〜霞 Side〜
函谷関を出立後、月達が撤退してくるであろう街道を東へ急いだ。ホンマは急ぎに急いで、すっ飛んで駆けつけたいところやったけど、出発前に瑛から言われたこともあり、逸る気持ちを抑え続けてきた。日に三十里以上行軍したらアカン、と、瑛からはそう言われた。
流石のウチでも、それが孫子の戒める処やっちゅうのは知っとる。それ以上進もうとしたら兵が脱落するし、下手をしたら疲弊したところを衝かれて将を討たれてまうかも知れへん。そんなことになったら本末転倒や。せやから、今にも暴れだしそうな自分の焦燥感を、まるで悍馬を乗りこなすかのように押さえつけながら、出来るだけゆっくりと急いで来たんや。
その甲斐あって出立時から誰一人欠けることなく、此処に来ることが出来た。経ちゃんの、ひいては平家の将来を左右するであろう、重要な戦場に。
その戦場では、厳しい撤退戦が繰り広げられている。敵は突っ掛かって来るっちゅうよりは、纏わり付いて離れへんことを主眼に置いて戦っとるように見える。追撃を受ける立場からするとそっちの方が損害は少ないかも知れんけど、纏わり付かれとると撤退速度は落ちるし、精神的に常に脅かされている状況が続くのはキツイ。精神的な疲労が、行動を誤らせることもあるからな。けど、一度撤退を始めた以上、決戦する方針に切り替える訳にもいかん。逃げとる最中にいきなり転進して、撤退する為やのうて決戦する為に戦えっちゅわれても、兵らにとってはそれは無理な相談や。一度撤退したことで、兵は決戦に臨む心構えを作り上げるのに、通常の倍以上の時間と労力を費やす必要があるやろう。
このまま推移したら、失血死しかねへん。そんな苦境にあることが一目でわかった。
───瑛の言う通りやったな。
20,000の鉄騎より5,000の軽騎こそが必要とされるかも知れへんっちゅう、まさにその状況が眼前にある。ちゅうことは、ウチならその状況を覆すことが出来るっちゅう予測も当たっとる可能性が高い訳や。せやったら、後はウチが、自分が言うた事をきっちりこなすだけの事。ウチにはそれが出来るだけの器量があると自分に言い聞かせる。
眼前には、味方を追い詰めんとしてその後背に追い縋る約30,000の敵軍。
翻ってウチの後ろに控えるは、黄巾の乱以来ずっとウチの付き随って来た、虎の子の8,000騎。
「さあ、ウチらの力、しっかりとその記憶に刻んで貰おうやないか!夢にまで見る程になあ!」
「「「「「おぉ〜!」」」」」
相手もこっちに気付いたらしく、迎撃の為に兵を再編しとるように見える。けど、流石にずっとウチに付き従って来とる奴らだけのことはあって、敵を目前にして意気上がる人間は居っても、怯むような奴は居らへん。この辺りの呼吸は見事なもんやと、自分の部下達を誇らしく思えた。
手加減は無しや。最初っから全力で行かせて貰おか。
敵陣を縦横無尽に駆ける。ウチらが袁紹軍に勝っとるのは、機動力と突破力や。その2点に於いて、親衛隊に比べても遜色無いだけの実力がウチらには備わっとる。相手の長所を殺し、此方の長所を以て敵と相対する。それを心掛けるべきや。この場における相手の長所は数。集中させることが出来へんように、騎馬の突破力を活用して敵を分断し、切り離された敵を更に分断し……と云う形で戦を進めるが上策っちゅうもんやで。
敵兵の練度は低い。低いっちゅうても、それは武器を振るう技量が低いっちゅう訳やない。想定外の事態が発生した戦場に在って、動揺を最小限に留めて命令通りに動くことが出来るかどうか。それが鋭卒と弱卒との間に厳然として横たわる差や。そうした目で袁紹軍を眺めた時、袁紹軍の卒は、その大部分が混乱気味であり、また軽躁に映る。それは練度の低さを示しとる。敵本陣付近に展開しとる連中を除いて、戦慣れしとらへんらしいな。
その証拠に、敵本陣がある中央部隊以外の敵兵卒は、ウチを止めようと三々五々進路を阻もうとして前に出て来ては良いように蹴散らされ続けとる。特に命じられてウチらを止めようとしとるなら、先ず纏まった兵力をぶつけてその勢いを止めようとするはずや。勢いに乗って向かって来る敵軍を止めることを考えた際に、それ以外の対処法はない。にも拘らず、三々五々、つまり卒が個別に対処してくるのは、敵将が余程の阿呆か、さもなければ卒が恐怖心に耐えられずに将の指揮下から外れて行動をしてしもうとるかのどちらかを意味しとる。追撃戦のやり口からして、将が低能とは思えへん。であれば卒が恐怖心を抑えられずに暴発しとると見るべきや。それは偏に、卒としての未熟さ故の暴発やろう。
眼前に飛び出してくる卒をそのまま馬で身体ごと、あるいは偃月刀でその体の一部を、撥ね飛ばす。先頭切って突っ込むウチの前に飛び出してくる卒は、次々に死んでいく。然したる抵抗も受けず、二度目の敵陣突破も成功。敵陣を突破して暫く馬を走らせた後馬首を巡らせ戦場を視て、眉を顰めた。
───まだ追撃しとるんか。
これだけ蹂躙しとるにも拘らず、追撃を止めてウチらを叩こうとせぇへん。ウチの目的が那辺にあるんか、それを正確に把握しとるんやろう。ウチらが出張って来たんは、月の撤退を支援する為。ウチらが敵中に突入するなんちゅう、勝算あっての事やとしても大きな危険を冒しとるのは、そっちを追撃され続けることがより痛手に繋がりかねへんからや。本当に意味でウチを無力化したいなら、ウチへの対処に全力を注ぐんやのうて月への追撃を激化させることが有効や。それがウチらの戦略目的を損なわせしめることになる。それを理解しての行動であるのは間違いない。
勝ちっちゅうのは、自分たちの戦略目的を達する事で得られる場合と、敵の戦略目的を阻むことで得られる場合とがある。眼前に展開しとるこの敵は、後者の方針に沿って勝ちを掴もうとしとるに違いない。
あっちが月らを追撃して将を一人でも討ち取るのが先か、それともウチが敵陣を蹂躙しまくってその損害を無視できへん様になるのが先か。ウチを相手に競争しようっちゅう訳や。経ちゃんをして『神速』云々言わせとる、このウチを相手に、疾さで勝負を仕掛けて来とる。そう云うことやな?
───ええ度胸しとるやないかい。
「そら!もう一回ぶっこむでぇ!?逃げ出そうとしとる雑魚に構うなや!」
敵陣へ再突入する前に十分に敵陣の様子を窺い、四半刻程度は混乱を収拾できへんやろうことを確認した上で、もう一回敵陣に突っ込む。
今度は今までとは違う。周囲の状況を把握しながら、余裕を持って敵陣を突っ切ってきた前二回とは根本的に異なる戦い方や。周囲は知らず、唯々ウチの前に立ちはだかる敵を切り捨てる。ウチが持てる全ての力を、此処で吐き出させてもらう。気が向くままに愛馬を走らせ、あるいは留まらせながら、身体の底から湧きあがるこの激情を、飛龍偃月刀に込めて、その名の通り飛ぶが如くに叩っ斬る。
「ウチは張遼!張文遠や!」
雲霞の如く居るはずの敵。
一人では、前に立つことすら躊躇われる程数多居たはずの敵。
それは今、ウチの目には全く映っとらん。
ウチの征く道に何が立ちはだかろうとも、それを一つずつ排除していくだけや。
誰も、誰にも、ウチは止められん。いや、止まらへん。
月の敵。
経ちゃんの敵。
そして、ウチの敵。
前も。右も。左も。立ちはだかる奴は全部敵や。
今此の瞬間、此の場所で、ウチの前に立ちはだかった奴は一人として生かしてはおかん。
右から突き出された敵兵の槍を躱して、偃月刀を一閃させる。
振るう刹那、左から寄せてくる敵が見えた。
そのまま馬上で状態を反らす。
眼前を槍の穂が通過するのを確認しつつ、石突きで敵兵の胸を強く突く。
そのまま柄を滑らせ、左手に確と持ち替えて、斜めに敵を斬り捨てた。
「どないしたんや!?ウチを止めてみぃ!」
挑発するも、誰も名乗りを上げへん。
───それならウチはこのまま進ませて貰うだけや。
「おぉぉぉぉぉぉぉぉ!」
雄叫びを上げながら無心に敵を屠り続けて馬を進める。少なくとも、ウチの周囲に居る敵の混乱ぶりは目も当てられんものになっとった。背中を見せた奴は放っておいて、こっちに向かって来る奴を優先して殺す。そのまま進む内に、ふと左手に違和感を感じて、直ぐにその正体に気が付いた。馬を止めて周囲の雑兵を一蹴し、そちらに顔を向ける。
「……何や恋。けったいな処で会うなあ」
「……恋も行く」
「月は?」
「……朔と、一緒。ねねも詠も、焔耶も、皆無事。撤退する、伝えに来た」
「さよか……恋、ひょっとして自分、此処まで単騎で来たんか?」
コクリ、と頷いて、その背後から自らに仇為そうとしていた敵兵を、一顧だにせず方天画戟で仕留める。
───流石は恋や。規格外にも程があるで。
単騎の方がより力を奮えるのは確かなんやろうけど、やからっちゅうて普通は単騎で敵中突破して此処まで来ようとは思わへん。これをやろうとしてやれる人間は恋しか居らへんやろう。誰で想像しても、途中で力尽きる姿しか想像出来へん。
「恋。ほな月が撤退するまで時間を稼ぐで?」
「……分かった」
恋と、馬首を並べて敵中を疾駆する。右手をウチが。左手を恋が。それぞれ敵兵を排除しながら、敵中を割って進む。二度目の突撃時には殆どの奴がウチに槍をつけて来たもんやけど、今回は背中を見せる奴がそれなりに居った。その数が、前に進めば進むほど増えて行っとる気がする。
恋と合流するまでとは違うて、周囲に気を配りながら暫く進んだところで、前方が開けた。これで三度目の敵中突破に成功したっちゅうことになる。此処までやったら流石にウチらを無視することは出来へんやろうけど、念の為に再突入する構えを見せとかんとアカン。月の撤退に乗じて追撃することにかまけとる様なら、痛い目を見せたるっちゅう構えを取る事で牽制になるやろうからな。
馬首を返してすぐに四度目の突入を図っとる構えを取ったウチの目に、敵本陣と思しき隊がこちらに向かって動き始めるのが映った。兵を分けるような真似をせず、一纏めにして此方を捕捉しようとしとる。ウチらの暴れっぷりに痺れを切らしたようで、月達を追撃することなく全軍でこっちに向かって来とる。
「此処まで出張ってきた甲斐があったで。月の撤退を支援するっちゅう目的は果たせそうやな」
「……霞も、恋も、撤退」
「分かっとる」
そうは言うてもそう簡単には撤退させてくれへんやろうけどな。こっちの狙いをしっかり分かって対処しよった敵なんや。ウチらが目的を果たしたことで、撤退を考えとること位は疾うに察しとるはずや。それと分かって撤退するに任せるはずはない。背中を見せたら、ここぞとばかりに追撃を受けるやろう。
それならば、どうするのか。
横に居る恋を見やる。相変わらず茫洋とした風貌やけど、これで戦に関しての嗅覚は図抜けたもんがある。多分、ウチがやろうとしとる事は、その本能で嗅ぎつけとるんやないやろか。
「恋。ウチが今何を考えとるか分かるか?」
「……分かんない」
「ありゃりゃ」
「……分かんないけど」
「ん?」
「あそこに行って蹴散らしたら、撤退」
そう言って恋が指差したのは、寄せてくる敵本陣の左右。今まで三度、ウチに蹂躙されてきた敵兵達がそこに居る。
「なんや、ちゃんと分かっとるんやないかい」
一度敵に背を向けた兵が敵を前にして勇敢に槍をつけるようになるには、自分は強くなったと実感できる程の鍛錬を重ねさせるか、確実に勝てると誰の目にも明らかな状況を創り出してその勝勢に乗せるかのいずれかしかない。戦の最中に前者は望めへん。そしたら後者しか道は残されとらん。となれば、先ず浮ついた兵が少ない本陣の兵で先陣切って戦うて、勝勢を得たところで左右に控える弱卒を投入するっちゅう戦い方になるはずや。それが成功したら、ウチも恋も無事では済まへんかも知らん。
せやけど、そうしてくることが分かっとれば話は別や。ウチに散々に追い立てられて、三度も突破を許した敵は、果たして四度邂逅したウチを相手に奮い立って槍をつけてくるやろうか。それが出来たら立派なもんやけど、残念ながらそれが出来る程の軍やないやろう。もし背中を見せて逃げる奴が続出するようなら、そいつらを敵本陣へ押しつけて、統制が取れへん様になったところを叩けるだけ叩いて撤退させて貰うとしようやないか。
寄せてくる敵を前に、どうしようもなく気分が高揚して、顔が笑み崩れるのを抑えられへん。やっぱり、戦はええもんや。生きとるって充実感を、命の切所でしか実感できへん、何とも形容しがたい形で得ることが出来るんやから。
「……恋は、あっち」
「ほなウチはあっちや」
「霞、頑張る」
「恋も気張りや」
「ん」
「途中まで一緒に行って、敵本陣前で散開。二分して左右に分かれるで?こっちが引いたらそっちも撤退や。そっちが引いたらこっちも撤退するわ。アンタに限ってそんなことはないと思うけど、油断してくだらん怪我なんかしなや?」
「……分かった」
簡単な段取りだけ決めて、馬を走らせる。ウチと恋とを先頭に駆け始めた集団は、徐々にその勢いを増して行く。今日は敵の様子が良う見えとる。敵本陣に向かって駆けとるのに、左右の兵が動揺しとるのが手に取るように分かった。
さあ、もうちょっとや。あとちょっとだけ、付き合って貰うで。
ウチの事を一生忘れられへんようにしたるからなあ。
〜張コウ Side〜
「張遼だ!張遼が来た!張遼が来たぞ!」
張遼の襲来を告げる声。あの部隊が動き始めた時から、左右に展開する陣には動揺が走っていた。俺が直接率いている兵達に比べ、やはりその練度が低いなどと忌々しい思いに駆られてすぐに、それは仕方のないことだと思い直した。
───三度。もう三度も突破されている。いきなり逃げ出さないだけ立派じゃあないか。
苦々しく、そう思う。
当初の俺の対応が拙かった、そう言わざるを得ないだろう。どうやら俺は、敵の力量を低く見積もっていたらしい。最終的にこうするなら、最初から全軍で対処すべきだったのだ。そうすれば、呂布が単騎で突破を図り、そして張遼隊との合流を許してしまうようなことはなかったかも知れない。単騎での突破を許してしまったことで、此方の士気は奮わない。
張遼の到着は、思っていた以上に早かった。その早さから、息せき切ってやって来たのだと思ったのだ。日に三十、いや、五十里を越える速度でやって来たのだろうと。だからこそ、それ程急いで来たのであれば最初勢いが鋭いとしてもこれをいなすことが出来ると考え、兵を二分した上で董卓を追撃し続けたのだ。
張遼を軽視した訳じゃない。董卓への追撃の手を緩めるのは張遼の思う壺だ。董卓を撃破すれば、張遼は撤退せざるを得ないと読んだ。そしてその読みは正しかっただろう。唯一つ、張遼とその旗下の兵の力を読み違えていたこと以外は。そしてその唯一つの誤りによって、当初の計画は棄てざるを得なくなった。
張遼隊は本陣に向かって一直線に駆けて来る。その勢いを見て、ぶつかり合うのではなく、これを待ち受けて叩くことを選択した。
例えば、凄まじい勢いでいきなり殴りつけられた場合、自失する時間が必ず発生する。その時間は、訓練によってまるでそれが存在しないかのように振舞うことが出来るようになるが、それにはそれなりの厳しさを伴った訓練と、自失した状態で自衛行動を取れずに痛い目を見た経験とが必要になる。そしてそれは、個人として実際に殴りつけられた場合も、集団として想定外の事態に遭遇したり予想以上の攻撃を受けた場合も変わらない。
勢いをつけてぶつかり合えば、軍としては押し合うという形になるが、兵個人の事として考えれば、それは敵を斬り伏せるなり敵の間を走り抜けるなりして互いに前進するという形になる。当然前に進めなくなる時機は来るが、それが来るまでは、ある一人の敵と相対するのはほんの数瞬だろう。そしてその、ほんの数瞬の敵との邂逅でものを云うのは、兵の練度と戦にかける意気込みだけだ。意気込みは兎も角、練度では話にならない。
そうなれば、ぶつかり合った序盤に多くの兵を殺されることになるだろう。集団として考えると、それは強かに頭を殴りつけられたも同然だ。その時、此方は集団として自失する。どう対応して良いか分からず、右往左往するならまだしもただ突っ立って殺されるのを待っている状態になる。多くの兵を損ない、『次の戦』等と口にできる状況では無くなる。
だから、ぶつかり合うのではなく、受けるのだ。待ち受けている処へ飛び込ませる。たとえ前陣が突破されても、後陣がそれに備えているという状況であれば、突破された混乱は軍全体へ波及しない。それが一番損失が少ない対処法だろう。
そう考えて、旗下にそう指示を出した。捕捉して、叶うならこれを排除するために。
そして奴らは眼前までやって来て、二分して左右に分かれた。
───俺を、嘲笑うかのように。
それから後のことは思い出したくもない。暴れるだけ暴れた張遼たちを捕えようとしたが、張遼を捕えるどころか影すら踏ませて貰えなかった。幸いにも、失った兵は全軍の一割程度でしかなかったが、それにしてもその理由は納得できるものではなかった。
『張遼を恐れ、途中から兵が一目散に逃げ出した』。
それが、兵を然程失わずに済んだ理由だ。本陣の兵は問題ないが、あの時左右に控えていた兵達は、もう二度と張遼を相手に戦うことは出来ないだろう。重傷を負った兵達を見舞ったが、皆口々に『張遼が来た』とうなされていた。体に負った傷は、癒すことが出来るものはいつか癒えるだろう。だが、心に負った傷はそう容易く癒すことは出来ない。それを癒す為には、他ならぬ張遼と再度戦場で相対し、勝たなければならぬ。そして残念ながら、それを行う余裕は麗にはない。兵達に自信を取り戻してやる為だけに、敗北するかもしれぬ危険性を背負う訳には行かないからだ。
「浮かない顔をしているではないか、張コウ」
「……郭図か」
「もっと嬉しそうな顔をしてはどうだ」
俺自身とすれば、張遼に追撃を止められ、さらには軽くあしらわれた形となっており、不本意な形で戦を終えている。だが戦を通してみれば、平家を函谷関の向こうに追い出すことに成功している。そして何より、直接矛を交えて平家に勝ったという結果が付いて来ている。郭図が独断専行した形だが、平家より多くの兵を以て相対し、戦場で先走らなかった。結果とその行動を見れば、郭図としては十分に勝算あっての行動であったのだろう。
「皆喜んでいるではないか。これで袁家の兵は意気上がり、烏丸や高句麗に派兵を促すことが容易になる。憂えることは何もない」
何もない、ね。
「そうかな」
「では何を憂える?」
「軍の一体感が損なわれるのではないか、と考えているのだがね、俺は」
郭図、田予、李孚、審配。孔明殿の指示を違え、平家を撤退させずにこれを叩くためとは言え、民を撃殺せんとした。今後孔明殿の下で統一された行動を取れるかどうか、俺としては大きな不安が残る結果になって居る。
「損なわれる訳があるまい。麗においては『諸葛亮』が全てを決する。兵達も、今回勝利を齎した諸葛亮を『大軍師』等と大仰な形容で崇めている。望むと望まざるとに関わらず、『諸葛亮』の下で戦わざるを得ない状況だ。流石にそれが分からぬ低能は居るまい。少々甘いところはあるが、それも致命的なものではないしな」
やはり面白くない思いは持っているようで少々棘のある言葉を吐いたが、それよりも気になるのは、何故か少々得意げな表情を浮かべたことだ。まあ、孔明殿と比べれば見劣りがするとしても、今回の戦で失態を犯した俺に比べればはるかにマシだと考えているのかも知れない。今回に限って言えばそれは事実であるから、反論は出来ないが。
「故に卿が言ったことは杞憂だ。天は落ちて来ぬし、地は崩落せぬよ」
「ならば良いがね」
「皮肉を言う暇があったら『諸葛亮』に感謝することだ。『諸葛亮』のお蔭でこの戦は勝利したのだからな」
孔明殿のお蔭、か。
「感謝ならしているさ」
「それなら良い」
郭図がそう云いながら、周囲を見渡している。
───もう日が暮れる。これ以上の追撃は難しそうだが、果たして郭図はどう考えているのか。
そう考えていたところへ、郭図から思いがけない言葉が掛けられた。
「では兵を返そうか」
……本当に、郭図は変貌を遂げているのかも知れぬ。そう感じた。
「追撃しないのか?」
「これ以上の追撃は無益なだけでなく有害だろう。此方の損害は、当初見積もっていたより少なく2割強と言った処だ。数にしておよそ12,000。その内死者は4,000程だ。それに引き替え平家の損害は20,000を下ることはあるまい。死者は間違いなく10,000は超えている」
「……俺が失態を犯したから無駄に兵を失ったな」
「……最後の最後にしてやられたが、誰が率いていても卿と同じかそれ以上の損害を被ったことだろう。そう悲観的になることはない。卿であったから、この程度で済んだ。それが事実だ。それ以外の解は出ていないのだから考えるだけ無駄だ」
郭図に慰められるとは思ってもみなかった。こうして慰められてみると、改めて郭図の変貌ぶりには気持ちが悪いものがある。
「兎に角、当初考えていた以上の結果を既に得ている。更に軍を進めて勝ったとしても、身は既に将軍の地位にあり、これ以上昇進することはない。それより、軍を進めて負けてしまった場合、戦捷で得た名声も、現在得ている将軍の位も失うことになる。我が身の事だけならばまだしも、仕える家の今後の展望までも狭めることになりそうだ。これ以上は蛇足と云う物だろう」
「……卿が正しかろうよ。軍を洛陽に返すとしよう」
この戦は、来るべき決戦に向けた鞘当てに過ぎなかった。そしてそれに、少々当初の予定とは異なる形ではあったが、勝利することが出来た。後は状況を整え、孔明殿が言う処の『仕上げ』に掛かるだけだ。
暫く時は掛かると言っていたが、そう遠い日の事ではあるまい。