〜蓮華 Side〜
南蛮と緊張状態が続いている益州へ向かう教経が、揚州へやって来た。言葉だけを聞けば怪訝に思うかも知れないが、これは既に決まっていたこと。姉様と冥琳から事前に書状でそう連絡があったのだ。ただ、その書状には少々受け入れがたい事実が記載してあったが。
―――受け入れがたい事実。
教経は、あの馬鹿は、揚州に残された私達を余所に婚礼を―――!
私の想いがどれ程のものか、分かっているはずなのに―――!
それなのに私を揚州に放っておいて、他の女と長安で婚礼をしてしまうなんて―――!
べ、別に私は他の女と婚礼をするのが許せないという訳ではない。
そうではないけれど、私が居ない場所で、私に知らされることもなく、いつの間にか教経が他の女の『夫』になっているというその事実が、何とも私の心をざわつかせる。一体私という存在は、教経の心の中でどういう位置を占めているのだろうか。
考えてみても仕方がないことは分かっているが、どうしても考えてしまう。
しかも姉様と非常に仲睦まじい様子であり、無いことに姉様が『女性として』男性である教経に甘えていた、と言うのだから。化粧をした姉様はそれはそれは美しかったのだ、と余計な事まで教えてくれる人が居た。
その余計な人、親族として姉様の婚礼に出席した叔父様に拠れば、教経は着飾った姉様に対して『本当に綺麗だよ、雪蓮』とか『いつもと違って大人しいな?いつもこうならもっと可愛がってやるのに』とか、姉様の気を惹こうと下心の見え透いた世辞を並べ立てて姉様を騙していたそうだ。
姉様と冥琳が長安で婚礼が執り行われることを事前に知らせておいてくれたのは、そしてその様子を詳細に連絡してきてくれたのは正直正解だったと思う。もしその事実を叔父様の口から直接聞いていたら、『それ』をそのまま信じていたことだろう。『それ』というのは、下心云々のことだ。そしてきっと姉様と冥琳に、勿論教経にも、この私の想いがどれ程のものであるのかを二度と忘れることがないように、魂に刻み込んで貰う事になっただろうから。
ただでさえ苛ついていた私を余計に苛つかせてくれた叔父様は、余計な思惑を持って私にそのようなことを教えてくれたのだろう。基本的には私達姉妹のことを良く気に掛けてくれる、素晴らしい叔父だ。が、姉様に続いて私までもが教経とそういう関係になったことを知った時の叔父様は、少々面倒な人であった。……言葉を飾っても仕方がないのではっきり言ってしまえば、この上なく鬱陶しかった。教経に対して、非常に含むところがあるようだ。それが叔父様の発言に繋がっているのだろう。
本来であれば即座に叔父様には折檻を受けて頂かなければならないのだが、私の婚礼に出席するという重要な役目がある。婚礼前にそれに立ち合うべき立場に有る人間が失踪してしまったら大変だ。私の婚礼が終わったら、きっちりと、そしてしっかりとこの感謝の気持ちを伝える事にしようと思う。
教経が揚州に入ってから五日経過している。もうそろそろ、建業に到着しても良い頃だ。
待っている間、叔父様があること無いこと織り交ぜて頻りに教経に対して予断を持つように仕向けてきた。私が何も知らないと思っているのだろうか。
叔父様は、実は姉様と冥琳から書状が来ており、私が姉様の婚礼の際の教経の様子を既に知っていることを知らない。叔父様には後日虚言の報いを強かに受けて貰おうと決めて居たが、その決意が思わず揺らいでしまいそうになる程に鬱陶しい……この鬱陶しさに悩まされ続けるくらいなら、いっそ行方不明になって貰った方が良いのだろうか。でもそれだと婚礼が……。
―――そうだ。誰かを適当に叔父様に仕立て上げれば良いのだ。叔父様が必要なのは婚礼の日だけだから。そうだ!その通りだ!そうすれば私はこの鬱陶しさから逃れられる―――
「……蓮華様。落ち着いて下さい」
「何を言っているのかしら、思春。私は落ち着いているわよ?」
「はぁ……落ち着いていらっしゃる様には見えません」
思春が溜息を吐きながら私に意見してくる。
私が教経と男女の仲になった後、思春と話をした。私と一緒に居れば教経とは離れることになってしまう。思春が望むなら、教経に仕えてくれて構わない、と伝えた。
勿論、構わないはずがない。これまでずっと私に仕えてくれてきたし、揚州の防ぎを考えると思春には居て貰わなければ困る。けれど同時に、思春には私に気を使うことなくもっと自由に生きて貰いたいという気持ちもある。そうであればこその、発言であったのだ。その私の言葉に、『私の主君は飽くまで蓮華様です。教経様に惹かれているのは確かですが、それは女としてですから』、と答えてくれた。有り難い事だと思う。
まあその後で『教経様のことに関しては、例え蓮華様でも譲れない部分がありますが』、と余計な一言も付いていた気がするけれど。
「何処が落ち着いていないように見えるのかしら」
「……南海覇王を抜き身で持っている辺りでしょうか」
「ああ、これはあれよ、教経が来た時に料理を振る舞ってあげようと思って。これで野菜についた邪魔な虫を斬るのよ」
「……『切る』では無い辺りが意味深ですが……その虫の名は?」
「聞きたいの?孫s」
「いえ!結構です!」
思春は私の言葉を遮って強い口調でそう言った。
悪い虫<おじさま>を斬り捨てようと思っていたけれど、思春に水を差されたことで少し冷静になれた。当初考えていた通り、叔父様には婚礼後に折檻を受けて貰う事にしよう。
「……どうやら少し落ち着かれたようですね」
「最初から落ち着いていたわよ?」
「はあ」
「そんな事より思春、貴女は何とも思わないの?」
「……何を仰っているのか分かりかねます」
「惚けないで。貴女だって分かっているでしょう?教経のことよ。貴女も面白く無い想いをしているのではないの?」
『教経』という言葉を耳にして、思春は少々言葉に詰まった。
「どうなの?思春」
「……そんなことはない、と言えば嘘になります」
「やっぱり」
「ですが」
「?」
「教経様も揚州に留まっている我らのことを全く考えなかった訳では無いと思います」
「どうしてそう思うのかしら」
「考えて居なかったのであれば、態々遠回りをして揚州に立ち寄ってから益州へ向かったりはしないのではないでしょうか」
「そうかしら」
「真相どうあれ、信じることも必要かと」
「……」
「……蓮華様」
「……分かっているわ」
「それならば宜しいのですが。……では、私はこれで失礼致します。準備をしなければなりませんので」
そう言って思春は足早に歩いて行った。
思春が言ったことは私にも分かっている。私だって教経のことは信じて居るつもりだ。けれど、それとこれとはまた話が別だとも思う。理性と感情が一致しないとでも言えばいいのだろうか。何とも、もどかしい。
何とも釈然としない心持ちのまま、建業の城門で教経を待っている。
昼過ぎには到着するという使者を受け、朝から文武百官が揃って迎え入れる準備に大わらわだった。私はと言えば、自分の準備もそこそこにまた埒もないことを考えて居た。
数日前から幾度も考えて分かった事は、私は不安を感じているのだ、ということ。私は、『教経にとっての私』が『私にとっての教経』と同等の価値を有するものであると勝手に思い込んでいた。けれど、そうではないのかも知れない、ということに思い当たり、その事が不安で仕方がないのだ。言葉としてはっきりとそれを把握出来ていなかった為に、情緒が不安定になっていたのだろう。
数日前から私の思考は堂々巡りに陥っている。
教経にとっての私は、実はそれ程重要ではないのではないか。そう考えた直ぐ後に、いやそんな事はない。きっと私が思っているように、私のことを掛け替え無く思ってくれている筈だと考えたり。
教経のことを考えて居ると、自分の度し難さに頭が痛くなる。少なくとも、教経と関わるまでの私は異性に対してこういった感情を持つことはなかった。だからこういう時にどう行動すれば良いのかが分からない。感情に従ってしまえば楽だと思うが、理知的な人間が好きな教経に嫌われてしまいそうだ。といって理性で押さえつけたとしても、どこか他人行儀になったりちょっとしたやりとりの中で酷い言葉を投げかけてしまいそうで。
教経と再会した時に、どう声を掛けたものだろうか。自分がまだ何も考えて居ないことに気が付いて、いくつか考えてみたが少々問題が在る。
『他の女と婚礼して良くものこのこと私の前に出てこられたわね?』
……却下。感情的に過ぎる。他に女が居る事なんて最初から分かっていたことだし、そこに拘りはない。
『私が居ないところで婚礼して、私は後回しなんて……ちょっと考えてくれても良かったと思うのだけれど?』
……却下。ちょっとはそう思うけれど、こんな事を言ったら面倒臭い女以外の何者でもない。教経にも立場というものが在る訳だし、私の都合だけで全てを決することが出来るはずもない。
『待っていたわ教経。さ、早く婚礼を行いましょう?』
……無難……だろうか?けれど、もし教経が私のことをきっちりと見通していた場合、教経は怯えてしまうかも知れない。何故怯えるのかよく分からないが、私が不機嫌になると教経は私に怯えているように見える。不機嫌と言う程不機嫌ではないが、それでも面白くは無いのだということを見抜いていた場合、この言葉を聞いて走って逃げ出すかも知れない。
そんな馬鹿なことを考えて居る私の視界に、教経達に違いない一団が飛び込んでくる。
もう時間が無い。
教経がやってくるまでに、何と言うかを決めてしまおうとして、結局決めることが出来ないまま教経を眼前に迎えてしまった。
「あ……」
何かを言わなければならないと焦る私が出せたのは、その一言だけだった。
そんな私に教経が掛けてくれた言葉は。
「……ただいま、蓮華」
その言葉と共に、私を軽く、そして優しく抱きしめてくれた。
ほんの数瞬でしかなかったけれど、安心してしまった。
教経は、私のことを掛け替えのないものとして想ってくれている。それを実感させてくれる言葉だった。ただいま、という言葉は、私という存在が、教経にとっての家足り得ているということの証明だと思うから。教経の中で、私は余所の人では無く、自分が帰るべき場所にいるべき人間であるということだから。
たった一言だけで納得してしまう自分もどうかとは思うが、納得してしまったものは仕方がないではないか。
だから私も一言だけ、心を込めて返事をする。
「おかえりなさい、教経」と。
叔父様がどうなったのか?ですって?
教経に関してあること無いこと言っていた報いは強かに受けて貰ったわ。
これでもう鬱陶しいちょっかいを掛けてくるようなことはしないでしょう。
私と『私の夫』に関して。