〜朱里 Side〜
陣屋の外は寒風が吹き荒んでいる。時にはそこに雪が混ざることもある。
本格的な冬がやってきたのだ。
平家に備えて滞陣することおよそ四月。そろそろ引き揚げ時だと思う。南蛮を牽制するに留めいきなり揚州に攻め込んだだけに、可能性は低いが二匹目の鰌を狙ってこちらに攻めて来るかも知れないと思っていたが、やはりそのような真似はしないようだ。
本当に厄介な相手だ。冒険する時は冒険する。手堅く行くべき時は手堅く行く。普通であれば、やはり傾向という物が出てくる。攻勢が好きな者は攻めに偏りがちだし、守勢に強い者はまず守った上で次の行動を考えるというように。
だが、平家にはそれは当てはまらない。
正攻法を好む者、奇策を好む者。
攻勢を好む者、守勢を好む者。
堅実さを好む者、博打を好む者。
そういった人間が提示する策から、平教経が最善と思われるものを選択し、家臣がその準備をして実行する。平教経の嗜好が戦略に色濃く反映されるのは間違いないが、それだけであれば揚州から攻める事はなかっただろう。
自分と異なる発想から生まれた策。
それを己の策より良いと認めることは難しい。また認めたとしても、それを採用することは難しい。己の才覚に自信を持っている人間程、己の才覚を越える才覚を有する他者に対して許容することを知らない。己が到らぬ所を痛感させられたことがない人間が、己より優れた他者を許容出来るはずもない。なぜなら、己に不足はないと感じているのだから。
しかし平教経は突出した才覚を有していながら、他者の才覚を生かし切れる人間のようだ。彼の真骨頂は、人を統べる器量に優れている点にあるのだろう。
そうであればこそ、この現状がある。
―――この、如何ともしがたい、閉塞感をもたらす現状が。
石苞を使って行っていた曹操への工作は失敗に終わった。それと同時に石苞は曹操に捕らえられ、その家族は処断されたことになっている。そして家族を処断した幾人かの役人は領内から消えた。それとほぼ時を同じくして、揚州が平家の手に渡った。
出揃った事実を眺めて、初めて気が付いた。
私は最初から彼らの掌の上で踊らされていたに過ぎないのかも知れないということに。曹操は心服していない、という予断を持って事に当たっていた。それを前提とし、それが覆されることを思いもしなかった。揚州を攻めた平家の後背を、曹操を使って扼せるかも知れない。彼らは、その可能性を提示してみせることで、軍事的冒険に乗り出すことを決断しないように誘導して見せたのではないか。
たった一度、後れを取っただけだ。内心ではそう思って居る自分が居る。いや、そう思いたい自分が居る。だが、後れを取った時機が悪すぎた。たかが一度とは言えない。この一度は、取り返しが付かない一度だ。ここから挽回するのは並大抵のことでは出来ない。
どうすれば平家の力を削ぎ、袁家の力を蓄える事が出来るのか。
それは―――
「失礼致します、孔明殿。少し宜しいでしょうか」
今後の展望について考えて居ると、田豊さんが陣屋の外から声をかけて来た。
何の話だろうか。
「構いません。中へどうぞ」
「それでは失礼致します」
中へ招き入れ、彼が一息吐くまで待ってから用件を尋ねる。
「どうしたのですか?田豊さん」
「平家の領内に放ってあった細作からの報告を纏めていたのですが、彼らはやはり南蛮を征伐した後に袁家を相手取ることを考えて居るようです」
「……そう判断した理由は何でしょうか?」
「はっ。平家家中についてですが、孫策、曹操、公孫賛の三名を中心として頻繁に会合を持っているようです。これが袁家に対する征旅の計画ではないかと疑って内偵を続けて居ましたが、此処に一度として平教経が参加して居ないのです。これまで、出征となると必ず彼の前で基本方針を定めた上で、文武の官が詳細を煮詰めて準備してきました。
これまでそうであったから今後もそうだとは限りません。この間痛い目に遇ったばかりですし、一旦予断は取り払って考える必要があるのは重々承知の上で敢えて言わせて頂けますならば、それでもやはり彼を除いて征旅の計画を煮詰めるという事はあり得ないだろうと思うのです」
「……それだけが理由ですか?」
「いいえ。平教経が揚州征伐へ向かった際、宛から軍師の賈駆が彼に同行しておりましたが、建業陥落の際彼女は揚州にはおりませんでした。南蛮にいた工作員が帰還する際に、平家の細作と思しき人間が多数交阯から南蛮へ向かっていたのを確認しております。また交阯に元々放っていた細作は、賈駆が交阯にいたことを確認しております。十中八九、南蛮に対する内偵を行っていたに違いありません。
平家の文官の内、軍師として名の知られた人間が直々に調査を行って居たのです。前の事と併せて考えると次に向かうのは南蛮である可能性が非常に高いと思います」
「成る程」
そう一言だけ答えた。
確かに、理に適っている。田豊さんが今述べた理由だけでは今ひとつ説得力に欠けるが、では袁家に攻め掛かってくる可能性が有るのかと考えれば、そちらの可能性の方がより低いと言える。積極的に肯定することが出来ないのが何とも歯がゆいが、消去法に拠れば彼が言っていることの蓋然性は高いと言えるだろう。
「平家が南蛮討伐の軍を起こしたとして、我々がどう動くべきかについて孔明殿の存念を給わりたいと思っているのですが、披瀝して頂くわけには参りませんか」
「先ず田豊さんの存念を伺いたいのですが」
「……『どう動くべきか』存念を給わりたい、と言った手前でこう申し上げるのも如何な物かと思いますが、ここは動くべきではないと考えております。袁家の力は未だ回復しておりません。此処で下手に仕掛けて平家の全面攻勢を誘うような事になれば目も当てられません。
ここは専守防衛に徹して下手に平家を刺激せず、南蛮討伐へ目を向けさせるべく策を講じるべきです」
「……成る程」
再びそう一言だけ答える。
但し、今度の返答に込められている私の思いは一度目とは異なるが。
その私の気色を察したのか、やや間を置いて田豊さんが問いかけてくる。
「どうやら孔明殿には私とは異なる存念がお有りのようですな。是非お伺いしたいものです」
「私の存念、ですか」
「はい」
真っ直ぐに私の目を見つめてくる。
彼の考えは間違ってはいない。だがそれでは緩やかに死に向かって行くだけだ。より時間が利するのは平家の方だ。時間が経過すればする程、平家との間に力の差を生じさせることになる。
主君の質も、将の質も、兵の質も。
領地経営も、謀略も、調略も。
その全てについて、元々平家は袁家に先んじていた。そしてここに来て、優位であったはずの量でもほぼ同等と言っても構わぬだけの状況を作り出されてしまった。時の経過は、平家をより優位に立たせるだろう。こちらから何も手出しをせず力を回復することだけに専念した結果、雌雄を決することも許されぬ、そんな状況に追い込まれてしまうことになるだろう。
そうなっても負けぬよう策を施すことは出来る。
だが、それでは駄目なのだ。負けぬのではなく、勝たなければ。勝たなければ、意味がないのだ。勝って夢を叶える為に、全てを捨てて此処に居るのだから。
「……平家がこちらを攻めてくる可能性は確かに低いでしょう。ですが平家が揚州を手中に収めているこの状況では、時間の経過は袁家にとってより厳しい情勢をもたらしかねません。今のままの勢力図での時間経過は、袁家の衰亡をもたらすと言っても良いかも知れません」
私の言葉に、田豊さんが息を呑む。
「勿論、1、2年でそうなると言っている訳では有りません。が、5年10年と時が進めば、時代の潮流は袁家が衰亡する方に向いて居ることに気が付くことになるでしょう。そしてその時にはもう手遅れなのです。それに気が付いたその時にたった一つでも間違いを犯してしまえば、乾坤一擲の勝負に打って出る事すら許されぬ状況に陥ることになるでしょう。
政道を誤れば、反乱を招くかも知れません。また麗から逃散して平家の領地へ移り住む人間が出てくることでしょう。また小競り合いとは言え戦に負ければ、減少した袁家の兵を以て平家と対抗することは難しいでしょう。政戦いずれの場合も、一度でも誤りを犯せば先行きに全く希望を見出せない中で、唯々袁家の命数を引き延ばす為だけにあがき続ける事になります。
時代の潮流に気が付き、そのような重苦しい雰囲気に支配された袁家の中に有って、袁家に精忠を捧げ続けることが出来る人間が果たして幾人いるでしょうか」
「……流石に恥知らずばかりではありますまい」
「はい、確かにそうでしょう。余程に上手く家臣を統制していたとしても、今貴方が言った通り、『恥知らずばかりではない』という程度でしかないでしょう。要するに、そこには確かに恥知らずが存在する訳です」
口を閉ざすと、陣屋を沈黙が支配する。
今この時こそが、先途である。その事を十分すぎる程に認識出来たようだ。
「……では孔明殿は」
「そうです。平家を攻めます。攻める事によって、あちらの行動を制約することが叶います。平家が南蛮に遠征するなら、その時に僅かなりともその領土を削り取り、少しでも時間の経過が袁家にとって不利に働かぬようにするつもりです。謂わば『西伐』を行おうという訳です」
「ある程度回復しているにしても、まだ完全に袁家の力は回復しておりません。そういった状況であるにも拘わらず、敢えて西伐を行おうというのですか?」
「今しか出来ぬ事であればこそ、今やろうと言っているのです。
先程から言っている通り、時間が経過すればする程袁家は身動きが取れなくなっていくだろう、と思っているのです。ですが今ならまだ失敗は許されます。平家を攻めてその力を削ぐには、今をおいて他にありません」
「失敗が許されると仰いますが、何処に余剰の糧食や兵があるのです」
「有るではないですか」
「は?」
「烏丸と高句麗。烏丸については袁家に取り込むよう、調略は為してあります。高句麗についても、陛下が即位された際に朝貢にやって来ました。彼らを使役すれば、袁家は未だ平家を越えるだけの力を得ることが出来るでしょう」
「当てに出来ましょうか」
「烏丸は当てに出来るでしょう。高句麗は分かりませんが、それでも盾代わり程度は務まるのではありませんか?」
「……確かに」
「今すぐに、という訳には行きませんが、平教経が南蛮へ向けて出征した、と聞こえてきたら直ぐに対応出来るようにしておく必要があります。その為に、一度兵を返します」
「上手く行きましょうか?」
「上手く行かせるより他に途はありません。もう、そういうところまで追い詰められているのです。勝って天下を治めるには、此処が先途です」
「……仰る通りだと思います」
「……まあ、まだ少し先の話です。その秋を迎えた際に後れることがないように心構えをしておいて下さい」
「畏まりました」
話は終わったが雰囲気が重苦しい。
その雰囲気を変えようと、田豊さんが話題を変えて話しかけてくる。
「そう言えば、孔明殿はご存じですか?」
「何をでしょうか?」
「石苞とその家族が生きているらしいのです」
「……そうですか」
「何処で生きているのか、気になりませんか?」
「ならない、とは言い切れませんね。何処で生きているというのです?」
「……平家です。司馬懿と名乗っているようですが、その相貌は確かに石苞のものであったと細作から報せがありました。殺されたことになっている家族も、恐らく生きているのではないかと思います」
「……」
「……報復致しましょうか?刺客を放つなりして……」
「それはなりません」
「……何故です?」
「平教経に刺客を放ち、暗殺を試みたのは、それが天下を統一するのに最も効率的な策であったからであって、彼が憎らしくて堪らないからではありません。石苞とその家族に刺客を放つのはただの私怨です。無論、彼が平家においてかなりの権限を有する有能で有力な家臣であり、またその家族に将来有望な能臣になりうる者がいるのであるならば話は別です。彼を殺す事で、平家が現在企画している策謀を覆滅せしむることが叶うなら、刺客を放つ価値はあるでしょう。ですが、彼は一細作であったのです。現実的に考えて、彼にそこまでの影響力はありません。
それに、私は彼と約定を交わしました。例え調略が上手く行かなくとも家族の命は保証する、と。約定という物は、守らなければなりません。それが易々と破られるような世であればこそ、乱世になるのです。それを鎮めようという者は、先ず己が交わした約定を守ってみせねばならないでしょう。それでなくて、誰が約定を守ることを民に求める事が出来るのです?
だから私は報復などはしません」
「そうですか。分かりました」
田豊さんは明らかにホッとした顔をしてそう答えた。
私は、平家を攻めると言った。そのことで、私が冷静さを欠いたりしているのではないか、と考えたのだろうか。
「失礼致します!」
田豊さんに対して真意を問い糾そうとした丁度その時機に、陣屋の外から声をかけられた。
「何でしょうか?孔明殿」
「さあ、私にも見当が付きませんね……入って下さい」
「はっ!」
私が個人的に使っている細作が、陣屋に体を滑り込ませてくる。
「それで、どうしたのですか?」
「はっ……」
細作は、田豊さんを気にしているようだ。
「秘事を漏らすような人では在りませんから大丈夫です」
そう言った私に、田豊さんは頷いた。
「……では、申し上げます」
細作が身に纏っている空気は、非常に重い。
急かしたいところだが、此処で急かしても何も変わらない。彼が言葉を継ぐのを待つ。
「……馬騰・董卓・孫策・曹操・公孫賛の五名により、平教経が皇帝に推戴されました。自らの勢力を『召』と号しております」
「な、なんと……」
五名の有力者に推戴されて帝位に就いた、と言った。だが実情は異なるだろう。領の内外を問わず、彼に皇帝即位を求める声はあったはずだ。謂わば、民達に推戴されたも同然なのだ。彼が行っている政を継続して貰う為に、それが続くという保証として平王朝開闢を求める。皇帝と王朝という仕組みが存在しない世ならいざ知らず、それがあることを知る民達がそれを求めるのは自然なことだと思う。
それにしても、『召』とは。
天から祈りに応えて降ってきて、刀を以て願いを叶える、という意味だ。天の御使いである平教経が武力で天下を統一し、平穏無事な世を作る。そういう意図があってのこの国号なのだろう。ずっと、考えて居たのだろうか。皇帝となってこの天下を統べることを。それとも、これは天意であり必然であるとでも言うのだろうか。
「ご苦労様でした。下がって良いです」
「はっ、では私はこれで……」
細作が陣屋を出て行くと、田豊さんが浮かない表情で佇んでいた。
「……孔明殿。何故平家は皇帝を僭称するような真似をしたのでしょうか」
「要するに、外交による停戦など受け付けない、ということですね。漢の正統を主張する私達は、平家と共存することは出来なくなりました。平家は袁家を力で叩き潰すつもりなのでしょう。皇帝に即位することで、四海にその決意を表明した。決着は、どちらかの家が無くなる形でしか付かない。それがこれではっきりしたことになります」
「どちらかの家が無くなるまで、ですか」
「はい。無くなるまでです」
「……この国に皇帝が二人立った。このことで、領内の民が動揺するのではありませんか?」
「動揺するでしょう。それも狙いの一つでしょうね。絶対不可侵の存在であった皇帝が、それを自称する者を討伐できないで居るということ自体権威の失墜に繋がります。また、一人であったものが二人になることで、その存在の威厳なり有り難みなりが大きく減ずることは間違いありません。私達にとっては、大きな痛手です」
私の答えを聞いて、田豊さんは黙り込んでしまった。
……細作が外に出て行く際、外の様子が少しだけ見えた。外は本格的に雪が吹き付けていた。陣屋の幕を開けた際に冷たい風が吹き込んでくる訳だ。今年の冬は、きっと厳しい冬になるに違いない。肉体的にも、心情的にも、そして、国としても。
―――本格的な冬がやってきたのだ。