〜稟 Side〜
教経殿が長安を出立したという知らせから二月後、漸く益州へいらっしゃった。通常ならとうに到着しているはずだが、生憎と教経様には所用があって長安から宛、建業、長沙、江夏と回ってからの成都入りとなった為にこれだけの時間が必要だったのです。
回った理由は、注意喚起でしょう。この度の教経殿の南蛮遠征中に、麗が攻め寄せる可能性が有る。それに対する心構えをしっかりと持たせ、対策をとっておく様に言って回ったに違いありません。その他にも理由があるとは思います。例えば、婚礼とか、婚礼とか、婚礼とか、婚礼とか……まあ、それだけでもないでしょうが。
もし弘農を攻められた場合、弘農から撤退せざるを得ない状況になるであろうことは想像に難くない。宛も建業も城壁は高く、また収容出来る兵も蓄えてある糧食も十分にありますが、弘農は城壁が低く、また糧食を蓄えることが出来る倉庫も少ない。無論、兵も全てを収容出来ない。だからこそ、敵は弘農に寄せてくる。
「その場合再び見える時には相手は勢い付いてしまうと思いますが、その辺りについて教経殿はどうお考えですか?」
いつも通り、寝物語に策を語る。それは、私達にとっては当たり前のこと。でも久し振りのそれは、私に嘗て無い程の喜びと悦びを感じさせてくれている。教経殿と離れて居た数ヶ月は、自分で思っていた以上に教経殿への思いを募らせることになっていたらしい。
「不敗の軍であった平家軍に勝利したという実績は大いに敵を勇気づけることだろう。自分達でも敵しうるという実績を、自分達自身の手で作り上げるという事だからねぇ。もしそういった自信を持って次の戦で向かい合った場合、麗軍をそれまでと同じように見積もると痛い目に遇いそうだな」
「それが分かっていて敢えて撤退させるのですね?」
「あぁ。但し、弘農に攻め寄せた場合は、だけどな。宛や建業を攻められたなら、撤退はしなくても良いだろう。十分に余裕を持って勝てるであろうから。ただ、もし弘農に攻め寄せられたなら、建業ではちょっとした調練をして貰うつもりだ」
「ちょっとした調練……成る程、それで各地を回っていたという訳ですね。教経殿風に言うと、ちょっとちょっかいを掛けてやろうということですか」
「よく分かるな」
「それはそうです。私は教経殿の軍師ですから」
麗が動員出来る全兵力はおよそ17万。もし弘農を攻める場合、必勝を期するならば6万は動員したい。それだけの数が揃えば、短期間での勝利が見込める。短期間での勝利は、糧食事情を考えても喜ばしいことでしょう。そうなると残り11万で領地の確保を行う事になるが、各地に満遍なく展開すると良い様に各個撃破されることは分かりきっている。
私なら……陳留と合肥。
此処を拠点として抗戦させる。宛と建業を比較した場合、より兵力が厚く機を見て外征を行おうという提案がまかり通りそうな宛に対して、より多くの兵を以て対抗する必要がある。また、弘農へ攻め寄せる軍の後背をしっかりと確保しておかなければ、遠征軍が崩壊してしまう可能性もある。その二つの必要性から、陳留により重きを置いて守備する事になるでしょう。つまり、建業にはかなり余裕ができるはずなのだ。
だから、調練という名の遠征を行う、ということでしょう。
「何を目的とした調練か分かるか?稟」
「考えられる目的は二つ。
一つは揚州で新規に徴発した兵の練度を上げつつ、実戦経験を積ませることで精強な兵を養おうということでしょう。10日の調練より、1日の実戦の方がより多くのものを得られるでしょうからね。勿論、基礎が出来上がっていれば、という前提が付いてきますが、そこは蓮華達を信頼しています」
益州攻略戦時に見た孫家の兵の練度は高いものだった。信頼出来るだろう。
その言葉に教経殿は軽く頷く。その顔には、うっすらとした笑いが張り付いている。二つ目の目的を私が読んでいるか、いや、読めていないのではないか、という感じの、ちょっと意地悪な顔をしている。
「もう一つは、『優勢であったが勝つ事が出来なかった』態で合肥攻略戦を終了させ、自信を自信として抱かせぬようにすること。己の力を見誤らせ、平家を見くびらせる。どちらかと言えばそちらの方が主目的です」
「断言するね。しかもちょっかいを掛けに行く地名まで」
「合っていますから」
「そうかな?」
「違いますか?」
「……合ってるよ」
「でしょうね」
笑いかけると、ちょっと舌打ちして苦笑いをしながら、私に口付けてくれた。
「ん」
「……にしても、よく分かったな。この目的を明かした時、わざと勝たない必要など無いと考えているから想像は出来ない、と冥琳や華琳には言われたが。ついでに反対もされたンだがね。稟は反対しないのか?」
「必要があるかどうかで言えば、必要無いと思います。が、反対は致しません。むしろ賛成したいですね」
「それはまたどうして?」
「教経殿は人の心の作用というものを重く見ていらっしゃいます。その思考をなぞれば、敵兵を、そしてあわよくば敵将をも増長させてやった方が戦に勝ちやすいだろうと考えると思ったのです。そしてそれは正しいと私は考えます。
優秀な敵将が平常通りであれば、五人集まれば少なくとも五通りの考えが出来、意見を戦わせることで思考は無限の広がりを見せることが出来ます。その無限の広がりを見せる思考は、私達の戦略・戦術を覆しかねない状況を生み出すことが出来るかも知れません。ですが慢心や油断を誘えばその思考は志向を有することになります。向いて居る方向が分かれば、相手が何を考えるか想像することは難しくないでしょう。
通用するのは一度きりですが、その一度で決定的な結果を掴めば良いのです。今よりも遙かに優位に立つことが出来るでしょうし、その状況に陥ってからあちらが油断や慢心を払拭しても、最早手こずることはあり得ません。その『決定的な一度』を創り出す為に、やれることをやってみようと云うだけのことではありませんか。油断や慢心をしてくれればそれで良し、そうならなくても通常通りに戦うだけです。事前に将兵にその旨通達が有れば、こちらに悪影響はありません。ですから、私は賛成します」
「……流石は俺の、俺だけの軍師様だよ、稟」
質問に対してそう答えた私に、教経殿は少し時間をおいてからそう言った。
そんな事は当たり前なのに。
もうずっと前から、私は貴方だけの軍師なのですよ?教経殿。
そんな事が分かっていなかったなんて、ちょっと酷いと思います。
そう言って教経殿をなじると、かなり焦った様子で私のご機嫌を取るべく声を掛けてくる。『いや、それは分かっていたんだ。ただ、そうなんだなぁと実感したのがそのまま言葉に出ただけなんだよ?』とか『当然俺だって稟は俺だけの軍師様だって思っていたんだよ?』とか。その焦っている様子が滑稽で、思わず笑ってしまった。
「……怒ってないってことで良い……ンだよな?」
「ええ、怒っていませんよ」
その答えに、ホッと息を吐き出して安堵した様子の教経様。ちょっと可愛かった。こういう教経様を見ることが出来たのは今日の収穫の中でも中々の価値がある。
今日一番の収穫は、教経様とこうして共に過ごせていること。
そう思って居た。
「なぁ、稟」
「はい、教経殿」
「風達からもう聞いていると思うが、俺は深い仲にある全ての女性と、その、形式を整える事になった」
「ええ。私も、ということですよね?」
「それは当然だよ、稟」
教経殿ははっきりと答えて下さったが、その後の様子がなにやらおかしい。話をしようとして、言い淀んでいる。それは分かるが、教経殿と私の関係で今更言い淀むようなこととは何だろうか。
もしかしたら……。
頭に浮かんだ、考えたくもない最悪な想像を振り払うかのように頭を振る。そんな事はないだろう。『教経殿だけの軍師』という言葉に、私は私が抱いている教経殿への愛情を込めたつもりだ。そしてそれを教経殿も感じ取ってくれていると思う。その上で、教経殿もそう思って居ると答えてくれたのだ。であれば悪い話ではないだろう。
「あ〜、その、稟。今は遠征中だし稟の家族も居ないし、正式には長安に帰ってからになると思う。けどまぁ、その、何だ。ちゃんと言葉にして言わなきゃいけないって気がしててだな。あ〜……」
右手で頬を掻きながら言葉を継ぐ。
「……その、稟」
「……はい」
少し緊張したような、うわずった声。確かに私が発した声なのに、その声は私のもので無いように聞こえた。私が少し動揺していることを、悟られてしまっただろうか。悟られても不都合はないのかも知れないけれど、悟られたくないと思っている自分が居る。矛盾しているようだけれど、兎に角、嫌なのだ。何となく恥ずかしい。
教経殿が何を言うつもりなのか、何となく分かる。分かるけど、これは恥ずかしいと思う。その一方で、少し楽しみでもある。何と言ってくれるのか。
「俺と結婚して、俺の子供を産んでくれ。ずっと俺の側に居て欲しい」
「……はい、教経殿」
私を妻にという教経殿の申し入れが予想通りであったにも拘わらず、感極まって返事をするのが少し遅れてしまった。子供を産んでくれ、とまで言われるとは思わなかったけれど、凄く嬉しかった。何故なら、雪蓮や蓮華、華琳たちには絶対にそんな事は言っていないと分かるから。
雪蓮達は揚州で、華琳はエン州でそれぞれ王になるだろう。彼女達に子供を産め、というと、事は色恋だけでは済まず、政治的な色合いを持つことになり、そして世間的にはそういった側面が非常に強く映るだろう。そして、教経殿はそれを嫌うに違いない。政治とは全く関係のないところで好ましく思い、抱いたのに、それが政治的な配慮に基づいているかもしれないという勘ぐりを入れられることは不快極まりないはずだ。だから、絶対に言っていない。
多分教経殿は、各人に違う言葉を贈っているはずだ。同じ言葉を贈られた者同士で、どちらがより愛されているかなどという比較が始まってしまうだろうから。だから、各人に異なる言葉を贈っているだろう。ちょっと細かすぎる心遣いだとは思うけれど、そういう人なのだ、この人は。だからこそ皆が夢中になる。ちゃんと自分を見てくれていることを感じる事が出来るから。
だから、子を産めと言われたのは、私だけだと思う。
私が考えを巡らせ、教経殿がこの言葉を私にしか言っていないということを理解すると見抜いた上で、この言葉を贈っているのだとすると、この人は本当にどうしようもない女誑しだと思う。計算尽くでないなら、それはまた違った意味でどうしようもない女誑しだ。
そこまで考え、どちらに転んでも『どうしようもない女誑し』という評価しか出てこない事に気が付いて、私はまた笑ってしまった。
「どうしたンだ?」
「いえ。憎い人だと思っただけです」
「?」
しっかりと教経殿に抱きつくと、私の背に腕を回して抱いてくれた。いつかも思ったけれど、私は幸せなのだろう。軍師として良き主に恵まれ、女として良き男に恵まれた。少々気が多いのが玉に瑕だけど、それでも私はこの人と一緒にいるのが良い。
互いの温もりが睡魔を呼び寄せたらしく、教経殿はかなり眠そうになさっていた。明日も早いことだし、今日はもう寝た方が良いと教経殿に寝て貰う事にした。私の腕の中で気持ち良さそうに眠りに就いた教経殿に、面と向かっては言えそうにない言葉を囁いてから、私も眠りに就くことにした。
私のこと、大切にしてくださいね、教経殿。
私も今日はよく眠れそうだ。今日一番の収穫を、寝る直前に得られた。きっと良い夢を見ることが出来るだろう。
良い夢を。