広大な草原を、太陽が明るく照らしている。
 まだ寒さが残る季節であるが、大地は来るべき新緑の季節へ向かって、徐々に色付き始めていた。

 幽州は代県の北に勢力を張る烏丸の集落にて、部族を纏めている大人(酋長)たちが額を突き合わせていた。此処に集ったのは、現単于である楼班、先の単于であり、楼班の成長によりその位を譲ったトウ頓、主に外交に携わっている蘇僕延など、正しく烏丸という族をその双肩に担っている大人たちだった。

 その中でも、トウ頓は出色の人物であった。人によっては、彼を偉大なる大人であった冒頓単于に擬える者が居る程、武略に優れた人物であり、また文化が根付かない未開の土地に蟠踞する族であると認知されていた烏丸に、中華から流民を積極的に受け入れることで文化を吸収し、烏丸の生活様式を改め、その質を向上させると云った政治的手腕にも優れている、正しく文武両道の人であった。

 そのトウ頓を始めとする烏丸の大人たちの表情は、草原を照らす陽光同様に明るい。

 つい先頃まで、皆暗い表情を浮かべていたものだ。その表情に差した翳は、教経が開闢を宣言した召王朝に賀を述べる使者を派遣しなかったと云う事実が齎していた。
 トウ頓としては、後でどうなるにせよ一先ず賀を述べる使者を遣わしておいた方が良いと云う判断をしていたのであるが、既に自らは単于の座を退いた後であった為、次代の事を鑑みて自分の前の単于・丘力居の子である楼班の判断に任せることにしたという経緯がある。
 判断を任された楼班は、烏丸が中華の文化を吸収していく過程で急速に漢化して行く中で成長したこともあり、弱肉強食を旨とする旧世代の大人たちとは違って、儒教をバックボーンとする漢人然とした価値観を有していた。儒者の言う処の『五常の徳』(仁、義、礼、智、信)の内、特に信義───旧恩を忘れず弱きを助けること───を重視したことから、来るべき袁家と平家の天下分け目の決戦で袁家に付くことを考えていた。
 その為、教経即位の際に人を遣らなかった。いずれ袂を分かつのであれば、双方に良い貌を見せるような狡猾な真似はせず、最初から旗幟を鮮明にしておくべきという、人としては清々しくも大人としては事に老いていない者の、未熟さを内含した考えに基づいてのことであった。勿論、それだけで平家を向こうに回すことを決断した訳ではなかったが。
 その決断を下した際、楼班としては、平家は塞内で中華の覇権を袁家と争っているという認識であった。故に、平家が戦うのは飽くまで袁家であり、塞外に居る自分たちは袁家を外から幇助するという立場にしかないと考えていた。しかしその後行われた平家による南蛮遠征によって、袁家ではなく烏丸そのものを標的として軍旅を催すことが有り得るのだと云う事実を突き付けられたことで、烏丸の族の誰もが、自分たちの先行きに暗雲が垂れ込めているように感じていたのだった。

 だがそれは杞憂であったことが判明したのだ。烏丸の大人達の頭上に在った重石を取り払ったのは、袁家が弘農にて平家軍を破ったという捷報だった。

───この勝利は袁家にとって大きな勝利だ。

 トウ頓は、静かにそう思う。

 これまで、平教経を長とする平家と云う家が、戦で他家に後れを取ったことは一度もなかった。その軍事的成功は近年、いや、歴史上においても類を見ないものだろう。并州の一県令にしか過ぎなかった、それ以前は何をしていたのか素性が全く分からない人間が、連戦連勝して勢力を増し、終には帝位に推戴されることになったのだから。そうして蓄えた力を背景に、多くの人を従えている。
 ここ数年で急速にその名を挙げたに過ぎない平家と云う家が、輝かしい歴史と名声、地縁に財力と文句の付けようのない袁家に対して優位に立てたのは、その軍事的成功に拠る処が大きい。その、平家の力の源泉である常勝不敗の戦歴に、終止符が打たれることになった。そしてその終止符は、平家がこれから天下を争う相手である袁家が、独力で打ったのだ。
 力的に二者は拮抗し得ず、平家の圧倒的優勢であると見做していたからこそ、平家に秋波を送った者も多く居るだろう。その者達に、再考を促すことが出来る。天下の趨勢は最早定まったのだと賢しげに先が見えたかのように放言していた者達の口を、勝利を以て塞いだことで、人々はもう一度、この天下の趨勢を計りなおさなければならぬと考えるに違いない。

「これで人々は周囲の雰囲気に流されず、自分の頭で将来を計るようになる」

 同じことを考えていたのか、蘇僕延がトウ頓にそう声を掛ける。

「そうだな。そうなると、積み重ねてきた実績がものを言うことになる」
「当代の実績、となると袁家は不利だが……」

 蘇僕延が、少し苦い顔をしてそう答えた。トウ頓が、その蘇僕延に笑って続ける。

「当代に限れば、な。だが冷静になった人々は、思い出す事だろう」
「思い出すかな?袁家と云う家の輝かしい歴史を。その身が享けた袁家から施された恩を」
「思い出すのは、思い出すべきなのは、それだけではないがな」

 平家と云う家が、つい最近耳にするようになった、素性の知れぬ家である事を。
 平教経は、『天の御遣い』であると自称しているだけで、管輅がそれを認めた訳ではない事を。
 そして、平家と袁家が単独で直接干戈を交えるのは実はこれが初めてであり、その結果として袁家が勝ったのだと云う事実を。

「是非、思い出して貰いたいものだ」

 そのトウ頓の言葉に、蘇僕延が大きく頷き返す。トウ頓が挙げた事実に気が付けば、故あって平家に従っている者達には意味が無いにしても、平家に対して根拠のない信頼を寄せている者達の考えを変えることが出来るだろう。その結果として、現在の力関係が揺らぐこともあり得る。

「……では皆がそれを思い出す手助けをすることにしよう」

 それまでトウ頓と蘇僕延の話を聞いていた楼班が、そう口にする。楼班としては、南蛮遠征が指し示した現実から目を逸らすことは出来ない。自分たちは『袁家に協力する外郭勢力』ではなく、『平家に敵対する勢力』として認識されているのは間違いないだろう。

 一蓮托生。
 そのつもりで居なければ、烏丸の向かう先に途は無い。

 それに、烏丸の現単于として、自分が下した決断が誤っていなかったことを証明する必要もある。先の単于であるトウ頓は器量に優れた男だった。軍事に政治にとその辣腕を揮い、烏丸の勢力を拡大してきた。その彼の後を継いだことで、常に比較の目に晒されることになった楼班の心中は、決して穏やかなものではなかった。だが、自分が成人するまで扶育し、成人して蘇僕延に奉じられ、単于に擁立された際に従ってくれた叔父に、害意を持つことは出来なかった。既に価値観が漢化していた楼班が害意を持つには、トウ頓から恩を受けすぎていた。故に比較対象を消す以外の方法で、克己する必要に迫られていたのだ。
 そんな中で、平教経が帝位に就いたと云う報せが入って来た。自らがトウ頓に勝るとも劣らない単于であることを証明せんとして、敢えてトウ頓の逆を行った。無論成算あっての決断であったが、その決断によって烏丸が、トウ頓が単于であった時以上の隆盛を迎えれば、トウ頓を越える評価が得られ、それによって克己が果たせると云う極めて利己的な動機があったことは否めない。そして利己的な動機が幾許なりともその決断の源泉となっていた為に、一族に対して多少の後ろめたさを感じていた。
 だからこそ、自分の決断が正しかった事を証明しなければならなかった。自分の決断が一族の利益になると云う事が証明されなければ、自分は利己的な願望の為に一族の道を誤らせたということになる。それは避けたいところだ。その為に必要な手段は、全て講じるつもりだった。今目の前にある、烏丸が袁家に対して行える援護を、敢えて行わない理由はどこにもない。

「成程。それは妙案です」
「ではそのように手配致します」

 トウ頓と蘇僕延の答えに、頷く楼班。
 彼らにとって、戦はまだ始まったばかりだった。そしてその認識こそが、実は誤っていると云うことに気が付かなかった事が、後々彼らに重く圧し掛かってくることになる。















 ところ変わって此方は長安。
 平家が弘農を失ったと云う事実が、長安の、そして平家の主である教経自らの布告によって明らかにされた時、民達は少なからず動揺していたが、既にその動揺は収まり、殆ど全ての民が今まで通りに時を刻んでいた。
 戦に負けたと言っても、弘農で民政を担当していた董卓が敗れたと云うものであり、教経が攻勢に出て敗れた訳ではない事が動揺を最小限に留めていたからだ。また、教経が戦の顛末を包み隠さず公表したことは、一方で常勝不敗の誉を地に墜とすことになったものの、却って平家がそれを歯牙にも掛けぬ程力を余していると云う余裕を強く感じさせることになった。それもまた、動揺の収拾に一役買った事だろう。

 落ち着きを見せた長安で最も活気に溢れているのは、恐らくいつの時代どの場所でも変わらないだろうが、生鮮・衣料等生活必需品を取り扱う市場だ。同業者を同一区画に集めた、常に競争に晒される長安の市場は、毎日多くの民でごった返しており、相変わらずの盛況ぶりを示している。最近では、態々近郊の村から物資を纏めて購入しにくる者もあり、長安は一大商業都市へと変貌を遂げようとしていた。

「よう、其処のお姉さん!寄ってらっしゃい!」
「安いよ安いよッ!この界隈で最安値だよ!」
「こっちは今日だけの、赤字覚悟のご奉仕価格だ!この機会に買って行きやがれってんだこの泥棒めチクショウ!」

 活気のある呼び込みの声が飛び交う中を、一組の男女が歩いてゆく。二人の傍には警護の人間が数人付いて居るが、少し気を付けて周囲を観察すれば、実に多くの人間が彼らを遠巻きに警護しており、いかなる状況にも対処できるよう、厳重に周囲を警戒していることが分かるだろう。
 それだけの警護を受ける二人の内、一人はこの国の頂点に立つ存在であり、召の皇帝に即位した、ごく一部で覇王とも色狂いとも呼ばれている教経。相変わらず特徴的な着流し姿で、商品をしげしげと眺めながら歩いている。もう一人は、小柄な体躯に金髪ツインテールの、これまた特徴的な髑髏の髪飾りを付けた華琳。こちらも、長安の市場の品揃えやその価格を見ては、感心したかのように頷いたり、横を歩く教経のケツを蹴り上げたりしていた。

「本来ならこれ一つだけの筈が、今なら何とこの軽量盥が付いて来てこの価格!お買い上げは今すぐ!」
「……分割手数料はノリネット平が負担します、とか言い出さないだろうな?フリーダイヤル0120……」
「訳の分からないことを言っていないでさっさと歩きなさい!」

 教経の耳に馴染みのある、あちらの世界で聞き慣れたセット商法の声。一瞬あの社長がこっちに来ていたのかと思ったほどに声が似ていた為、恒例の言い回しも言うのではないかとつい突っ込んでしまった。

「何だよ華琳、そう声を荒げる事もないだろうに」
「貴方が愚にもつかない事を言うからでしょう!?」

 どうにも機嫌が悪い華琳に、教経は押され気味だった。

 月とそう云う関係になったという事が、『月様親衛隊』とストレートに名付けられた月の親衛隊員によって、翌朝には大々的に流布された。それはもう、長安で知らぬ人が無いほど大々的に。
 当初、流布される内容にあまりに明け透けな表現があった為、月は顔を赤らめて朔に抗議をしたものだ。その表情は教経的には大層なご褒美だった。しかし詰め寄られた朔は、これほどの慶事は未だ嘗て無い、と満腔の喜びを表し、涙さえ浮かべて見せたのだった。
 月は、朔がどれ程自分を想い、自分に尽くして来てくれたかを知っている。先の戦においても、常に自分の盾になって矢箭を防いでくれていたし、自分が思い悩んでいたことを誰に漏らすでもなく傍に在り続けてくれた。流石にその朔に対して、それ以上詰るようなことは言えず、状況に流されるままになるより他に術が無かった。

 月が状況に流されるままになった結果として、流布された内容が、普段の月からはちょっと像像が付かないような内容であったことも相まって、あっという間に広まった。流言を飛ばし始めた日の昼前には、既に華琳の耳に達していた。青筋を浮かべながら、事情を説明して貰おうかしら、とその日の仕事、自らの仕事に合わせて教経の仕事までも、を怒涛の勢いで終わらせてやって来た華琳のご機嫌をとる為に、こうして二人で連れ立って市中を歩いている。

 実は教経としては、気が付くと数多居ることになっていた妻達の反応を考えて、戦々恐々としていたのだ。これで股間のエリンギを切り落とす、等と云う物騒な話になったらと思うと、気が気ではなかった。だが、華琳以外の妻たちの反応は、総じて同じようなものだった。教経としては、これから数か月土下座巡業的な埋め合わせを行うことになり、個人的な時間が一切無くなると云う覚悟をしていたのだが、妻たちの反応は拍子抜けするほどあっさりとしたものだった。

 『うん、知ってた』

 簡単に言うと、皆そういう反応だった。詠からは実際にそのままの言葉を投げつけられた。華琳以外の誰からも詰られなかったことを喜びつつも、この反応は実は問題なんじゃないかとも感じていたが、本人は最近その辺りがアバウトになっているのか、納得してくれているならそれでいいか、と深く考えることを放棄した。
 そう云う処が次々と女性を誑し込んでいる原因になっていることに、全く気が付いて居ない辺りが度し難い。まあ、星、風、稟の三人とそう云う関係を持つことになった際に随分と悩んだ際、自分なりに納得できる着地点を見出していたし、現在の自分の身分を考えると然程違和感を覚えない為にそうなっているのではあるだろうが。もし彼の伝記を史書に記すなら、その中には『色情狂時代』とでも題される項が設けられるべきだろう。

「そうカリカリするなよ華琳。良い女が台無しだぜ?」
「私が良い女なのは分かりきったことよ。唯の事実を並べ立てるだけで、私が喜ぶとでも思って居るのかしらね」

 不機嫌な様を取り繕って、それでも隠すことが出来なかった喜びを滲ませながら、華琳がそう応じる。

───いやいや、喜んでるじゃないか。

 とは、教経の心の声であるが、それは決して口に出さない。此処でその突込みをすれば、折角宥め賺した華琳の機嫌が先程までより更に悪くなるのは分かりきっている。流石に、分かっていて死地に飛び込むような真似はしない。この手の死地を生きて抜けるには、とてつもない労力と涙ぐましい努力とが必要になるのを『知っている』し、最悪の場合、前述したように(男性として)『討死』してしまう可能性だってあるのだから。
 心中密かに『ツンデレ乙』と呟いて、別の言葉を口にする。

「民達は落ち着いている様だな」
「……そうね。貴方を見る目も以前と変わらないようだし、心配していたようなことはなさそうね」

 心配していたようなこと?
 何を心配していたと云うのか、と華琳に目で問い掛ける。

「後でちゃんと説明してあげるわ。今は先に行くわよ」

 貴方は、私の機嫌を取らなければならないのでしょう?
 そう、突き放したような言葉を吐いて、先に歩いて行く。此処で華琳に遅れたら、後で何を言われるか分かったものではない。そう思い、慌てて追い駆けそして追い付いた教経の腕を、華琳は薄く微笑みながら取って腕を組み、再び歩き始めた。

───敵いそうにないな、華琳には。

 恐らく自分は華琳の思い通りに、華琳の一喜一憂、一挙一動に踊らされているのだろう。自分から望んで踊っているような処もあるが、悪い気はしなかった。





 華琳に腕を引かれてやって来たのは、教経の発案によって設けられた公園だった。平常時、長安市民の憩いの場として利用される公園は、有事の際の集合場所として利用される。潤沢に資金があることで、太原ではできなかった様々な都市計画を実施していた。市場の整理もそうだし、公園建設もその内の一つに過ぎない。遊び呆けているように見えて、その実やるべきことはやっているのだ。周囲の、特に文官として教経に仕える妻達の、弛みない説教と折檻の末に結実した果実でなければ、手放しで褒められるべき事だろう。
 此処に至るまでに市場で食糧を調達しており、二人腰かけてさあ食事、と云う段になって、二人に近付く影があった。警護に当たっている親衛隊や曹家の面々がその影の往く手を阻もうとして一旦前に立つも、その人物が誰であるかを認めるとそのまま近付くに任せたことから考えて、良く知られている人物なのだろう。
 二人からその姿を確認できる距離まで近付いた時、先ず華琳がその影の主へ声を掛けた。

「……雪蓮、貴女此処に何をしに来たのかしら?」
「やっほ〜華琳。二人が此処に入って行くのを見たから付いてきたんだけど?」

 華琳の、邪魔をしに来たのか、と暗に詰っている言葉に対して、何か文句ある?、とでも言わんばかりの雪蓮の応答。その答えを受けて、華琳のこめかみがピクピクと動く。雪蓮の意図は分かった。教経と二人で居る時間を、自分含めた三人の時間にしてしまおうと云うのだろう。
 だが、まだそれを言葉として聞いていないし、此方もそれを口にする契機は与えていない。此処は素気無く追い払うに限ると判断した華琳は、そのまま言葉にして投げつけた。

「そう。私たちは大事な話があるから、貴女はあっちへ行っていなさい」
「何よ華琳、素っ気ないわね。そんな態度ばかり取ってると、その内に教経に愛想を尽かされるわよ?」
「その言葉、そっくりそのまま返すわ。貴女の方こそ、職務放棄ばかりしていると愛想を尽かされることになるのではないかしら?」

 華琳の魂胆は、雪蓮にしてみれば見え透いている。しかし、自分が此処にいる既成事実を強引に作ってしまえば問題は無い。そう思い定めて、直ぐに行動に移した。華琳と言葉を交わしつつ、教経の傍へ移動した雪蓮は、教経の右腕を取ったのだ。
 それに気が付いた華琳もまた、対抗して教経の左腕を取り、居座らせる雰囲気を作るまいと自らの方へ引き寄せようとするが、雪蓮もそうはさせじとその胸に抱えた腕を確り抱えており、華琳が引き寄せることを許さない。

 自らの左右の腕を抱えた両名が、互いに『イイ』笑顔を浮かべて平教経と云う名の綱を引いている最中、渦中の人として間に挟まれている男は、『右はアレだけど、左はこれこそ正に板挟みってやつだな』と、口に出せば間違いなく超新星爆発級の折檻が待っているであろう、阿呆なことを考えていた。
 が、徐々にその引手に込められる力が強くなり、そろそろ洒落にならないと思ったところで愉快な綱引きを中断させるべく口を開いた。

「で、華琳。さっき言っていた話の詳細を説明してくれるんだろ?」

 雪蓮が此処にいることを消極的にでも肯定するようなその言葉に、華琳はムッとして教経を詰ろうとしたが、雪蓮はどうあってもここに居座るつもりで居るようではあるし、此処で醜く振舞えば教経の不興を買う可能性がある事に気が付いた。此処で教経を詰るよりは、此処に居残る事を認めることで雪蓮への貸しとしておいた方が後々役に立つこともあるだろう、と云う計算を瞬時に済ませて、それまでとはガラリと身に纏う雰囲気を変えて話し始める。

「教経。貴方は平家に従う人間が、何故平家に従っているのか、その理由を考えたことが有るかしら」
「理由?」
「ええ、そうよ。従う理由」

 質問を投げかけられた教経が、顎に手を当てて真面目に自らの考えに耽っている。

「……正直良く分からんな。思惑はそれぞれ違うだろうが、自分の成し遂げたいことを成し遂げる為に従っているんじゃないか?」
「まあそうだけれど、私が訊きたかったのはそう云う話ではないのよ」

 その言葉に、ちょっと困惑したような表情を浮かべた教経は、数瞬考えた後『分からないよ』と苦笑しながら首を横に振った。

───まあ、当たり前すぎて思い付かないと云ったところかしらね。

 何故従っているのか、実際に従っている人間にその理由を披歴して貰うのが一番手っ取り早いでしょう。そう思い雪蓮に視線を遣る。状況をよく呑み込めていないのか、キョトンとしているけれど、これでも一応一勢力の主として過誤なく選択をしてきた結果として、平家における今の立場を掴みとったのだ。正答を期待しても、罰は当たらないはず。そう思い定めて水を向ける。

「じゃあ、雪蓮。貴女はどうかしら。何故貴女は教経に従っているのかしら?」
「従う理由?勘よ。そうした方が良いって云う勘。決まってるじゃない」

 力強い回答に、雪蓮に訊いた自分が馬鹿だったと思い直して、答えを明かすことにする。

「違うわよ。正解は、『平家に力があるから』よ。どれ程崇高な理想を掲げ、どれ程民の為を想った政を行ったとしても、それを世間に認めさせるだけの力、この場合は軍事力が無ければ誰も従わないでしょう?それとも貴方は、崇高な理想を掲げて民の為を想った政を行うのに力が必要なのか、と云う疑問を良く抱く人間なのかしら?」
「まさか。常に、即座に成果が出る政があるものかよ。一時発生する不平・不満を押さえつける力は必須だ。そうでないと国という枠組み自体が破綻するぞ」
「分かっているようで何よりね。まあ、私の認める男なんだから、この程度の事は分かっていて当然なのだけれど」

 要するに今までは平家の力と云うものは絶対的なものだと思われていた。これまで戦ってきた全ての戦で負けなかった実績は、平家に負けは無いと云う非現実的な幻想が現実のものであると云う錯覚を、殆ど全ての人に起こさせていた。その錯覚させていた前提、常勝不敗の実績が崩れ去った今、果たして平家に従う人々は何を思うだろうか。
 無論、直接に教経を知っている、若しくは伝聞でも教経と云う個人を知り、親しみを感じている者は、今回の敗報に胸を痛め、もしかするとそれだけでなく、何かしら自分が役立てることは無いかと考えて、物資の供出や義勇兵団の結成と云った形で平家に貢献しようと云う動きを見せるかも知れない。あるいは、この度の敗戦は大勢に何の影響も及ぼさないとと見切って落ち着いているかも知れない。

 けれど、元来教経のような人間を嫌う者や教経に積極的に従う周囲の者にただ流されるだけだった者はどうだろうか。同じように、平家に同情し、平家に積極的に協力するような姿勢を見せるだろうか。敗報を聞いて、落ち着いて居られるだろうか。

「……そうはならないだろうな」
「そうね。貴方を嫌う者達は、良い機会を得たとて嵩にかかって貴方を貶すでしょう。ただ流されていた者達は、平家と拮抗しうる、別の何かとあらゆる角度から比較をし始める事でしょうね。あらゆる角度から、とは言っても、自分の経験や価値観から導き出される比較項目でしかないから、当然保守的なモノの見方で比較を行う者が多いでしょう」
「つまり、比較の対象となるのは袁家。比較される内容は、家と当主の経歴・器量、そして双方が有する様々な力。華琳はそう言いたい訳ね?」
「ええ。そしてそうなった時、平家と云う家はその目にどう映えるでしょうね?」

 問い掛けられた二人が沈思する。

 袁家と平家。
 片や漢で重きを為した名家であり、片やその名も聞いたことが無かった馴染みのない家。

 袁家に関しては、当代はまだしも、先代までの当主達から施された徳は計り知れぬものがあるだろう。その恩徳のお蔭を蒙った、儒教を国学として、儒者の説く理想の人の在り方を刷り込まれてきた人々の内、幾人がその恩徳を無視できるだろうか。

 突然降って湧いた平家と云う家は、確かに利益を齎してくれる家だろう。だが、その力が絶対的でないのであれば、つまり中華を一色に染め上げる力を有さないのであれば、別の、平家ほどではないにしても利益を齎してくれる、馴染みのある家に従った方が性に合っていると考える者は多く居るのではないか。

 麗羽と教経。
 片や当代きっての名家の主であり、片や天の御遣いを自称する存在。

 名家の当主は、実績を見る限り然程の器量は有していない事は知れている。当人に期待出来ることは少ないだろう。だが、名家は名家であるが故に、実に多くの人間を召し抱えている。要は当主本人の資質が飛び抜けて劣悪でない限り、周囲に集う人間が補佐することが出来る。
 そして長い歴史を経ていれば、周囲の補佐が優秀であったが故に家の経営が上手く行ったと云う実績がある。補うための仕組みと云うものが出来上がっているのだ。また、当主が暴走しようとした時に、それに歯止めをかけることも出来る。それもまた、家の名跡が此処まで残っていると云う事実が証明する処だ。

 対して、教経に関しては、今現在実に多くの人間が、教経が天の御使いを自称していることを失念している。それは、教経個人の能力や人を惹き付ける力が、『天の御遣い』と云う虚名が有する力を越えているからこそ発生しているのだが、実は当の本人が自分が『天の御遣い』であることを最近強く主張していないと云うのが最たる理由だろう。
 その最たる理由と、旗揚げ当初頻りに『天の御遣い』であることを主張していたと云う事実を併せて考えた時、余計な誤解を生みかねないのだ。つまり、人の関心を得る為に、本来別に居たかも知れない『天の御遣い』を自称して勢力を拡大し、その虚名が不要になったと見るやこれをかなぐり捨てた、生臭い権勢家、平教経。穿った見方だが、そう云った見方も成立してしまう。

 どちらが、より望ましい家であり、より望ましい人であるのか。

「そうやって比較していく中で、教経、貴方に対して疑念を抱く者が出て来るでしょうね」
「『天の御遣い』の件については大凡正解だと言ってやりたいがね。それは兎も角、華琳。『心配していたようなことはなさそう』だと言っていたんじゃなかったか?お前さんは」
「ええ、そう言ったわ」
「どういうこと?言っていることがちぐはぐじゃない?」
「別にちぐはぐでもなんでもないわよ」

 華琳としては、たとえ教経のお膝元である長安であっても、教経に対して窺うような目つきや睨みつけるような目つきをする者が居るに違いないと思って居たが、今日歩いた限りではそのようなことは無かった。自分が気が付かなかっただけかもしれないが、あれだけの人が居る中でそう云った視線を向ける者が居なかった以上、当初自分が考えていたよりも教経は信頼されているらしいと考えるのが妥当だろう。

「その手の予測を貴女が外すなんて、結構珍しいんじゃない?」
「そうね。まあ、それもこれも教経の節操のなさが為せる業よ」
「節操のなさ?」

 何故、此処でそんな話になるのか。口に出さずとも、教経の顔が雄弁に物語っている。

 私にとっては非常に不本意なことながら、教経は様々な女性をその妻としている。そしてその事が、実に憎らしいことに、平教経と云う人間に対する親しみや信頼に繋がっているのだ。

「……華琳の尻に敷かれている処が人間臭くて憎めないとか?」
「そんな訳ないでしょう!」
「……要するに、こう云う事よね?」

 雪蓮がゆっくりと、確認するように口を開く。

 碧は春秋戦国時代から続く名家の当主だ。その家の祖である馬服君は、幽州・冀州の出身である。涼州に根を張り、涼州で馬家と言えば知らぬものは無い。
 月は涼州の出身であり、前述の碧と変わらず強い影響力を有する。また、羌族に対してもその知名度は高い。司隷における善政で、ある程度は司隷の民も懐いていると言える。
 雪蓮は孫子の子孫を自称し、その母である孫堅の代から揚州に根を張る事を重視した立ち回りを続けてきた。その結果、多くの民が孫家に情を通わせている。
 華琳は順帝に仕えた曹騰の孫としても有名だ。陳留や南陽、弘農で善政を布いた人間を引き立てた曹騰は、それらの地域の民にとっては恩義を感じる人かも知れない。華琳自身が統治していた腸蝎ぢ州では、華琳自身に寄せられる輿望は高い。

 それ以外にも名を知られた人間が多く平家に籍を置いているが、著名であり、かつ強い影響力を持つ人間の悉くが、教経の妻に納まっている。たとえ教経自身の事を快く思って居ない者であったとしても、その妻の家には心を寄せていると云う者も居る事だろう。
 故に、教経と平家への信用や信頼は、華琳が思っていた程には揺るがなかった。馴染みのある、情を通わせている各地の有力者が、家臣としてではなくその肉親として従っている為に。

「違う?」
「そうよ。教経の好色が、今回はその身を助けたと云うことよ……忌々しいけれどね」

 華琳の言いっぷりに、教経は声もなく唯苦笑している。

「荊州や益州に関してはどうなの?」
「さあ?教経次第じゃない?」

 二人が教経を見る。

「まあ、利益を喰らわせてやる限りは問題ないだろう。それに、荊州と益州に人物が居ない訳じゃない。たとえ俺に疑問を持ったとしても、決起する前にその芽を摘み取るだろう。第一、荊州と益州の官吏には地元出身で有能な人間を幾人も残してきてるンだ。地元出身で善政を布く人間の云う事を、端から聴かない奴なんて居ないさ」

 もし教経が内偵を進めて不穏分子として取り締まるような真似をすれば、反感を余計に買うだけだろう。事態を悪化させるだけで、何の成果もあげることは出来ないに違いない。その程度の事は教経にも分かる。

 だから、放っておくのだ。何を言おうとどう解釈しようと、好きにすれば良い。世論を誘導すれば二つに割る程度のことは出来るだろうし、叛乱するのに二の足を踏ませるだけの力はある。抑々、叛乱程度で平家をどうにかできると思って居るのであれば、やってみれば良いのだ。
 不平不満を漏らすだけなら、そんな人間が居たって良いじゃないかと笑ってやるが、刃を向けて来るなら容赦はしない。俺が誰だか忘れているなら思い出させてやるまでだ。

 そう言い切った教経の顔は、溢れ出る自信と覇気とに漲っていた。