〜朱里 Side〜
平教経が南蛮討伐の為に移動した。
細作が、長安の宮中ではそう言われているとの報告を上げてきた。しかしその旅程を見ると、途中で何故か揚州へ移動している。全ては策の内かも知れない。揚州で孫家の兵を糾合し、いきなり攻め込んでくることも考えられる。
徐州へ警戒するよう伝える書状を書き連ね、直ぐに使者を送る。
「孔明殿」
一段落付いたところで、そう声を掛けられる。
声を掛けてきたのは、沮授さんだった。
「一別以来、お変わり有りませんか?」
「ええ。つつがなく過ごせています」
「……嘘は頂けませんな。睡眠時間が不足しておられるのでは?目の下に隈ができておられますが」
「……睡眠時間の不足と袁家の滅亡。どちらかを採れと言われたらどちらを採りますか?」
そう切り返すと、何とも言えぬ苦い表情になって黙ってしまった。
「……今のは少し狡い言い方であったかも知れませんね」
「いえ、構いません。兎に角、ご自愛下さい。我々で可能な仕事については、全て振って頂きたいものです」
「今お願いしているもので全てですよ」
「そうですか」
今、沮授さん達にお願いしていること。それは、烏丸と高句麗との出兵交渉。
烏丸と高句麗は、麗に従う。その確約を得ることが出来た。だが、それらは麗が召と同等かそれ以上の力があるということを前提とした誓いであって、同等かそれ以下であることを知らさずに交わしたものだ。ここで烏丸と高句麗に出兵を要請するに当たって、その辺りを如何に見せないようにして交渉し、どれだけの兵を差し出させるかが問題になる。
この交渉は、かなり難しいだろう。出兵要請をするということは、どの程度かは分からぬにせよ、こちらの台所事情が苦しい事を意味している。にも関わらず、こちらは負けそうであるという事実をひた隠しにしなければならない。そうでなければ、烏丸はまだしも高句麗は絶対に裏切るだろう。
高句麗の現在の王は、位宮。自己顕示欲が旺盛であり、領土欲もまた旺盛そうだ。父の死後、兄を追放した手際から見て狡猾であろう。またそれ故に利に敏そうでもある。それが彼に対する私の評価だ。これを向こうに回して、弱みを見せずに派兵させることは難しい。
「高句麗との調整は如何です」
「中々に難しいですな。今は先方に面通しをしている段階ですから現状について何とでも言えますが、出兵を要請するとなると途端に難易度が上がります。要請するに適当な理由というものがあれば良いのですが、それは望むべくもありませんから」
『望むべくも無い』。沮授さんは確かにそう言った。それはつまり、適当な理由というものは考え出すことが出来ているが、その理由を現出する事が出来ないだろうと考えているということ。
「その理由を創り出す用意が私にあるとしたらどうです」
「……無理でしょう。平家に勝つなど」
やはり、彼は優秀だ。適当な理由は、平家に勝つ事に拠ってしか生まれない。恐らく、彼が考えている使者の口上は、私が考えて居るそれとそう変わりがないものだろう。
「『国内で皇帝を僭称していた平家の討伐に乗り出し、先頃勝利を収めた。来る年に、大規模な決戦に臨んでくる事は間違いない。麗だけでも相手出来るが、やはりそれなりの被害は覚悟せざるを得ない状況だ。ここで派兵して貰えれば、その分だけ楽になる。言い方は悪いが、尖兵を派遣することで麗に対する忠誠を示して貰いたい』。そう言う事が出来るなら、位宮自身を引っ張り出すことすら出来ると思いますが、その為には先ず平家に勝ったという事実が必要です。出来ますか?それを用意することが」
「出来ます」
出来ると言いきった私に、沮授さんは続ける言葉を無くした。
「確かに現状で平家に、平教経に戦で勝つのは難しいかも知れません。ですが、それは彼の率いる部隊を向こうに回して戦うから難しいという判断になるのであって、彼がいないところでなら勝利を収めることはそれ程難しいとは思いません。何故なら、それは局地戦に過ぎないからです。
平教経は局地戦で敗北することに何の感想も抱かないでしょう。戦に負けることよりも、戦で有能な配下が死んでしまうことの方をこそ問題視するでしょう。で有れば、勝てる可能性がさほどにない場合、配下の将が撤退したとしてもそれを問題にして処罰をするような真似をしないでしょう。これまで見てきた彼の為人から考えれば、むしろ積極的に撤退しろと配下に言っていたとしても不思議ではありません」
そして恐らくは、そう言っているはずなのだ。平教経は、出立前に弘農に、そして宛にも立ち寄っている。今、揚州にも立ち寄ろうとしている。それはつまり、自分がいない場所が攻められた場合、一時的に敗退しても構わないという事を確かに伝える為に赴いているのではないのか。他でもない皇帝自身の口からそう伝えられることで、配下の者は撤退を考えることが出来る。
「つまり孔明殿は」
「弘農、宛、建業。この何れかを攻めようと思っています。それが何処になるのかは、残念ながら直前までお伝えすることは出来ませんが」
「まだ決めていない?」
「ええ。平教経が南蛮へ向けて本格的に動き始めた時点で最も手薄である箇所を攻める積もりです」
「方針が定まっていないという事ですか?」
「臨機応変、と言って貰いたいですね。攻めるという大方針は決まっていて、何処をどう攻めるかが問題になっているのですから。目的を達する為の方策が問題になっているだけです」
「しかし勝てますかな」
沮授さんも田豊さんも、平家恐怖症とでも言うべき心疾に罹っているようだ。平家を恐れること虎の如く、端から勝算が少ないと考えている。
しかしそれはとんでもない思い違いであり、思い込みも甚だしい。
全体を見れば、優位に立っているのは平家。それは間違いない。だが、平家と向かい合う際に、例えば平家が并州へ三割、エン州へ四割、徐州へ三割の割合で兵力を分散して攻めて来たとする。それに対して、袁家も并州へ三割、エン州へ四割、徐州へ三割の割合で兵力を分散して守るなど愚の骨頂だ。それでは地力の差がそのまま勝敗を決することになってしまうではないか。その場合は、并州へ四割、エン州へ五割を割り振った上で勝利を掴み、徐州は残りの一割で時間稼ぎを行わせる。一割が全滅したとしても、二方面で勝利出来るのであれば決して無駄死にはならない。そしてその結果、勝利を掴むことが出来るだろう。
この形が少々変わるだけだ。袁家が攻め、平家が守るという形に。局地的に優位を創り出せば、局地戦には勝てる。局地戦における勝利を、平家に勝利したと大々的に喧伝すれば良い。それに因って兵の士気は揚がり、また派兵交渉も順調に進めることが出来るはずだ。
「私はそう思って居ますが?」
「……それであれば、確かに……!」
「武器・糧食については、審配さん達に集めて貰っています。後は、時が到るのを待つのみです」
「この度も麹義殿と私で動くのでしょうか?」
「私の発案で兵を動かすのは二度目になります。曹操と争う際に麹義さんと沮授さんを動かしたことは、平家側も承知しているはずです。ですから、二人には徐州へ行って貰います」
「徐州へ、ですか」
「はい。審配さん達に集めて貰った糧食の内、既にいくらかを徐州へ送ってあります。目端が利くものが見れば、こちらの意図を読み取ったと判断して本国へ報告してくれることでしょう。そうやってそちらに注目を集めておいて、私は張コウさん・田豊さんと共に弘農か宛へ攻め入ろうと思っています」
「分かりました。精々秘密裏に移動することに致します」
「そうして下さい。その方が真実味がありますから」
「平家に悟られずに移動することが成功してしまった場合は如何致しましょうか」
「特に変わったことをする必要はありません。自領と接している土地へ細作を放たない訳がないのです。突如湧いて出た二人に、揚州は緊張するでしょう。その反応が、平家の目を徐州へ向けることに繋がります。どちらに転んでも全ては私の策の内です」
一度、しかも局地戦に負けた程度では平家はびくともしないだろう。しかし袁家にとっては意味のある勝利だ。常勝不敗の軍である平家軍を局地戦とは言え打ち破ったという実績は大きな価値を持つ。それによって軍内部にある閉塞感を取り払うことが出来るだろう。自分達でも勝てるのだという希望と、平家を打倒しようという情熱とを取り戻すことが出来るだろう。負けぬ為に戦うのではなく、勝利する為に戦う集団を組織出来るのだ。
まずは、先勝させて貰う。簡単とは言えないが、此処で勝つ事は出来る。いや、勝ってみせる。その後決戦に臨むことになるだろう。決して勝ち目は多くないが、勝負に出ることが出来るだけの状況は整うと思う。
私は平家の優秀な軍師達を向こうに回して、智を競い合うことになる。郭嘉、賈駆、周瑜、曹操。誰が相手でも手強い相手になるだろうが、私が向かい合うことになるのはその内の誰でもないという予感がある。そして、何故だか理由もなくそれを確信している。
―――向かい合うことになるのは『鳳の雛』だと。
〜詠 Side〜
教経と離れて再び月の側に居ることになったボクは、目下袁家の襲来を想定した戦略・戦術について煮詰めている。平家の内情が分かっている身としては、一番危ういのはやっぱり此処だと思う。外から見た場合でも、きっと此処が一番歪に映るに違いない。
弘農にいる将を思い浮かべてみれば分かる。
恋、朔、焔耶。
皆突出する傾向がある武将と認識されているだろう。
ねねは随分改善されてはいるものの、ともすれば恋に引き摺られて暴走しかねない。それも、普段の恋至上主義的言動から判明しているだろう。
そして何より、月は戦向きの性格をしていない。
そうやって各人の最も強く印象に残るであろう部分だけを切り取って並べてみれば、宛や建業に比べると均整を欠いているように見えるはずだ。
……ボクが袁家に仕えていたなら、教経が南蛮へ行っているこの間に三都市の内の何れかを陥とす為に行動を起こす。
教経は局地戦での勝利よりボク達の方が大切だと言い切った。らしい価値観だし、その考え方自体はボクも正しいと思う。この世に同じ人は二人と居ない。どう育てたとしても、誰かと全く同じ人間にはならない。本人がそうなろうと志したとしても、なれはしない。誰かを喪うということは、決して埋め合わせることが出来ない穴が出来るということ。だからこそ無理はするなと言っている。
だけど、袁家にとっては話が違う。その勝利によって袁家は平家に敵しうるのだということを内外に印象付けることが出来る。特に家中への効果を考えれば、その勝利は価値あるものになる。勝利によって家中は勢い付くだろう。それが一時的なもので終わるのか、その後も継続するのかは、偏に先方の軍師の手腕とその後も続くであろう一連の戦の結果に拠る。
恐らく、此処で勝負を掛けてくるはずだ。勝負をするなら勝ち易きに勝つ事を考えるだろう。平家の領地の内、最も安定していないのは揚州。最も将が手薄なのは弘農。このどちらかに寄せてくるのは間違いない。そしてボクの予測では、途中経過がどうあろうと結局弘農に攻め寄せることになる。勝ち易きに勝つ事を考えて兵を出してくる以上、弘農に展開している約3万の平家軍を越える兵数で攻め込んで来るであろう事は想像に難くない。
ボクの計算では、4万までなら野戦でも簡単に膠着状態を作り出せる。ある程度の危険を冒すことになるが、勝つ事だって出来るだろう。だがそれ以上になってくると、こちらもそれなりの損害を覚悟する必要がある。5万を越え、6万に達する様だと、相手側の策によっては一呑みにされてしまう可能性だってある。そうなった時は籠城して専守防衛に徹することを考えたが、堅固な城ではないし全軍を収容することは叶わない。収容しきれなかった隊を城外に展開し城内と連携して迎え撃つとしても、分断されてしまうとやっかいだ。城内にいる隊は良い。門を固く閉ざして防戦に徹すれば暫くは保つだろう。だが城外の隊は、敵のほぼ全軍を相手にしなければならない。その結末は見えている。そして城外の隊が全滅すれば、より増大した兵力差の前に城内も制圧されてしまうことになるだろう。
アイツはそれが分かっていて、ああ言ったのかも知れない。勝とうとするとどうしても無理をせざるを得ない状況を迎えそうなら、最初から勝負をしない。その選択肢によって、絶対に勝てる場所まで退く事が出来る。
函谷関。ここでなら、百戦して百勝する自信がある。城壁は高く、その厚みも中華で一番と言って良い。勝つ為には危険を冒す必要がある。だが函谷関があるならその危険は大幅に減少させることが出来る。ある程度の兵を守備に回し残りを函谷関の外に兵を展開、その部隊を敵にワザと突破させ函谷関と挟み込んで殲滅する、といったことも可能だ。いつか教経が考えていたように、火の水を使っても面白いだろう。どうするにせよ、確固たる地盤と強固な城壁が、ボク達に主導権を与えてくれる。兵達だって此処が最終防衛線であることを認識しているだろうし、先ず間違いなく士気を保ったまま戦い続けることが出来るだろう。
「……詠ちゃん」
「……まぁ、当然よね。函谷関にボクが居るだけで守備は完璧に出来るのに、強力な切り札まで備えることになる訳だから」
「詠ちゃん!」
「うわっ……ど、どうしたのよ月!?」
突然の月からの呼びかけにそう応えると、月は珍しく不満げな顔をしていた。
「もう、何度呼びかけたと思ってるの?」
「え〜っと……三度くらい?」
「五度!」
「そんなに!?」
「詠ちゃん、何を考えていたの?首を傾げたり頷いたり忙しかったけど?」
あ、あはは……そんな事してたんだ……全く気が付かなかった……
「こ、この先の事を考えていたのよ」
「先の事?」
「……そう」
敢えて一呼吸置いて、月を正面から見つめる。落ち着いていて自然体。不安は感じていないように見える。と言って、先の事を想定していないから故の自然体でも無さそうな。そんな感じがする。
「きっと此処に……」
「……攻めてくるんだよね?袁紹さんが」
「……月も分かってたんだ」
「ご主人様と詠ちゃんが来る前に、朔さんに恋さん、ねねちゃんに焔耶さんと話をしたの。皆此処が手薄だと思われているに違いないからここに来るだろうって。私もそう思うの。詠ちゃんもそう思ったんだね」
「うん。けどそれは別に」
「分かってるよ、詠ちゃん。私達の客観的な評価を考えると妥当な結論だと思う」
……驚いた。
月は確かに頭が良い方だ。ボクの献策の内容だって、それなりに理解して許可していたんだから。でも、何と言えば良いのか、ちょっと違う。今までの、ボクがよく知っている月とは違う。何処がどう違うのか言ってみろと言われると、上手く表現出来ないけど。それでも、ちょっと違うと思う。
「……ねぇ月」
「なぁに?詠ちゃん」
「何かあった?」
「何が?」
「いや、何て言うかさ、月がちょっと変わった様な気がして」
「そう?」
「ん〜、ボクも上手く言えない。暫く会ってなかったから、自分の記憶だと思い込んで勝手に月の肖像を心中に描いていて、それと違うって感じているだけかも知れないし。まあ、気にしないでよ」
「?うん。分かった」
袁紹が攻めてきた時月はどうしようと思っているのか。それが気になる。ボクが指摘する前に、月達は自分でその結論を導き出している。月が口にした理由からして、ボクと同じような思考を辿ったに違いない。では、その先の展望はどうだろうか。同じような事を考え出していたのだろうか。それとも、また別の方策を導き出しているのか。そこの所が気になる。
そう思って訊けば、撤退を考えているとのことだった。
「敵の規模に因らず撤退するって言うの?」
「うん」
「……一応訊くけど、どうして?」
「『戦場で臨機応変に』、というのは自分達には向いて居ないと思うって皆で結論を出したの。朔さんはまだしも、恋さんは夢中になる所があるし、ねねちゃんはその恋さんに引き摺られる可能性が有る。焔耶さんは、自分をしっかり御する自信がない。そう言っていたから」
「月自身はどう思ってるの?」
「私は……最初から犠牲が少なくなる方策があるならそちらの方を選びたいから、かな。ご主人様は気にしなくても良いって言ってくれているし、付き従いたいという人達を引き連れて函谷関まで撤退した方が後がやりやすいと思うの」
「やりやすい?」
「うん。平地で向かい合った後衆寡敵敵せず函谷関に撤退すると相手は勢い付いてしまうし、こちらは犠牲の多寡に拠らず敗軍ということで士気が下がってしまう。それなら中途半端はせずに、最初から函谷関に拠って抗戦した方が良い。函谷関であれば負けない戦いをするのは容易だし、機を見て勝ちに行く戦い方が出来るんじゃないかなって。
……間違ってたら言ってくれると嬉しいな」
「間違ってないと思うわ、月。ボクはそれが一番賢明な選択だと思う」
「本当?」
「うん。そう思うよ」
「……良かった」
仄かに、月が笑う。
その笑顔は、私が記憶している、遠慮したような、消え入りそうな月の笑顔ではなく。
控えめだけど柔和な、本当に美しい笑顔だった。
やっぱり、月は少し変わったんだと思う。強くなったような、そんな気がする。
月が本当に変わったのだとボクが実感するのは、もうちょっと先の話だ。
もうちょっとだけ、先の。