〜麗羽 Side〜
劉虞さんから禅譲を受けて、新たに皇帝に即位した私は、国号を『麗』と定めて新しい国の運営に忙しくしているのですわ。朱里さんも田豊さんも沮授さんもギョウには居ませんが、皆それぞれの役割を戦地で果たしてくれているのです。
ここギョウでは、并州を再度平定して戻ってきた審配さんと逢紀さんが重大な案件を選別した上で私の判断を仰いでくるようになりました。私では判断が付かない案件については、斗詩さんと桃香さんが一緒になって事の是非を考えてくれているのです。
今までの私は全て斗詩さん達に丸投げをしてきましたが、たったこれだけのことでこんなに大変な思いをするとは思っても見ませんでした。私の所にやってくるのは重大な案件だけで、その他のことは全て審配さん達が文官に指示を与えてそれをこなしているのですから、彼らの苦労は推して知るべし、というものでしょう。我ながら今まで袁家の統治がよく上手くいっていたと思いますわ。斗詩さんや桃香さんが言う通り、多くの人が居ることが袁家の強みであるのでしょう。
「麗羽様、張コウ殿が練兵の報告をしたい、と申しておりますが」
「そうですか。通して下さいな」
「はっ」
現在陳留に駐屯している朱里さんから、猪々子さんと張コウさんを交替させ、その際に前線にいる負傷兵と後方の壮健な兵を入れ替えてくれるように言ってきたのです。負傷兵をいつまでも戦陣に止めておくことは、出征している軍の補給物資を無駄に消費することになるからそうした方が良い、と審配さんが言っていました。桃香さんも、負傷兵を早く後方に戻して治療をしっかりしてあげた方が良い、と言ったので、恐らくそれで間違いなかったと思うのです。審配さんは政として、桃香さんは人として。それぞれの観点で献策をしてくれているのだと思うのですわ。
還ってきた張コウさんは、それは精力的に徴兵したり練兵したりと動いてくれています。以前は私に対する態度が気に入らなかったのですが、私が『名門袁家の袁紹』を止めてから、随分と尽くしてくれるようになったと思います。その献言も、言葉遣いは悪いですが、私の為を思ってのものであることはきちんと感じられたのです。
「練兵の報告がある、と聞きましたが」
「はあ。まあそうですな」
「聞かせて頂けますか?」
「先ず申し上げれば、新たに徴兵した兵がしっかりとした兵になるには半年程度は必要でしょうな。半年、というのは、異民族討伐という名目で出征して戦を経験させることまで考えて、ですが。戦を経験しないで兵は兵にはなり得ませんからな。
軍全体の練度については、随分マシになった、という程度のものでしょう。麗羽様がお好きな、『華麗な』兵にはほど遠いですな。あれならまだ公孫家の爺共の方が遙かに使えるでしょう。誠に残念ですが、麗羽様の軍は爺にも劣る、という訳ですな」
「皮肉はおやめなさい。平家に対抗するには、やはり数が必要だ、ということですわね?」
「……中々どうして、きちんと理解されていらっしゃる様ですな。どこかに頭をぶつけられましたかな?」
「官渡の戦い直前くらいから、斗詩さんや田豊さん、沮授さんにそう言われ続けて居ましたから。それを覚えていただけのことですわ」
「成る程。記憶力は人並みにあったようで何よりですな」
この人は本当に口が悪いのですわ。官渡の陣屋での人傷沙汰と良い、物騒なことこの上ありません。ですが、今では言葉裏にある、彼なりの気遣いというものが何となく分かる気がするのです。
「心配してくれなくても、私は元には、『名門袁家の袁紹』を演じる私には戻りませんわ」
「……別にそのような心配はしておりませんがね」
「……一つ、良いでしょうか」
「……何ですかな?」
「このまま袁家と平家との間で、一種の膠着状態が作り出せるのではないか、と審配さんや逢紀さんが言っていましたが、それは可能だと思いますか?」
「さて、そのような国家の大事、この武辺には全く分かりませんな」
「何を馬鹿なことを。田豊さんの書状では、貴方こそ国家の大事を考えて軍を動かせる随一の、そして袁家においては唯一の将である、と書いてありました。田豊さんにこれ程見込まれている貴方が、何の見通しもないなどということはないのではありませこと?」
「……田豊殿め、余計な事をしてくれたな……」
「どうなのです?」
「……まあ、無理でしょうな」
「何故そう思うのです?」
「……もし平家がその余力溢れる領土で全ての卒たり得る人間を徴兵した場合、その兵力は50万を超えるだろう、と孔明殿は言っておられました。そしてその将兵の士気は高く、また中核を担う兵の練度は今の袁家の兵共には想像も付かぬものでしょう。平家軍の兵一人で軽く袁家の兵三人を殺してのける。麹義殿から聞いた限りでは、彼我の差はそれ程にある訳ですな。
当然奴らはその優位性を認識しているでしょう。訓練も碌にしていない状況では、膠着させることなど出来ますまい。出来るとすれば、それこそ国中の兵を尽くした場合のみ。そしてそれを行うときは、正に袁家が滅ばんとするとき以外にはないでしょう。国中の兵を尽くすということは即ち、領内から働き盛りである青〜壮年の人間が居なくなるということですからな。因って無理だと、そう申し上げたのです」
「……そうですか」
袁家は、滅んでしまうのかも知れないですわね。もっと早くに、私が己の愚かしさに気がつけていれば。きっとこのような状況にはなっていなかったでしょう。今は、事態が好転することを信じてやっていくほかありませんわね。
「……遅蒔きながらに気がついて良かったではありませんか」
「そうでしょうか。私にはそうは思えませんが、張コウさんは何故そう思うのです」
「武運拙く死ぬことになったとしても、気付かぬままの愚かな自分で死んでいくよりは、遙かにマシだとは思いませんか。『名門袁家の袁紹』として死ぬのではなく、『袁本初』として死んでいくだけマシだと」
「……しかし皆を巻き込んでしまいますわ。張コウさん、貴方はそれで宜しいのかしら?私のこと、見限っていたのではありませんか?」
「……それとこれとは別問題でしてな。俺には俺の事情というものが在るのですよ」
「それは何ですの?」
「……いずれその時が来ればお話し致しますよ。では、俺はこれで」
意味深な言葉を残していくものですわね。
……私に出来ることは、袁家を纏めて皆の力が発揮出来る環境を整えること。沮授さんも桃香さんもそう言っていました。
特に桃香さんは『どんなに辛いことでも、皆で一緒に頑張れば乗り越えられるんだって信じて頑張ろう?』と言ってくれたのですわ。それを信じて、やるしかないのでしょう。まだ見捨てずに力を尽くしてくれている、皆のためにも。皆と一緒に。
〜愛紗 Side〜
襄陽から長沙に移動してきた教経様の前で、侵攻前の最後の軍議を行った。
教経様が建てられた策は、確度の高いものだと思う。先ず長沙から蓮華が侵攻する。その後、同時に長沙を発った白蓮が、その距離の差によって生まれる時間差を以て交阯より侵攻。最後に教経様御自身が兵を率いて建業近辺を強襲する。次々に、そして至る所から侵攻する軍に対応するには、劉表軍では荷が勝ちすぎると思う。
私と蒲公英は、将として白蓮を支えて欲しいという教経様達ての願いで交阯から侵攻する軍に属することになった。折角教経様と逢えたというのに、明日にはもう離れてしまう。最近太原時代から教経様に従っている私達が全て揃って教経様と一緒に居ることが殆ど無い。
それぞれが出世し、それぞれに責任ある地位が割り振られている以上、それは致し方のないことだというのは重々承知している。けれど、やはり寂しいと思ってしまう。私達は、それこそずっと一緒にやって来たのだ。どんなときも教経様と一緒に居たのだから。褒められたものではないと思うけれど、やはり太原時代が懐かしく、あの頃に戻りたいと思ってしまう自分が居る。教経様が手の届くところにずっと居て、断空我と馬鹿なことを為されたり、子供達相手に大人げなく本気で遊んだり、鍛冶屋で奇声を上げていたり、そして私達と共に夜を過ごしてくれていた、あの太原時代に。
「どうしたンだ?愛紗」
軍議の後、教経様に抱かれて物思いに耽っていた私に、教経様が声を掛ける。
「いえ。少し昔のことを思い出していたのです」
「……太原、か。何もかもが懐かしい」
「……どうして分かるのですか?」
「それはお前さん、あれだけ懐かしそうな顔をするなんて、太原以外には無いじゃないか。あそこから全部始まったンだから」
「そうですね。教経様の天下統一は、あそこから始まったのですから」
「……それだけじゃないだろ?愛紗。俺たちの関係が始まったのも、太原からだよ」
「そ、そうですね」
「照れてンのか?……いつまでも可愛いねぇ、愛紗は」
「お、お戯れを」
「戯れてなんか居ないぜ?愛紗は可愛いんだよ。散々言っただろ?俺がそう感じているんだから……」
「……『俺にとってはそれが全てだ』、ですか?」
「そうそう。分かってるじゃないか、愛紗」
「それはそうです。教経様のことですから」
「ははっ。しかし愛紗に関しての想い出は、ただ単に懐かしいだけじゃなくてかなり恥ずかしいけどな」
「どういうことですか?」
「お前さん、忘れた訳じゃ無いだろ?俺ぁやらかしただろうに。お前さんとの立ち合いで」
「……そうですね。そんな事もありましたね」
「あの後愛紗に頭下げて、練兵して貰って」
「夢を語って私を誘って下さいましたね、教経様は」
「その前に色々説教されてたけどねぇ」
「それはそうです」
「太原の爺さんの家に探しに来て、結局お前さんも一緒に昼飯ご馳走になってたじゃないか。アレで俺だけ怒られるってのはちょっとおかしいと思うんだけどねぇ」
「あ、あれは教経様が長老に無理矢理ご飯を作らせたからではありませんか!」
「おぉ、怖い怖い」
「他にも問題行動は沢山ありましたよ?」
「そうかぁ?」
全く。都合の悪いことは忘れたふりをするのだから。
「今はその全てが親衛隊になった断空我の組下に、明らかに嘘と分かる掛け声を覚え込ませたりしたではありませんか。それも、丸一日掛けて、本当に愉しそうに」
「今じゃ親衛隊の『鉄の掟』らしいぜ?アレ」
「本当ですか?」
「あぁ。ダンクーガの奴、結構気に入ってるらしい。あと、『真名を本当に忍にしようかなぁ。折角大将がくれたんだし』とか言ってたのをケ忠が聞いててな。俺にそう教えてくれたよ。
……それだけ気に入ってくれてるのは、実は結構嬉しいんだよ。本人には絶対に言わないけどな」
教経様が柔らかく笑っていらっしゃった。
この人の本当の顔は、きっとこの顔なのだろうと思う。そう言うと恥ずかしがって見せてくれない気がするから、本人には絶対に言わないですけどね、教経様。
「教経様らしいです」
「……本当に懐かしいねぇ。そういえば初めて愛紗を抱いた後にさ、夢を見たんだよ」
教経様はちょっと笑って天井を見上げていた。
「突然どうなさったのですか?」
「いや、まぁ思い出して、さ」
「どのような夢ですか?」
「お前さんが俺に嬉しそうに抱きついてきて、口付けしてくれる夢、だよ」
そ、それは夢ではないと……お、思います。
「その夢の中で、お前さんに言ったことを思い出してな。お前さんとこういう関係になるなんて、思っても居なかったって。そう言ったンだよ」
「私も思っていませんでしたよ?教経様」
「そうか。まぁそうだよなぁ。始まり考えたら碌でもない縁だモンなぁ」
「……でも、そんな縁でもあってくれて良かったと思います。そうでないと、私は今こうして教経様と共に在る幸せを手に入れる事は出来なかったと思いますから」
「……そっか。そう言ってくれると嬉しいよ、愛紗。俺もそう思うから」
教経様と、口付けする。
「……愛紗。あとちょっとで天下統一だ」
「……分かっていますよ、教経様。きっと私がその道を開いてみせます。私はその為にこの世に生を受けたに違いないのですから」
「違うね」
「えっ?」
「愛紗は、俺に愛される為にこの世に生を受けたのさ。そうに決まってるンだよ。それ以外の答えなんざお断りだ」
「の、教経様……」
「何だね?……っと!」
教経様の言葉が嬉しくて。教経様に抱きついて、長い間口を吸っていた。
……欲張りなのは分かっている。でも、私は全部手に入れたい。
教経様が夢に描いているその世界を。
そして、教経様を。