〜郭図 Side〜
官渡大戦での勝利後暫く休養を取っていた私は、現在麗領内の代官として代県に赴任して先の皇帝を監視しつつ、次の戦に必要となる糧食を集めている。本来であれば次の戦を取り仕切る軍師として麗羽様の膝元で袁家の兵を取り纏め、軍備を整えるべく指示を出し、平家を追い落とす為の策を練って居たはずだ。
それがこうして代県くんだりまで来ているのには理由がある。
一つには、麗羽様に禅譲した愚物の処分を行う為。田豊と沮授、そして当初は禅譲後に愚物を処分することに賛成していた筈の審配や逢紀までもが、あの愚物を処分することに反対してきた。当初そうすると決めた事を途中で変更しても良い結果は得られない。機に臨みてこれに応じたつもりかも知れぬが、生かしておいても利益は無いし、病死であればそれも天命と世間は言うだろう。何より、劉虞に心を寄せる人間など皆無。後々どんな我が儘を言い出すか知れたものではないし、此処で処断しておくのが上策だ。
現在、先帝である劉虞は城の一角にある倉庫の中で、彼奴が溜め込んできた芸術品を愛でている。もう10日、寝は兎も角食は忘れて愛で続けて居る。残念なことに私には審美眼というものが備わっていない為先帝に付き合うことは出来なかったが、田豊が付けた先帝の護衛達はその役割上側を離れる訳には行かない為、ずっと共にいるようだ。その役目への情熱には本当に頭が下がる……馬鹿めが。
そのあまりの熱中ぶりに、ひょっとすると、いやきっとそのようなことはないと思うのではあるが、餓死してしまうのではないかと心配になってしまう。こちらから美味なる食事を窓から差し入れているにも関わらず、全く手を付けていらっしゃらないようだ。そのあまりの美味しさに喜び勇みすぎて壁に頭を打ち付け続け、歓喜のあまり血涙どころか顔に空いている穴という穴から血潮を吹き出して倒れた護衛が居たが、それを見てから誰も手を付けなくなってしまったのだ。少々味付けを薄くすべきであったかも知れない。そうすれば先帝も好んで食して下さったかも知れないのに。全く、我が儘で困ったことだ。
ただまあ、こちらから食事を差し出し何くれと無く世話を焼いたにも拘わらず、己の趣味を優先して食を忘れた結果衰弱死してしまったとしても、最善の手立ては講じていたのだから致し方のないことではある。世の中は上手く行かないことばかりだが、これで一つ目的を果たせると思うと肩の荷が下りた心持ちがする。
そして代県にいるもう一つの理由は、私が描いた戦で最後の最後に勝利を決定付けた、その場に偶々居合わせたに過ぎなかったにも関わらず、名声を独り占めした忌々しい少女が、代県で私に力を奮って欲しいと依頼してきたからだ。
言うことを聞いて貰いたかったら裸になって見せろという私の言葉に、躊躇いなく衣服を脱ぎ始めた少女を慌てて押し止め、少女のお願いとやらを聞く羽目になった。これが女性を強く感じさせる、例えば顔良などであれば問答無用で処女を散らしてやったに違いないが、流石に私は少女趣味ではない。正直忌々しいが、その覚悟は見事ではある。それさえも認められない程腐っては居ないつもりだった。
諸葛亮に依頼されたのは、糧食の備蓄と弘農の内偵。
糧食の備蓄は傍目には分からぬよう并州を中心に分散して隠して備蓄し、一報を受けたら即座に集積出来るようにして欲しいというもの。言うのは簡単だが為すのは難しい。分散して隠す。それは良いが、即座に集積出来るように、という部分がどうにも難しい。生半可な才能を有している人間では務まらないだろう。だからこそ、これは田豊でも沮授でもなく、貴方にしか頼めないことだと少女は言っていた。皮肉なことだが、私ほどの器量を持つ人間を理解する者はあの少女しか居ないらしい。
集積に時間が掛かるのは、集積命令を伝達する速度に問題があるからだ。人が馬に跨ってその命令を伝達しに行ったのでは、使者に駿馬を選んで与え、使い潰すつもりで無理をさせたとしても『即座に』集積行動を開始することは出来ないだろう。私は天賦の才を有すが故に、煙を利用した情報伝達方法を考案した。それがかつて平教経が使用したことがある情報伝達方法だということを後で李孚に指摘されたが、それが本当なら平教経という男は中々の才があるのだろう。まあそれであればこそ、此処まで生き残っているのであろうが。
弘農の内偵については田予にやらせている。平家の治世に対し不満を覚えている人間はさほど居ないが、平家の治世が安定しているが故に美味しい思いが出来なくなった人間はおり、何とかその治世を覆す事が出来ないかと画策しているようだ。彼らに渡りを付け、繋がりを保持しておくことで後々役に立たせることが出来るかも知れない。こちらからの交流の申し出に対し、総じて好意的な反応を返してきているらしい。精々有効に使い潰してやることにしよう。
一日、こちらの状況を視察する為に張コウがやって来た。
この私が準備に当たっているにも関わらず、張コウを視察に寄越すとは。残念ながらあの少女でも私と云う存在の真価を理解することは出来ないらしい。
「張コウ、貴様は何をしに来たのだ」
「何、卿が真面目に務めているのかを確認しに、な」
「ふん。貴様に心配される程落ちぶれては居らん。この私を舐めているのか?貴様は」
「良く吼えるな、郭図。逃げるように戦場から去った人間の言とは思えん」
「逃げる?何を馬鹿なことを言っているのだ?撤退は予定の内であったろう。たまさか撤退する部隊に属していただけではないか。馬鹿馬鹿しい」
そう言ってやると、少し眉間に皺を寄せ、眉を顰めた。
「正気で言っているのか?卿は」
「何がだ?」
「ふむ……一つ、良いか?」
「何だ?」
「烏巣襲撃後、麗羽様の前で何があったか、覚えているか?」
「敗戦の責任に耐えられず、辛評・辛毘が自害したな」
「……害を為すような真似はしないと天に誓おう。で、何があったか覚えているか?」
この男は一体何を言っているのか。天に誓うまでもなく、私を害することなど出来るはずもない。
「貴様には耳が付いていないらしいな。辛評・辛毘が自害した、と言っただろう」
「……そうか。それならば良い」
何を気にしているのか分からぬな、この男は。
「で、状況は?」
「私がやっているのだ、抜かりはない。糧食集積については今までに比すれば遙かに早く集めることが出来るだろう」
「自信があるようだな?」
「まあ見て居よ。文句は言わせぬわ」
「ならばそうさせて貰う事にしよう。調略も行っているはずだと孔明殿からは聞いているが?」
「弘農の有力者の内、旧時代の権勢を懐かしんでいる者共に既に渡りは付けてある。如何様にでも使い捨てることが出来るとまでは言えぬが、それでも何かしらの役には立つはずだ」
「どう役立たせるつもりだ?」
「さてな。ただどう使うにせよ、情に訴えるような形で使うのが一番だろう。平家の連中は総じて甘いからな。それが悪いと言うつもりはないが、その優しさはこの乱世にあっては害をもたらすだろうよ」
「そう上手く踊ってくれるかな?」
「簡単では無かろうが、踊らざるを得ない形を整えてやれば良かろう。選択肢が残っているから思い通りに踊らぬだけだ。それならば選択肢を限定してやれば良いだけのこと。奴らは『民の為に』戦をし、『民の為に』より良き政を行うことを心掛けているそうだ。私なら自縄自縛に陥らせてやる事が出来るだろう」
「孔明殿もそう考えているからこそ調略を命じているのだろうよ」
「甘いな張コウ。あの少女は私ほど非情には成れまい」
「そうかな。俺の目から見てかなり非情だと思うが」
「言い方を換えようか。何かを為す為に生じるであろう犠牲については織り込むことは出来るのであろうが、犠牲を前提にそこから派生する状況を利用することを思いつくような人間ではあるまい。人として香気を放ちはするだろうが、私のような人間には敗れるより他に途はない。だからこそこの任を与えるに私を選んだのだろう」
「……まあ一理あるな」
「そしてそれが真理でもある」
「……郭図。卿は一体どうしたのだ?こう言っては何だが、今の卿の姿は以前からは想像出来ぬ」
「昔からこのようであったろうが」
「ふむ……何も語るまい」
「用は済んだか?済んだなら私は席を外させて貰う。これでも忙しい身でな。卿もとっとと還るが良い、長居されて事が露見したのでは目も当てられぬ」
私に返事を返すこともなく少し考え込んでいる張コウを置いて、広間を後にした。
官渡大戦から此処までは全て想定通りに来ている。私が描いた絵図通りに。この次の戦でも、私の想像通りに勝利することが出来るだろう。
何もかもが、私の思うが儘なのだから。
〜張コウ Side〜
「どうでしたか?郭図さんの様子は」
「はぁ……まぁ何とも言えませんな」
孔明殿の問いかけに、何とも曖昧な答えを返す。
ギョウへ帰還した俺を待っていたのは、当然孔明殿。郭図が真面目に務めているかどうか、その準備に穴がないかどうか。そういった事を視察して報告して欲しいと言ったのは孔明殿であり、その依頼を受けて代県まで行ってきたのだから。
「何とも言えない、とは?準備や調略の内容を聞いて、判断に困ることがあったと云うことですか?」
「いや、そんな事はありません。郭図にしては冴えていたと思いますよ」
「では納得が行かないことでも有りましたか」
「いや。どちらかというと、『納得が行かないことがなかったことに納得が行かない』という状況ですかな。色々と言いたいことはありますが、特に言いたいのは奴の俺に対する態度が面妖しかったことについてですな」
「……事情は聞いていますが、怖れられるのは致し方ないことでは?」
「怖れられたのであれば納得が行っていますよ。今までの郭図から考えると怯えを見せて当然であるにも拘わらず、奴は俺を見ても何の怯えも見せなかった。それがどうしても腑に落ちないと云うだけです」
孔明殿は少し目を瞑り、眉間を右手で揉んでいる。出立の時にも思ったが、改めて見るとやはり疲労の色が濃い。官渡大戦からこちら、ずっと働きづめで休む暇など無かっただろう。それは皆に言えることだが、陣頭に立ちつつ全体を把握し、様々に手を打って居たのだ。考えれば直ぐに分かることだが、陣屋で休むのと城内で休むのとでは勝手が違う。余程しっかりしたもので無ければ陣屋では隙間風が入ってくるだろうし、寝台も堅い。敵襲を警戒して気を張っていなければならないと云うのも疲労の蓄積を大きくしたに違いない。
大丈夫なのか。
こちらの視線に気付いた孔明殿に、言葉ではなく、目でそう問いかける。
「……大丈夫ですよ。続けて下さい」
「はぁ。真実大丈夫なら構いませんが、大丈夫だと仰っているだけで実は……、と云うことはありませんかな?」
「大丈夫、と言ったはずです……平家に調略されている可能性はありますか?」
「平家について奴なりの分析を語る際の語り口から考えて、それはありますまい。それよりもむしろ、奴は頭がおかしくなっているのではないかと、そちらの方が心配になったのですがね」
「頭が……おかしい?」
「少々灸が効き過ぎたのかも知れませんからな。戦に出て苛烈な経験、有り体に言えば強烈な恐怖を体験した兵に、ああいった一種の健忘症のような症状を見せる者が居ます。まあそれにしてはしっかりとした話し口でしたし、頭脳の方も明晰でしたが」
「……仕事を任せられそうではあったのですね?」
「……俺が知る今までの郭図よりも、今の郭図の方が手強いでしょう。何故だか分かりませんが、自信に満ち溢れていましたからな。あれが己の至らなさを知らぬが故の過信でないことを祈りたいものです」
「派遣前に彼と話をした際には、そう云った処は見受けられませんでした。貴方が抱いた違和感が気になりますが……まあ、良いでしょう。それで、準備の方はどうでしたか?」
「糧食集積についてですが……」
良くはない気がするのですがね、アレは。報告をしながら、そう考える。
どうもこう、違和感が俺の躰に纏わり付いている感じが拭えない。アレは確かに郭図ではあった。俺に対する尊大な態度も、己の才覚に悦に入った様子も、郭図が郭図であることを示していたと思う。だが、やはりアレは郭図ではない何かであった気がして仕方がない。
「成る程、それは良い案ですね。では調略の方はどうですか?」
「そちらは……」
糧食集積の手立てと、弘農への調略の状況について報告をしながら、自分が抱いた違和感をどうにもねじ伏せることが出来ずにいた。
そして俺は、後日孔明殿と交わしたこの日の会話を思い出すことになる。
此処で感じた違和感は、決して軽視すべきモノではなかったという悔恨の念と共に。