〜教経 Side〜
「それでは、月様の事、宜しくお願い致します」
「あぁ。宜しく任されたから安心しとけよ。ダンクーガも居るし、問題ないだろう」
『月の為に一日時間を割いて欲しい』。
弘農撤退時の働きに対する褒美に何か欲しいものはあるか、と聞かれた朔がそう答えてから初めて迎える俺の休日が、その希望通り月の為に割かれることになった。この事が決まった時点では何をすれば良いのか皆目見当もついていなかった為に当日の朝、つまり今朝確認したのだが、先ずはいつも通りに巡察などをしてくれるのが望ましいと言われた。それを通して、月なりに感じるものがあるであろうから、と云う事らしい。その後で個別に時間を取り、今後の展望について話をしてくれると有り難いと。
───いつも通りに巡察などを、と言われてもなぁ。
俺は休日も真面目に巡察をしているようなタマじゃないんだが、どうも月も朔も俺を過大評価しているらしい。俺が休日にしているのは、買い食いにお茶、遠乗り、湯治と来て、蝶サイコー!、のぞき、セクハラ、ナニ、等だ。自分で列挙しておいて何だが、後半碌なモンじゃねぇな……ちょっと自重しよう、うん。
いつも通りにしてくれと言われている訳だから、後半は兎も角として無難に買い食いや遠乗り等をすれば良いだろうか。
「あ、あの、ご主人様、今日は宜しくお願い致します」
「ん。じゃぁ行こうか」
ダンクーガ、ケ忠、オッサンのいつもの面子が周囲を警護する中、月と連れ立って先ずは街に繰り出した。まぁ何の問題も起きないとは思うが、月は自分で自分の身を護るに十分な腕をしている訳ではない。治安が良いと知れている場所を回った方が良いだろうな。
「これは御つk……陛下、お久しゅう御座います」
「……よう、爺さん。まだ死んで無かったンだな。元気そうじゃないか」
市中を買い食いしようと徘徊中、一つ思い立って太原の長老の爺の家に邪魔をした。道中思わず買い食いしたくなるような店に行き当たらず、また月を伴っていたことで多少自重していたことも手伝って、全く飲み食いせずに昼近くまで巡察してしまったのだ。腹が減った、と考えた時、丁度この辺りに爺さんの家があったことを思い出し、暫く俺に飯を振舞うことが出来ずにいた爺さんはさぞや寂しかったろうと気を使ってやって来たのだ。まぁ、それは冗談、という訳でもないが、一つ確認したいことが有ってやって来たと云うのが真相だ。
「という訳でだ、爺さん、飯を振舞い給え」
「どういう訳かは理解致しかねますが……まあ、随分と久し振りですし、この度は振舞わせて頂きましょう」
珍しく爺は文句を言わず、奥に行って婆さんに飯の準備をするように言いつけた。俺だけでなく、月も、そしてダンクーガ達の分まで用意するように。爺さんも言っていたが、本当に久し振りだ。
長安へ越してから暫く、俺は爺さんの家に入り浸りだった。飯を食ったり茶を飲んだりするのが主目的だ、とダンクーガには言っていたが、実際には太原から越してきた人間が上手く馴染めているかどうか、太原の人間だけで集まってコミュニティを形成し、元々の長安の住民から反感を買ったりしていないか、そう云った事を爺さんを通して確認していた。皆が孤立して居ないと云う事がはっきりすると、たまにしか顔を見せなくなったし、何より最近は遠征で長安を空けている時間が長かった為、こうやって邪魔をすることは無くなっていた。
「さあ、いつも通り、無遠慮に食べなさるが宜しかろう」
眼前に並べられた料理は、宮廷で饗されるものと比べると決して立派とは言えないものだ。だが、俺はこれを太原時代から馳走になっており、一つ一つの料理それぞれに、太原で過ごした頃の思い出が付随している。ある料理を食べればまだこちらに来たばかりの頃を思い出し、またある料理を食べれば愛紗達から逃げ隠れていた時の事を思い出し、と云った具合に。
あの頃、金が無かったから街を拡大することが出来なかった。外壁も土壁に木版を張り付けただけの簡素なものだったし、町や兵の装備に投資する為の金が欲しくて米転がしを積極的にやっていた。それらの思い出は、今より遥かに小勢だった平家の、正しく黎明期と云っても良い、不自由さと多少の狭苦しさを伴った思い出だ。だが同時に、黎明期ならではの熱も思い出させてくれる。目の前にある課題をクリアする為に、鳩首凝議したものだ。今より遥かに不自由だったが、今より遥かに自由でもあった。身分なんてものをあまり意識せずに済んだ。
皆、家族のように。本当に家族のように、一処で飯を喰らい、酒を飲み、語らったこともあったのだ。
そこには、確かな熱があった。情熱と云う名の、身を内側から焦がす程の熱が。その、嘗てあった、そして今となってはもう感じる事のない、黎明期独特の熱さを思い出し、得も言えぬ感情が湧いてくる。懐かしさと、愉しさと、そして寂しさとがない交ぜになったような感情が。
ダンクーガと魏越のオッサンも、並べられた料理を前にして少し遠くを見るような面持ちで居た。遠く故郷で過ごした日々を思い出しているのかも知れない。紛れもなく、彼らにとっては故郷を感じさせる料理であろう。多忙な日々を送る中で、故郷を思い出してノスタルジックな感傷に浸らない日が無いのかも知れないし、逆に故郷の事を思い出さない日が増えて来ている事実を前に愕然とする日々を過ごしているのかも知れない。
どちらにせよ、欠くべからざるものを欠いている現状に対する焦燥感のようなものを感じていることだろう。それを俺の前で見せたことは一度としてないが、一度としてない事が、逆に不自然さを感じさせる。俺に気を使わせないように、そう云った色を見せることが無い様に厳しく自分たちを律していたのだろう。その事に今更ながらに気付かされる。
二人を注視する俺の視線に気付いて二人とも急に表情を引き締め、ちょっと疲れているだの何でもないだのと御託を並べているが、その反応は俺の想像が正しいことを肯定することにしかならない事に気付いて居ないらしい。手当たり次第に料理を食べては美味い美味いと繰り返したり、月が今日も可憐だ等と突然すぎる話を振ったりと俺の関心を他へ逸らそうと云う心底が見え透いた行動をしていた。
見え透いているが、それでも俺に気を遣わせないようにしようと云うその心遣いは受け取ってやらなければならないだろう。納得したふりをして、俺も料理に箸を付ける。そこからは、皆で様々な話をしながら飯を食べた。
抑々この爺さんがどういう存在なのかを知らなかった月に俺やダンクーガがどういう存在かを説明するところから始まって、太原でのダンクーガとのくだらない騒動記や政の話、爺さんから長安の治安や風俗の流行りについての話を聞いたり、月と長安に避難してきた弘農からの移民達へどのような支援をどの程度するべきか話をしたりと、有意義な一時を過ごせたと思う。
料理を粗方食い尽くし、食後の白湯を飲んで人心地付いたところで、今日爺さんを訪ねた本来の目的を果たすことにした。
「ところで爺さん、最近凱の世話になって居るんだってな?」
俺が確認したかったこと。それは、爺さんの健康状態だった。最近爺さんが凱の世話になって居る事を、太原の小僧共の内の一人、ガキ大将としてダンクーガと幾多の死闘を繰り広げた小僧から、ダンクーガが聞きつけたのだった。いや、最早小僧と呼ぶのは相応しくないかも知れない。齢16を越え、軍に志願してきたのだから。
それを初めて知った時の胸中は複雑だった。太原の小僧共が戦場に立たずに済むような、そんな世の中を創りたいと言って居たのに、間に合わなかったのだから。死なせたくない、護ってやりたいと思って居た小僧共が、自ら望んで戦場に立たざるを得ない状況を迎えることになったのは、偏に俺の器量が不足しているからだ。無論数年でその状況を創り出すなど無理だ、と云う思いもあるが、無理だと思って居たから無理だったのではないかとも思う。
ともあれ、その小僧から爺さんの体調が悪いのではないかと云う話を聞いたダンクーガが、知らぬ仲ではないのだからと云う事で俺に知らせたのだ。今回、月を連れているとはいえ、次にこの地域を廻るのがいつになるかも知れなかった為、此処に寄らせて貰ったのだ。
他ならぬ自分の言葉で爺さんと語らい、他ならぬ自分の目で爺さんの状態を確認する為に。
「……凱?とはどちら様で?」
「どちら様って……凱だよ、凱。別名は……なんて言ったっけか……?」
「……大将、華佗、華佗先生だよ。あとな、こっちが本名だから」
「そうそう、それだよ。その華佗の処に出入りしてるって聞いたんだが?」
「まあ、少し体調を崩しましてな。転ばぬ先の、と云うもので御座います」
腕を擦りながら、何でもない事のように語る。その擦っている腕を見て、微妙な違和感を覚えた。俺が感じた違和感は、爺さんの腕が俺の記憶にあるそれよりも細くなっているのではないか、と云う物だ。最初錯覚かと思ったが、再度爺さんを観察し記憶と突き合わせて、俺の気のせいではないと結論付けることが出来た。太原で賊共を撃退した後、俺と交渉を行った、あの強かさを感じさせた爺さんは、あの頃より少しだけ、だが間違いなく痩せていた。
年を取れば体が弱くなるのは当たり前だ。弱くなった為に病に罹ったり、何かに躓いて転んで骨折したりもする。そしてそれが契機となって寝たままで過ごすことが多くなり、急速に身体機能が低下、そのまま帰らぬ人となる、と云うのは現代でも良くある死に様だ。幸い、長安にはブラックジャック先生と凱という、内外科の権威、正しく扁鵲と呼ぶに相応しい人間が二人も居るから寝たきりになる心配はあまりしなくても良いだろう。だが、病気や怪我に苦しまずとも人には寿命が存在する。爺さんが痩せたと云う事実が、俺にそれを思い出させた。今目の前にいる爺さんも、あと数年もすれば足腰が弱り、気軽に移動など出来なくなるだろう。
それでは困るのだ。俺はこの爺さんに借りがある。その借りを俺が返してから死んで貰わないと、困るのだ。借りを作りっぱなしで、返すことが出来ないなんてのは勘弁して貰いたい。借りがあると感じている人間が、世話になった人間に借りを返すつもりがあり、かつその余力があるにも拘らず、それを返すことが出来ないなんてのは、どうにももどかしく、そして馬鹿らしい事じゃないか。そんなモヤモヤした感情を抱える何ざ真っ平御免だ。
「そうか。で、いつ頃死にそうなンだ?」
そう訊ねた俺を、ダンクーガやケ忠、魏越がギョッとした目で見る。月も驚いた顔をしているが、訊ねられた当の本人は至って普通だった。それどころか、僅かばかりではあるが、嬉しそうな表情さえして見せた。
「……爺さん、今の俺の言葉の何処に、嬉しくなるような要素があったンだよ」
「昔から、と云うほど昔から陛下を存じ上げている訳では御座いませんが、昔からの知り人が、昔と変わらず居ると云う事が何やら嬉しゅう御座いましてな……あの頃、貴方様がこうなるとはついぞ思ってもみませんでしたなあ。儂自身についても、生まれ育った太原を離れ、遠くこの長安までやってくることになるなど、思いもよらぬことでした」
白湯の入った碗を前に、しみじみとした表情を見せる。碗中の白湯には、その年老いた面貌が映えていた。
「……ご質問はいつ死にそうか、でしたな?左様……5年程度、と、そう華佗先生からは言われております」
あと、5年。5年後に死ぬとして、著しく気力体力が衰え始めるのは3年後くらいか。それなら、間に合いそうだ。借りを返して、爺さんの死を迎えることが出来るだろう。
「そうか」
「後々のことを考えて、長安で死ぬ準備をゆるゆると始めようかと思っております」
『長安で死ぬ』と云う爺さんの言葉に、皆言葉もなく唯佇んでいる。話を替えようにもすぐに思いつく話題もなく、しかしただ佇んでいるだけでは手持無沙汰なのか、碗を手の内で回したり頭を掻いたりと、皆それぞれに居心地の悪さのようなものを感じている様だった。
「……さて、長居したようだ。まだ市中の巡s、もとい買い食いが残っている事ではあるし、そろそろ行くとしよう」
俺としても確認したいことは既に確認できたことだし、このまましんみりとした雰囲気で此処に佇んでいる訳にも行かない為、そう言って話を切り上げ腰を上げた。
「そうですか。それでは、お気をつけて」
見送る為に戸口に立って頭を下げる爺さんの脇を通り過ぎ、爺さんの家を後にしようとして、最後に爺さんに声を掛ける。
「あぁ、爺さん。言い忘れたことがあった」
「はて、何で御座いましょうか」
爺さんが送る為に一度下げた頭を上げ、小首を傾げている。
「もし5年後にお前さんが死んだら、婆さんはつつましい葬式を出すことが叶うだろう」
「……」
「……太原で、な」
「……は……?た、太原、で御座いますか?」
「オイオイ爺さん、ボケるにはまだ早いだろ?」
ニヤリと嗤いかけて、戸口から表へ出ながらもう一度、一番確認したいであろう一言だけ繰り返す。
「太原で、だよ」
爺さんは当初呆気にとられて口を開けっぱなしにしていたが、その後正気を取り戻して戸口から素早く外へ出て来て、俺を見送っていた。その爺さんの顔は、僅かばかりだが、喜色を浮かべていたように見えた。生ある内には二度と帰る事は無いと思って居た故郷に帰れるかも知れない、と云う希望に喜色を浮かべたのだとしたら。もしそうだとしたら、態々腹積もりを口にした甲斐があったと云う物だ。
本当は、口にする必要はない情報だったろう。俺がここ三年以内に袁紹との因縁に決着を付けるつもりで居る以上、それ以前に并州を取り戻すであろうことは自明であり、時が進んでいけば必然爺さんもその見通しを持つことになる。その時まで、放っておいても良かった。いや、俺がそう云う心算で居ると云う事を余所へ漏らさぬ事を考えるならば、放っておいた方が良かったのかも知れない。
だが、それでは遅いかも知れないのだ。凱は名医だ。それは揺るぎのない事実であり、この時代に同レベルの医者はブラックジャック先生位のものだろう。そして彼らの知名度は、良きも悪きも───良いのは名医だってこと、悪いのはブラックジャック先生の治療費が高いってことだが───この長安で知らぬものが無い程に高い。つまり爺さんは、その名医に掛かろうと思う程度に体調が思わしくなかった。そう云う可能性だってある、いや、そちらの可能性の方が高いと思う。
俺は嘗て、太原を守ると云う爺さんとの約定を破っている。どのような事情があるにせよ、約定を破った事実は事実。俺は、ずっとあの爺さんに一点借りている思いだった。その借りを返せぬままに爺さんに死なれるのは困る。借りを確実に返す為には、爺さんがまだくたばる訳には行かぬと思うような、生きる張りを与える必要があった。爺さんが生きる張りを得ることで出来るだけ『その日』を先送りにし、俺が借りを、熨斗を付けて返すだけの時間的猶予を得る必要があった。だからこそ、不要な情報を敢えて口にしたのだ。
そしてその目論見は成功したと考えても良いかも知れない。
こっちの世界では、俺にとっては太原が故郷のようなものだ。今の自分と平家と云う家の原点が、あそこにある。そこで苦楽を共にした、そして陰に日向に世話になった、肉親に等しい爺一人満足して死なせてやることが出来ないでどうするのか。それで『俺が平家の家長だ』などと、どの面を下げて言うと云うのか。例え5年を待たずして死んでしまったとしても、太原で婆さんと幾許かの新たな思い出を積んで、何も思い残すことがなく、すっきりと死んで行かなければならないようにしてやろうじゃないか。それが、あの爺さんが俺に焼いた世話に対する、俺なりの借りの───ひょっとすると恩の───返し方と云うものじゃないか。
〜月 Side〜
太原で民衆の取り纏めをしていたと云うお爺さんの家を後にして、巡察を再開した。暫く歩く内に、ご主人様が何かを思い出したかのように笑い出し始めた。
「ハハッ、爺め、呆気にとられて居たな」
「大将……」
「見たか、あの顔を。あの顔が見たかったンだよ」
ご主人様は本当に愉しそうに笑っている。
私の見るところが正しいならば、ご主人様はあのお爺さんに対して、目を掛けている、気を使っている、思い入れがある、そのどれもが当てはまる様で当てはまらない、そんな感情を持っていると思う。高順さんや魏越さん、そして何よりご主人様自身の口から語られた、并州・太原での日々。何気ない日常の本当に些細な出来事や、政務で苦労した話などを、ああであった、こうであったと懐かしげに語るご主人様からは、紛れもない親愛の情が溢れていた。それであれば、その懐かしき物語の登場人物であり、思い出を分かち合っているお爺さんにも当然親愛の情を持っているだろうから。
「で、兄貴。さっきの宣言、本気ですか?」
『5年後死んだら太原でつつましい葬式を出すことが叶うだろう』。
ご主人様はそう言った。それはつまり、5年以内、いや、お爺さん等太原へ帰還が叶うならそれを希望するであろう人達が長安から太原へ帰還する時間を勘案すると4年以内に、并州を併呑すると云う明確な意思表示をしたと云う事に他ならない。
周囲を伺いながら、やや小さな声で、そして少々改まった雰囲気で問い掛けるケ忠さんに対して、此方もまた改まった雰囲気で、ご主人様が本気であることを告げた。
今の情勢から考えて、麗と5年10年睨み合いになる事は有り得ない。何故なら、次にぶつかり合うことになった場合、最長で3年間は継戦するつもりで居るからだ。3年間、矛を出しては引っ込めることを続けると云う意味ではなく、矛を出しっ放しにすると言っているのだ。平家には3年間継続して軍を展開するだけの国力は備わっている。だが麗には備わっていない。此方の侵攻を妨げる為に軍を展開する、その行為自体が麗の命数を縮めることになるだろう。そして此方に付き合わず、軍を展開しなかった場合は当然そのまま滅亡して貰うことになる。つまり、どうやってもここ3年以内で決着を見るか、もしくはそれに近い状況が現出することになる。
「だから5年後にあの爺さんが死んだら、太原で葬式が出来る訳だ」
そう語るご主人様の言葉に、納得する反応を見せる高順さん達。皆さんと同じく納得しそうになって、ふと気に掛かる事があって疑問を呈した。ご主人様の今の予測は、『平家 対 袁家』の構図が成り立つ場合の話だ。この前提が覆った場合、果たして同じことが言えるのだろうか。例えば、ご主人様が帝位に就いた際、名の知れた異民族の中では唯一使者を寄越さなかった烏丸が、全面的に袁家を支援した場合は話が違って来るのではないか。
「そうではありませんか?」
「それは大丈夫だ」
烏丸が賀を述べる使者を送って来なかった時点で、烏丸は袁家に付くと云う前提でモノを考えている。それでも2年が精々と云ったところだろう。そこに、想定外の何かがあった場合の保険として1年加算した年数が3年と云う数字であり、これより早くなることはあっても遅くなることは恐らくあるまい。
気負うでもなく、淡々と、ただ事実を述べていると云う雰囲気で語るご主人様の言葉に、今度は私も納得が行った。上手く行かなかった場合のことも視野に入れた上で、彼我の置かれた状況を踏まえてそう云った結論を出したのであれば、外れるにしても大勢に影響は及ぼさないだろう。
「にしても、流石に月は視野が広いな」
疑問を呈した私に褒詞を授けた後、高順さん達を見ながら言葉を続ける。
「お前らも月を見習って、もっと視野を広く持てるようになれよ」
「御使い様。そう仰られてもどうすれば良いやら」
「まぁオッサンは今更無駄か……ダンクーガは瑛に色々話をして貰ってるんじゃないのか?瑛本人からはそう聞いてるが?」
「無駄!?話を振っておいて無駄は無いでしょう、無駄は!?」
「そうそう。世の為人の為、そして国家の為に〜みたいな話、されてるんじゃないの?」
「ちょっと待て!儂を放置するな!」
魏越さんを無視しつつ、ご主人様とケ忠さんが少し下卑た感じの笑いを浮かべながら、高順さんにそう問いかける。何故二人がそんな表情をしているのかは、見当がつく。嘗て、詠ちゃんがご主人様に一目惚れをしたと云う話をしている時の霞さんが、これと同種の笑みを浮かべていた。つまり、高順さんと瑛ちゃんは、所謂そう云う仲に成れないでいる、周囲から見て何とももどかしく、そして初々しい、そう云った関係なのだろう。
「あぁ?俺は頭悪いから良く分からねぇし、そう云う事は考えたこともない。一応親衛隊の頭張らせて貰ってるけど、天下国家を論じられるほど偉い訳じゃないと思うし、俺らみたいな立場にある奴が政治的な事に口出したら碌でもないことにしかならない気がするし。さっきも言ったけど、頭が悪いからな。
……俺に出来ることは、大将から貰ったこの槍を振るう事だ。そういう難しい話は大将に預けてある。俺は、この槍で、大将が望むこと、命じる事を出来る範囲内でやるだけだ」
からかわれているのに気が付かなかったのか、それとも敢えて話を流したのかは分からないけれど、高順さんはその手に持った槍の柄をポンポンと叩きながらそう答えた。朔さんが言って居た通り、ご主人様の陰に隠れているが、高順さんも一角の人物だろう。私に仕えてくれている朔さんと、同種の人であるように思われる。
その高順さんの反応に、ご主人様は好ましいものを見た時に多くの人が浮かべるであろう薄い笑みを見せた後、再び人の悪い笑みを浮かべる。
「よし、お前に命じる。明日瑛と一緒に晩飯食って来い。帰って来なくても良いぞ……報告書はちゃんと上げろよ?」
「なんでそうなるんだよ!と云うか報告書って何だよ!」
「うるせぇなぁ。『俺は、この槍で、大将が望むこと、命じる事をデキる範囲内でヤるだけだ』って言ったじゃねぇか。デキてヤって来いよ馬鹿野郎」
「な、何言ってやがるッ!」
「お〜お〜照れてる照れてる。高順の言う槍ってのは、一体どの槍なんだろうな?兄貴?」
「さぁ?今回は、股間の、じゃねぇの?」
「ガハハハッ、高順もやりおるわい!」
「へぅ」
……ちょっと、その、はしたない話を公衆の面前でされると、困るんです、ご主人様。話を止めようとしたものの、何と言って止めたものかとオロオロしてしまって何も言えないでいるうちに、からかわれて我慢の限界を超えた高順さんが爆発した。
「……テメェら!いい加減にしやがれッ!」
「「「OK!忍!」」」
爆発した高順さんに対し、ご主人様を始めとした三人が先ず屈伸して身を屈めつつ握り拳を肩に背負うように乗せた後、天に向かって拳を突き出すと同時に飛び上がった。傍から見ている私にはかなり面白い反応だったけど、やられた高順さんはかなり頭に来たようで。
「だあぁぁぁあ!テメェら!今日こそ思い知らせてやらぁッ!」
気勢を上げ、『ご主人様から貰った槍』を持って、ご主人様たちを追い回し始める。
「ヒャッハー、童帝様がお怒りだぞ〜!」
「やれるもんならやってみろ!」
「ガハハハッ、これが若さか!」
逃げる三人を、一人鬼の形相で、槍を持って追い掛け回す。止めなければならないのかも知れないけど、皆どこか愉しそうで、止めようと云う気になれなかった。
にぎやかに私の周りをぐるぐると周回しながら、じゃれあっているご主人様たちは、とても皇帝とその近臣には見えない。けれど、これがご主人様らしさとも言える。朔さんから聞いた話だと、高順さん達は敢えてこういう接し方をしているらしいのだ。いつかその寵を失った時に、弥子瑕(びしか)のように遡って不敬を問われて処分されてしまう事を覚悟の上で、それでもこういう接し方をしているのは、ご主人様が皇帝と臣下と云う型に嵌った接し方を望んでいないから。ご主人様が望むことをやるだけだ、と言っていたが、その言葉通り命を賭してそう振舞っているのだ。そしてご主人様もそれを確りと感じ取っていて、三人に感謝している節がある。
傍から見る限りでは、詠ちゃんも、霞さんも、ご主人様と地位や身分などを意に介さないで付き合っているようだ。人の目に晒される場所では互いの立場を意識した立ち居振る舞いをしているけど、二人から話を聞く限りでは、公私の私に当る場面では、『皇帝とその臣下』でも『皇帝とその妻』でもなく、『ご主人様と自分』として接することが出来ているらしい。
ご主人様が私と話すときは、壁があるとまでは言わないにしても、ある一定以上踏み込めず、また踏み込んでくることが無い、そんな距離感を保っている。勿論、それが当たり前のことだと頭では理解できるけれど、私の心はそれを当たり前のこととして受け入れることを拒んでいる。自分も『そう』ありたいと、強く願っている私が居る。
───私は、ご主人様のことを、慕っている。
心中ひそかに呟いて、湧き上がってくる羞恥にも似た感情に、やはりそれが思い違いなどではないと知る。もう何度も確認したことではあるけれど、こうしてご主人様を目の前にするとより一層それが確かなものであると感じられた。
それがいつからなのか、私には分からない。連合軍から助けて貰う際、洛陽で会った時にはこんな感情は抱いて居なかったと思う。その時のご主人様は、『詠ちゃんが好きな人』であった訳で、私がどうこうと云う間柄ではなかった。
それがいつからか、ご主人様を慕うようになって居た。詠ちゃんが好きで、そして結ばれた相手を、私が好きになるなんて思いもしなかった。ご主人様の『いい女<ひと>』は詠ちゃんの他にもいて、詠ちゃんはその中で一番になりたいと最初言っていた。だから私は詠ちゃんを応援しようと思って居たし、そうしなければならなかったのに、私がその『いい女<ひと>』達の中に割って入りたいと思うなんて絶対に許されないことだと、私がご主人様を慕うその感情が私を苛むようになったのは、一体いつの頃からだっただろう。
出来るだけご主人様を意識しない様に努力したし、一緒の空間にあまり居ないようにもした。それが結局逆効果であったことは、直ぐに証明されたけど。『ご主人様を意識しない』様にご主人様を意識し、『一緒の空間に居ることが出来ない』距離感や障害感が、より一層ご主人様と一緒に居たいと云う感情を高めただけだった。
この心の内を誰に漏らすでもなく一人苦しんでいた。それを知っているのは、多分朔さんだけだと思う。
その私に転機を齎したのは、詠ちゃんが弘農で私に言った言葉だった。
『一緒にいる時はボクが一番、普段は皆平等。寂しくないって言うと嘘になるけど、帝位に就いた以上後宮が出来るのは当たり前のことだし、平等にしてくれてる訳だからそれで良いと思ってる。ボクは今十分に幸せよ』
詠ちゃんとしては、ずっと一緒に居られる訳ではない現状を、自分の中で消化する為に現状の再確認と肯定とを行っただけなのかも知れない。けれどその言葉は、それまで私が自らに嵌めていた枷を打ち壊すに十分な言葉だった。
『他にいい女<ひと>が居ても良い』。
『今十分に幸せ』。
それは、こういう解釈が許されると云う事ではないか。即ち、『私が割って入っても構わないし、それでも詠ちゃんは幸せでいることが出来る』。
そういう解釈が成り立つことに気付いて、そしてそれは詠ちゃんから幸せを奪うことにならないと云う事を実感して、私は自分の感情を押さえつけるような真似をやめた。
そして今、朔さんのお蔭で、私はご主人様と一緒に居ることが出来ている。今日一日限りではあるけれど、今日一日だけはご主人様は私の、私だけの為にその時間を割いて下さる。今日と云う日を逃せば、そんな日は今後もう二度とやってくることはないかも知れない。
───ご主人様に、ちゃんとお話ししてみよう。
先程と変わらず、愉しげに騒いでいるご主人様を眺めながら、そう強く思った。
日中の巡察を終えて城内に戻った私たちは、私の強い希望によりご主人様の部屋で一緒に夕食を取った。今日一日、私に時間を割いて下さったご主人様へのお礼にと、是非夕食に私の手料理を振舞わせて頂きたいと申し出て、夕食を共にしている。高順さん達は外で警護に当たるとのことで、今此の部屋の中には私とご主人様の二人しかいないが、料理は高順さん達の分まで作っていたので差し入れとして部屋の前に食膳を並べてあった。外で警護をする合間に食べて貰えたら嬉しい。
私とご主人様は既に食事を終えており、現在食休みを兼ねて様々なお話をしている。私と話をすることは、戦の話も少しはあったけれど、政に関するものが多かった。そうした中、話が今日同行させて頂いた巡察に及んだ。
「月。月達は誤解しているようだが、あれはただの買い食い、美味いモン紀行的なものであって、巡察じゃぁないンだ」
ご主人様はそう仰った。
確かに買い食いしかしていないように見えるかも知れない。けれど、その実それは最も効率の良い市場視察に他ならないと私は思う。人が生きて行く為には衣食住が整って居なければならないけど、何よりも先ず食が満たされなければ話が始まらない。日常的に市中で食べ物を買い求め、そして食して居れば、粟の価格やその質を知ることが出来る。今日だって、価格が上下した2、3のものについては、その理由を店主に、世間話がてらに訊いていたのだ。買い食いだけが目的なら、複数の店でそんなことは訊かない。
君主は、常にその下に付く人達の声に耳を傾けて居なければならない。史記にも、『天は高うして、卑(ひく)きに聴く』とある。そして下に付く人間が発する不満や怨嗟の声が小さいうちに、その声に対して上手く対応するのが政の要諦の一つだと思う。天下の難事と雖も、必ず易しくつまらないことから発生し、天下の大事と雖も、必ず小さくちょっとしたことから起こるものなのだから。
その意味では、ご主人様の行動は理に適ったものであると言えるのではないか。
「そしてご主人様はそこまで考えて、その言う処の『買い食い』をなさっているのではありませんか?」
「……いつもいつもその心算で買い食いをしてる訳じゃない。確かに買い食いをして知り得たことを活かそうとは思っては居るけどな」
「誰もがそれを心掛けている訳ではありません。ご主人様は、御立派だと思います」
その私の賛辞に、ご主人様は言を左右にそんなことはないと云う主張を繰り返した。どうもご主人様は、人から面と向かって褒められる事に慣れていないと言うか、何と言うか。兎に角素直に賛辞に頷くことが出来ない人らしい。
「この話はもう良いじゃないか。それより月、お前さん、俺に何をお願いするか、決まったか?」
暫く、『立派だ』『いや、それは買い被りだ』等と押し問答を続けていると、話を切り替える為であろう、ご主人様がそう言い始めた。先日褒詞を授けて頂いた際、何が欲しいものが出来たら言うように、と云う形で棚上げになって居た、私への褒美について此処で話題になるとは思っても居なかった私は、突然の事に返事が出来なかった。
「現状、特に望むものはないか?」
重ねて、そう訊かれる。
そのご主人様の問い掛けに、はい、と応じようとして、はたと気が付いた。これは良い機会ではないのか。
私は、ご主人様と、その、そう云う関係になりたい。そしてご主人様は、朔さんの見るところに拠れば、寄せられる好意を無碍に出来ない人だ。私が問題だと思って居たのは、いつ、どうやって、私がご主人様にこの胸中に抱く想いを告げるのか、という事だったけれど、この現状が正しくそれに相応しい状況なのではないか。
周囲に人は居ないから、然程恥ずかしくはない。
お願いを言えと云われているのだから、言い出す事に抵抗もない。
「……その、一つ、お願いがあります」
「おお、何でも言ってくれ。我が儘なんてものに最も縁がなさそうな月のお願いだし、出来るだけ希望に沿うようにするから」
「私も……」
「ん?」
「……私も、ご主人様とそう云う関係になりたいんです」
「……そう云う関係?」
「詠ちゃんや霞さんと同じように、その……」
「ちょっと待った」
一気に思って居ることを口にしようとした私を、ご主人様が制止した。
「月、今自分が何を言っているのか、分かって居るのか?」
ジッと、私の目を覗き込んでくる。
「……分かって居る、と思います」
「……」
そこから先は、自分が何を言ったのか、あまり覚えていない。正確には、大まかに言った事は覚えているけれど、その順序や言葉を一言一句覚えていない。兎に角思いつくままに、幾度か同じ主張を繰り返しながら、自分が思って居ることを言った。
気が付いたら、ご主人様の事を良く考えるようになって居た。良い女<ひと>と共に楽しそうに過ごしているご主人様を見て、切なかった。ご主人様と一緒に過ごせた日は、嬉しかった。嬉しくなってすぐ、詠ちゃんの事を考えて申し訳なさで一杯になったりした。詠ちゃんの言葉で、我慢しなくて良いのだと知ってからは、ずっとご主人様とそうなりたいと考えていた。そうなりたいと強く望んでいる自分を、はしたないと思うこともあった。でも、どうしようもなかった。想いを告げる以外、私には選択肢が思い浮かばなかった。
他にたくさん良い女<ひと>が居ることは分かって居る。けれどもし、私もその中に入れるなら、私はとても幸せだと思える。皇帝とその臣下としてではなく、一人の男性と一人の女性として、貴方と私として向かい合うことが出来るなら、それは私にとっては何物にも代えがたい価値を有すると思える。
そう云った事を、ずっとご主人様に向かって言っていた。私の想いが余さず、そして過たずに、ご主人様に伝わって欲しかったから。
「……月」
ご主人様がそう声を掛けて下さったけれど、私はご主人様の顔を見ることが出来なかった。正直に言えば、怖かった。答えが欲しいのに、答えて欲しくない。そんな感じだった。ううん、正確には、私が望む答え以外、私は欲しくない、聞きたくない。そう思って居るのだと云う事が分かる。
───我が儘に縁が無いどころか、私はこんなにも我が儘な人間だったんだ。
お願いとしてこんなことを言い出した事を、軽蔑されなかっただろうか。うじうじと悩んでいたことを、呆れられなかっただろうか。私の想いを、迷惑に思われなかっただろうか。
それを確認するのが、怖かった。拒絶の言葉を聞かされたら、と思うと、身の竦む思いがした。けれど、既に口にしてしまった以上、もう無かったことには出来ない。だから私は、更に言い募ろうとした。ご主人様が口を開くと拒絶の言葉を吐かれそうで怖かったから、それを言い出せないように。私がずっと話をしていれば、もしそうであっても先延ばしに出来るから。それが何の解決にもならないないことを理解して尚、結論が出されるのを先延ばしにしたかった。
「……月、もう良い。良く分かったよ」
更に言い募ろうとした私の手を、ご主人様が引いて、私はその腕の中に飛び込む形になった。その胸板に支えられ、ご主人様の腕の中にすっぽりと収まった私がその状況を把握するまでには、少しの時間が必要だった。状況を把握してから後は、こうなることを望んで、そして覚悟していたにも拘らず、気恥かしくて俯いて顔を上げることが出来なかった。
その私を優しく抱え込みながら、私の耳元で、小さいけれどはっきりとした口調で、ご主人様が言葉を継いだ。
「俺は……」
ご主人様が言の葉を紡ぎ始める。
さっきまでの不安感が嘘のように、落ち着いてご主人様の言葉を待って居られた。それは、ご主人様の腕の中に居るからだろうか。そう思って目線を挙げたところで、ご主人様の腕が目に入った。乱世の犠牲になるはずだった私を掬い上げてくれた、力強さを感じさせる腕が。
そして不意に、私は確信した。
私を救ってくれたこの腕が、私を不幸に突き落とすような真似をするはずがない。
私は、きっと幸せになれるのだろう、と。
〜ケ忠 Side〜
市中の巡察から帰って、既に結構な時間が経過している。董卓の姐さんの強い希望により、兄貴の部屋で食事を採る事になり、姐さんの手料理を食ったはずだ。俺たちの分まで作ってくれていたが、流石に邪魔しようとは思わなかった為、一緒に食べるのは遠慮させて貰って居た。
誰がどう見ても、董卓の姐さんが兄貴にどういう感情を持っているのか分かるだろう。兄貴に向けられるあの手の視線を見るのには、いい加減慣れた。こちとら兄貴を警護している以上、兄貴に注意を払う人間の視線にはかなり敏感になっているんだ。高順にしてもオッサンにしても、口に出しはしないが、いずれも分かって、そして思っている事だろう。
『ああ、またか』、と。
そんな俺たちの思いを、当然兄貴は知るはずもなく、目下二人きりの状況で部屋で過ごしている。雰囲気的には、まだそう云うことは始まっていないように感じられるが、さてはて、いつまでそうならないで居られるやら。傍から見ている限り、部屋に訪いを入れてきた姐さんは、ある種の覚悟を決めた貌をしていたんだ。何もないと考えるのは無理と云うものだ。
高順もオッサンも、その辺をどう思って居るのか知らないが、いつもと変わらない様子で警護に当たっていた。高順だけは、ちょっと気を張っているように見えるが、まぁそんな感じがすると云うだけで俺の勘違いなのかも知れない。
兄貴の部屋は城内でも奥まったところにあり、此処に至る道は1本しかない。正確には2本あるが、その内の1本は兄貴と高順しか知らない。城を落とされた時の為に、脱出経路として穿った道があるらしい。穿った、と言う以上、地下通路なのだろうが、それを俺が知る必要はない。
例えば今この状況で城を落ちねばならぬことになったら、俺とオッサンが此処に残って抵抗し、落ちる兄貴を高順が警護していくことになるだろうからだ。事が起きたらそうすると云う事は、俺が親衛隊に来てすぐに決められている。死にゆく人間が余計なことを知る必要はない。高順は自分の不在時に何かあった場合、出口から辿って行くことで兄貴を迎える必要があるかも知れないから知っておく必要がある。だが俺に関しては、高順が不在時に、俺が代わりに兄貴を警護することになったとしても、兄貴がそれを知っていれば脱出するに問題はない。それより、知っていた場合、怪我をして意識が朦朧としている最中に漏らしてしまう可能性がある以上、俺は知るべきじゃない。
話がそれたようだ。
城内には幾本もの通路があるが、兄貴の部屋に向かう通路は、最終的には1本しかない。そしてその通路に至るまで、要所要所に親衛隊が詰めている。今日暗殺者が居たとして、兄貴と感動の対面を果たすまでに、最短経路を採ったとしても15人の親衛隊員を乗り越える必要がある。そしてその15人の中には、此処にいる三人が含まれる。寝込みを襲って兄貴を暗殺するってのは、かなり難しいだろう。
なぜ今こんなことを考えているかと云えば、此処に至るまでの通路から、何やら騒いでいる音が聞こえて来ているからだ。ただ、剣戟を交える音が聞こえて来る訳ではなく、壁や床に勢いよく何かを叩きつけたような音や、大勢の人間が何やら声を上げているのが聞こえてくるだけだ。間違いなく親衛隊員達が何者かと争っているんだろうが、剣戟の音がしないと云う事は、隊員同士で喧嘩でもしているのだろうか。
そんな中、此方に向かって静かに近付いてくる足音が一つあるのに気が付いた。オッサンと高順も気が付いたらしく、二人とも剣を抜くところだった。俺も剣を抜き放ち、腰を落として構え、通路の先からやってくる何かに備える。何が出て来るかと目を凝らして居るところに姿を見せたのは、華雄の姐さんだった。
「何だ、華雄の姐さんか」
ホッとして筋肉を弛緩させる。オッサンも同様にホッとした表情を見せ、剣を収める。俺も剣を収めながら、華雄の姐さんに声を掛けようと歩み寄ろうとしたところで、高順に道を遮られた。
高順は剣を収めず、あからさまに警戒しながら華雄の姐さんに剣を突き付けた。
「おい高順、なにやってるんだ」
「ケ忠、剣を抜け。オッサンも警戒を止めるな」
「どうしたと言うんじゃ、高順」
オッサンの問い掛けには答えず、高順は真っ直ぐ華雄の姐さんを見据えて居た。
「……華雄の姐さん、何の用だ?」
「なに、ちょっと野暮用でな」
「動くんじゃねぇ」
歩み寄ろうとした華雄の姐さんを、剣で制止する。その高順からは、紛れもない殺気が漏れ出している。
「こっから先は大将の部屋だ。誰が相手であろうと、聞かされていない訪問者を、剣を下げたまま通す訳にはいかない」
「ほう。私を力付くで止める、と言うのか?お前は」
「あぁ、止める」
「止めることが出来ると思うか?この私を?お前が?」
剣呑な雰囲気で、華雄の姐さんがそう応じる。流石にこの状況で剣を抜かない訳には行かないだろう。剣を抜き、オッサンと二人で高順の後ろに詰める。
「止められるかどうかじゃない、止めるんだよ。俺たちは大将の最後の盾なんだ。誰が相手でも何をされようとも、此処で止めるんだよ」
間に剣を挟んで、俺たちと華雄の姐さんとが睨み合う。固着した状況が再び動き出したのは、華雄の姐さんの雰囲気がガラリと変じたからだった。
「……フッ。はっはっはっ」
先程までの厳しい表情から一転、笑い始めたのだ。
「……どう云うつもりだ、姐さん」
その行動に虚を突かれるも、警戒は続けながら高順が問うた。
「何、お前達に月様を護ることが能うか試しただけだ」
一旦警護の任に就いた以上、例え知り人と雖も警戒の対象にしなければならない。そうでなければ護れるものも護れなくなってしまう。華雄の姐さんが董卓の姐さんの警護をしていることは有名だが、だからと言って兄貴の警護をしている俺たちが気を抜いて良い理由にはならない。逆に、最大限に警戒をしなければならない。有り得ないであろう、信頼に値する人間の手に依って行われる暗殺は、最も成功する確率が高いのだから。
後で不興を蒙ろうと罰せられようと、確実に護る為に必要な手段を講じなければならない。剣を下げたまま罷り通ろうとする華雄の姐さんは、絶対に止めなければならぬ相手であって、親交があろうとこれを切り捨てなければならない。
「月様を私に代わって警護する以上、それは徹底されているべきだ。もしそれが為されていないようであれば、叩きのめした後私が警護を代わるつもりであった」
おいおい、物騒だな。
「まあ、そうはならなかったがな。他は兎も角、高順、お前だけは私を警戒し、あまつさえ殺すつもりで居たな?」
「たりめぇだ。俺の役目は大将を護る事だ。それを阻む奴は力尽くで排除する。それが必要なら殺してやるさ、たとえ誰が相手でもな」
「お前らしいが、話し合いで、とは思わなかったのか?」
「思わないね。俺が馬鹿だってのは結構知れた話だろ?馬鹿に何を言っても駄目だってのは、俺にだって分かる簡単なことだ。真っ当な奴なら引き下がって、後日苦情を入れりゃ済む話じゃねぇか。その馬鹿が『殺す』と言っているのに引き下がらないってのは、やっぱりそいつがおかしいんだよ」
高順は知識が足りないだけで頭は悪くない、と兄貴が言っていたが、此処まで頭が回るとは思って居なかった。高順の言葉を受けて、華雄の姐さんは大きく頷いた。
「流石だな、高順。ご主人様が信頼するだけのことはある」
そう言うと剣を高順に差し出した。
「……何の用なんだ、姐さん」
「何、一緒に警護をさせて貰えれば、と思って居るのだが、駄目かな」
「姐さんなら別に構わねぇけど……」
「そうか。では、共に警護に当たらせて貰うとしよう。剣を返して貰えるか?」
「……良いけど俺の前に立って貰う。それで良いよな?」
「ああ。それで構わない。不審があればすぐに斬り捨てるが良い」
そう言って莞爾と笑う。
高順も高順なら、姐さんも姐さんだろう。高順は、姐さんが刺客だった場合を想定して、自分の前に背中を向けて立てと言っている。個人的には信頼しても良いと思うが、高順は飽くまで兄貴を警護する為に不確定要素を排除しようとし、何か怪しい動きをした瞬間に斬り捨てるつもりで居るらしい。そして姐さんはそれが分かって嬉しそうにしている。自分が疑われているにも拘らず、いや、疑われているからこそ、それを喜んでいる。この二人の頭の中はどうなっているのか。
まあ、それは兎も角。
「で、あっちの方で騒がしくしているのは何なんです?」
「あぁ、あれは去卑達の教育だ」
「教育?」
「そうだ」
董卓の姐さんの親衛隊として警護をすることになった去卑達に、兄貴の親衛隊である俺たちの力量と云うものを理解させる為、突破して見せろと嗾けたのだそうだ。
「それであの騒ぎか」
「無手で挑めと言ってあるし、親衛隊の面子も知っている人間が無手で向かって来ているのに剣を用いることはあるまい?」
「そいつはそうでしょうが、警護に支障が出ると困るんですがね?」
「そう言うと思って、旧華雄隊の人間に、城の内外を警戒させている。城内に入り込むまでに発見されるか、侵入したとしても比較的早い段階で発見できるだろう」
「人数は?」
「5,000」
「そりゃまた大層な人数を」
「まあ、晴れの日になるかも知れんのだ。警護には万全を期さなければな」
「晴れの日、ね……」
言われて後ろの気配を探ると、時機が良いと言うか、くぐもった声が漏れて来ているような気がする。それは今まで俺たちが警護をしてきた中で、何度か経験のあることで。要するに、そういう形になったと云う事なんだろう。
「晴れの日、みたいですよ?姐さん」
「そうか」
部屋からちょっと離れるようにと手を振った高順に、華雄の姐さんが従う。
「これで肩の荷が下りた気分だ」
「どういう意味です?」
「苦しんでおられたし、切望しておられたからな。本懐を遂げられたと云う事であれば、最早何も言う事はない。ご主人様に感謝するばかりだ」
目を瞑り、薄く笑う。
「そんなことより高順、聞いたぞ」
「はぁ?」
「瑛と、上手く行っているか?」
「あ、アンタまで何を言い出してるんだ」
「ん?相思相愛で尻に敷かれていて、そう云う仲になるのは時間の問題だと聞いたのだが、違うのか?」
あ、拙い。
「……念のために訊くけど、誰からそれを聞いた?」
「うん?ケ忠だが」
「じゃ、そう云う事で」
「ケ忠、警護中にどこに行くつもりだ?あ?」
「いやあ、腹が痛くなって……さらば!」
「逃がすかッ!」
「ぬおっ!?」
早々に逃げ出そうとした俺を確り捕まえて、頭に腕を巻きつけて締め上げてくる。その高順に頭を締め上げられながら、思う。
この束の間の休息が終われば、いよいよ天下を一統しようと云う大戦が始まる。そこで俺は、俺たち親衛隊は、しっかりと兄貴の役に立てるのだろうか。近頃ずっとその事を考えて、そして少々不安を感じていた。
「オラァ、何とか言ってみやがれ!」
だが今日のこいつを見て、あまり心配しなくても良いのかも知れないと感じた。
高順が居れば、きっと俺たちは兄貴の役に立てるだろう。
何故なら、こいつは親衛隊の長なのだから。
誰よりも職務と、そして兄貴に忠実な、俺が認める立派な漢なのだから。
俺は、こいつに従って、こいつを支えるだけだ。
そうすれば、こいつが兄貴を支えてくれるだろう。