
 それはそうだろう。兄と自分、何れを選ぶかと云う状況において、自らを選ぶ者が圧倒的に多かったのだ。遷都後、貴族たちを宥め賺して少しずつその力を弱めていくことも、大きな抵抗もなく順調に行っている。国内には、位宮に拮抗する器量人は居ないと云う状況だった。

 そして先の公孫度の侵攻を容易く撃ち払った事で、中華の将と雖も位宮に匹敵するだけの器量人は中々居ないと云う事が証明されたのではないかと考えていた。直接戦ったのは公孫度だが、彼は小なりと雖も一勢力の主である。それに打ち勝てる自分は、少なくとも中華においても一勢力を為すだけの器量がある。もし中華に人が居ないなら、自分が代わって支配してやっても良い。馬鹿げた話だと半ば自覚していたが、それが事実ならばそうしてやろうとは思っていた。

その位宮をして、少々自身の見解を改める必要があるかも知れないと思わせたのは、漢王朝の正統を継ぐ形で成立した麗王朝からの使者であった。正確には、その使者の後ろに居る、未だ目にしたことが無い沮授と云う男の、交渉を通して推し量って来た器量の大きさであった。

 遠回しに出兵を求める使者であったが、その使者が持ってくる書翰は礼を失する事が無いように言葉を吟味し、推敲されたものであることが良く分かった。
 中華がどういう状況であるのか、詳細は定かではないが、天下を二分して争っていると云う事は分かっている。その状況の中、高句麗に出兵を求めるその魂胆は見え透いているが、出来るだけ此方を刺激しないように、しかし出兵せよと上位者として命じているともそうでないとも取れる形で交渉を続けてきた沮授と云う男。
 時に柔らかく、時に威圧感を感じさせる、書面上での遣り取り。そしてその書面と共に、使者に預けてある言葉。それらを有効に組み合わせて、麗に優位に交渉を進めんとしていた。此処までの交渉において、何の言質も与えてはいないが、位宮で無ければ疾うの昔に快諾を与えてしまって居るだろう。
 位宮は己の才覚に対する自負が強いだけに、自分と対等に交渉を行う沮授への評価も自然と高くなった。それが位宮の意識を変えさせることになったのだ。中華には人物が居るのだ、と云うものに。





 位宮は今悩んでいる。
 その原因は、目の前に居る使者が齎した書翰にあった。これまでとは違い、強く出兵を求める書翰だった。

「如何で御座いましょうか。今回は必ずご返答を頂いて参れ、と主人より厳命されて御座います。諾否何れにせよ、ご返答を賜りますようお願い申し上げます」
「……」

 口調は丁寧に、しかし強気に『返答を』と迫る使者を尻目に、考えを巡らせる。これまでのらりくらりと躱してきたが、此処まで強気に出てきている以上、返答をこれ以上先送りにすることは出来ないと云う事は位宮にも分かっていた。

 別に麗に助力をするのが嫌だという訳ではない。

 抑々、公孫度を頼った兄に対抗する為に、位宮は麗に朝貢の使者を遣わして公孫度を挟み込む形を作り、此方に無闇に手出しが出来ぬ状況を作り上げた。後背を気にし続けなければならなかった公孫度は位宮との戦に専心することが出来ず、その結果として兄を駆逐出来たと言っても過言ではない。
 それ故に、現時点で仰ぐ旗を変えようとは思っていなかった。それに、位宮が麗に朝貢していること位平家は知っているだろうし、調べさせた限りでは平教経は変節漢は嫌いなようだった。諸手を挙げて歓迎してくれるならまだ考えないでもないが、明らかに不興を買うと分かっているのだからそんなことをするつもりはなかった。

 位宮が気にしているのは唯一つ、麗が平家との戦において、高句麗を矢面に立たせ続けることを考えているのではないか、と云う事だけである。
 正直な話、朝貢している身分で宗主国たる麗の要求を突っぱねるなど正気の沙汰ではない。最終的には受けざるを得ないのだが、受ける時機を誤ると派遣した兵を良いように使い潰されてしまう。それでは王権の強化を推し進めるのに必要な、貴族共を押さえつける為の力が損なわれてしまうではないか。

 故にこれまで回答を先送りにして、状況がどう変化するのかを注視してきたのだ。高句麗で腕利きの細作を中華へ派遣し、状況の把握に努めてきた。だが、いくら腕利きと雖も、突然やって来た未知の土地で一から人脈を広げて情報を収集するのは難しい。急進的にそれを行えば、細作であることが露見して虜囚となるのは目に見えている。
 そうこうしている内に、この使者がやって来たのだ。

『忠誠の証を示せ』

 沮授は端的に言えばそう言っている。これまでの交渉で、此処まで強気な書翰を受け取ったことは無かった。交渉を通じて位宮が読み取った沮授と云う男は、言葉や調子を必要に応じて変える事はしても、不必要に強い言葉を使い、恫喝を行うような人間ではない。その沮授がこう云う交渉をしてくる以上、先方が態度を変えるだけの何かがあったと考えるべきであろう。
 あからさまに高句麗を下位に見做した物言いに、位宮が不快感を露わにするかも知れない。位宮が一時の感情に流された結果、派兵を拒否されるかも知れない。それならそれで構わない、と思い切れるだけの、優位な状況を創り出したのではないか。

「王よ、ご返答頂けますでしょうか?」

 再度、使者が問う。

───使者のしつこさから考えても、これが最後通牒だと見て間違いない。

 そう位宮は思う。拒絶すると云う選択肢が無い以上、此処で派兵要求を呑まざるを得ない。

「高句麗の精兵を以て助勢させて頂きます、と伝えて下されよ」
「おぉ、有り難きお言葉。やはりそうでなくてはなりますまい」

 位宮から言質を得た使者が、その面に喜色を露わにする。純粋に高句麗が派兵する事を喜んでいるのか、自らが使者として言質を取ったことが嬉しいのか。

───それとも、これで高句麗の兵を遣い潰してやることが出来ると内心密かに喜んでいるのか。

 位宮にはそれは分からない。
 しかし、もしそうであったとしても、その目論見を阻止し、かつ王権強化に繋げる一手がある。

「これまで私が躊躇してきた事で随分と切歯扼腕されたことでしょう。その詫びの意味も込めて、私自身が兵を率いて征こうではありませんか」
「何と律儀な。そこまでして下さるとは思いも寄りませんでした」
「いや、お気に召さるな」

 そう、位宮自ら兵を率いて征けば良い。朝貢しているが、一国の王であるには違いない。皇帝の指図にはほぼ無条件に従わざるを得ないが、重臣達は位宮と同格以下でしかない。重臣たちの指図を無条件に受け入れるつもりはないし、助勢する形の位宮に居高気に接してくる人間は居ないだろう。
 それに、もし皇帝の膝元に詰める形となった場合でも、然程心配は要らないと位宮は考えていた。麗の皇帝袁紹が専ら自ら兵を率いて戦場を往来するとは寡聞にして知らない。余程の事が無い限り、進退窮まるような状況に追い込まれることは無いに違いないと云う見込みがあった。

 そして位宮自身が兵を率いて征くことによって生じる利点はまだある。
 助勢に行くとは言え、位宮自身が率いて征くと云う事は即ち、これは高句麗王の親征に等しい。であれば然るべき者達を引き連れて征かねばならない。門地の確かな、高句麗でも有数の貴族が参加すべきであろう。勿論、戦である以上、彼らが傷つき、そして考えたくない事ではあるが、死んでしまう事もあり得る。だがそれらの犠牲は戦である以上避けられないものであり、遠征に参加する貴族達も覚悟をした上で参加するに違いない。
 ひょっとすると何かの手違いで、味方が彼らを誤射してしまう可能性もあるが、それにしたところで良くあることだ。徴発されたばかりの新兵たちが、戦の雰囲気に気圧されて意味不明な行動を取ることなど珍しくもないのだから。

 つまり、位宮としては非常に残念なことではあるが、高句麗有数の力を持つ貴族の当主や主要人物が死んでしまった結果、望まずして王権が強化されるかも知れない。本当に残念なことだとは思うが、高句麗と云う国を長い目で見た時に、きっとそれは高句麗にとって良い影響を齎すだろう。彼らの尊い犠牲によって、高句麗百年の礎が形作られると考えれば、利点があると言って良いかも知れない。

「では、私はこれで失礼致します」
「左様ですか。……おい、御使者をお送りしろ。丁重にな」

 近臣に案内されて己が前を辞す使者を見ながら、位宮は中華での行動指針を何度も繰り返し再確認していた。

 為すべきは兵を温存し、邪魔な貴族を除くこと。
 自分にならそれが出来る。出来る筈だと。