〜蓮華 Side〜
終に母様の仇である劉表を、この手で殺すことが出来た。此処まで長い道のりだったけれど、漸く母様に報告することが出来る。劉表は、私が想像していた以上の屑だった。義に悖っているだけでなく、仁さえも欠いた、最低の人間だった。ああいう人間がこの地上から消え失せたというだけで、世界が綺麗になったのだと錯覚してしまう程に醜く、そして憎らしい存在だった。
劉表をこのように殺すことが出来たのは教経のおかげだ。冥琳や思春に聞いたところに拠れば、文聘達が自刎して果てたあの日の内に攻城の指示を出せなかったのは、姉様と私の為に、劉表を自分の手で殺してやりたいという感情をねじ伏せようと苦労していた為だったらしい。
主君であるのだから、自分に殺らせろ、と命じて私達を控えさせることも出来るでしょうに。結局劉表の首を刎ねたのは姉様で、教経は倒れていく劉表の体を何度も斬り付けたに過ぎない。やはり、私達を立ててくれたのだと思う。本当に良く気を使う男だ。
その教経は、劉表を処分した後広間を後にしていた。……戦が終わったら話をしよう、と言っていたのに、忘れてしまったのだろうか。城内を探してみたが居なかった為街まで出てみて捜してみたが、それでも教経を見つけられなかった。
どうしても今日、教経と話をする必要がある。それも、二人きりで。
……亞莎に先を越されたのは正直意外だったが、まだ我慢できた。けれど、思春にまで先を越されたとあってはもう黙って居られない。私の自惚れでなければ、教経は私のことを憎からず想ってくれていると思う。教経が再び宛に還ってしまう前に、はっきりさせておきたい。恐らく、私達は揚州の押さえとしてこの地に留め置かれるに違いないのだから。
日没まであと僅かというところまで探し続けた努力が徒労に終わり、諦めて帰途についた私の目に、城壁の上で景色を眺めて居る教経らしき人間の影が映った。
……やっと見つけたわ、教経。
「教経、此処で何をしているのかしら?」
「……蓮華か。蓮華こそどうしたンだ?」
「戦が終わったら話をしようと言っていたでしょう?忘れていたの?」
「……い、いや。忘れる訳が無いじゃないか」
「……今の微妙な間は何だったのかしら?」
「気のせいじゃないか?」
「そうかしら?」
「そうだ。大体俺は訪いを入れる、と言ったはずだぜ?」
「……まあいいわ。それで、此処で何をやっていたの?」
「文聘に従って死んだ奴らのことを考えていたンだよ」
私達の視線の先には、北門がある。きっと教経は、文聘達の最期の様子を思い返していたのだろう。現地に居た明命は、教経は目を逸らすことなく、逆にその目に焼き付けるかのようにずっと彼らを見ていた、と言っていた。
教経の目には、彼らはどう映っていたのだろうか。
「……ねえ、教経」
「ん?」
「文聘達は、そうやって死んでいって満足だったのかしら。劉表が死姦が好きなだけの屑で、ただ単に恐ろしくて堪らなかったから門を閉めたのだとしたら。それなら彼らも仕えた君主が悪かっただけだと、そう思えたかも知れないのに。あれでは普段からあんな感じだったのでしょう。そんな奴だと分かっていて、それでも死を選んだ彼らは、あそこで死ぬことを納得して、満足して死んで行けたのかしら。
……私には、正直無駄死にをしたようにしか思えないのだけれど」
教経を見ると、教経はいつの間にか目を瞑って物思いに耽っているようだった。
何と答えるのだろうか。
「……無駄死に、か。
だがなぁ蓮華。あいつらは劉表の為に死んだンじゃない。俺が思うに、奴らは自分の矜持を汚さぬ為に、死を選ぶしかなかったンだろうよ。俺に許されて門前に馬を繋ぐような真似をすれば、奴らは自分の矜持を失うことになっただろう。荊州劉家の将としての矜持と、その将に従う兵としての矜持をねぇ。奴らは文字通り命を懸けて、それを護ったんだよ。奴らが決して譲れぬものとして思い定めていたのは、その命ではなくその矜持だったって事だ。主君がああだった以上、今までその矜持を拠り所にして生きてきたンだろう。その矜持を失うってのを考えられない生き方をしてきたから、死ぬしかないと考えたに違いないンだよ。
確かに奴らは無駄死にかも知れないが、護りたかった矜持を護り通したンだから、未練は残っても悔いはなかっただろうさ。……俺としては生き長らえて貰いたかったがね。矜持も何もかも、命あればこそだと思うから」
肩をすくめながら、教経はそう答えた。
「……無駄死にだけど、彼らにとっては意義ある死だった、か」
「事実はどうか知らんがね。俺がそう思っている以上、それが俺にとっての真実だ」
「貴方にもそういう部分があるのかしら?」
「譲れないものか?」
「ええ」
教経にとって譲れないものとは、一体何なのだろうか。
平家の棟梁としての誇りだろうか。一箇の武人としての矜持だろうか。
「ん〜……人との繋がり、かなぁ」
「人との繋がり?」
「あぁ。もし俺がこっちに来たばかりの時星達三人に出遭わなかったら、きっとこうは成っていないだろう。もし雪蓮が俺に従ってくれなかったら、もっと人死にが出ていたことだろう。今この現状があるのは、皆が居てくれたおかげだ。
縁があった。そう思う。俺はその縁を大事にしたいと思ってる。だからそれらを護る為なら、命を張っても良い」
「……姉様と冥琳だけじゃなく、亞莎と、そして思春にまで縁があったみたいだしね?教経」
「……ここでそう来ましたか」
「そう来ましたか、じゃないわよ」
「そういう意味で縁って言った訳じゃ無いんだよ」
「どうだか」
「俺が言った縁ってのは、当然蓮華との縁だって含んでるぜ?」
「でも姉様達との縁とは違って、そんなに深い縁じゃないわ」
「やたら拘るねぇ、お前さんも。何だ?妬いてるのか?」
「……」
「お、おい、蓮華?」
教経の言葉に詰まった私に、少し焦って声をかけてくる。
「……妬かれるのは、迷惑?」
「そんな事はないが……本当なのか?」
「嘘を言ってどうなるものでも無いじゃない!」
「そう興奮するなって。折角の美人が台無しだろうが」
「そ、そんな言葉に惑わされる私ではないわ」
び、美人。美人だなんて……
「……まぁ、何も言うまい」
「そ、そんな事より教経。迷惑でない、というのは本当?」
「本当だよ」
「……それなら、それを証明して見せてくれるかしら」
そう言った私に教経は『どうやって?』と聞き返すような野暮な真似はせず、こちらにスッと近付いてきて私を抱き寄せた。
「……これだけ?」
「……今は、な。雪蓮がニヤニヤしながらこっち見てやがるし」
「ど、どこ!?」
「ほれ。中庭にある、あの木の上の辺りをよく見てみろ。桃毛が揺れてるだろうが」
顎をしゃくられた先を見ると、一瞬だけだが、確かに姉様らしき人物が居たのを確認できた。折角良い雰囲気になったと思ったのに、邪魔をするなんて。
……姉様?私達、少し話をする必要があるみたいだわ。
「……蓮華。落ち着け」
「私は落ち着いているわよ?」
「その割に剣呑すぎる雰囲気だが」
「教経の気のせいじゃないかしら」
「そうならどれだけ気が楽か……」
「問・題・無・い・わ・よ・ね?」
「はい!ありませんッ!」
にこやかにそう言うと、直立不動で問題無い旨回答してきた。
私は最初から落ち着いているというのに。おかしな教経ね。
「で、教経。私にはこれだけなのかしら?」
「……蓮華、その言葉の意味するところ、きっちり理解しているんだろうな?」
「意味するところ?」
「そりゃお前さん、俺に抱かれたいって言ったも同然なんだぜ?」
「……私では駄目かしら」
「むしろ俺で良いのかと訊きたいね。蓮華だって知ってるだろ?俺には……」
「他に何人も情を交わす女がいる、でしょ?そんな事は承知の上よ。それでも貴方が良いと思うわ。貴方と居れば、私は私らしく居られるから。ありのままの私で良いのだと、そう気付かせてくれた貴方だから貴方が良いのよ」
私がそう言うと、教経は言葉を継ごうとして口を開きかけて、直ぐに止めた。私が戯れにそう言っているのではないことを察してくれたのだろう。
「……はぁ。夜に部屋に訪いを入れるから、それまで待っててくれ。ちゃんと蓮華の気持ちに応えに行くからさ」
「本当?」
「本当だ」
「……じゃあ証明してみせて」
「……んっ……これでいいかね?」
「……え、ええ……」
「じゃぁまた後でな、蓮華」
思春や亞莎にまで先を越されて少し余裕が無くなっていたとは言え、少々はしたなかったかしら。けれど、教経は嫌がるような素振りは見せなかった……少し何かに怯えていたような素振りも見せていたが。だから多分、これで良かったのでしょう。
夜。
教経は約束通り私を訪ねてきてくれて、そして私は教経に抱かれた。教経と確かに一つになっていることをしっかりと感じる事が出来、最後には私と教経とが一つに融け合うような、そんな錯覚さえ覚えた。
「……華。おい蓮華、大丈夫か?」
「……大丈夫よ」
「気ぃ失って大丈夫って言われてもな」
「大丈夫よ。心配してくれて有り難う、教経」
「本当に大丈夫なんだな?」
「ええ」
「……それなら良いンだが」
抱かれていたのは覚えているけれど最後の最後に失神してしまったらしく、気が付くと教経の腕の中に居た。
「蓮華、可愛かったぜ?」
「……恥ずかしいことを言わないで」
「どうして?可愛かったと言っているんだから良いじゃないか」
「そういう問題じゃないでしょう!」
「はいはい」
腕の中にいる私に優しく微笑みかけながら、頭を撫でてくれている。
「……確かに心地良いわね」
「何が?」
「こうやって頭を撫でて貰ったのがとても心地良かったと思春が言っていたわ。……この手管で姉様も冥琳も亞莎も皆自分のものにしたのね」
「手管って……酷い女誑しのように聞こえるな」
「……自分が酷い女誑しだという自覚が無いようなら問題だわ」
「……誑そうと思って誑してる訳じゃない」
「意図せずに誑し込む方が質が悪いわ」
「さいですか」
「……教経。誰か一人だけを贔屓になんてしては駄目よ?」
「……分かってるよ。皆それぞれに、同じように惹かれているんだから。自分でもちょっとどうかなとは思うけど、それでも良いと受け入れてくれているからこうなっているわけで。もし優先されたい、と思われても、それは諦めて貰うしかない。俺には出来そうにないから」
「それは良いわよ。出来るだけ機会が均等になるようにしているのは傍目からでも分かっていたことだし」
「そうか。それなら別に……」
「ただね?」
「んあ?」
「私も孫家の女よ。……我が儘なのよ?私だって、ね」
「雪蓮にも同じ事を言われた気がするなぁ……」
「それなら覚悟しておいてね?この件に関しては、貴方に責任があるのだから。我が儘、一杯言わせて貰うから」
「……それが蓮華の甘え方なら全部受け入れるさ。けど、要求を呑むかどうかは別だぜ?」
「なによそれ。少し酷くないかしら?」
「酷くはないだろう。どんな我が儘言われても、蓮華のことを好きでいられると思うよって言ったつもりなんだが。ありのままの蓮華を、全部ひっくるめて受け入れる、とねぇ」
「……本当?」
「冗談でこんな事言えるかよ」
「私のこと、好き?」
そう訊くと、少し照れくさそうに顔を背けて、『さっき言ったろう』とか言って明言しようとしなかった。
「ねぇ教経。ちゃんと聞かせて欲しいわ」
「……好きに決まってるだろうが。……言わせんなよ、恥ずかしい」
恥ずかしい、か。
結構可愛いところがあるわね、教経は。
「私も好きよ、教経」
その晩はずっと、教経に我が儘を言い続けていた。何だかんだと文句を言いながらも、ちゃんと私の我が儘には応えてくれた。
これからも、しっかりと私の我が儘には付き合って貰うから。普段私が周囲には見せることもない我が儘な部分は、貴方に。貴方だけにちゃんと受け止めて貰うから。
宜しくね?教経。
〜教経 Side〜
「お帰りなさいませ、教経様。無事のご帰還、お慶び申し上げます」
「あぁ。想定通り順調に事が進んで楽だったよ」
揚州を平定後、雪蓮との約定通り揚州を雪蓮達孫家に任せることにした。色々と大変だろうが、きっと上手くやるだろう。兵も動員した内の7万は揚州に留めてある。揚州でどの程度人が集まるか分からないが、集まったら徐々に中央へ兵を戻させるつもりだ。
「……教経。戻ってきた中に詠が居ないようだけれど?」
「……気が付くのか、そこに」
「当然ね」
「……南蛮の情報を集めるのに、交阯まで出向いて情報収集に当たってるよ。もうじき還ってくるはずだ」
「成る程ね。交阯ならば物資の交流もあるでしょうし、南蛮の内情についてより現実に近い情報が得られることでしょう」
「……相変わらずしっかり読んでくれるねぇ」
「あら、読まれたくなかったのならもっと複雑に、わかりにくく動くものよ?」
「ケッ……で、どうしたンだ華琳。お前さんが態々出迎えに来たんだ。何かあったンだろう?」
「久々に貴方に会うのだから、出迎えくらいするわよ。まぁ、今回は貴方が言った通りで用があったからなのだけれどね」
「何だ、その用ってのは」
「それは風から説明するのですよ」
「ただいま、風」
「お帰りなさい、なのですよ。お兄さん」
「で、用って何だね?」
「紹介したい人が居るのです」
「紹介したい人?」
「付いてくれば分かるのですよ」
風はそう言って先を歩き始める。
「早く来なさい、教経」
風の後を付いて行きかねていると、これまた先に歩いていた華琳から付いてくるようにと声をかけられた。
……一体誰だってンだ?俺は風呂に入って寝たいンだが。
風と華琳に連れて行かれた広間で待っていたのは、男だった。態々俺に紹介したいというのだから、優秀な人間なのだろう。
風と華琳からは、今回華琳を調略するべく諸葛亮が目を付けて送り込んできた人間だ、ということを聞いている。勿論、平家の諜報員として既に働いていた人間であるということも。諸葛亮にとっては二重スパイだった事になる訳か。
良くやってくれた、と言って姓名を訊いたところ、返ってきたのは想像以上の自己紹介だった。
「お初にお目に掛かります、教経公。私は姓を司馬、名を懿、字を仲達と申します」
「……司馬八達ね」
「……確かに周囲の者達はそう言っておりましたが、よくご存じですな」
「まぁそれなりにはな」
司馬懿が俺の下にずっと付いていた、なんてのは全くの予想外だ。聞けば、優秀すぎたから却って召還できなかったということらしい。……司馬懿が仕えてくれていたのなら、最初から言って呉れれば良かったのに。そうすればもっと楽が出来たはずだ。
まぁ、今はそんな事は良いだろう。
「上手いことやったらしいが、家族は無事だったンだな?」
「それは大丈夫でした。風様が手を打って下さっておりましたので、妻子は無事です。その御礼をさせようと、本日は伴ってきております。もし宜しければ、目通りを許して頂ければと思いますが」
「ああ、目通りは構わない」
「有り難う御座います。それでは呼んで参りますのでしばらくお待ち下さい」
妻子を呼んでくる、か。
そういえば、張春華って鬼嫁ってイメージがあるけど、実際どうなンだろうな?実物を見るのが愉しみだわ。
「目通りをお許し頂きまして有り難う御座います。司馬懿の妻、張春華で御座います。この度は私達を保護して下さり、誠に有り難う御座いました」
「娘の司馬師です。助けてくれてありがとうございました」
「おなじくむすめのしばしょうです。ありがとうございました」
嫁さんの張春華は、まぁその、アレだ。綺麗だし、非常に人好きがする笑顔を浮かべて呉れているがね。目がその、アレだよ、碧とか華琳とか、そんな感じの目をしているんだよねぇ……これは苦労してるンだろうねぇ……。ちょいと横目に司馬懿を見ると、苦笑いをしていた。他人事に思えないのは何故だろうか。不思議だ。
で、娘と言ったかね?まぁ、娘なんだろうねぇ……可愛らしいもんねぇ……司馬師も司馬昭も、将来はきっと別嬪さんになるだろう。司馬師は早逝するんだったか?先生なり凱なりに見せた方が良いだろうな。流石に伊陟に準えられるような逸材が死ぬってのは見過ごせない。司馬昭はまだちょっと幼い様だが歴史を考えればこれも逸材に違いない。二人が死ぬようなことにならなかったのは本当に良かったと思う。
「こちらこそお初にお目に掛かる。平家の頭領をやらせて貰ってる、平教経だ。礼に関してだが、俺は何もしていないから礼を言われる筋合いはないと思うが」
「教経公の家臣である程c様が救ってくれたのであれば、それは教経公がなさったも同然でしょう?」
「……それなら、家臣の家族を保護するのは主君として当たり前のことだろう。改まって礼を述べる必要など無い。むしろ俺の方から詫びるのが筋だろう。迷惑をかけて済まなかったな」
「……大事をなす為なら家臣の妻子など気にかけられるべきではないのでは?」
俺に対して、司馬師がそう言ってくる。
成る程、マキャベリズムに走りそうな娘だな。その思想は正しいが、その正しさ故に人を遠ざけることになるぜ?将来はまだしも、若い内はそんな事を考えないモンだよ。
「救えるなら救った方が良いだろう。人間ってのはそう簡単に自分の感情をねじ伏せられる生き物じゃない。例えそれが必要な犠牲だったとしても、最愛の家族が死んでしまったらその要因となった人間、この場合は俺だが、それを恨まずにいられる人間なんてそうはいない。ましてやそれが救えるのに斬り捨てたとなれば一層憎らしく思えるのではないかね?
お前さんの親父は史上に名を残す程の人間だ。そういった人間を我から進んで敵に回すなんてのは阿呆のすることだ。俺は自分を英明だとは思わんが、阿呆ではないつもりだ。そして司馬懿の子供であるお前さん達が優秀なのは『知って』いる。生かしておいた方が良いに決まってる。それがこれだけ可愛らしい娘なら尚更に、ね」
「……将来自分の為に尽くさせる為に恩を売っておく、ということでしょうか」
「尽くさせるにしても相手が生きていないと始まらない。先ずその選択肢を確保しておくに越したことはないだろう?」
「確かに、効果的だとは思います。恩なり好意なりを感じるのは間違いないですから」
「見え透いているからその通りに感情を誘導されるのが気に入らないのかね」
「そうです」
「これ!」
面と向かって気に入らないと肯定した司馬師を、司馬懿がすかさず窘めた。
「いや、良い。
……司馬師。別に俺の思い通りにならなければ良いだけだよ。そう肩肘張るモンじゃない。放っておけばいいじゃないか。自分を思い通りに動かせると思ったら間違いだ、と心で思っておけば良いだけなんだからねぇ」
「……」
司馬師に対して思ったことを言ったが、フイッと顔を背けてしまった。どうやら拗ねたらしい。……この年頃の娘が何を考えて居るのかなんて全く分からん。
右頬を指で掻いていると、司馬懿が助け船とばかりに嫁さんに娘を連れて退出するように勧め、場の雰囲気を察した嫁さんも完璧な礼儀を以て挨拶して二人を連れて行った。
「……申し訳ありません」
「構わんよ。正直吃驚したけどな。年いくつだ?」
「師は10、昭は7になります」
「10であれだけ物を考えられるのか。凄いな」
「それを言うと、風様や郭嘉様、華琳様などは恐らくもっと早い時期からあの様であったと思いますが」
「……この世界の出来る女ってのはみんな早熟だってのか?」
「まあそうです」
「はぁ……大変そうだな、お前さん」
「……教経公に比べればそれ程でもないかと思いますが」
「……その話はおいておこうか。
兎に角、今まで良くやってくれた。望みの官職はあるか?お前さんが望むなら大抵の地位は呉れて遣るが」
「では側で仕える事が出来る立場において頂きたい」
「国政で辣腕を振るいたい、とか思わないのか」
「むしろ戦場に出てみたいと思いますが」
「戦場に、ねぇ……まぁ良いだろう、考えておく。他に何かあるかね?」
「いえ。私からは特にありません」
「なら今日の所は下がってくれ。俺は疲れてるからとっとと風呂に入って寝たいンだ」
「はっ……では風様、華琳様、ご武運を」
司馬懿は場違いな発言をして下がっていった。これから出陣するわけでもないのに、いつ武運を必要とするのだろうか。司馬懿も恐妻からのプレッシャーで疲れていたからよく分からない事を言ったのかも知れない。カカア天下な家庭を持つと大変だねぇ。
「さて、お兄さん?今日は風と一緒に過ごすのですよね?」
「そんなはずないでしょう風……教経?留守を預かった私を労ってくれるのよね?」
「……身の程を知らない女は見苦しいですよ?華琳ちゃん」
「……あら。私と教経は写し身のような存在なのよ?私が優先されるべきだと思うのだけれど?」
振り返って見ると、風と華琳がにこやかに談笑していた……そう、にこやかに。もの凄く胃が痛くなりそうな、そんなイイ笑顔だった。『第一次教経大戦』とでも言えばいいのかこれは。熾烈な女の戦いが繰り広げられている気がする。
この二人の間に飛び込む勇気は俺にはないし、風と華琳とどちらが相手を負かすのかにも興味がある。此処は静観の一手だ。……静観した結果、後日痛い目に遇いそうなのは気のせいだと思いたい。
「華琳ちゃんは分かっていないのです。風はお兄さんの一番の想い人なのです。恋文を貰ったのは風だけなのですから」
「あら。教経に『お前は俺のものだ』と宣言されたのは私だけのようだけれど?」
「それは言葉の綾というものなのですよ。お兄さんが言いたかったのは、華琳ちゃんを屈服させるのは自分だ、ということであって、女性としての華琳ちゃんを自分のものにするのだ、という意味ではないのです」
おぉ、流石は風だ。しっかり俺が言いたかったことは理解してくれている。
「……そんな事はないわよね?教経。貴方は私のことを掛け替え無く思っているでしょう?」
感心していると、華琳がイイ笑顔でこっちを見ながらそう言ってきた。
そんな事はあるんだが、掛け替え無く思っているのはその通りだ。一応頷いておく。そうでないとヤヴァイ事になると本能が告げている。
「ふふっ。ほらご覧なさい?教経は私を欲しているのよ」
「気のせいなのですよ、華琳ちゃん。お兄さんを上手いこと誘導しただけなのです。お兄さん自身に否定されるのが怖かったから、否定されないように問いかけたのですね?……曹孟徳も可愛らしくなったものなのです」
「なっ!」
「それに、華琳ちゃん?華琳ちゃんは風に借りがあるはずなのですよ」
「……借りなど無いわよ?」
「……仲達さんの家族を保護したのは風なのですよ。風が保護しなければ、仲達さんの家族は死んでいたに違いないのです。華琳ちゃんだけであれば、どうなっていたか分からないのですよ」
「それはそうかも知れないけれど、だからどうしたというの?」
「……もしそうなっていたらお兄さんはきっと悲しんだに違いないのですよ。つ・ま・り!華琳ちゃんはお兄さんを悲しませるような結果を出そうとしていたわけです。そうならなかったのは風のおかげなのです。華琳ちゃんの為にやったことではないとは言え、借りは借り。これを返さないままで居る事を、華琳ちゃんはきっと心苦しく思っているに違いないのですよ。だから此処で風に借りを返させてあげようと申し出ているのです」
「う……」
「という訳でお兄さん。今日は風の番なのですよ」
どういう訳かは分からんが、風が華琳をやり込めたようだ。風に腕を引かれながら広間を後にする俺を、華琳は悔しそうに、口をぱくぱくさせながら見ていた……何々……『お・ぼ・え・て・な・さ・い・の・り・つ・ね』……何故俺がきつく当たられなければならないのか、全く理解出来ないねぇ……。
「……お兄さん、風と一緒に居る時は、風のことだけ考えて居ればいいのですよ?」
「……はい」
……胃の辺りがキリキリと痛む中、何故だか先程まで目の前に居た司馬懿を思い出していた。奴とはいい友人になれそうな気がした、そんな一日だった。