～華琳 Side～
無事に汜水関まで撤退した私は、春蘭と桂花を洛陽に還していずれ来るであろう袁紹軍に対する備えを行わせている。汜水関に留まって殿を務めた秋蘭を待っていた私の前に、凪達が兵を纏めて還ってきた。
……秋蘭の旗が見えない。
その事に嫌な予感を覚える。まさか……いえ、秋蘭に限ってそんなことはないでしょう。
広間にて凪達を待っていると、三人が入ってきた。その足取りは重い。疲労もあるのだろうが、それだけではないことを思わせるような、そんな足取りだった。
「凪、真桜、沙和。御苦労様」
「はっ」
「秋蘭はどうしたのかしら」
「……はっ」
「凪。秋蘭はどうしたの？」
「……秋蘭様は……我々を逃す為に直属の兵と共に敵中に残られて……」
「……それで？」
「……申し訳ありません。それ以上は分かりませんが、恐らくは……」
「凪。秋蘭が死ぬところを見たの？」
「……いえ。見ておりません」
「そう。それなら十分だわ。秋蘭は死んでなどいない。私はそう信じることにするわ」
秋蘭が私との約束を破るはずはない。秋蘭が死ぬところを誰も見ていないのであれば、そして秋蘭を討ち取ったと袁紹軍が喧伝していないのであれば、私はそう信じておけばいい。例え、もう二度と会えないのだとしても、秋蘭には秋蘭の事情があって私に会いに来ることが出来なくなっただけだと、そう思えばいいのだから。秋蘭は死んでいない。
「……華琳様」
「余計な気遣いは無用よ。三人とも、御苦労様。洛陽に戻って体を休めた後、兵を再編しなさい。麗羽達が攻めてくるでしょうからね。負けっ放しで終わるつもりはないのよ、私はね」
「……はっ」
どうすればいいのかしらね。独力では最早麗羽には敵わないでしょう。エン州を保持出来ていればまた違った展開を見せていたと思うけれど、それを失ってしまった今彼我の国力差は歴然。一矢報いることが出来るくらいで、勝利することなど出来そうにない。
……駄目ね。戦う前からそんな弱気では勝てる戦も勝てはしない。何か、策を考えなければならない。私が生き残る為に必要な手立て。それを考えなければならない。
国元で騒擾を起こさせれば。……警備の兵だけで押さえつけられてしまうかも知れないわね。それでも、やらないよりはマシでしょう。後は、異民族の助力を取り付ける事が出来ないかしら。こちらから金穀を遣わす代わりに軍兵を借り受けることが出来ないか。調整してみる価値はあるでしょう。勿論、現状の私に助力する利益が彼らにはないことは分かるけれど、やってみなければ分からない。最後まで足掻き続ければ、事態が好転する可能性が有るかも知れない。丁度麗羽が私に勝ったように、私が麗羽に勝つ事も出来るはずよ。
そこまで考えて、また先の戦のことを思い出していた。
河北を手に入れるところまで、後一歩だった。そうなれば、教経と雌雄を決するべく対峙することになったのに。目を閉じれば、教経とあの日交わした会話が蘇ってくる。
『教経、南方を平らげてきなさい。私は北方を平らげるわ。そうしたら、決戦しましょう？天下を賭けて』
『その方が結果として民の被害が減る、か？……良いだろう。打ち破ってみせるさ』
教経との約定。
例え司隷州に侵攻してきた麗羽に勝ったとしても、私は河北を手に入れる事が出来そうにない。どう思い描いても、司隷州を保持することさえ難しい状況にある。10度思い描いて10度負ける。そういう状況にある。教経のことだから南方の平定は上手くいっていることでしょう。
……ご免なさいね、教経。私は、貴方との約定を守れそうにないわ。
他にも様々な事が頭に思い浮かんでは消えていく。
……考えが方々に飛んで、纏まらない。
こういう時に秋蘭が居てくれれば。それなら私も落ち着いて考えることが出来るのにね。
秋蘭さえ、居てくれれば。
～沮授 Side～
孔明殿から指示を受けて、麹義殿と私で南皮に戻った。かき集めた兵と糧食を前線に届ける為だ。先ずは麹義殿が。収穫後に私がそれぞれ兵と糧食を以て遠征する。孔明殿はそう言っていた。
南皮に帰還した私を待っていたのは、大いなる驚きだった。
……麗羽様が、我らに対して謝辞を述べたのだ。
麹義殿も私も、自分の目の前で起こったことが信じられなかった。今まで、このようなことはなかったのだから。
帰還の報告を終えた私の元に、審配と逢紀がやってきた。
「沮授、いや、沮授殿。無事のご帰還、お喜び申し上げる」
「審配殿、一体どうされたのです。そのような言葉遣いは無用に願います」
「そういう訳には行かぬ。我らは我らの事情を優先させた結果、国を滅ぼそうとしていたのだ。最後の最後に気がつけたから良かったものの、今日のこの困窮を招いた責は偏に我らにあるだろう。その我らが、それを防がんとして奔走した貴殿に対して不遜な口を利くなど許されるはずがない」
目が醒めた、ということか。どんな荒療治をしたのだ。
「そうは言っても今までと余りに違えば違和感しか残りますまい。これまで通りで構いませぬからそのようにして頂きたい。それで、この私に何か？」
「そう言われるのであれば、今まで通りの口調で失礼しましょう……んんっ……実は少し相談があるのだ」
「何ですかな？」
「……我らが麗羽様から言われて、劉虞に対して禅譲を迫って居ったのは知っていたか？」
「まあ、それなりには」
「やはりそうか。実はその事で相談があるのだ。我らは、禅譲について認めさせることが出来れば麗羽様の我らへの覚えが良くなる、そう思って事を進めて来た。動機がそうであったから、此処に至ってそれは拙いのではないか、と思うようになったのだ。麗羽様の為にならぬのではないか。そう思えてきた。それで卿の意見を聞きたくなったのだ」
「ふむ」
「どうだろうか。私としては確かに民達に対して一定の効果があるとは思うが、今諸侯に疎まれていきなり攻め込まれるのは拙いのではないかと思うのだが」
「……恐らくは大丈夫でしょう。孔明殿に言われて兵を糧食を集めて頂いているとは思いますが、それを先ず麹義殿が率いてエン州へ入ります。それによって平教経の行動を制約しようというのです」
「平教経はそれでも構わないだろうが、その他はどうなる」
「……最早天下は我々袁家と平家、そしてあるとすれば曹家。この3家によって争われるであろう事は疑いありませぬ。曹家は今すぐには動けますまい。要するに、諸侯と言っても現状で気に掛けねばならないのは平家ただ一つです。彼らが従うことはない以上、皇帝になって疎まれたとしても結果は変わらない。そう思いますが」
「そうであろうか」
「禅譲であれば、ですぞ？」
「元よりそのつもりだ。そうでなければ正統性を主張出来ぬからな」
「それであれば問題無いのではないか、と私は思いますが」
「そうか。沮授殿にそう言って貰えるのであれば、大きく道を誤ることは無いのだろう」
「ところで、兵はいかほど集められたのです」
「ひとまずは無理のない形で、と思い、各県から警備兵を半分程度引き抜いた。その後には、新規に徴発した者達を充ててある。これで、3万を超える兵は確保出来た」
「成る程。では直ぐに麹義殿に率いて移動して貰いましょう」
「うむ。それが良いだろう。この場合は早ければ早い程良い」
「糧食や装備の点検については私に任せて貰おう。麹義殿と沮授殿は一先ず休まれよ。後は先に逃げ帰って安全な場所でのうのうとしておった我らにやらせれば良いのだ」
それにしても。
袁家の雰囲気というものが随分変わってきている。麗羽様といい、この二人といい。皆現状に危機感を覚えた結果こうなっているのだろうが、この状態が長く続くのであれば、袁家の天下も夢ではないかも知れない。
～教経 Side～
朝目覚めると、そこには柔らかい小山が二つあったとさ。
ちょっとつまんだり美味しく頂いたりしてみたら、ハンマーでぶん殴られたンだねぇ。いいじゃねぇか。減るモンじゃないンだし。そうやってイチャイチャしていると、断空我が外から声を掛けて来る。
「大将、趙雲の姐さんが診療所に来てくれってよ」
「了解だ」
「……何？」
「多分夏侯淵が目を醒ましたんだろう」
「そう。ほら、早く行きなさいよ」
「あぁ。……詠」
「何よ」
「有り難うな」
「……ふんっ」
ツンデレめ。朝っぱらから萌えて来るじゃないか。
取り敢えず外に出て診療所に向かう。
「ダンクーガ、気持ちの整理は付いたのか」
「あぁ。付いた」
「で？」
「俺は大将を護る。ちょっと複雑だけど、兎に角俺は大将を護るんだ。それが一番アイツがしたかったことだと思うから」
「……そうか。なら良い」
「……何だよ大将、心配してくれたのか？」
「別にお前のことなんか心配してないんだよ」
「兄貴、それって兄貴が言ってた『つんでれ』ってやつだろ？」
「断じて違う」
「またまた」
「黙ってろ、忠」
「了解ですよ」
そう言いながらも笑っていやがる……百合に言いつけてやるからな、忠。
「お前らはここで待ってろ」
「了解」
「了解ですよ」
診療所の中に入ると、夏侯淵が体を起こして寝台に座っていた。
その脇には、星とブラックジャック先生がいる。
「おい、無理するな」
「それ程無理をしている訳ではない。貴方が来る、と趙雲から聞いてな。寝たままで迎えるのは失礼だろう」
「失礼も糞もあるか。良いから寝ていろ」
「大丈夫だ……先ずは私の命を救ってくれたことに感謝する。自分でも信じられないがな。あの傷では助からないものだと思っていたのだが」
「運が良かったンだろうさ。偶々偵察に出た星がお前さんを見つけて連れ帰り、偶々此処に腕の良い医者が居た。お前さんの運が良かった以外の結論は出せないな」
「それで？私に訊きたい事があるのだろう？」
「あぁ……単刀直入に訊くぞ。華琳は何で負けたンだ」
「……信じられない、か？」
「当たり前だ。俺は華琳が勝つと思っていたンだ。官渡では勝った。そう聞いている。そこから陳留を奪い返しに征ったこともまた聞いている。だがそれでも負けるとは思えない。例え相手が諸葛亮だったとしても、だ」
「……驚いたな。そこまで知っているのか」
「この程度の事は調べれば分かるだろうが。戦勝ってのは広く喧伝してこそ意味があるンだから」
「それもそうか」
夏侯淵は薄く笑った後、戦のあらましを説明してくれた。
「袁術、ね」
「そうだ。華琳様は全く考慮していらっしゃらなかった。貴方であればまた違った結果が出たのかも知れないがな」
「それは買い被りだな。同じ兵力、同じ配下しか居なかったなら、恐らく同じ結果になっただろうさ」
「そうかな。華琳様は貴方を高く評価している。『自分に打ち克てる才を持つのは、教経しかいない』と常々言っておられたのだが？」
……エラい評価されているな。
「華琳に比べてそれ程優れているとは思わない。大した差はないと思うがね。拮抗する相手だと思えばこそ、俺も華琳も互いに拘るンだろうしねぇ」
「……そうか。そうかもしれないな。それが理由ではないかも知れないが」
顔色が悪いな。無理はさせるべきじゃない。
「夏侯淵、もう休め。今お前さんに必要なのは体をゆっくりと休めることだ。滋養のある食べ物も届けさせる。食べることが出来ないものはあるか？」
「いや、特にはない。それよりも、私をどうするつもりなのだ？まだ私はその事について一切聞いていないのだが」
あぁ。当たり前すぎて忘れていた。
「済まん、忘れていた。ひとまずは体を治して貰おう。治ったら、華琳の所へ還るが良いさ」
「いつ、治る」
「さぁ。お前さんが焦って躰を動かしたりしない限りは、それなりの期間で復帰出来ると思うがね」
「悠長に療養している時間はない。少々無理をしてでも復帰しなければならない」
「……そして華琳の前で死ぬのかね？体さえ万全であれば死ぬことはなかった。私の為に無理をさせてしまったが故に殺してしまった。そう華琳に思わせて負担を掛けるのかね？」
「そ、それは……」
「良いから言うことを聞いておけ。悪いようにはせん。お前さんの傷が治ったら、華琳の所にきっちり送り届けてやるさ」
暫く考えて居たようだが、どうやらこちらの言うことに従うことにしたようだ、な。
「……信用しよう。華琳様は貴方のことを信用しているようだからな」
「ま、信用されとこう。ゆっくり休め、夏侯淵」
「……分かった」
夏侯淵はそういって体を横たえた。
「先生、ちょっといいか」
「ああ。構わん」
先生と連れだって外に出る。
「……かなり辛そうだったが、本当に大丈夫なのか、夏侯淵は」
「私には体を自力で引き起こしたこと自体が信じられないがね」
「相当に悪いみたいだな？」
「それはそうだ。私でなかったら左足は切断だっただろう。右腕に関しても肘から下は切断でもおかしくない状況だった。あれを元に戻すには相当に苦労すると思うがね。果たして回復する為に行う訓練に耐えられるかどうか」
「……無茶をしてどの位で復帰出来る？というか、元通りに動くようになるのか？」
「元通りには動くようになるさ。私を誰だと思っている。私は手術の腕じゃ世界で一番だと自負をしているんだ。元通りに戻すのには、無茶な予定に必死になって食らい付いてきたとして、三ヶ月は必要だろう」
「三ヶ月、か」
それだと冬になるな。
もし現状袁家が俺たちに備えていたら、迂闊に袁紹を攻めることは出来ない。夏侯淵の話を聞いた限り、相当周到に用意してきているはずだ。肥沃で口数の多い冀州を領有し、今またそれに匹敵するだけの口数を誇るエン州を領有することになる袁紹は、収穫が落ち着いたら即座に華琳を滅ぼそうとするだろう。そこまでに間に合わせてやることは出来ないかも知れない。
「どうかしたのか」
「いや、何でも無いさ。先生よ、その方向で予定を考えておいてくれ」
「それは構わんが本人次第だろう」
「本人はきっとやると言い、そしてやり遂げてみせるだろう。己の主君の為にそこまで傷ついて戦い続けた人間がだ、その程度の苦痛に屈するとはどうしても思えないからねぇ」
「ふむ……では期待させて貰おう。私は必死になって治そうとする患者が好きでな。だが、何にせよ先ず体力を戻してからだ」
「あぁ。一応凱にも治療を頼んでおいた。気力が汪溢すれば、治癒力は高まる。そう言っていたしな」
「ほう。琵琶丸も治療するならかなり早く復帰出来るかも知れんな」
「というと？」
「訓練前に鍼を打たせるのさ。それで随分変わってくるだろう」
「それ位前倒せる？」
「一月程度だな」
「そうか。まぁ、何にせよあの患者は先生に任せる。宜しく頼む」
「まあ任せておけ」
そう言って先生は再び部屋に戻った。
袁紹が何を考えて居るのか。そして諸葛亮がどう動くつもりなのか。そろそろ、判明する頃だろう。
もし、袁紹達が備えていなかったなら。兵を率いて蹂躙してやる。華琳とは不可侵条約を結んでいるが、貴様らとは結んだ覚えはないからな。もし備えていたとしても、いずれ、遠くない将来に必ず思い知らせてやる。
俺と華琳が決戦するのを邪魔したことがどれ程高く付くのか、ということをな。