〜郭図 Side〜
今朝から続いた激戦は、日没を合図に双方矛を収める形で一旦終熄した。避難する民を護ろうと前面に展開した平家軍に対して一日攻勢を掛け、彼らの行動限界点を見極めることが出来たように思える。今日一日の戦闘を通して、平家軍の精強さや兵の進退の見事さには目を見張るものがあったが、やはりそれにも限界がある。倍する兵を以てすれば、押し気味に戦を進めることが出来ることが分かったし、日没が近付くに連れて敵本陣が前線に出て来る回数が増えたことから見て、そろそろ限界だったのだろうと思われる。これが分かったことは非常に大きな収穫だった。
今日の戦を受け、今後の方針について軍議を行っているが、田予と李孚とで意見に食い違いを見せている。
今日の戦の結果、こちらの兵も疲弊してはいるが、あちらの方がもっと厳しいはずだ。こちらは適度に兵を進退させ、交戦する者とそうでない者とを創り出して体力を回復させながら戦わせたが、あちら側はそのほとんどがずっと戦い続けていたのだ。その疲労は完全に抜くことは出来ない。
両名ともその状況については一致した見解を見せている。食い違っているのは、それを受けてどう対処するか、と云う点において。
李孚は、敵陣に対する夜襲を主張していた。彼我の兵が余している体力を考えると、此方の方が勝っている。此方は攻めかかる側であり、戦意は旺盛だ。だが先方は守る側であり、精神を磨り減らしながら戦っていることだろう。勢いはこちらに有り、今の敵方にそれを完全に堰き止めることが出来るとは思えない。確かに、言う事には筋が通っているように思える。
それに対して、田予は明日に向けて最低限度の見張りを残した上で兵に十分な休息を与えることを主張していた。夜襲を此方から仕掛けるのは、危険を伴う。完全に察知されていた場合、私が居る中軍をいきなり衝かれることもあり得るだろう。周囲の状況を確認できない夜間にその状況を迎えた場合、軍は上将を失うことになる。それであれば、今日の処は兵に十分な休養を取らせて体力と士気を恢復させ、明日全力を以て敵軍を殲滅すべし、と云うのがその主張だった。
李孚の意見については考えるべき点もあるが、問題はそれが李孚自身の焦りから提案されている可能性がある点だろう。日中の戦で田予は中々の戦ぶりを見せていたが、李孚は終盤相手方の騎馬に良いようにされていた。見ていてあまりに危うかった為、後方からこれを支援する構えを見せて牽制したが、もし牽制しなければ打ち破られていたかも知れない。李孚自身もそれが分かって居る様子であったことから、この提案には多分に汚名を返上したいとの想いが含まれているのだろう。
田予の意見については理があるが、少々消極的に思える。夜襲しないことを消極的だと言っているのではなく、見張りを立てる必要性を感じているにも拘らず休息しようと考えていることを消極的だと言っているのだ。見張りを立てることを念の為の措置と考えているのであろうが、平家は有りそうにないことをやってくる。夜襲があることを前提として考え、その際に敵を殲滅する為の方策を考えておく程度の器量はあっても良さそうなものだが、経験が不足しているからか、まだそこまでは考え付かないようだ。
話を聞いていた限り、二人の議論は何処までも平行線を辿っており決して交わることはなさそうだ。遺恨が生まれぬ内に私が割って入った方が良さそうだった。
「二人の考えは良く分かった。それぞれに理と、そして利が有りそうだが、私の考えは二人が考えていることとは少し違う」
「……どう違うのでしょうか」
「二人共に共通して言えることだが、相手のことを失念しているのではないか?我が軍としてどうするのが最善かを考えるのは構わないが、戦は相手有ってのものだ。こちらが休息したい、若しくは敵陣を奇襲したいと言っても、相手がそれを許してくれなかった場合はそうも言って居られぬだろう」
「どういう事でしょうか」
「闇にまぎれて撤退する可能性がある。若しくは、田予が見張りを立てる必要性を説いた様に、夜襲を仕掛けてくる可能性がある」
「まさか撤退などと」
「そう。私でもそう思う。当然お前たちもそう思って居る。ぶつかってからまだ1日しか経過していないのに目の前からいきなり撤退するとは思わない。それであれば撤退しようと思えば可能であろう」
「ま、まあそれは確かに……」
「夜襲を仕掛けてくる場合も同じだ。その可能性はないと思って居る軍を襲った場合、真面にぶつかり合う場合と比べてどうか?勝ちを拾いやすくなるとは思わぬか」
「その危険を認識していればこそ、見張りを立てることを考えているのです」
「そうだったな」
少し向きになって反論してきた田予に、彼の考え自体は正しかったことを認めながら頷く。
「……閣下。それでその、閣下のお考えと云うのは一体どのようなものなのです?」
「奴らに夜襲を掛ける部隊と、奴らの夜襲を待ち受ける部隊とに分ける」
「兵力分散の愚を犯すとおっしゃるのですか」
「傍から見れば、な」
此方の兵は25,000程が動けるだろう。それに対する平家軍は12,000強と言った処か。敵陣への夜襲を仕掛ける隊へ10,000振り分けたとして、夜襲を待ち受ける隊には15,000の兵が残ることになる。敵陣への夜襲が成功した場合、夜襲を待ち受けていた隊へ炬火を以て連絡し、第二陣として敵陣へ突入させれば散々に敵を打ち破ることが出来るであろう。また夜襲が見破られていた場合でも、戦線を維持しつつ炬火にて敵を捕捉した旨を伝達させ、第二陣で後詰をすれば問題なく戦線は収拾出来る。
敵が陣に居なかった場合は、夜襲を受けているか若しくは撤退したかのいずれかだが、それは自陣の様子を窺えば容易に知ることが出来ることだ。自陣が夜襲を受けているようであれば、その退路を断つように兵を動かして埋伏させ、敵が引き揚げる際に撃てば、これを崩せないということはあるまい。既に撤退をしているようであれば、やはり炬火に拠ってその旨を伝達し、全軍を以て猛追することになるだろう。
いずれにせよ、敵方もこの期に及んで此方が兵力分散を行うとは思わぬはずだ。だからこそ、成功を収める可能性は高いと言える。
「敵も軍を二手に分け、同様の戦術をとってきた場合は如何致しますか」
「あちらは我が方とは事情が異なる。二手に分けた手勢のうちの一方が我が方の全将兵に遭遇した場合、圧力に耐えられずに圧殺されてしまうであろうことは想像に難くない。先程田予が言った通り、兵力分散の愚を犯すような真似はすまいよ」
「成程」
どうやら二人とも私の策に従うことに異存は無い様だ。
そうなると次に決めなければならないのは誰がどの隊を率いるかであるが、これについては各自の主張に基づいて分担を決めればすんなりと決まる。つまり、李孚が夜襲を仕掛ける隊、田予が夜襲に備える隊の将となる。私自身は本陣に在って全軍を統括する。
「李孚は直ちに夜襲の準備に取り掛かれ。田予は私と共に、夜襲してきた敵を如何にして殲滅するかを考える。此処で将の一人でも殺すことが叶えば、より一層士気を高めることが出来るであろう。出来るなら、主将たる董卓と、平教経の妻たる賈駆を殺したいものだ。各自の奮闘に期待する」
「「はっ」」
此処で大きく勝って更に輿望を高めたいものだ。
平家の夜襲を想定し、それに対するに誘引の策を以て殲滅することを考えていたが、敵も然る者、そう簡単には行かなかった。私が居る本陣付近まで攻め寄せて来た隊には強かに反撃を加えてやったが、それとは別にもう一隊が退路を確保し続けて居た為殲滅するには至らなかった。また、田予は抑々突破させないことを考えて陣を構築しようとしていたが、それが終わらぬうちに夜襲を受けてしまって居た為、想定よりも多くの兵を失っていた。
敵の攻勢が止んだことで、戦が次の段階へ移行したことが分かる。今から平家は撤退を開始し、我らはそれを後方から追い縋って阻害しつつより一層の出血を強いる、と云う形になる。撤退する平家の進路上には、李孚が埋伏していることだろう。李孚が横撃を掛け、混乱している処を後ろから田予が喰らい付くことが出来れば、かなりの戦果を期待することが出来る。
私の陣屋へ田予を呼び、田予が追撃を行い、私が此処に残って兵を再編することを決定事項として伝えたが、田予の反応は芳しいものではなかった。
「どうした、方針に不服があるのか」
「いえ、そのようなことは御座いません」
「では何を思い悩んでいる」
「……誠に申し訳ありません。想定より多くの被害を受け、想定より少ない損害を与えることになりました」
「そんなことか。それは仕方あるまい。戦と云う物が常に想定通りに進むものであるならば、誰もが史上に名を残す名将と成れるではないか」
そう言って慰めてみるが、どうにも納得いかないようだ。この先のことを考えると意気消沈している場合ではないはずだが、その事を一々言葉で説明してやらなければならぬとは。軽く敵にあしらわれた李孚にせよこの田予にせよ、まだまだ不足と言わざるを得ない。
「それにだ、まだ戦は終わった訳ではあるまい。奴らの帰路に李孚が埋伏しているであろうし、我が方にとって戦は正にこれからという処だ。雪辱を果たしたいというのであれば、その機会がすぐ後に控えていると思うべきではないか。嘆くのはすべてが終わってからにすべきだな」
そう言ってやると、自分の考えが至らなかったことに気が付いたのであろう、少々恥ずかしそうにしながら頷き返してきた。至らぬ点はあっても、田予は現時点で望める最良の人材だろう。これをうまく使いこなすことがこの私には求められるし、その程度の事が出来ずしては名折れとなる。
「今すぐに出立出来る兵は5,000程度であろう。残りについては私が此処で再編する。お前は李孚と共に出来るだけ敵の兵を減らすことを目指せ。敵も我が方と同等の損害が出ているとすれば、その兵数は約10,000程度であろう。
だが、無理はするな。『帰師は遏(とど)むる勿れ』という。その進路を塞いではならぬ。あちらは抑々鋭卒であり、それが今帰師となっている。これを敢えて囲師にすれば、此方の方が手酷い目に合うことになるだろう。
分かったか?」
「はい」
「では征くが良い。卿らの戦果に期待している」
一度後ろを向いた以上、此処から先の流れは変えようとしても変えることは出来ぬ。後はそれを『撤退』から『敗走』に変えることが出来るか否か。そこが問題になるが、もし『撤退』されてしまったとしても、出る結果はそう悪いものにはならない。
結局、全ては諸葛亮の掌の上にあるのだ。
『諸葛亮』の、な。
〜張コウ Side〜
先行した友軍と合流すべく軍を進めている処へ、郭図からの使者がやって来た。使者に拠れば、初戦は先ず満足すべき成果があったとのことだった。但し、完勝には程遠いし敵将も討ち果たすことは出来なかったと言っていた。
郭図の寄越した使者が齎した情報の内容は、予めこちらで放ってあった斥候から既に得ている情報と一致している。日中の戦で互いに互いの力量を量ったとしてそれぞれ夜間に動き出し、激しくぶつかり合った結果として双方8,000程度の損害を出して痛み分けのような状況になって居る。斥候からはそう聞いている。
夜間の戦闘では、当初平家軍優勢で進んだものの、撤退する平家軍を埋伏していた兵で横撃して足止めをしている処へ、夜襲から体勢を立て直した友軍が後方から喰らい付いてかなりの出血を強いたらしい。が、平家軍を包囲殲滅すべくその軍頭を抑えようと兵を動かした処で、猛烈な反撃を受けてしまいこれを逃してしまって居た。
その後その場で軍を再編せざるを得なくなったが、再編作業自体は郭図が受け持ち、夜間の戦闘で重責を担った二将へ、包囲戦に参加していなかった兵を再編し新たに付属させて追撃戦を行っている。
「ふむ。張コウ、卿の心配は杞憂であったな。郭図は功に逸って敗れるどころか、属将に功を譲って後方から彼らを支援し勝っている。我らも合流することだし、このまま油断をせねば負けることはあるまい」
「負けることが無いのは決まっていることだ」
審配の発言に対し、不機嫌にそう答える。現状に対しては納得が行かない思いが強い。
「張コウ、卿は何が気に入らぬのだ」
───何が気に入らぬのか、だと?
全てだ。全てが気に入らない。
郭図が孔明殿の企図を外れて行動したことが気に入らない。
郭図が武器を持たぬ民を撃殺せんとしたことが気に入らない。
そして何より、郭図が郭図らしくないことが気に入らない。
郭図の才幹を考えれば、平家を眼前にして敢えて兵を二分し、夜襲に耐えて後に撤退する敵を横撃して殲滅を図る、という策を考え付くことは出来るかも知れない。夜襲を待ち受ける際の不安に耐えるには勇気が必要であり、それに郭図が耐えられるかと言えば非常に疑わしいが、絶対に自分の身は安全だという確信があればそれも可能だろう。だから、その策を思いついて実行するという点についてはまだ良い。だが問題はやはり、郭図自身の振る舞いについてだ。
俺の知る郭図という男は、常に自分が衆目を集めて居なければ気が済まない男であった。澄ました顔をして属将の功をお膳立てしてやるような殊勝さなど持ち合わせていなかった。そうであればこそ、官渡大戦では田豊の無駄な努力が無駄で終わったのだ。もし郭図が今のような殊勝さを持ち合わせていたならば、無駄な努力は建設的な努力に、いや、そもそも努力をする必要すらなかったかもしれない。大戦も、もっと違った展開を見せていただろう。
審配や逢紀は官渡大戦後に変わったが、その際には田豊や沮授、俺に対して詫びを述べたり、在りし日の己を思い返して懺色を見せたりしていた。それは自省が齎した結果だ。だが郭図は違う。俺が并州へ様子を伺いに行った際、奴はまるで官渡では何もなかったかのように振舞っていた。実に郭図らしい、俺を見下した態度を取って居たりもした。それはつまり、己のしたことと正面から向き合って居ない為に、何の反省もしていないと云う事ではないのか。己が失態を、振り返ることなく棚上げにしているだけのように思える。
郭図は、その人格が一変したと思われるような行動を取っているにも拘らず、官渡大戦から観察してきたその態度が実に郭図らしいものでしかなかったというその事実が、郭図は変わったのだと俺に思わせてくれない。だから、気に入らない。辻褄が合わないのだ。どこかがずれているような、そんな感覚が俺を一層苛立たせるのだ。
「卿は何も感じぬのか、審配」
「ふむ。考え方を変えてみてはどうだ」
「考え方、だと?」
「そうだ。郭図が卿らに頭を下げぬと云うが、それは郭図らしい振る舞いではないか。郭図にも面子と云う物が有ろう。己が失敗したという状況に陥って猶それに固執していると考えれば、実に郭図らしいと言うことも出来るではないか。属将に功を立てさせるのも、官渡大戦で己独りの力の限界を知ればこそだと思えば辻褄も合うではないか。良い方に考えれば袁家の将来の為に、悪く考えれば己の与党を増やして袁家における勢力を増す為にそれを行っていると説明付けることが出来る。良い方は兎も角、悪い方でものを考えて納得行かぬと云うことはあるまい?」
「……確かにそれなら辻褄は合うか……」
「そうだろう。孔明殿と言い卿と言い、少し物事を悪く考えすぎる。差し当たって問題が発生している訳ではないし、順調に事が進んでいる処に態々水を差すこともあるまい。今は一刻も早く友軍と合流し、戦に遅れぬようにしようではないか」
「……ああ、分かった。今は卿が正しかろう」
孔明殿も、審配に何か言ったらしいがそれは今は良い。審配の言った通り、今は友軍に合流することを優先すべきだろうからな。
郭図達と無事合流した後、引き続き後詰として奴らを支援し続けた。平家軍は、時に踏み止まって戦い、暫く継戦した後撤退すると云うことを繰り返しているが、その都度数を減らし続けていた。途中から呂布が兵を率いて合流し殿を務めているが、状況を劇的に変化させることは出来ていない。まあそれはそうだろう。万夫不当と言えど所詮一人に過ぎぬ。万余の矛に囲まれ、矢を射かけられて無事で居られる人間など居ない。全く戦線に影響を及ぼさないと云うことはないが、それにしてもその隔絶した武勇によって消耗する速度が多少遅くなった程度であって、戦局を覆すほどの力はない。
平家軍を追撃して三日後、前方に平家軍が展開して此方を待ち受けていた。斥候に拠れば、どうやら民の集団に追い付いてしまったらしい。民に被害を出さぬことを考えているであろう平家としては、此処でもう一戦する必要があるとの結論を出したのだろう。中央に董卓、右翼に呂布、左翼は魏延が居り、魚鱗陣を布いて此方を待ち受けている。
これに対する我が方は、右翼を李孚、左翼を田予が纏め、中央に俺と審配が居る形だ。郭図はと言えば、相変わらず後方で疲労し傷付いた兵達の手当てをし、また休息を取った者達を再編して再度前線へ送り返すと云うことを行っていた。あちらの魚鱗に対し、こちらは横陣を取っている。これは、あまり追い詰め過ぎぬ為だ。
兵の数では此方が圧倒的に有利だ。平家軍16,000程度に対し、此方は36,000。後方にいる郭図の処に居る兵を合わせると42,000を数える。が、あの16,000は鋭卒だ。偃月陣を布いて強引に突破す構えを見せれば、その悉くが死兵となり兼ねず、そうなれば此方の損害が大きくなる。
今此処にいる平家軍が全滅しても、平教経個人としては痛かろうが、平家軍としては然程の痛手にはならぬ。兵は多く、また将も数多居る。それに対し、此方は出来るだけ損害を抑えて勝たなければならない。此処で全てを擲って、それで勝てれば良いという状況ではないからだ。これに勝ったとしても、まだ先がある。我らに求められている、先に繋がる勝ち方とは即ち、兵を温存しつつ出来るだけ多くの敵兵を屠ることに尽きる。
最も望ましいのは再度撤退を開始した敵軍を後ろから追撃し続ける形を取ることだが、民に接近しすぎた現状でそれは望めない。奴らを死兵とせぬ為に出来ることは、いくら此方が優勢になろうとも退路を閉ざさないという程度だ。もし退路を閉ざせば、下手をすれば30,000は殺されかねない。
「張コウ、右翼が平家軍と接触したようだ」
「李孚か……上手くやってくれれば良いがな」
「まあ何とかして貰わなければならぬ……そう言っているうちに左翼も接触したな」
李孚と田予がゆるゆると攻めかかる。必死に食らい付けば、向こうもそれに呼応して必死に防戦するだろう。一気果敢に攻め掛かって敵の戦意を喪失せしめることも考えないではなかったが、それをやれば追い詰められた敵はむしろ開き直って死ぬまで戦い続けるかも知れない。そうさせぬ為に此方の威勢を認識させ、ゆるゆると攻めることで威圧を加えて士気を削ぎ、退路を閉ざさぬことで逃げるという選択肢を選ばせる余地を大いに作っておいてやる必要がある。
「決して急がず、真綿で首を絞めるようにやろう。ゆっくりとやれば良い」
「そうだな。主導権は此方が握っているのだから」
審配と言葉を交わしていると、本営の兵が走ってやって来た。戦場を見れば、何を焦っているのかは分かる。
「申し上げます!」
「言ってみろ」
「前方から敵騎兵が接近!呂布隊と思われます!」
「旗が立てられているからな……左翼は何をしてる」
「隊内を横断されて混乱しているようです」
「相手が呂布では少々荷が勝ちすぎたか」
どうやら此方がゆるゆると寄せるのを見て、その目的とする処を先ず挫いてやろうというのだろう。此方の戦略を挫くことで先の展望を開こうという訳だ。兵を失いたくなければ、一旦後退しろ。そう、行動によって告げている。
此処に居ながらにして見える雄姿。敵兵の先頭に立っているのは、恐らく呂奉先その人だろう。流石に『飛将』と呼ばれるだけのことはある。寄せて征く兵をいとも容易く薙ぎ払っている。別段力を込めているようにも見えぬし、その表情に切迫したものを窺うことは出来ない。眼前に展開している万余の兵を見て、興奮も危機感も覚えていないということだろう。それ程に、彼女は強いと云う事だ。
「流石、の一言に尽きるな、飛将軍は」
「張コウ、のんびりと構えていて良いのか?」
「そう言う卿とて余裕があるではないか」
呂布の武勇は脅威の一言に尽きる。が、それは個としての強さでしかない。集団としての強さは、個としての強さとはまた別の次元の存在する。弱者には弱者なりの、それに相応しい戦い方と云う物が有る。
「弓兵と弩兵を前へ出そう。箭を嫌と言うほど浴びせてやる。私が出向いて良いか?」
「あぁ、そうして呉れ。俺は此処で全体を見ているから、そちらの指揮は卿に任せる」
「任せておけ。卿を失望させるような真似はせぬ」
審配が兵を率いて前線に向かう。奴なら大丈夫だろう。頭が固いところがあるが、兵の指揮は拙くない。何より、俺がどう考えているかを察することが出来ているはずだ。任せておけば問題はないだろう。
「李孚と田予に伝令だ。敵に釣り出されること莫れ、と。唯それだけに気をつけよと伝えろ」
「ハッ!」
呂布は審配に任せておくと決めたのだから、そちらに備える必要はない。此方は今まで通りに嫌らしい戦い方を続けるだけだ。退がる気配があれば突っかかり、開き直って踏み止まろうとしたら距離を取って矢を射掛ける。一部の隊だけが踏み止まって、他の隊が撤退する為の捨て石となろうとしているなら、これを全力で粉砕して追撃する。あちらの動きに合わせて、無理なく兵を動かせば自ずと結果が付いてくる状況が創り出せている。事をこの戦場に限れば、時間の経過は我が軍を利するのみだ。
ふと気になって審配達の様子を確認すると、呂布が自陣に帰還しようとしていた。その配下の兵は、突入してきた時に比べてかなり損耗している。
審配が前線に到着してから幾許も経たない内に、呂布は進むことが出来なくなった。審配は前線に到着するや否や、大量の箭を一斉に浴びせてやったのだ。呂布自身は槍を振ることで箭を払っていたが、周囲にいる者達はそうはいかない。身を護る為に盾を翳すなりしなければならず、必然前進する事が疎かになる。今回は射掛けた箭が多かった為、完全に足が止まってしまった。そこから再び前進を開始するには、箭に対する備えが不足している。遮二無二前進すれば、呂布自身が無事だとしても周囲の者は次々に斃れ、結果として敵中で孤立しかねない。
強烈な個と言えど、集団に有っては周囲に合わせざるを得ない。少数の強烈な個によって多数がより有効に機能することはあるが、同時にまた多数の愚昧さに少数の強烈な個が足を引っ張られることもある。だからこそ、戦をする際には強烈な個を相手にするのではなく、柔弱な多数を相手にすることを考えれば良い。味方について考えを巡らせるときも同様で、弱い部隊を基準にして策を考えなければ戦は成り立たない。故に、呂布は徹底的に無視するに限る。彼女の周囲の人間を抑えれば、それが彼女自身を縛ることに繋がる。
審配は、その俺の考えと同じ考えをして居たらしい。実に俺が思った通りの戦ぶりであったし、また思った通りの結果であった。このまま順調に行けば、敵将を屠ることも叶うかもしれない。将を失ったことで激昂して攻め入ってくるようであれば足を掬い易いし、そうならなくとも有能な将を殺せば平家の力を削いだ事になるには違いない。
「た、大変です!」
血相を変えて、兵が飛び込んでくる。大変とは何だ、大変とは。そもそも大変と云う言葉は、大きく変ずることを意味するものだ。戦況が大きく変わるような、何が起こったとでも言うのか。
「どうした。華雄でも突っ込んで来たのか?」
「左前方、董卓軍の右後方より騎馬隊が急速接近して来ます!」
「……思って居た以上に早い。旗印を確認したか?」
「旗印は『張』。恐らく函谷関の張遼が此処まで出張って来たものと思われます!」
いつかは来ると思って居たが、まさかこれほど早く、そしてこの時機に来るとは思って居なかった。兵の言う通り、これは大変なことが起こったものだ。そう思いながらも、目は張遼隊と思われる部隊を追いかけていた。
───前線から兵を少しずつ引き抜いて再編し、張遼への備えとしなければならないだろう。数は然程多くないが、行動は機敏であり、見るからに鋭さを持った部隊だ。受ける印象は強烈であり、無視することは出来そうにない。
叶うなら此処で一緒に屠ってしまいたいが、それは無理だろう。が、状況は依然此方に有利であることは変わらないし、すべきこともまた変わらない。
危険を最小にすべく慎重に計画し、最大の成果を上げるべく大胆に実行する。そうして創り出された流れを止めることは出来ない。張遼がこの戦場で何が出来るか、その手並みを拝見させて貰うとしよう。