〜教経 Side〜

長安へ帰還してから多忙な日々を送っている最中、漸くやって来たつい先日までの日常に近い日。ストレートな言い方をすれば、午前中までに仕事が一段落ついて結構な暇が出来た日。

気分転換に遠乗りにでも出かけようと云うダンクーガの言に偶々気が向いて遠乗りに出かけ、興が乗ったので函谷関まで足を延ばした俺の目に留まったのは、宛からやってくる少人数の旅行者達だった。その集団の中心には、少々元気すぎる感じの、桃毛を揺らしている、俺の嫁さんに良く似た女性が居た。いや、その雰囲気と云い持っている剣の拵えと云い良い乳と云い、世の中には本当に似た人間が居るものだと感心し……

「……って、えぇ!?」
「教経!わたしの事、迎えに来てくれてるなんて、ほんっとう、嬉しい!」

それが紛れもない本人であることに気が付いて思わず馬上で声を上げた俺に、此方もまた俺に気付いて嬉しいと口にしながら走り寄り、飛び掛かって来る雪蓮。しっかり雪蓮の体を抱きとめるまでは良かったものの、その勢いを止めるには至らず、二人して馬上から転落した……あぁ、勿論、雪蓮が怪我をしないようにしっかり抱き抱えていたよ?ただ、ダンクーガと搨奄ェ、その俺含めて怪我をしないように、雪蓮が走り寄って来た時点で側に待機していたお蔭で地面と熱い接吻を交わすには至らず、俺の心遣いが役に立つことはなかったというだけで。

それにしても、ちょっと気を付けて貰いたい。落馬して重体、なんて粗(ざら)にある話だからな。でもまぁ、俺を見つけるなり、あれ程嬉しそうな顔をして駆け寄って来られると、正直非難がましいことを言う気が失せてしまう。雪蓮のこういう直情的な処を俺はとても気に入っている訳で、こんな風に感情を露わにしてくれなくなったら寂しさを感じると思うから。

「唯な雪蓮、俺は偶々此処に居ただけで、雪蓮を迎えに来たって訳じゃ無いんだ」

地表に降り立ってもずっと俺の首にしがみ付いて、首筋に吸い付いてくる雪蓮を宥める。流石に雪蓮がこっちに向かって来ているのを知って出てきた訳じゃない。その辺りはちゃんと言っておかないと、後で理不尽な目に合いそうな気がする。

「会える気がしてたのよね〜。やっぱり今日来て正解だったわ」
「聞きたくないことは聞かない訳ね……じゃなくて、宛の備えはよ!?」
「孫家の兵は冥琳に任せて来たわよ」
「冥琳にね……冥琳は、任されたって言ってたか?」
「……ええ」
「……雪蓮、嘘は良くないな。冥琳に黙って抜け出してきた、そうだな?」
「……あ、あはは。そんな訳ないじゃない」

正面から雪蓮の目を見ようとするが、雪蓮は右に左にと視点を忙しく移動させて真面に目を合わせようとしない。暫く続いた不毛な争いに終止符を打つべく両頬に手を添えて顔を固定し、正面から見据えようとその顔を覗き込めば、目を瞑って少し上を向いて唇を出してくる始末。

「はぁ……ったく……で、如何したンだよ」

その愛らしい唇は美味しく頂きつつ、雪蓮にその来訪の真意を問う。いくら雪蓮が自由奔放で我が儘だと言っても、理由もなく果たすべき責務を誰かに投げるような真似をするような人間ではない。

「ん〜、何となく?わたし、こっちに来た方が良い気がして」

……理由もなく……人間では……ない……はず……ん?

「……勘か?」
「勘よ?」

それ以上に説得力のある理由があるの?とでも言わんばかりの顔をされた。らしいと云えばらしいんだが、勘だけで宛の備えを放棄するってのはちょっと……

「ま、それだけじゃなくて、徐州侵攻戦の詳細な状況報告とか今後の展望を聞きたかったとか、二、三理由があるけれど、ね。それに抑々、宛から北上するのを防ぐ為に軍が派遣されている以上、攻め寄せてくることはないって風も冥琳も桂花も言っていたし。星と風が居れば皆従うでしょうし、たとえ攻め寄せて来たとしても何の問題もないわ」
「そっちを先に言えよ!」
「だから、勘が働いたからここに来たって云うのが一番の理由なのよ。後で並べて見せたのは、宛に帰った後で冥琳の前に並べる物なの」
「いや、開き直られても困るんだが。主に俺が」
「そう?ま、細かいことは良いじゃない。さっさと行きましょう?」

そう言うと、雪蓮は馬に跨った……俺の馬に。

「雪蓮?」
「ほら、早く乗りなさいよ」

鞍の前一杯に座り、後ろを叩きながら俺に乗れと催促する。

「いや、雪蓮、それは俺の……」
「迎えに来てくれたんでしょ?」

期待されていることをそのままするのは何となく癪に障るが、こうやって甘えられるとその程度の望みなら叶えてやっても良いって思える辺りが駄目なんだろうな。

「……二人で乗って行くか」
「当〜然。……それじゃ、しっかり連れて行ってよね、旦那様?」
「はいはい」

表面上はすかして返事を返しているが、内面的にはそんなことは無く、雪蓮にドギマギさせられた。

───首を傾げながら、ちょっと恥ずかしそうに『旦那様』なんて言い放つのは反則だと思う。





長安への道すがら、白蓮がその旗下の兵を練兵を終えてこれまた長安へ帰還しているのと行き逢った。従えている兵の装備から、白馬義従であることが分かる。幽州から落ち延びる際、その旗下の全ての将兵と分かれたはずだが、荊南を領有するようになってすぐに人を募って再編成したらしい。俺に従うようになってから、白蓮が生きており、それが紛れもない本人であることが知れ渡った結果、嘗て白馬義従として付き随った生き残りが、再び白蓮の下で戦わんとして三々五々集まって来ていることも報告を受けて知っている。それらの人間は、その望み通り、皆白蓮の下に付けてやっている。

一度白蓮自身が騎射を行っているのを見学したことが有るが、鐙のない状態で後方に向かって矢を巧みに射ていた。本人曰く、元々出来たという訳ではなく、努力した結果として出来るようになったものなのだそうだ。まぁ、それであればこそ、再編成した白馬義従を構成する兵に自ら指導が出来るのだろう。

所謂天才と云う奴は、何かを教わる際、物事を自分の感覚で捉えて把握し、感覚的なものとして自分のものにする。つまり、結果を論理的に検証し、原因と作用した結果との間の因果関係を理論化することがない。其れでは人に教えることは到底叶わない。自分の感覚を、他人と共有することなど出来はしないのだから。

とまれ、白蓮と行き逢った。先方でも此方が誰であるかを把握したのだろう、兵達に指示を出して先行させ、自分は此方にやって来た。

「見間違いかと思ったけど、やっぱり雪蓮か。揚州で別れて以来だな。元気そうで何よりだ」
「やっほ〜、白蓮。元気してた?」
「あはは、相変わらずだな」

雪蓮と白蓮とが挨拶を交わす。

「教経は雪蓮の出迎えか?」
「いや、気分転換に遠乗りに出かけたら、偶々鉢合わせたって処だ」
「偶然にしては出来すぎてるんじゃないか?」
「雪蓮が望む通りになっただけだって言ったら納得できるだろ?」
「……妙な説得力があるよな、雪蓮の勘って」
「実績があるからねぇ……」
「ぶ〜ぶ〜。人の事を勘だけで生きているみたいな言い方をしないでよ」
「でも事実だろ?」
「ま、否定はしないけど」
「いや、其処はしとけよ」
「あははは、皆変わりが無くて良いことじゃないか」

談笑しながら長安への道をゆっくりと進む。

「ところで白蓮」
「何だ雪蓮?」
「連れていたの、白馬義従ってヤツよね?」
「ああ。揚州での戦でも連れて行ったが、あの時よりもさらに練度は上がってるよ」
「ふうん」

白馬義従の練度が上がっている、と言った白蓮に、雪蓮は何とも歯切れの悪い返答を返した。

「それがどうかしたのか?」
「ううん、ちょっと気になっちゃって」
「何が?」
「う〜ん。何がって言われるとちょっと困るんだけど。けど、そうね……袁家と戦うのに前線に出てきた訳だけど、率いて戦うのは平家の郎党でも良いはずよ?それを態々、白馬義従を鍛えているって云うのには、貴女が白馬義従で袁家と戦うことに何か意味を見出してるのかしら、とまあ、そんなことを考えていたのよ」
「……」

肩を竦めながらその理由を雪蓮が口にする。口調としては極めて軽い口調だったことから考えて、雪蓮は単純に疑問に思っただけだろう。だが、それに対する白蓮の反応は、雪蓮の軽口とは真逆の、重苦しい沈黙だった。


「……訊いちゃ拙かったかしら」
「……いや、構わない。と云うより、知っていて貰った方が良いだろうな」

何を?
そう思って白蓮を見る。雪蓮も同様に白蓮を見つめている。

「……私は、復讐したいんだ」

白蓮が語る内容は、嘗て益州でぶつかり合った際に白蓮から聞いた内容と重なるものだった。あの時、白蓮は私人としての目的として復讐を、公人としての目的として理不尽を押しつけられない世の中を作る事を挙げた。そしてその比重としては、公人としてのそれが優先されるべきものとして語られていた。だが、勢力の長としての立場から解放された今、その比重は逆転したに違いない。自分が目指さずとも、まず間違いなく自分が望む世の中が実現されるであろうことを理解出来たであろうから。だからこそ、一義的な目的として復讐を挙げたのだろう。

白蓮は話を続ける。

復讐と云う物は全く建設的なものではないと云う事は理解している。それが生み出すものは新しい憎しみでしかないかも知れない。其れもまた承知はしている。そして、今の自分の立場は平家の一部将でしかなく、平家としての基本方針から外れて、恣意的な行動をすることは許されることではない事も理解している。

それでも、どうしてもそれを為したい。それが、私には必要なのだ、と。

白蓮と云う人間が、白蓮として生きて行く為には、どうしても決着を付けなければならない。それが建設的でなかろうと憎しみしか生まなかろうと、同じ目に合わせてやらなければ気が済まない。理性で感情をねじ伏せることが、如何しても叶わない。

無論、平家の方針から外れるような真似はしない。けれど、もしその機会が得られるなら、復讐することを認めて貰いたい。復讐する機会になり得る局面が来たら、白蓮をそこで使ってほしい。そしてそれを為す際には、平家の公孫賛ではなく公孫家の長として戦いたい。嘗て自分の渾名の由来にもなった、誰もが一目で公孫賛であることが理解できる白馬義従を従えて。

「自分の事しか考えていない、都合の良い望みだって云うのは分かってるんだ。でも───」

そこで一旦言葉を切って目を瞑り、改めて自分の想いを確認するかのように一拍おいて、目を開いて言葉を継いだ。

「───それでも、私は復讐したい」

そう言った白蓮は、少し居心地が悪そうにしていた。復讐に固執している、と言っても良い自分の態度で、俺と雪蓮を失望させたのではないか。嘗て益州で、瑛と焔耶を罰する事を頑なに拒否した時のように、また失望されてしまったのではないか。そう考えているのかもしれない。

まだ口にしたいことが有るかと黙っていたが、白蓮はそれ以上口を開こうとしなかった。

白蓮からの話は終わったと見極めて、雪蓮が白蓮に声を掛ける。

「良いんじゃない?」
「……え?」
「だから、良いんじゃない?って言ったの。第一、わたしには白蓮の事を如何こう言う資格はないのよ」

『わたしは復讐した口だしね』

微笑してそう口にしながら、雪蓮がこちらを見てくる。俺からも何か言ってやれ、と云った処か。

「お前さんが今言ったように、復讐に狂って無理矢理、不必要に戦を起こすような真似をしたりしなければ、復讐すること自体如何こう思わん。それをお前さんが必要だと云うなら必要なんだろうし、復讐は何も生み出さないから止めるべき、などと青臭いことを言う心算もない」

二人から続けざまに発せられた、復讐を肯定する言葉に、白蓮は意外そうな顔をしていた。

「どうした白蓮。肯定されたことがそんなに意外か?」
「……ああ。否定されても仕方がないと、いや、否定されると思ってたよ」
「何故?」
「復仇心なんてものは、大体がどす黒い、人間の感情で言えば間違いなく負の感情で満たされたものじゃないか。そんな感情に捉われ、また拘る私は、さぞや醜く他人の目に映りこんでいるだろうと、そう思って居たからだ」
「……成程」

復仇心がどす黒い、負の感情で満たされているものだ、と云うのは確かだ。先に白蓮自身が言った通り、全く以て建設的ではない。復讐と云う行為が内包している感情と、それが齎すものだけを切り取って見て、復讐は決して望ましい行為ではないと尤もらしく言う人間も居るだろう。

だが、それが発露する契機となったものが何であるのか、それを考慮に入れなければ一方的すぎる見方でしかない。『讐(あだ)を復(かえ)す』と云うその文字通り、復讐者は仇為されたからこそ、それを復そうとしているだけだ。即ち、復讐対象となっている人間が何か良からぬモノを齎したればこそ、復讐者は誕生する。その『良からぬモノ』を讐と捉えるのが自分にとって妥当であるかどうかが、第三者にとってその復讐を容認できるか否かに関わってくるが、家族同然の者達を殺された───それも問答無用に攻められて───のであれば、頑なに復仇を志すも致し方のないことだと理解できる。

だから『復讐したい』と云う願望を白蓮が抱くことが異常だとは思わない。それに、俺自身、まだそう云った目に遇ったことが無い以上、そういった目に遇った白蓮が下した結論に対して、正誤善悪を述べる資格はない。『復讐をするな』と云うのは、嘗て白蓮と同じ目に遇いながらも復讐しないことに決め、相手を赦した経験を持つ人間のみが発して良い言葉だろう。

「俺はそう思う」
「……済まない、有難う」
「別にお前さんの為に無理して肯定してやった訳じゃない。純粋にそう思ってるってだけの事でな。それに、無条件に肯定してやったつもりもない」

俺なら、例え大多数の人間が反対したとしても、復讐するだろう。『目には目を、歯には歯を』。因果応報を徹底する事で人の行動規範を作り得ることは、歴史が証明している。後々の事を考えても、自分の心情的にも、復讐と云う選択肢は一定の正しさを有していると言えるだろう。もし復讐をしないと云う選択肢を選ぶとしたら、復讐と云う選択肢が有する正しさよりも、より正しいと思える選択肢が提示された時以外にはありえない。

大多数の人間が異見を述べたとしても、それに無条件に従うのは間違いだ。『善等しければこそ衆に従え。等しからずば衆に従うべからず、その善を貫くべし』。俺は糞爺共からそう教わったし、それが正しいと思って居る。自分にとって、復讐を行う以外の、より正しいと思える代案が存在しないのであれば、復讐をすると云うのが正しい結論だろう。

「そうそう。多数だから正しいって訳じゃ無いしね?」
「まぁ、そういう訳だから、この件で周囲から何か言われようと気にする必要はない。元々その心算でお前さん達を前線に異動させたンだしな。ただな、白蓮。その復讐、何をどこまでやって終わりにするのか、それだけはしっかり考えとけよ?」
「どこで終わりにするのか……?」
「そうだ。まさかこの地上から袁家所縁の者が全ていなくなるまで、殺して回るなんてことを望んでいる訳ではあるまい?」
「ああ」
「これは俺の持論だけどな、世の中程を知らない人間は必ず痛い目を見る。
 例えば袁紹の馬鹿は、やり方を間違えた。幽州を支配下に置く為に、何が必要なのか。戦をするなら、どの程度の損害を与えれば戦意を喪失するのか。それを見極めることが出来て居れば、こうはなって居ないだろう。袁家はその配下に、公孫賛と云う万事使い勝手の良い駒を加え、官渡大戦にもっと余力を持って勝利出来たかも知れない。もし配下に出来ず、今と然程変わらぬ結果となって居たとしても、家族同然であった老臣たちが死んだのは、乱世の習わしとして致し方のないことであると思えるような始まり方、若しくは終わり方をさせることが出来たかも知れない。
 だが現実には、お前さんに仇と付け狙われることになっている。それは偏に、程と云う物を知らなかった為だ。公孫家にどこまで何を求めるのか、今の自分にどこまで求めることが許されるのか。行為そのものの程と、そして己の器そのものの程。それを想わなかったからこそ、防ぐことが出来たはずの禍を受けることになった訳だ。
 そしてそれは、俺やお前さんにも言える事。恨みを報ずるにしても、どうやってどの程度の事を行う事で恨みを報ずるのか、それについて真摯に考えておくべきだろう。俺は并州から叩き出されたから、奴をその累代の地から叩き出してやろうと思っては居るが、命まで取ろうとは思わん。現状、それはやりすぎだと思って居るからだ。俺は命を奪われた訳じゃない。その俺が袁紹の命を奪ったら、袁紹が先にやったことだから仕方がない、では済まないだろう。結果として民衆が袁紹に同情的になり、御落胤なり血族なりが生き残って居たらば、それを担ぎ上げる叛乱に賛同する人間は増えることになる。ああ、勿論、何らかの合理的な理由で生かしておけない場合は殺すがね。
 上手く伝えられているか自信が無いが、禍福何れにせよ程を意識し、それに収まるようにするべきだ。だからお前さんも考えておくべきだ。どう復讐を終わらせるのかを、ね」
「……分かったよ。考えておく」

真剣な面持ちで、白蓮が頷く。

「はい、これで辛気臭い話は御仕舞い。折角久しぶりに会ったんだし、パーッと呑んで騒ぎましょうよ」
「……そうだな、よし、そうするか」
「白蓮もその気になったことだし……教経?」
「はいはい分かってるよ、俺が費用を持つから好きにやってくれ」
「やった!さあ、今日は呑むわよ〜?」
「今日『も』、の間違いだろ、雪蓮」
「そうとも言うわ」

雪蓮がこれまでシリアスだった雰囲気を、たった一言でいとも容易く台無しにした。いや、この場合は重苦しい雰囲気を解きほぐした、と言うべきか。あれ以上話を続けていても変わり映えのしない議論を続けるだけだっただろうし、話を切り替えるのにはちょうど良かった。

雪蓮や白蓮と、先程までとは打って変わっておちゃらけた雰囲気でくだらない会話をしながら、夕暮れの中長安へ帰還する。帰還しながら、将来の事を考えていた。まずは、袁紹の策略により奪われた并州を力で奪い返す。それが成ったら、冀州侵攻だ。















〜郭図 Side〜

弘農から平家を駆逐し、函谷関の向こうへ追い払った我々は、洛陽へ凱旋した。

その捷報に洛陽が、そして恐らくギョウも陳留も沸いている。沸いている理由として、函谷関以東を支配下に置いたことも勿論あるが、それより何より今まで戦場で負けたことが無かった平家軍を相手に、矛を交えて勝利したと云う事実が大きいだろう。彼らは人知を超えた存在ではなかったし、傷付けられれば死ぬ存在であるということも分かった。やりようによっては勝てる、それを一兵卒でも理解出来る結果を得たことは、今後を考えると大きな成果と言える。

また、徐州防衛にあたっていた麹義と沮授から、我らの弘農侵攻とほぼ時を同じくして攻め寄せてきた平家軍を退けたとの報告も受けており、これが弘農での戦勝と合わさって戦意を否応なく高めている。平家を、そして平家軍を前にして怖気づく文武の官が多かったはずだが、自分にも出来るという自信が湧いてくることだろう。才能の高は知れているとはいえ、その数によって生み出される力には侮りがたい物が有る。

だが同時に、麗が抱える問題点も浮き彫りになる形になった。

先ず第一に、兵の練度が圧倒的に足りない。一度戦に出たことが有る人間で構成したとはいえ、言葉通りに歴戦の士卒が揃っている平家と比べれば何程の事もなかった。我が方の兵卒の、戦に出て生還したと云う経験は、平家の士卒にとっては近所へ物見遊山に出かけた程度の物でしかないだろう。経験の差と云う物は、思いの外に大きかった。経験を積むことで向上する部分では、やはり平家に一日どころか一年以上の長があり、それを埋めることは出来そうにない。

第二に、将が足りない。張コウと審配は計算出来ることは私自身で確認出来た。李孚は兎も角、田予も経験さえ積めば後れを取るようなことはあるまい。麹義、逢紀、沮授がどの程度の器量を有しているかは知らぬが、徐州陥落の報せが無い以上それなりの才覚は期待出来る。こうやって数え上げれば、有能だと言える人間は数多く居る。だが、平家の有能な将の名を挙げ、それに対抗できる人間の名を挙げて行った場合、早々に袁家の将を列挙出来なくなる。軍師の数も、将軍の数も、圧倒されていると言わざるを得ない。

これらの軍事的な問題に加えて、更に国力の問題がある。

今、麗は租税を減免し、民を慰撫することで領内を掌握することに努めている状況だ。それが必要であることは理解できるが、国家としての実入りが減る事には違いない。今回平家から弘農を奪ったことで、平家の実入りが減り、麗の実入りが増えることになったが、それでもまだ平家の実入りの方が良いかも知れない。戦火に晒されていない肥沃な土地をその支配下に治め、周辺異民族の慰撫に成功している平家の力。それを正確に測る術は無いが、麗単独でこれを凌駕出来ると考えるのは余程の楽観主義者であっても難しいだろう。

それ以外に課題もあるが、これらは孔明や沮授、田豊、審配、逢紀などが対応するはずの問題だ。烏丸や高句麗を如何に懐柔し、そして平家との戦と云う泥沼に引きずり込むのかと云う課題もあるが、そちらは既に道程の半ばを超えたと言っても良い。まだ越えるべき山が幾つかあり、中には峻嶮な山もあろうが、此度の戦勝で幾許かは道を穿つことが出来たはずだ。奴らだけで十分であろうと思われる。

第一、私がそこに入って行って共に考える、と言った処で彼らが独力で対応したのと然程変わらぬ結果しか得られぬであろうし、異なる思想や行動原理を抱える私が合流したことで却って上手く行かなくなることさえあり得る。例えば高句麗との交渉において、私が沮授に代わって行う事は現実的ではない。人の心を獲って味方を増やすという行為は、基本的に人と人との付き合いを続ける中で培われる信用と云う物を基に行われるものだ。今沮授が築き上げつつある信用を、私が壊さないと云う保証はない。それどころか、担当が私に変更になったことを穿ち見て、平家の側へ奔ってしまう事すら考えられる。先行きに明るさが見えている交渉事に、後から土足で入り込むような真似は辞めておいた方が良い。

では私は何もすることが無いのかと云えば、そんなことはない。孔明や田豊達が忙しくしているにも拘らず、この大軍師たる私に何の役目もない等と云う馬鹿げた事態が出来するはずもない。私は今、目下の処最大の、そして最優先で片を付けるべき案件に取り掛かっている。

それは、平家の逆侵攻までの時間を引き延ばす事。

弘農での勝利は、召の皇帝たる平教経の自尊心を傷つけることになっただろう。何せ、不敗であった平家がついに敗れたのだ。傷付けられた誇りを取り返すなら早い方が良い。負けに甘んじれば、負け犬としての物の考え方が身に染みる人間が出て来るであろうし、それが多数になりかねない。負けを知ることは確かに経験としては上積みとして勘案しても良いのだろうが、それと負けに甘んじることとは違う。負けに甘んじる事が無いように、短期間で軍を編成して遠征してくることは大いにあり得る。

短期間で軍を編成する、と一言に言うが、それを行うには前提となる条件が複数存在する。

先ず政情が安定していること。これは遠征する際の大前提であり、短期間で準備するか否かに拠らず必要な前提となる。遠征後に国元の事が気に掛かる様では遠征自体が覚束ない。
次に文武の官の連携が上手く行っていること。通常準備を整えるには、双方が其々に求められる務めを果たす必要がある。互いの持ち合わせている情報を突き合わせ、互いの不足を補いながら準備を行う訳だが、文武の官の仲が上手く行っていない状況ではそこが上手く行かず、結果として速やかな準備をすることが出来ない。
そして、国内に動かせる兵と遠征に注ぎ込む物資の余剰が存在していること。純粋に軍に籍を置く者や国庫に余剰が存在するかと云う事だけでなく、無理をして徴発出来るかどうかまで含めて考えた上でどうかと云う話になる。尤も、後者の場合は政情の不安定化を齎さない範囲内で、と云うのが前提となるが。

それら全ての条件が満たされて居なければ短期間での逆侵攻は望むべくもないが、平家はその全ての条件を満たしている。平教経がそれを望みさえすれば、遠征は現実のものとなる。

現時点からそれに備えることは出来るが、烏丸・高句麗の調略が間に合わなかった場合、此方にとって拙いことになる。しばらくは袁家独力で持ちこたえることは出来るかも知れないが、烏丸・高句麗が実情を探る為に細作を放って居ないとは限らない。当初互角にぶつかり合っているとしても、平家は余力がある中から然程無理をせず力を出している状態であり、此方はそれなりに無理をして捻り出した力をそれにぶつけていると云う形である。時が経過すればする程、此方の劣勢が目に付くようになってくるだろう。我らが劣勢にあることを知って猶、平家との戦に参戦してくれる程我らが恩を売っている訳でも、彼らが恩義に厚い訳でもない。まず巻き込んで後に、平家と事を構えるが上策。其れが為に、調略が完了するまでは、開戦を避ける必要がある。

素案は考えてある。どんなことをしてでも、兎に角時間さえ稼げれば良い。時間を稼ぎ出す事を最優先にするなら、その他の事は差し置かれるべきである。それはつまり、麗羽様の自尊心や漢の正統を継ぐ王朝であると云う誇りなどを、路傍に捨てられている塵芥同然に考えることが許されると云う事だ。時間を稼ぎ出さなければその存続すら危ういと云う国家の体面など、この期に及んでは一顧だに値しない。

───降伏交渉。もし交渉の席に着かせることが出来れば、かなりの時間が稼げる。やり方次第で如何程にでも交渉を引き延ばすことは可能であり、上手くやれば好きな時期に交渉を決裂させることすら出来る。

無論、本当に降伏しようと云う訳ではない。降伏をすると見せかけることで時間を稼いでやろうと云うだけのことだが、素直に話を持って行ったのでは此方の思い通りにはならない公算が高い。降伏交渉が時間稼ぎに過ぎぬことを見抜けぬ相手ではないだろう。降伏交渉をするに当たっては、如何に降伏話の信憑性を高めて交渉の席に着かせるかを考える必要がある。

「……ここはやはり、決定的な亀裂が必要、か」

君臣の間で、その希求する処が異なる。それを演出して見せた上で、君が臣を切り捨てる。この場合は、麗羽様が、私や孔明に無断で、秘密裏に降伏の為の使者を平家に遣わす。そう云う筋書きに沿って遣わされた使者を、引見しないと云う事は無いだろう。平家の細作は袁家の中に随分潜り込んで居ようから、家中が二分されている状況はすぐに先方も把握するはずだ。その状況で遣わされた使者が、どのような話を持ってきたのか、興味を惹かれぬはずがない。

それが私や孔明と云った、決戦強硬派でない臣下からの使者であれば、主家を売ろうと云う、唾棄すべき提案をしに来たと想像して引見しないこともあるかも知れないが、使者を発したのが麗羽様となれば話が変わってくる。先に述べた通り心情的にも、そして他国からの使者を引見してこれに返事を与えるのが一国を代表する者の務めである事を考えれば礼儀的にも、これを無視することは難しい。

何より、この期に及んで麗羽様から降伏の意を示されるとは考えては居るまい。意表を衝くことが出来ると云う一点に於いて、これに勝る策は無い。平家には優秀な、それこそ私と並び立てる程優秀な軍師が複数いる。知に優れたる者の性として、目の前に生まれた事象について、これが理解出来ない場合は観察をし、考察を通してその本質を掴もうとせずには居られない。不明な事物について、客観的な考察によって明確にすればこそ、知識として蓄積され、いつしか知恵へと昇華される。そしてそれを積み重ねるからこそ、知に優れたる者は知に優れたる者として自らを作り上げることが出来る。意表を衝かれた平家の知嚢達は、考察に時間を割かざるを得なくなるだろう。それが私の思い通りであるとも気付かずに。

「伝令をこれへ。二人、手配してくれ」

指を二本立てて田予に声を掛け、伝令を呼びにやらせた。暫く待っていると、注文通り二人の伝令がやって来て私の前で傅き、指示を待つ姿勢を取った。

「これから書く書状をギョウの麗羽様に手渡せ。良いな、必ず手渡すのだ。余人の手に渡るような真似をしてはならぬ」
「畏まりました」
「万が一、旅程で何某かの問題に巻き込まれた場合は……分かって居るな?」
「「ハッ!」」
「……ならば良い」

策の内容と、その必要性を説いた書状を持たせ、伝令を発した。

後は駒が台本通りに踊ってくれることを願うのみだ。私が直接動かす駒は少ないが、その駒に動かされる予定の駒次第で事の成否が分かれるだろう。

『ギョウにいる麗羽様とその周辺が、強硬な態度で平家との決戦に向けて突き進む我らを疎んじ、後戻りの利かない戦の戦端がいつ開かれるかと憂い、その憂いから終には我らを切り捨てて袁家存続の為に降伏の使者を遣わす』

そう見える形で、上手く踊ってくれれば。そうすれば、また一つ偉大な功績が、人々の記憶と、そして後世記されるであろう史書とに刻み込まれることになるだろう。この大軍師たる私の偉大な功績が。

「フフフ……」

愉快だった。これで私を馬鹿にした奴らを見返してやれる。積み重ねた、取り返しのつかない失敗を埋め合わせ、汚名を返上することが出来る。笑いながら、そう考えている自分を発見して、少々戸惑った。そう、私は何も失敗していないではないか。官渡での振る舞いも何もかも、『諸葛亮』としての戦略に沿って行ったもの。官渡大戦は、『諸葛亮』がそれを描き、そして想定通りに勝ったのだ。博打ではあったが、孔明も良く努めてくれた。

それにしても、自分が何か取り返しのつかない失敗を犯している等と云う、現実味のある焦燥感を伴った妄想に取りつかれてしまうとは。困ったものだ。私も疲れているのであろうか。

疲労は良くない。思考を硬直させる。其れでは困るのだ。袁家を勝利に導く大軍師は、それでは困るのだ。此処までは想定通りに来ているのだから、今はゆっくり休んでも構わないはず。ゆっくり休めば、明日にもまた新しい着想を得、それに基づく新たな策を練り上げることが出来るだろう。

───自分の才が少々恐ろしくあるな。

田予や孔明を相手に話をしている時、私はこの結果を正確に予測することが出来た。審配や張コウと話をしている時も同様に、これから先の展望を予測することが出来た。恐らくこれからも、それは変わらないだろう。

「フハハ、フハハハハハハ……」

愉快だった。どうしようもなく、愉快だった。全ては、私の思い通りに行っている。そうだ、何も憂えることはないのだ。未来は私の掌中にある。全ては、私の思うが儘なのだから。

宛がわれた居室に、愉しそうな笑声が響き渡って居た。

大軍師『諸葛亮』の、それは愉しそうな笑声が。