〜華琳 Side〜

教経が兵を率いて揚州討伐に向かった後、まるで計ったかのように私に密かに接触してきた人間が居た。私にとって重要な報せを持ってきた、と言って、訪いを入れてきたのだ。
桂花が言っていた通り、これは麗羽の、いえ、諸葛亮の、私に対する調略でしょう。

「お初にお目にかかります。私は姓を石、名を苞、字を仲容と申しまして、陳留で商いを生業としている者で御座います」
「そう。私は曹操。字は孟徳よ。それで、私にとって重要な報せを持ってきた、ということだったけれど?」
「はっ」

返答をしながら、石苞が左右に控えている春蘭と秋蘭、桂花、瑛を見やる。

「この三人は貴方も恐らく知っている通り、私と此処まで苦難を共にしてきた信頼の置ける者達よ。もう一人は、謂わば私の弟子のような者。私の言うことに刃向かうことはない。此処で交わされる会話が外に漏れることはないわ」
「左様で御座いますか。それでは話をさせて頂きます。
……曹操様。貴女様は武運拙く袁紹に敗れ、陳留を逐われました。そして司隷州における戦で、平教経に救われた故に平家に臣従しておられる。私にはそれが悔しくてならないのです。私は一介の商人に過ぎませんが、モノを見る目には自身が御座います。
取引相手が信頼に値する者であるか、投資先に将来性があるか。商いを生業にしております関係上、それらを見抜かなければならないからです」
「そう。それで?」
「単刀直入に申しますと、袁紹も平教経も、この乱世を統べる器量を持ち合わせてはおりません。私が見るところに拠れば、袁紹は怠惰で我が儘に過ぎ、平教経は甘すぎるのです。この乱世を統べ、後世に安寧をもたらす事が叶う器量を有しておられるのは、曹操様、貴女しか居られません。私は貴女様を支援したいのです」

良くもまぁぬけぬけとそんな事が言えるわね。
麗羽に対する洞察は良いとしても、教経に対する洞察は随分と浅いものだと思うわよ?確かに教経は甘い所がある男だわ。星や風達から聞いたこれまでの教経の事績を聞く限り、そして私を助けに来た事から考えても、それは間違いないことでしょう。
でもね。アレは己が為したいことと為さなければならないこととの区別が出来る男なのよ。ただ甘いだけの男に、この私が惹かれるはずがないじゃない。私を独立するように口説き落とそうと言うのならば、もっとしっかりと話を組み立てるべきだと思うわ。
もし私が教経とこういう関係になっていなかったとしても、この時点で諸葛亮の策に乗っかろうとは思わないでしょう。甘すぎる洞察を口にして誘いを掛けてくる者と共に行動するという選択を、私がするはずもない。

「『支援したい』、ね。漠然としすぎていて何の支援をしてくれるのか、私には全く分からないのだけど?」
「お戯れを。貴女様がその胸に抱いていた理想、野望。そういったものを全て捨て去る程、貴女様は平教経に心服していらっしゃらないのではないですか?」

残念だけれど、私は力で屈服させられたのではなく、心服させられたのよ。乱世に生きる君主として、という部分も少しはあるけれど、何よりも先ず女として、ね。まあ、他者から見た私と教経の関係は、とてもそういうものには思えないでしょうけど。しかしそれでも、何らかの要因があって私が教経に心服している可能性を検討し、そうであった場合に備えておくことが必要なのではないかしらね、諸葛亮。
私が教経に心服していない、という予断を持って策を建てているから上手く行かないのよ。策とは、予断を持って居ては練り上げることは出来ない。私はそれを麗羽との戦で思い知らされた。諸葛亮を押し込めることに成功したからこれを考慮する必要はない。袁家の名声など戦では役に立たない。陳留に寄せてきている敵は、もうこれだけしかいないはずだ。そういう予断を持って居ればこそ、私は負けたのよ。
私にそれを思い知らしめた貴女が、私と同じ過ちを犯していることに気が付いて居ないのかしら。

「……あら。私は従うつもりで居るのだけれど?」
「本気で仰っているとは思えません」
「私は本気で言っているのよ?貴方程度に我が心底が知れるはずがないでしょう。分限を弁えなさい、商人」
「……仕方がありません。先ず私から心底を明らかにさせて頂きましょう。
曹操様、私は貴女様に今一度この乱世に起って頂きたいのです。その為に必要な金穀、そして必要とされるのであれば兵さえ用意致しましょう。陳留の民達の為に、今一度天下を目指して頂きたいのです」
「……私に教経を裏切れ、と言っているのかしら?」
「端的に言えばそうです」
「秋蘭!この者を殺しなさい!その罪状は、教経への反逆を使嗾したことよ!」
「はっ!」

秋蘭が剣を抜き放ち、石苞の首に宛がう。
剣を突きつけられているにも拘わらず、一向に慌てるそぶりを見せない。例え見かけだけだとしても、大したものだと言って良いでしょう。使者の人選は誤らなかったようね。

「……何か言い残すことがあるかしら」
「残念ですな。このまま袁紹なり平教経なりが天下を統一しても、そう遠くない将来その治世に綻びを生じさせ、直ぐにまた戦乱の世がやってくることになるでしょう。国の行く末を案じる者の一人として居ても立っても居られず、悲惨な未来を回避しようとしたのですが、どうやら曹操様にはご理解頂けないらしい。貴女様も、所詮その程度の人であったということでしょう。それを見抜けなかった自分の蒙昧さが恨めしいだけです」
「……秋蘭、止めなさい」
「……はっ」
「石苞、と言ったかしら?」
「はっ」
「殺されるとは思わなかったのかしら?」
「殺されるならばそれまで、と考えておりました」
「……このことを知っている者は?」
「私以外には、後に控えております家宰のみで御座います」
「そう……少し時間を貰えるかしら。即断出来るものでは無いわ。私は勝ち目のないことはしないの」
「そう悠長にはしていられないとは思いますが、即断出来ないというのもまたよく理解出来ます。
……一月。一月後に再度お伺い致しますので、その時に返答を頂きたいと思います。出来れば、互いにとってより良い選択をして頂きたいものです」
「ええ。そう願うわ」
「では、本日はこれで失礼致します。……さあ、帰りましょう」

石苞が、後に控えていた家宰を急かして退出する。

「……華琳様。お疲れ様で御座いました」
「別に疲れては居ないわ。感情を表に出さないようにするのに少し苦労したけれどね。それより秋蘭、石苞が落とした書状をこちらへ持ってきて頂戴」
「はい、華琳様」

退出する際、家宰の後を付いて歩いていた石苞は、その懐から書状を態々『取り出して』落としていた。
秋蘭が拾って来たその書状は、私に独立を勧める使者となったならば、例え成功しなくともその家族の無事を保証する、という、諸葛亮が石苞に与えた書状の写しだった。

それを見た桂花は私の顔を一度だけ見やり、小さく頷いて部屋を出て行った。恐らく、諜報網を駆使して事実関係を洗おうというのでしょうね。
瑛はその書状を見て、少し考えて居る様子だ。この娘は私にとっては少々面白みのない弟子だ。教えたことをさほど苦労せず理解し、私の言葉の裏にある真意を汲み取って行動出来る。目に余る失敗をしてくれれば、虐めてあげるのに。毎日何かにつけて試しをしているけれど、今まで一度として私に不満を抱かせる回答をしたことはない。無論、その内容は別だ。少々物足りなく思うことはある。けれど、そういう時でも瑛は面白い表現をする。時に皮肉を混ぜて。時に比喩を用いて。
そういう遣り取りが好きな私にしてみれば、桂花程忙しくしている訳でもない瑛は格好の話相手だ。

「瑛。これを見た貴女はどう思うのかしら?貴女の存念を述べなさい」
「……華琳様を嗾けようとした石苞は、『不幸にも』最後の最後に馬脚を現した、ということではないでしょうか。目つきが鋭すぎ、身のこなしも市井の者とは思えない『家宰』の、その主に対する愛情に満ちあふれた目が届かぬ所で」

相変わらず、皮肉と、そして稚気に満ち溢れた、面白い表現をするものね。頭の回転が遅い人間は、その稚気を言葉遊びによって表すことなど出来ない。教経が見込んでいる通り、そして私がある程度認めてあげているように、この娘はモノになる娘でしょう。
……後は桂花のように偶に失敗をしてくれれば、本当に良くできた弟子なのに。

「……瑛」
「は、はい」
「その通りよ。貴女の見立てで間違いないでしょう。これに驕ることなく精進なさい。貴女は、『モノになる』わ」
「は、はい!」

要するに石苞は、これは諸葛亮の策略だから乗ってはいけない、ということを私に伝えたかったのでしょう。そして石苞が『家宰』として紹介してきた人間は、彼を監視している諸葛亮の手の者なのでしょう。

「秋蘭。この書状を、風に渡して貰えるかしら」
「渡すだけで宜しいのですか?」
「ええ、構わないわ。後は風が良いようにするでしょう」
「畏まりました」

諸葛亮。貴女の、人の才を見る目は確かなものなのでしょうね。石苞はその胆の太さと言い弁舌と言い、先ず優秀と言って良い才を持つ人間でしょう。でも貴女は才を見抜いているに過ぎなかった様ね。

人をして己が思う通りに動かすに、その人間が求めるところのものを与えることによって自ら進んで働く様に仕向けることを良しとする。その点では、貴女が採った方法は間違ってはいない。家族の身の危険が貴女によってもたらされたものであったとしても、彼は家族の安全を得る為に自ら進んで此処にやってきたのだから。

でもね、諸葛亮?
世の中には、己がこうと定めた生き方・考え方を貫き通すことに至上の価値の置く者達が居る。その為に不利益を被ることになろうとも、一向に構わないと思い切る事が出来る人間が。
家族の安全を得る為に働くことを承知した人間が、己を含めてその命を失いかねないことをしてのける。矛盾すること甚だしいけれど、石苞自身は何の矛盾も感じていないでしょう。彼にしてみれば、己を貫いているに過ぎないのだから。

『人』というものは完璧ではあり得ない。丁度石苞が、傍目には矛盾している様に。

……貴女の策が破れるのは、貴女が私を読み違えたことが主原因ではない。

人というものが持つ、ある種の不合理さ、もっと言えば、愚かしさのようなもの。
それを見抜いて計算することが出来なかったから、貴女の策は破れることになるのよ。

貴女もまた完璧ならぬ、『人』であるが故に。