〜朱里 Side〜
あり得べきでない事態が出来した。
郭図さんがその翼将である田予さんと李孚さんを引き連れ、新安の民を撃殺するために進発したというのだ。報告を聞いた当初、何を馬鹿なことを言っているのだと思った。事前に話をした際に、それは認められないとはっきり伝えてある。再度事実を確認して報告するように命じたが、結果は同じだった。
───何と云うことをしてくれたのか。
私が建てていた戦略上、此処で無理をして平家軍を叩く必要はなかった。一戦もせずに撤退するならそれも良し、平家は袁家の武威を畏れて居るのだと喧伝することが出来た。矛を交えることが出来たにも拘らず、それを為さずに撤退したという事実がその主張を補強することになったであろう。
民衆を撃殺するという策を実行すれば、間違いなく袁家は衰頽する。何故それが分からないのか。徳義が明らかでない国の社稷が永く保たれるはずがない。何れが勝つにせよ最終的な目的とする処は『民を安んじる』事であろうが、袁家がそれを掲げることが譎詐に過ぎなくなってしまう。
沈鬱な心持で居る所へ審配さんがやって来た。どうやら彼は郭図さんの策に賛同しているようだ。郭図さんが彼に依頼した役割は、私と話して先行した部隊の後詰として兵を派遣することを認めさせることだろう。放っておく訳には行かないのだから、後詰は認めざるを得ない。
挨拶もそこそこに話を切り出そうとした審配さんの機先を制して、後詰に兵を回すことを認め、またその指揮官として張コウさんと審配さんを指名すると、驚いた後納得の表情を浮かべた。その彼と今後の展望について話をするが、やはり彼も社稷の臣足り得ないらしい。先のことを考えて沈鬱さを拭い去ることが出来ずにいた私に対し、審配さんが不思議そうに指摘をしてくる。
「孔明殿、一体何が貴女にそのような沈鬱な表情を作らせるのか、私には皆目見当がつかない。郭図の策により、平家が進退何れを選ぶにせよ、代償を支払わねばならぬと云う状況に追い込んでいるではないか。この戦は我らの勝ちであり、その先に繋がる勝ち方が出来ることが分かっている今、何を心配することが有るのか」
「私が畏れるのはただ天の采配のみです」
「天の采配?」
「そうです。貴方は先に繋がる勝ち方が出来ると言いましたが、将来麗が『民を安んじる』ことを理由に何かを為そうとした時、人はそこに譎詐を見るでしょう。本当にそれを目的として発した言葉でも、ある人にとっては信を欠き、またある人にとっては嘘臭さを感じるものかも知れません。信(まこと)を欠く言葉を戯言と云い、嘘に塗れた言葉を妄言と云います。私達はそれを為す者と見做されてしまうのです。
老子に『天道に親なし、常に善人に与(くみ)す』と有ります。善人がどのような人を指すのか、厳密には老子以外には言い表せぬと思いますが、少なくとも戯言や妄言を為しはしないでしょう。また易経に『積善の家には必ず余慶あり、また積不善の家には必ず余殃あり』と有ります。民を撃殺しなかったとしても、それはそうならなかっただけでそれを為そうとした事実は変わりません。それは不善を積んだこと以外の何物でもないではありませんか。故に天の采配は袁家に辛くなるのではないかと、ただそれを畏れて居るのです」
「確かに我らが民を撃殺するような事態になればそのようなこともあるかも知れないが、平家が留まって民を護らんとした場合は、真実を知ることが出来る者は居ないはず。撃殺しようとしていたと言われようと、そのようなことはないと強弁すれば問題ないのではないか?民意が天を動かすものであるとしても、民と云う物は総じて愚劣だ。証がなければ強弁して押し通すことが出来るであろう。我らが企図したことが噂されることはあっても民に知れることはあるまい」
「貴方は関西の孔子と呼ばれた楊震がかつて言ったことを知りませんか?『天知る、地知る、子知る、我知る』。今貴方は、真実を知る者はなく、民はその愚劣さゆえに我らの企図に気が付かないだろうと言いましたが、貴方の言う『誰も知らないはずの真実』を、既に天地、そして私達は知っているではありませんか。そういった意識の粗漏からは、人は自由では居られません。それでどうして他に漏れないと言えるでしょうか」
「孔明殿は心配しすぎだ。日頃の激務により、少々不安定になっておられるだけだろう。麗羽様は変わられ、我ら家臣団はいがみ合うことをしなくなった。平家に対してもやり方次第で優位に戦えることは立証できた。我らの前途はまだ暗いとはいえ、光が射して来ているには違いないのだ。油断はならぬが、少し気楽に考えられよ」
審配さんは少し苦味を含んだ表情をし、そう言い残して洛陽を後にした。
───楽観的に過ぎはしないか。
郭図さんにせよ審配さんにせよ、目先のことしか見えていない。これから始まる戦は、これまでの戦とは全く異なる。天に、袁家と平家、その何れが相応しいのか判断を仰ぐ。そう云う側面も有した戦になる。袁家が作り上げようとする統一後の王朝がどのようなものなのかを、血で血を洗う戦の中で民に、そして天に見せなければならない。だからこそ、天を動かしうる民に対して説明のつかない扱いをするべきではない。
ふと、郭図さんや審配さんの、臣下としての在り様について疑問を覚える。彼らは自らを袁家の忠臣だと考えているだろう。実際、この先袁家が滅ばんとしたならば、彼らは袁家を裏切ることなく死ぬつもりなのだろうし、主家に忠実であると云う点では間違いなく忠臣なのだろう。だが、仕える家が進む途を誤らせ、その将来を危うくするが如き臣を果たして忠臣と呼べるのだろうか。
だが今更そのようなことを言っても始まらない。既に賽は投げられた。投げられてしまったのだ。私が描いた戦場で、私が投げるつもりであった賽とは趣の異なる賽が、私の手に依らずに投じられてしまった。
撃殺せんとする意図は民に知れただろう。そう考えるべきだ。そしてそれを拭い去ることは最早叶わない。どう取り繕おうとしても、表層だけの薄っぺらい嘘としか見えないだろう。最早当初企図していた策を為すことは、無意味を通り越して有害ですらある。
───この戦、私にはもう見ていることしか出来ない。
既にこの戦が私の手から離れてしまったことを感じながら、自分の中心にぽっかりと空いてしまった、何かしらの喪失感を持て余していた。
〜詠 Side〜
民を護る為、敢えて教経の言に従わずに袁紹軍とぶつかる。
月の方針を聞かされた時、正直それは下策だと思った。教経が一番恐れているのは、ボク達弘農駐留軍の主力を喪う事。それを避けることに至上の価値を置き、その上で出処進退を決定するように、という命を受けている。それを覆すような真似をする月に、最初は戸惑った。月だって理解できているはずだ。それにも拘らず出撃し、覆滅される危険を冒すのは何故なのか。
そう問い詰めたボクに対して月が述べたことは、ボクを驚かせた。
教経はこれまで民を安んじる為に戦をしてきた。その戦の過程で、不必要に民を殺すような真似はしてこなかった。だからこそ、皆教経が語る理想の世の中を信じることが出来る。けどもし此処で民を見捨てて撤退したら、教経を信じることが出来なくなる人間が出てくるだろう。
王朝の性質と云う物は、それを開闢した人間が掲げた理想やその性格、近臣の質に大きく依存している。ここでもし、教経が乱世に乗り出してから、その骨子として掲げ続けてきた恤民の心が偽りであることにされてしまったとしたら、たとえ召が天下を統一しようとその治世は長く続かない。真実がどうあれ、この時代に生きる民がそこに如何わしさを感じてしまったら、社稷は安定を見ない。孟子も『民を貴しと為し、社稷之に次ぐ』と言っている。民意が天を動かし、天意が民を通して示されるものであるならば、民を踏み付けにするような真似は絶対にするべきではない。
そして何よりも、圧倒的な力を前にして己の身を守る事すら叶わぬ弱者を故なき暴力から護ることは、『義』と言えるだろう。
『見義不為無勇也』。
教経はそう言って月を助けてくれた。もし教経が今同じ立場に居たとしたら、きっと同じことを言って目の前の民を助けようとするだろう。月は、教経に助けられた命を保って、教経の代理として、今此処に居る。だから月は、教経に成り代わって義を見て為すのだ。他の誰のものでもない、教経の理想が穢されることだけは、何があっても耐えることが出来ないから。
ゆっくりと、しかしはっきりと、ボクの目を見つめながらそう言った。
今まで、月が自分の意思を此処まではっきりと、諌めることは出来ないと思わせる程に表に出すことはなかった。それは他者の考えを受け入れる度量の広さの表れであると同時に、他者の思惑を脇に置き自分の想いを貫き通すことが出来ないの心の弱さを月が持っていたからだと思う。
その月が、意志を押し通すどころか理想を貫く為に犠牲を払おうとまで言っているのだ。驚かない訳がない。
───ねえ月。月が変わったのってひょっとして……。
そう切り出したボクに、それまで凛々しかった月は明らかに動揺して、ボクが良く知る月のように俯いて、途切れ途切れに、そして紆余曲折は有りながらも、『教経のお蔭』ではなく『教経の為』であることを認めた。全く、本当にアイツはポンポンポンポンあちこちで女を落とすんだから。まあ月については風が随分前から怪しいって言ってたし、ボクとしても月の気持ちは応援してあげたいから別に良いんだけど。
ともあれ、応援するにしても先ずここを切り抜けないとね。ただ教経、次に会ったら思い切り蹴飛ばしてやるんだから。覚悟しておきなさいよね。
月が迎撃することを表明した翌日、ボク達は最後の軍議を開いて方針を確認した。皆緊張していたが、それも仕方がないのかも知れない。
前方には30,000の敵軍が、こちらの動きを察知して展開を始めている。朔や焔耶、去卑は軍を幾つかの集団に分けてそれぞれ独自に動き、時間を稼ぐということを考えていたみたいだけど、それは全然理に適ってない。唯でさえ敵より兵が少ないのに、それを更に少なくするなんて有り得ない。各個撃破の良い的になるだけよ。
相手は30,000だけど、その後ろに更に20,000が迫っていることは分かっている。それに対するボク達は、急使を仕立てて呼び寄せている恋達が合流したとしても25,000弱にしかならない。霞が都合良く動いてくれていたとしても、今この場に駆けつけることは絶対に無理だ。恋達が間に合わなかった場合は此処に居る18,000で最悪50,000を相手にすることになる。民達を護る為に、彼らが逃げるための時間を稼ぎ出す必要があるが、時間を掛ければ掛ける程ボク達にとって状況は悪くなる。
状況は最悪に近いけど、その最悪はまだ現実になってない。最悪な状況だと約3倍の敵を相手にしなければならないけど、現状だと2倍に満たない敵を相手にするだけで済む。後詰が合流する前に眼前の敵を一撃し、それが可能であれば痛手を与え、不可能であればある程度の損害を覚悟の上で撤退する。何れにせよ、あちらが合流した後に撤退するのは現実的じゃないし、それを許してくれるとは思えない。
全軍で正面からぶつかり、互角に戦うことは可能だ。歩兵の数に劣るボク達は、しかし騎兵の数ではあちらを圧倒できるだけの数が揃っている。敵の攻勢を中央で支えている間に、左右に配置した騎馬隊で敵両翼を蹂躙、突破して敵後背を脅かす。それに対処しないようであればそのまま包囲して殲滅すべく兵を動かし、敵の後詰が来る時機を見計らって撤退すれば良い。対処してくるようであれば、それを機に撤退すれば良いだろう。さも何か策が用意してあるかのように撤退すれば追い難いものがあるだろうし、実際恋達と合流すべく移動するから追いかけて来ても恋達に駆逐されるだけだ。
だから、正面からぶつかり合う。余力は残すことは考えないで良い。今回の戦全体でみれば先手を取られ続けているが、事をこの戦場に限ればボク達が先手を取っている。戦の結果として弘農を喪うことになるのは間違いないが、此処での戦闘には勝てる。そして今重要なのは、此処での戦闘に勝つことだ。
「いよいよ始まるわよ、月」
「うん」
夜が明け、目の前には戦場が開けてくる。ここで、月は戦うのだ。
「……大丈夫?」
「大丈夫だよ、詠ちゃん。私は焔耶さんや去卑さんを信じて此処で耐えるだけだから」
「ご期待に背かぬよう、最善を尽くします!」
「まあ騎馬戦であっしらに勝とう何ざちゃんちゃらおかしい話でさぁ」
「……月様に害を為さんとする者共は、必ずや我らが駆逐して見せます。そうだな?貴様ら」
「「「「「おぉーーーーーーー!!!」」」」」
華雄隊だけじゃなく、全体的に士気が高い。士気だけで戦に勝てる訳がないけど、低いと抑々戦にならないことを考えると、士気が高いに越したことはない。
「皆さん……有難う御座います。そして、お願いします。私に力を貸してください」
「可憐な美少女のお願いだぁ〜!」
「「「「「ヒャッハー!」」」」」
……高いに越したことはない、と思う。
「アンタたち、分かってるでしょうね?」
「ハッ!中軍が劣勢であろうとも、眼前の敵を突破して後方を扼すことだけを考えます!」
「与えられた役割を果たして見せまさぁ」
「月様を守護する壁となる。何人たりとも月様の御前に生きて進ませはしない」
「この戦は進退が難しいから、必ず中軍からの指示には従って。焔耶、去卑、いいわね?」
「ハッ!」
「ヘイ」
「月、最後に皆に言葉を」
「……征きましょう。恤民の理想を掲げ続ける資格を勝ち獲る為に。時代を創るのです、私達自身の手で」
皆が頭を垂れる。月の為に、そして月が言った通り教経の為にも、民を護り、そしてせめて将は皆無事に還りたいものだと思う。
〜朔 Side〜
袁紹軍とぶつかりあってから暫くの間、先鋒は何とか相手を抑え込んでいたが、やはり数の差は如何ともしがたい。かなり前方で交わされていたはずの剣戟が、その音を耳に入れることが出来る程の距離で交わされている。随分と前線が押し込まれているらしい。
此処で我が隊を前線に投入し、戦線を押し戻すのも一つの手だ。もっと引き込んで徹底的に叩くという手もあるが、支えきれずに潰走する危険性もある。月様はどう判断するのだろうか。そう思い、本陣へ目をやると、『董』の旗が縦に振られていた。
前進し、奮戦せよ───
旗はそう言っている。それが一番の策だろう。月様の用兵は悪くない。そう思うと、無性に嬉しくなった。
「聞けッ!華雄隊の皆よ、月様に従う同朋達よ!」
気を引き締め、隊士の士気を鼓舞する為に声を張る。士気を極限まで高めて力を奮える状態を作り出し、これを一気に叩きつけて前線を押し戻す。
「月様の命により、我らは之より死地に入る!これから我らの前に多くの敵兵が立ちはだかり、我らを殺さんと殺到してくるだろう!奴らが目的としているのは、何か!?貴様らの命を吹き消すこともその目的とする処であるが、それは附帯に過ぎない!奴らの目的とする処はひとつ、月様を戮すことである!貴様らはそれを認められるのか!?」
「否ッ!断じて否ッ!」
「認められる訳があるか!」
次々に否定の言葉が投げ掛けられる。
「では月様を戮さんとする敵を前に、貴様らが為すべきことは何かッ!?」
私の問いに対し、至る所で『敵を殺せ』と声を張り上げている。戦意旺盛で結構なことだが、嘗ての私宜しく至上目的を忘れるようでは困る。
「心得違いをするな、この莫迦者共がッ!我らが為すべきことはただ一つ、月様を護り参らせることであるッ!」
「護り参らせる……」
叱責されたことで少々頭は冷めただろう。これでその頭に、敵を殲滅することより、己が手柄を立てる事より、先ず何よりも、月様を護り参らせることが我らの任であることをしっかりと刻み付けることが出来る。それを確と刻み込みながら、冷めた頭をもう一度熱してやる。
「そうだッ!己が命を捨てて月様の為の盾と成れ!月様の為の剣となる役目は他の者達に与えられる栄誉であるッ!我らはただ、月様を護り参らせる為だけの盾であるッ!敵を殲滅したとてそれは我らの誉に非ず!我らの誉はただ月様の生存だけ!ただそれだけが我らにとってこの上もなき誉れとなろうッ!
厳しい訓練に傷ついた貴様らを手当てするように手配して下さったのは月様だ!貴様らが夜番警護に当たっている時、差し入れを下されたのは月様だ!先の戦で死んだ者達の家族を手厚く保護して下されたのも月様だ!その月様が生きるも死ぬも、我らの働き次第であることを知れッ!」
「……月様の為に!」
感極まった一人の兵が、そう叫んだ。それが切っ掛けとなり、其処彼処でそれに続いて声が上がる。
「「「「「月様の為にッ!!」」」」」
私の言葉で極限まで高められた月様への忠誠心が、堰を切ったかの様に奔流となってその場を支配するのが分かった。後はこれを叩きつけてやるだけだ。
「さあ、括目せよッ!今貴様らの眼前で多くの同朋が、月様を護らんと奮闘して居よう!我らは同朋を援け、敵を押し戻すッ!征くぞッ!」
「「「「「おおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!」」」」」
これ以上ないほどに士気が高まった状態で、前線へ進み始める。私が心血を注いで育て上げた部隊は、数的な不利をものともせずに討ちかかってくる敵兵を次々に殺しながら前線を押し上げている。後は深追いをせず、月様の前に戻って再び壁としての役目を果たすだけだ。
戦線は一進一退を繰り返していたが、日没を迎えると双方計ったように矛を収めた。
私自身が前線へ乗り出す回数は既に五度を数え、兵達の疲労もかなりのものがある。敵両翼を撃破するように指示を受けている焔耶や去卑がどうなっているかは残念ながら私には分からない。知らされていたとしても、私がすることは月様の傍らで月様を護る壁となることであり、私がすべきことが変わらない以上、特にこれと云った行動を起こすことはないだろうし、大した感想を抱くこともないだろう。
改めて陣中を見回ってみると、随分と多くの兵を喪っていた。18,000を数えた我が軍は大きくその数を減じている。目算で4,000余の兵を喪ったように見える。反董卓連合の折からずっと私と共にあった者達もその例外ではなく、幾人も冥府への門をくぐった。寂しさは感じるが、彼らが護りたかった月様を護り抜くことが彼らの供養になると信じて励むだけだ。
見回りを続けていると、向こうから月様と詠がやって来た。月様自身も、敵を押し戻すために前線へ三度お出ましになり、弓袋を左右に携え、巧みに敵兵を射抜いては味方を鼓舞して回っていた。当然私もその都度月様に付き随い、月様を目敏く見つけては害さんとやって来た者達から月様を護り続けたが、私の力が及ばず月様は二、三の矢疵を受けてしまっている。
「月様」
「朔さん、お疲れ様です。朔さんも見回りを?」
「ハッ。兵の状態を把握しておくのは将として当然の事でありますので」
通り一遍の挨拶を交わしていると、詠が私に、現状についてどう考えているのかと問いかけてきた。
現状は、中々に難しい状況だろう。戦況こそ一進一退で推移してはいたものの、体力的には限界を越えつつあったのだ。兵の練度と連携の良さで数の不足を補ってはいるが、間断なくやってくる敵を相手に戦い続けている状態だ。明日一杯我慢出来るかどうかという処だろう。
「だからそれ以上の戦線維持は無理だと思われる」
「そう。ボクもそう思うわ」
「詠、焔耶と去卑の方はどんな具合だ?」
「それぞれに感想を聞いたら、焔耶は自分の相手をしている将は侮れないのではないかと言っていたけど、去卑は今日の戦闘で底は知れたと言っていたわ」
「ふむ。全ては明日決するということだな」
「いいえ、違うわ」
明日、全てを掛けて決戦に及ばんと意気込んだ私に、詠が笑いながら首を振る。
「何が面白い?」
「ああ、ゴメンゴメン。今のアンタでも今日の戦闘はもうないって思ってるってことは、きっと向こうも同じなんだろうと思って」
───まさか。
虚を突かれた思いで詠の目を覗き込む。
「そ、そのまさか。焔耶と去卑の指揮する騎馬隊を合流させて、焔耶が手強いと言っていた敵左翼に一気にぶつけるのよ。焔耶は手強いと言っていたけど、それはそこに手強い将を配置する必要があるということを意味しているわ。つまり、扇の要となっているのはその部隊と云うことでしょう。そこを叩けば、敵を壊滅させることは出来ないとしても、軍を再編せざるを得ない程度には混乱させることが出来る。そうすればボク達も撤退できるって寸法よ」
「相手の不意が衝けるか?気取られる公算の方が高いと思うが」
「普通なら気取られるかもね。通常、馬は思い通りには動いてくれないものだから。黙っておけと言ったところで嘶くのを止めることは難しいしね。けど、今回は去卑達が居るわ。馬の扱いに慣れている彼らが居れば、気取らずに接近することも出来る。初手は取れるでしょう。その後焔耶が突入すれば、更なる圧力を受けた敵は混乱を来すはずよ」
「そうかもしれぬが、二人だけで大丈夫なのか?敵陣を衝いた後、容易に逃がしてくれる相手とは思えぬが?」
「大丈夫よ。騎馬隊がぶつかったら、本隊を敵正面に叩きつけることで、敵左翼に向かう援護を差し止める。本隊の方が数が多いし、騎馬隊が陽動でこちらが本命だと思うでしょう。そうすれば騎馬隊は撤退するだけの余裕を与えられるわ。騎馬隊が撤退し始めたらこちらも退く。後拒は去卑と焔耶の騎馬隊が行えば、然程被害を出さずに済むでしょう」
問題は兵の疲労だが、此処で敵陣を攪乱して時間を稼ぐことが出来るなら、多少の無理をさせるだけの価値はある。撤退に成功すれば恋達と合流できるし、函谷関の霞は座して待つのみではあるまい。函谷関付近まで撤退すれば、形勢は此方の方が優位になる。そこに至るまでに、更に多くの犠牲を払うことになるのだろうが、それは戦うことを決めた時点で分かっていたことだ。此処が踏ん張り処だろう。