〜思春 Side〜
建業から脱出しようとした劉表を逃がす為に奮闘した将兵を、劉表が見殺しにした。後学の為に、と言われて見学に行った明命から、何があったかは聞いている。仕える主が屑でも、その臣下には立派な人間が居るものだと感心していた。そういった人間を有効に用いることが出来なかったからこそ、劉表は滅びることになるのだろう。
彼らを裏切るような行為をした事で建業に立て籠もっている兵の士気は落ち、攻め込めば直ぐにでも落城させることが出来る状況になっている。
だが、教経様は城攻めの命令を出してこなかった。
明命から聞いた限り、教経様は泣いておられたようだった、ということだった。敵の為に涙を流すなど、柔弱すぎる。そう断ずることは容易いが、人として見事な生を生ききった、文聘のような人間の死を悼むことが出来ることは人として好ましいと思う。そういう心根の優しい人であればこそ、蓮華様の主に相応しいとも。
少し教経様と話をしてみよう。
そう思って教経様の陣屋に向かっていると、雪蓮様と冥琳様がいらっしゃった。
「あら、思春じゃない」
「……はっ」
「此処で何してるの?……ってこっちには教経の陣屋しかないから教経に逢いに行く途中だったって訳ね」
「は、はあ。まあそうです」
「ふむ……雪蓮。思春なら無碍に扱われることはないのではないか?」
「そうかもね」
「……どういうことでしょうか」
「わたし達も教経の様子が気になって訪ねたんだけど、大丈夫だから時間をくれの一点張りでさー。もの凄い殺気を撒き散らしていたし、物騒なことこの上ないわよ。流石にあの状態の教経とやり合いたいとは思わないしねー」
「……やり合うことを考えて居たお前がおかしいと思うのだが……。
どうやら琴も百合もそう言われたらしい。愛紗でも駄目だったようだ。親しい人間と共に居るのに、殺気を撒き散らすような状態で居るのは申し訳ない、とでも思っているのだろう。陣屋の中に入る前に、断空我達に止められたからな」
「わたし達相手に話をしても十分に整理は付けられると思うんだけどね」
「まあ放っておいても明日には整理を付けて居るだろうがな。だがこういう時に我らを頼らない、というのは頂けない。どうせ落ち着いたら、我らに甘えたくなるに違いないというのに」
「あら、冥琳。甘えさせてあげるの?」
「当たり前だ。いつもでは困るが、こういう時は甘えてくる位が丁度良い。私に生の感情を剥き出しにしてぶつけてくれれば可愛いものを」
「あははっ。確かにねー。普段全然そんな事無いから、ちょっと位は脆いところを見せて貰いたいわよね」
「……教経様は、ご自分の気持ちに整理が付けられていない、ということですか?」
「そうみたいよ。まあ、哀しいってだけなら素直に私達に慰められたと思うけど、今回は殺してやりたいっていう感情がどうにもならないみたいだから」
「恐らくだが、自分が劉表を殺したら雪蓮達が仇を討てない、等と考えて居るのだろうさ。だからどうしても自分の殺意を押さえ込まなければならない、とな」
「そんな事気にしないで一緒に滅多切りにしてやりましょうって言う前に追い返すんだから。……本当、馬鹿なんだから」
「だから思春。お前からその事を教経に伝えてやってくれ。私達が教経を訪ねると、アイツは私達が心配してやってきてくれたのだとしか思わないだろう。だがお前が行けば、何か用事があってのことだと思うに違いないからな。普通ではないだろうが、直接面語出来るだろう」
「……分かりました」
「あ、それ伝えて教経が落ち着いたら、私達を呼びに来るのよ?」
「だな。今日の教経はきっと猛々しいことだろうよ」
「楽しみよねー♪」
「フッ……そうだな」
「……では、私はこれで」
お二人とも、軽口を叩く風情で話をしていたが、やはり心配なさっておられるようだ。
殺意が、抑えられない、か。
教経様の陣屋の前まで来る途中で、前方からかすかに殺気を感じた。教経様の陣の前に来た今、それはかすかなものではなく、明確な、そして凄絶なものとして感じられる。普段のあの教経様からは想像も出来ないような、陰惨な、と表現するのが相応しい殺気だった。
「教経様。思春です」
「……どうした」
「少しご相談が。宜しいでしょうか」
「……入ってくれ」
「はっ」
陣屋の中に入って、驚く。教経様は諸肌脱いで清麿を抜き身でその手に取り、肩で息をしていらっしゃった。
「教経様……」
「どうしたンだ、思春。分かって居ると思うが、俺は随分機嫌が悪い。用件は手短にしてくれ」
「では。雪蓮様から伝言です。『わたし達の事は気にしないで一緒に劉表を滅多切りにしてやりましょう』とのことでした」
そう言った瞬間、教経様がピクリと肩を動かした。
「今何て言ったンだ?思春」
「雪蓮様達と一緒に、劉表を滅多切りにしてやりましょう、と」
「……馬鹿な。そんな事が許されるはずがない。雪蓮達は親を殺されている。俺はそうじゃない。唯々屑が憎くて殺してやりたくて仕方がないだけだ。同列に立つ資格など無い」
そう言って目を瞑る。
「教経様。教経様は劉表を殺してしまいそうな自分を嫌っているように見えますが」
「俺が嫌になりそうなのはそこじゃない。雪蓮や蓮華に呉れて遣るのではなく、この俺自身の手で惨たらしく殺してやりたいと考え、そしてそうしてしまいたいと思っている自分が気に入らないンだよ」
「何故そうなさらないのです」
「言ったはずだ。俺よりもその資格を遙かに有する人間が居る」
「その人間が構わないから共に殺そう、と言っているのに、何を躊躇う必要があるのです」
「俺の怒りは時間をおけば忘れることが出来る程度のものかも知れないだろうが」
「その程度の怒りでこうは成らないと思いますが」
「だが俺は俺が大切に思っている雪蓮や蓮華だけで仇を討つのが一番良いと思っているンだよ。それと分かっていてそうしないってのは、俺が思う平家の頭領じゃない。だからやらないんだよ」
……教経様と蓮華様は、存外似ているものだな。
「教経様。教経様は蓮華様に仰ったことをお忘れになったのでしょうか」
「……どういうことだ」
「『蓮華は蓮華で良いンだ』と。そう仰って居られました。それは、『こうあらねばならない』という枠を作ってそこに無理矢理自分を当てはめようとしていた蓮華様に対して、ありのままの自分で構わないのだ、ということを仰ったのではありませんか?」
「……」
「それにあの時にも申しましたが、私は蓮華が孫家の当主としての器があるから仕えているのではありません。蓮華様御自身の器に惹かれてお仕えしているのです。それと同じように、教経様。私は貴方が平家の頭領だから従っている訳ではありません。貴方だから従っているのです」
「思春……」
「好きなようになされば宜しいではありませんか。それが駄目だという時は、我らが皆でお止め致します。今回は雪蓮様御自身がそれで構わないと仰っておられるのです。蓮華様もまた、同じ事を仰るでしょう。貴方は貴方がなさりたいようになされるべきなのです。それが私が敬愛して已まない『平教経』という人であったはずです」
教経様は暫く黙ったまま目を瞑って居られたが、一つ息を吐き出して諸肌脱いでいた服を着込み始めた。
「……俺ぁ駄目だな」
「は?」
「感情的になると駄目だ。まるで餓鬼だ。自分が嫌になってくる」
「……」
「全く進歩してないなぁ……他人から言われないと気がつかないってのは正直どうかね」
「良い、と思いますが」
「いやぁ、駄目だろう。全く進歩がないってのは流石にねぇ」
「教経様は間違っておられると思いますが」
「そうか?」
「はい。完璧では居られないのが人というものでしょう。それが完璧でないからと言って非難を受ける謂われは無いと思いますが」
「だが俺は人の主だぜ?」
「それこそ教経様らしくない問いです。人が完璧でいられないからこそ、多くの人に支えられるのではありませんか。『皆で結果を出せばいい。お前さん一人の肩に全てが掛かっている訳じゃ無い』。蓮華様にそう仰ったのは教経様御自身です」
「……そうか。そうだったな」
「はい」
「……思春。有り難うな」
「……いえ」
「……照れてンのか?」
「……そのようなことはありません」
どうやら、教経様は自分の気持ちを整理出来たようだ。
私をからかう事が出来る様にはなったのだから。
「雪蓮達には悪いが、俺も参加させて貰う。……どうしても許せそうにないからな」
「……はっ」
「……さて、思春。雪蓮と冥琳呼んできてくれないか」
雪蓮様と冥琳様にその、慰めて貰おう、というのだろうか。
「……何故でしょうか」
「……まぁその、なンだ。怒りは一先ず治まったが、文聘の死がやりきれないって感情はまだあってな。というか、そもそもそれが発端でああなってたンだが。だからまぁ、一緒に居たいなぁと。流石にさ、思春に頼む訳にも行かないだろう?」
「……構いません」
「だろ?だからさ、雪蓮と冥琳を……ん?今なんて言った?」
「……構いません。教経様が望まれるなら」
「へ?」
「……私では、不満ですか?」
「い、いや、不満なんて無い。その、思春は良いふんd……雰囲気してるからさ。凛々しくて格好良いのに、ちょっと可愛らしいところがあって。そういうところが好きだ」
……この人は、鈍いのか鋭いのかどちらかはっきりして欲しい。そのつもりが無さそうであったのに、しっかりと私のことを見ていて、しかも好きだと……こ、こんな事をはっきりと言われると、恥ずかしいではないか。
「……その、今の言葉は本当ですね?」
「本当だけど?」
「……分かりました」
「何が?」
「……今日は私が教経様の側に居ます」
「……思春。その、側に居るってもさ。ただ横にいるってだけじゃなくて……」
「……分かっています」
「あ〜……」
「……私でも」
「ん?」
「……私でも、恥ずかしいと思うことはあります」
「……そうだな。ちゃんと応えてあげないってのは駄目だよな」
「……」
「思春。一緒に居てくれるか?」
「……今日だけでしょうか?」
「いや。これからずっと、だ……恥ずかしいなら訊くなよ、思春」
「……う、うるさい!……と、失礼しました」
「ははっ。今のが思春の素か」
「……う……す、済みません」
「誤る必要が何処にある?別にいいぜ?皆の前でちゃんとしてくれれば、俺は普通にしてて貰いたい。そういうことになるのなら尚更に、ね。思春がこういう俺で構わないと言ってくれているのと同じだよ。俺は思春が思春で居てくれる方が嬉しい」
「……は、はっ」
「はい、だろ?今は主従じゃないんだから」
「……はい」
雪蓮様と冥琳様が仰っていた通り、教経様は随分気が立っていた様で、かなり荒々しかったと思う。勿論、最初は気遣ってくれていたが。二度目、三度目、と回を重ねる内に、破瓜の痛みは無くなった。その私を見て、『少し手荒くなるかも知れないが、良いか?』と訊いてきた教経様に、構わない、と答えた結果、怒濤のような性の快楽の中に放り込まれてしまった。
雪蓮様達が二人がかりで抑えようと思っていたところに、一人で挑んでしまったらしかった。
太刀打ちできそうにない。
まあ、最初から負けに来ているような部分があるが。
教経様は落ち着いた後、ずっと文聘について話をしていた。
こういう脆いところがあるのだ、この人にも。脆いという程に脆い訳でもないが、感傷に浸るような部分が。そういう関係になったからに違いないが、それがまた愛おしく思える。
冥琳様が、『甘えて欲しい』と言っていた気持ちが分かる気がする。私が、この人を護ってあげている。そういう充足感がある。
……蓮華様に、どう言ったものだろうか。あの背筋が寒くなるような感覚に晒されてしまうのではないか、と思うと少し憂鬱だ。
〜高順 Side〜
大荒れに荒れていた大将だったけど、甘寧の姐さんが大将に話がある、と言って陣屋に入って出てこなかった翌日には、元に戻っていた。何があったのかってのは、もう今更な気がする。親衛隊内の賭けだと、次は孫権の姐さんだと言われていたんだが。魏越のオッサン以外全員外してしまった。『お前には、らっきーはやらない!』とか言っていたが、また大将に変なことを教えられたらしいな。
「大将、落ち着いたみたいだな」
「まあな」
「……甘寧の姐さん、歩きにくそうだな」
「だな」
「……大将、いい加減にしとかないと、マジで刺されるぞ?」
「……かなぁ?」
「そりゃそうでしょ。兄貴の側には程cの姐さんとか曹操の姐さんとか、ヤバイのばっかり揃ってるんだから」
「……オッサン、今聞いたよな?」
「はい御遣い様。儂も聞きました」
「ちょ、兄貴!今のは言葉の綾ってヤツでしょ?」
「ンじゃ余計なことは言うな」
「きょ、脅迫じゃねぇか!」
「お願いってンだよ、こういうのは」
「……全く。貴方達、何やってるのよ」
「雪蓮か」
「おはよう教経。……落ち着いたみたいね?」
「あぁ。おかげさまで、な。劉表のこと、本当に良いのか?」
「良いわよ?分かち合えるものは分かち合った方が良いでしょ?二人の初めての共同作業ってねー」
「……共同作業なら定期的にやってると思うがね」
「あははっ、わたしとはね。でも蓮華とは初めてでしょ?」
「はぁ……頭痛がしてきた」
「慰めてあげよっか?」
「大丈夫だよ」
「そっか。思春が居るものねー?」
「……昨日呼ばなかったのが気に入らなかったのか?」
「べっつにー」
孫策の姐さんは、大将との会話を楽しんで居るみたいだ。早速ぶっ刺しに来たのかと思った。真面目な話、大将が普段通りの大将に戻れたのか、それを量りに来たんだろう。
「で、教経。当然攻めるわよね?」
「あぁ。当たり前だ。終わらせる」
「この戦を?」
「……そしてドカスの人生をな」
「そ。じゃあ行きましょうか」
「ダンクーガ。全軍に通達。四方から攻め寄せろ、とな。オッサン、オッサンが先鋒だ。気合い入れてけ」
「了解」
「ガハハハッ!腕が鳴りますなぁ!」
色々あったけど、これで本当に終わりだろう。
「おいおい、本当かよ……兄貴の言った通りじゃねぇか」
「親衛隊、開いた城門から城内へ突入しろ!」
「……胸糞が悪いな、この戦は本当に」
城門付近まで寄せた俺たちの前で、城門が開いた。
……内応。大将が言っていたことが、現実になった。本当に胸糞が悪い。忠義を尽くす味方を裏切るヤツに、最期の最期になって主君を裏切るヤツ。その主君は、死姦が趣味の糞野郎。そんな糞の為に忠義を尽くして死んでいった奴らが、余りにも浮かばれない。こんな糞共に囲まれてさえ居なかったら、もっと気持ち良く生死を賭けて戦って、互いを称えながら殺し殺されしていたはずなのに。
「城内へ侵攻しろ。劉表は絶対に逃がすな。見つけても殺すんじゃない。必ず生かして俺の前に跪かせろ。それから黄射と、文聘の息子を捜し出して保護しろ。略奪も暴行も許さん。背いたものは例外なく死罪。良いな?」
「了解!」
「お屋形様、糧食を城内に持ち込んで、民衆に分け与えてやりたいのですが」
「良いだろう。百合、手筈を整えてくれ」
「……うん」
「高順、兄貴の身辺警護頼むわ。俺は前線に行ってくる」
「気を付けろよ」
「分かってるよ」
ケ忠が組下の者達を引き連れて前線に向かう。その前線では、門を閉じる為に寄せてきた劉表軍を相手にオッサンが大立ち回りを演じている。そのオッサンに追いついたケ忠は、門を奪還すべく寄せてきた部隊の将と何合か打ち合って生け捕った様だ。最後まで諦めず、門を奪還しようとしていたのを見る限り、その将もそれなりの人物であるのかもしれない。
「なあ大将」
「あぁ?」
「門開いて内応してきた奴ら、どうするんだ?」
「分かってるだろうが、ダンクーガ」
大将は心底気に入らないって顔をしている。
「劉表を裏切って俺に従うってンなら、もっと前に機会はあったはずだ。勝敗が完全に決してからの内応など認める訳がないだろうが」
「なら門を閉めようとして最後まで戦っていた奴らは?」
「投降するなら命は取らん。故郷に帰りたいというなら帰してやるさ」
「……大将らしいよ」
「誰だってそうするだろうよ。雪蓮も蓮華も白蓮も華琳も、きっとそうするだろう」
「申し上げます!」
「どうした?」
「甘寧様が劉表を捕らえたとのことです!周瑜様の命で戦闘停止を通達しております!」
「流石は冥琳だな。もうこれ以上人を殺す必要はないからねぇ。
……行くぞ?ダンクーガ。畜生共を殺しに」
「……了解」
大将のここ二日間の不機嫌さは、太原から追い出された時に見たぐらいしか記憶にない。しかも太原の時よりも、もっとこう、暗くて重苦しい感じだ。碌な殺され方をしないのは間違いない。全く憐憫の情が湧かないがね。
惨たらしく殺されるべきなんだよ、屑が。
〜教経 Side〜
戦後処理、ということで、建業城内の広間で引見を行っている。粗方処遇は決まり、残すところはあと4名になった。今俺の目の前に居るのは、蘇飛。最後まで城門を閉めようと戦い、ケ忠に捕らえられた人間だ。せめてコイツくらいは死なせたくはなかった。
事前に冥琳から手渡された蘇飛の経歴を見る限り、何とか死なせずには済みそうだがね。
「良く来た蘇飛。俺が平教経だ」
「……はっ」
「いきなり質問で悪いが、お前さんは何故従わずに俺に刃を向けたンだ?」
「私は黄祖殿の配下ですから」
「質問の仕方が悪かったな。……黄祖から黄射のことを頼まれていたンだろうに、何故それに従わずに前線に出て来たのだ、という意味で訊いたんだよ」
黄射の名を口にした時、蘇飛は微かに反応した。
「……黄射殿をどうなさるおつもりですか」
「さて。殺してやろうか、と思っているんだが?」
そう言った俺に対して意見を述べようと口を開きかけた人間を制止する為に、右手を挙げる。少しだけ黙って居て貰おうか。コイツを死なせない為に、順を追って話を進めなきゃならない。その為の発言なんだから。
「……私の命と引き替えに、黄射殿だけは助けて頂けないだろうか」
良し。これなら上手いこと誘導できそうだな。
「……黄祖の息子とは言っても民間の学者でしかないから、かね?」
「……そうだ。だから私の命と引き替えに、彼を助けて欲しい」
「教経様、お願いがあります」
俺の前に跪いている蘇飛の横に、思春が出て来てそう言った。
「何だ、思春」
「この度私が上げた戦功全てと引き替えに、蘇飛殿の助命をお願い致したいのです」
「何故?」
「……私が嘗て黄祖殿の下に居た際に、随分と良くして下さいました。その恩に私はまだ報いることが出来ていません。どうか、どうかお願い致します!」
思春はそう言って平伏している。
……馬鹿だな、思春。俺がこういう人間を殺すわけがないだろうに。
「……甘寧、余計なことをしないで貰おう」
「し、しかし!」
「蘇飛。お前さんの命は、この俺が生殺与奪を握っている。此処までは良いな?」
「はっ」
「の、教経様!」
哀しそうな顔をする思春に、片頬を少しだけあげて微笑みかけてやる。
それを見た思春は、何も言わずに引き下がった。俺を信じて様子を見よう、ということだろう。その選択は正解だよ、思春。
「では、俺が下した結論に対して、異存を述べることなく従うな?」
「……黄射殿の命を保証して頂けるなら」
「ならば良し!黄射の命を保証してやろう。だからお前さんには俺の決定に絶対服従して貰う。良いな?」
「必ず従います」
「ではお前さんへの処分を申し渡す。
……内縁の夫である黄射と正式に結婚し、共に生きて黄家の祭祀を絶やさぬようにせよ。それが俺から貴様に与える罰だ」
「なっ……」
まさかこういう処分が下るとは思っても見なかったんだろうな。蘇飛は呆然としている様に見える。
「何故私を助命なさるのですか」
「俺は黄祖の爺さんに、黄射に家を継がせ、黄家の祭祀を絶やさぬようにすることを約束した。黄射にはまだ子がいないと聞く。それでは黄家の祭祀が絶えることはないと言いかねる。形を整えてさっさと子を為し、祭祀を絶やさぬようにせよ。その為に助命するのだ。でないと黄祖に対して俺が申し訳が立たん。
文聘ではないが、死んだ人間と交わした約定は絶対だ。理由もまた文聘が言った通りだがな。それから、文聘の子の文岱はまだ幼い。然るべき年齢になった時に文家を再興させるつもりで居るが、それまで面倒を見てやってくれ」
「……しかし」
「示しが付かない、か?だがお前は俺の言うことに絶対服従すると誓ったはずだ。だから従って貰う。俺はお前さんが出した条件を呑んだンだ。次はお前さんが俺の条件を呑む番だ。異論は認めない。
……良いな?」
「……寛大な措置に感謝致します」
「感謝される謂われはない。俺は黄祖の爺さんとの約定を果たそうというだけだ。別にお前さんの為じゃないから恩を感じる必要はない。……以上だ。もう下がって良い」
蘇飛は思春に付き添われて、下がっていった。
「フッ……」
「……何だよ、冥琳」
「何。素直ではないと思ってな。祭祀を絶やさぬようにするだけなら、別に蘇飛が相手でなくとも良いだろうに。結局お前は蘇飛を助けてやりたかったのだろう?」
「……違うね。生きることの方が辛いから、そうさせただけだ。その方が罰として相応しいからな」
「そういうことにしておいてやるさ」
此処に居る全員が、俺を暖かい目で見て居やぁがる。何かにつけて俺に噛みついてくる吉里までもがそんな目をしている。
……糞。きっちり見通されてるってのは何かムカつくな。
たった今蘇飛が出ていった扉から、二人の男が連れ立ってこちらにやってくる。
カイ良にカイ越。
劉表が荊州に入ってからずっと劉表に従ってきた、劉表の知恵袋。
そして最後の最後に門を開放して内応してきた、裏切り者。
「平教経様。私はカイ良、字は子柔で御座います。拝謁が叶い、光栄で御座います」
「私はカイ越、字を異度と申します。ご戦勝をお慶び申し上げます」
二人は恭しく俺に頭を垂れている。
拝謁が叶い光栄だと?ご戦勝をお慶び申し上げますだと?
どの面を下げてこの俺に見えているのだ、貴様らは!
「……貴様らの為に割く時間は俺にとっては貴重過ぎる。ひとつ聞いておこう、貴様らが門を開いた時、貴様らの羞恥心はどちらの方向を向いていたのか?」
「た、平教経様。貴方様は、我々が恥知らずだと仰るのですか」
「それ以外のことを言ったように聞こえたのなら、俺の言い方が悪かったのであろうな」
「平教経様。貴方様のお側におられる公孫賛殿にしても、ついこの間まで敵として刃を交えた間柄であったはず。ですが今は志を変えて貴方様にお仕えしておられます。であれば我々にも寛大なご処置を給わっても良いと思いますが」
「聞いたか白蓮。コイツらはお前さんと同類だと言っているぞ?」
「……誠に光栄の極み」
「……良いだろう。白蓮、俺の心もお前さんのそれに等しい。
本来戦場の外で血を流すのはお前さんの本意ではあるまいが、特にお前さんに命じる。この薄汚い裏切り者共を処分して、せめて世界の一隅だけでも清潔にしろ」
「御意」
「平教経様!お慈悲を!」
「最後まで己が主に忠誠を尽くして囚われたのであれば兎も角、勝敗が決してから内応して来るような奴に慈悲を与える程教経は甘くない。無駄な哀願はするな」
「……恥知らずが。死んで黄祖の爺さんと文聘に詫びを入れて来い」
これで残すは後一人、いや、屑が一匹だけだな。
〜冥琳 Side〜
教経の前に引き出された最後の一人。
劉表。コイツを殺す為に、私達は此処までやって来た。元より救いようのない屑だと思っていたが、この戦を通して奴が行った事は、全く以てその屑の称号に相応しいものだった。
「屑。お前を殺す前に一つだけ訊きたい事があってな。こうしてきて貰った訳だ」
「儂に何の用じゃ、青二才」
「訊きたい事がある、と言ったろう?死姦ばかりしていると耳が遠くなるのか?」
「フン。人の趣味に口を出せる程ご大層な人間でもあるまい。貴様も女を侍らせて喜んでいるのであろうが」
「合意の上で、な。貴様のように抵抗どころか口答えすら出来ない様にして侍らせている訳じゃ無い。貴様にとっては些細な差だろうが、俺にとっては大きな差だ。無論、世間一般にとってもな」
「じゃが儂にとっては些細な差じゃ。そうである以上、この儂の目に移る世界でも些細な差じゃ。
……そこにいるのは孫堅の娘達か。どうであった、その肉の感触は。良いものであったじゃろう?儂は母親を、貴様は娘を思うがままに犯した、正に同志ではないか……ヒヒヒ」
「俺を挑発しているつもりか?屑。畜生が一丁前に哲理を口にするな。貴様の目に移る世界で些細であるということが、即ち真理であるとでも抜かすつもりか。俺はそこまで自惚れては居ないんだよ。
この世界において、貴様は少数派に過ぎん。この世界が共有する価値観に背くような真似をしている時点で、貴様の居場所は地上にはない。貴様は先ずその事をしっかりと理解すべきだな」
「そのような説教をする為に儂をこのように縄で縛り上げて跪かせているのか。何と狭量な男じゃ」
「ハッ。貴様が何を言おうが緒戦は負け犬の遠吠えに過ぎん。痛痒にも感じんよ。今からする質問に答えて貰おうか。……屑、何故文聘達を見捨てた?」
「何じゃと?」
「何故文聘達を見捨てて門を閉めた?」
「奴は儂を逃がすと口にしたにも拘わらず、戦で負けそうになって居った。何が『我が命に代えても道を開いて見せます』、じゃ。大言壮語するだけで何の役にも立たなかったわい。己の役目を果たせなかったからには、死ぬのは当然のこと。だがそれに儂が付き合ってやる義理は無かろう。じゃから門を閉めさせたのじゃ」
「貴様……」
「ほ。怒って居るのか。貴様が殺したも同然じゃろうが!貴様が攻めてこなければ、文聘は死なずに済んだであろうに。敵に同情して自己満足を計ろうというのか?とんだ偽善者じゃな、貴様は。何が『天の御使い』じゃ。狭量な上に偽善者とは、恐れ入ったわい」
「俺の事はどうでも良い。だが、文聘達は貴様の為に戦い、そして死んでいったンだよ。それに対して何も思わんのか、貴様は」
「……そうじゃのぉ。どうせなら自刎などせずに最期まで戦って一人でも多くの平家の郎党共を道連れにして逝って貰いたかったの。それであったなら、奴の妻を殺すこともなかっただろうに。残念ながら子は見つけることが出来なかったが、従子は殺してやったわい。……孫堅には劣るがの、奴の妻も中々の味であったぞ?」
「……この下衆がぁッ!」
教経が階を駆け下りて、劉表を足蹴にした。もの凄い勢いで。もの凄い強さで。そのまま劉表を蹴り続けて居た。暫く蹴り続けた教経は、多少落ち着いたのか蹴るのを止めて劉表を睨み付けている。肩で息をしながら。
「屑ッ!貴様のような屑を裏切ることもせず最後まで忠義を貫いた人間に、なんてことをしやがったッ!」
「……ほほ。化けの皮がはがれてきたの。貴様は抵抗できない人間に一方的に暴力を振るう、最低の人間じゃな。それで良く人が付いてくるものじゃて。周囲の者は皆お前の今の行動を快くは思わぬのではないかの」
「それで俺を見限るなら見限ればいい!俺は貴様の様な屑が大嫌いなンだよッ!」
「何とまぁ感情的な男じゃ。ただの餓鬼ではないか」
「それがどうした!屑よりは遙かにマシだろうが!これ以上貴様のような屑と話し合う事はない!今すぐ殺してやる!」
「ほほ。縄で縛り上げ、抵抗できない人間をか!大した男じゃな!ハハハハハハハハハッ!」
狂ったように笑う劉表の背後に、雪蓮達が立っていた。
「……そうね劉表。でも貴様にはその死に様が相応しいわ!」
蓮華様が剣を抜きはなって、後からその背中を切りつける。
「な、何を……」
「……死になさい。貴様のような屑は死ぬより他ないのよ!」
続けて雪蓮が、その胴に向けて剣を一閃させる。
「き、貴様ら、恥というものを知れ!」
「恥知らずが何を言うか!」
蓮華様がその腕を切り落とす。
「む、無抵抗な人間を……」
「いい加減五月蠅いから死んで貰えないかしら」
雪蓮がその首を斬り飛ばす。
「……屑。テメェに抱いている、この胸糞が悪くなる程どうしようもない感情を、全部テメェに呉れて遣るよッ……!」
教経が清麿を抜き放ち、何度も何度もその胴を斬りつけている。いや、切り刻んでいる。
とてもではないが、私の目では追うことが出来ない。だが、劉表の体に付けられていく傷が、教経が剣で何度もその体を斬りつけていることを如実に示している。
「屑ッ!屑野郎ッ!このドカスがぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!」
首を刎ねられた劉表の体が倒れるまで、ずっと教経は斬り続けていた。劉表の体が床に倒れた時、その体は最早原形を留めぬ程に切り刻まれていた。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」
「……教経」
「はぁ、はぁ、っはぁ、はぁ、はぁ……ふぅー……大丈夫だ……悪かったな、雪蓮、蓮華。一人で盛り上がっちまった」
「良いわよ。見ていてすっきりしたし」
「気にしなくても構わないわ。仇を討つことは出来たのだから」
「……他の人間も済まんな。俺は縛り上げられた無抵抗な人間を斬り殺すような男だ。愛想が尽きたなら言ってくれ」
「教経様。誰一人そんな事は言わないと思います」
愛紗のその言葉に、皆頷く。私も当然頷いた。
「……済まんな。少し頭を冷やしてくるよ」
教経はそう言い残して広間を出ていった。
最後まで反吐が出そうな戦だったが、これで揚州は平家のものとなった。
後に残るは南蛮、そして麗。
諸葛亮が何を考えて居るかは知らぬが、平家が揚州を落としたことで彼我の立場は逆転することになる。これより先は、時間の経過は平家を利するのみとなる。時間をかけて居ては平家を討ち滅ぼすどころか、自分たちが滅ぼされてしまう。優位に戦を進めたければ、此処で勝負をかけてくるより他には途はないだろう。
これが教経相手でなければ、戦を優位に進めることに拘らず、時間をかけて兵馬を養った上で決戦に臨むが上策。だが、教経相手にそれは下策。教経は、多くの異民族と友好関係にある。ゆっくりと時間をかけて兵馬を養う事など出来はしないのだ。実際に戦をするに当たっても、平家軍だけでも手に余りそうであるのに匈奴や羌、テイ、そして羯に鮮卑が平家に合力する可能性は極めて高い。
彼らは弱肉強食の世界に生きる者達だ。その目から見た教経は、絶対的な強者としてこの世界に君臨しているように見えるだろう。自分たちに利益を与えて続けてくれる限り、強力な軍を率いる、強烈な君主である教経の心証は良くしておいた方が良い。彼らは教経が平家の主である限り、これに従うだろう。
……相手には運の悪いことだ。
天命は我らにこそある。あとはそれを逃さぬように、教経に天下を掴ませるだけだ。
私がその天下を描いて見せようではないか。
この周公瑾が知謀の全てを賭けて、な。