〜華琳 Side〜
黒山賊の兵を吸収した後、予てより定めていた通り官渡へ移動している。現在、黄河を渡渉し延津を通過した辺りだ。順調に行けば五日ほどで官渡に到着するでしょう。昼夜兼行で駆け続けさせれば二日で到着することも可能だけれど、追撃してこないようだし通常の行軍速度で良いでしょう。
黒山賊を吸収したことで軍勢は60,000を越えた。これだけの兵があれば、例え麗羽が100,000を越える兵を率いてやってきたとしても勝利することが叶うでしょう。
官渡周辺は、私が学んできた兵法の知識を全て注いで作り替えたのだから。官渡の城を取り囲む相手が常に死地にあるように、元々あった沼地を大きくして足場が悪い土地を広げてやった。それ以外の場所は、陣を張るに不適切になるように作り替えた。
周辺に木を植えて見通しを悪くした。また、岩を設置して地面に埋め、軍を展開出来ぬようにしてやった。無論、軍を展開する際に大きな支障と為らない場所に、それでも全軍を展開させるに当たっては少々手狭になるように。そしてそれを除けたら、水が流れ込んで足場を更に悪くするように。除けようと除けまいと、私にとっては好都合となるように置いておいたのだ。
「華琳様。平教経が梓潼で公孫賛とぶつかったようです」
「そう。教経の敵ではないでしょうね」
「はっ」
「麗羽は今どの辺りにいるのかしら」
「我らを討伐すべく途中で兵を吸収しながらこちらへ向かって来ているようです。現在、白馬辺りにいるとのことです」
「……随分遅いわね。同数の兵を先行させて私達をここに釘付けにしておき、後から援軍として合流させた方が良いと思うのだけれど。私達が何らかの意図を持って後退していることは分かっているでしょうし、自領内で地の利を得て戦う事を考えついても良さそうなものなのにね」
「先行させた部隊が我々に打ち破られるかも知れない、と考えているのかも知れません」
「そんなことを考えるような人間じゃないわよ、麗羽は。自分の都合が良いようにしか物事を見てこなかったからこそああなって居るんじゃない」
「……確かにそうかも知れませんね」
「心にもないことを口にする物ではないわよ?秋蘭」
「はい、華琳様」
私達を急追しないのは、兵力を以て覆滅せしめることを意図しているからでしょう。どのような罠を仕掛けて待ち受けていようとも、大兵力を以て罠ごと呑み込めば問題無い。急追して捕捉し同数の兵で策を競い合うより、純粋な力によって圧倒しようというのでしょうね。
考えとしては間違っていない。けれど、大兵力を活かすことが出来なければその策自体が破綻することになる。我が領内で戦うのなら、その辺りに考えが及んでいるべきだと思うのだけれど。
「まぁ、いいわ。ゆっくりとやってくると言うのならそれでも構わない。但し、私があちらの思惑通りに官渡で逼塞して到着を待ってあげる必要もないわ」
「華琳様、では……?」
「延津で一度麗羽達を襲撃しましょう。更に兵数を減らした上で決戦するのが良いでしょう。桂花、凪達を官渡へ先行させ、吸収した黒山賊達を再編して我が軍に組み込みなさい。私達は途中で道を外れて引き返し、南阪で埋伏する。延津に入る為に黄河を渡渉し始めたら、北上してこれを叩くわ」
「はっ」
「春蘭、秋蘭。貴女達も私と共に来なさい」
「「はっ」」
流石に警戒して行軍はしているでしょうからね。一旦全軍で官渡を目指して目を眩ませ、南阪で麗羽達を待つ。渡渉を始め、全軍の半分が河に入ったところでこれを叩けばかなりの損害を与えることが出来るでしょう。先の戦と合わせれば、これでかなり兵力差を縮めることが出来る。兵達の指揮高揚にも繋がるわ。
戦略的には何とか五分に持ち込むことが出来ているはず。
あとは、戦術的な勝利を積み重ねることで戦略的な勝利を掴み取るだけよ。
〜田豊 Side〜
「田豊さん、これからどうすればいいの?」
「素直に渡渉出来るとは思えません。此処は文醜殿と顔良殿の隊を先に渡渉させ、渡渉中の安全を確保させてから渡渉するのが宜しいかと」
「そっか。渡渉してる最中に襲われちゃったら危ないもんね」
「その通りです。ですから……」
「うん。麗羽ちゃんにそうお願いしてくるね」
「宜しくお願い致します、劉備殿」
「も〜、私のことは桃香で良いって言ったでしょ?」
「……はぁ。まだ慣れぬものでして」
「ま、いっか。直に慣れるよね?じゃ、行ってくるね」
劉備殿はそう言って麗羽様に進言する為に陣屋を出て行かれた。彼女に言わせれば、進言ではなくお願いらしいが。何にしても、私の進言が採用される様になってから生きるハリのような物を感じている。
劉備殿の背中を見ながらこれからの戦に思いを致す。
孔明殿が徐州へ赴任していく際に交わした遣り取りを思い出しながら。
「曹操との戦で我々が負ける、と仰るのですか」
「はい」
「何故」
「貴方も分かっているのではありませんか?」
「……袁家の戦略が予断を含みすぎているからですか」
「その通りです。しかもその予断は、曹操を甘く見ていることに由来しています。君主としても策士としても一流である彼女を侮ることは敗因としかなり得ません」
「しかし如何に策を弄そうとも、そもそもの兵力差が大きすぎるでありましょう。平教経を相手取るならまだしも、現時点の曹操が相手であるならば兵力差に物をいわせて押し切る戦が出来るのではないでしょうか」
「今の袁家の認識の甘さという物が貴方の言葉から滲み出ている様ですね。
兵の数では袁家が勝っています。軍師の器量でも私がいる以上互角にしてみせます。しかし兵の質、将の質、将の数、家中の和、そして何より戴いている主君の器量。その全てにおいて袁家は劣っています。局地戦ならいざ知らず命運を賭けた大戦において勝てるはずはありません。
局地戦においては偶発的な事象によって勝敗が決することは多々あります。ですが国家の命運を賭けた大戦においては、一戦場において勝つ事は重要ではありません。無論、その戦場で敵の主将を討ち取ることが出来れば話は別ですが。最終的な勝利を手に掴む為には、戦全体を見通し相手に対して常に優位に立っていることが重要になるのです。僥倖を端から望むような戦略を立てているようでは負けは確定しているようなものです」
「僥倖を望むような戦略は立てていないつもりですが」
「……では訊きましょう。
田豊さん、貴方は曹操が大軍の利点を生かせぬよう策を巡らせ、両軍の兵数に大した差が無くなってしまった状態で曹操と対峙することを考えたことがありますか?
兵数差を保って戦場に到着した時に、その戦場で全ての兵を展開させることが出来ないことに思いを致したことがありますか?
優勢に戦を進めることが出来たとして、不和によって最良の策を退けるような真似をされたり思わぬ負傷によって主攻を担う将が離脱したりすることを考えたことがありますか?
そもそも曹操が国内の兵を尽くして戦に臨んでくることを考えたことがありますか?
曹操と平教経が同盟して先ず袁家を滅ぼさんとする可能性については?
曹操と対峙中に幽州で大規模な反乱が発生する可能性は?
荊州南部に逃げ込んだ公孫賛が兵を糾合し揚州を通過して徐州に攻め寄せる可能性は?
平教経が曹操と袁家諸共に呑み込もうとその配下の全将兵を引き連れて戦場に乗り込んでくる可能性は?」
「……いくつかは。しかし、それら以外は想像もしておりませんでした」
「それは全て、『こんな事が起こるはずもない』『こうあって欲しい』という予断を持っているから想像出来なかったのです。予断を持たずに起こりうる事象を全て想定し、それらが起こる可能性を一つずつ検証し、発生した場合の危険性を鑑みて発生しないように策を弄したり発生した場合の対処方法を考え、想定外の事態が起きた時でも対処出来るよう余力を持った状態で眼前の敵と向かい合っておく必要があるのです。それを行えない者に軍師たる資格はありません。
私が挙げた事態がどれ一つ現実の物にならないとしても、それは僥倖に過ぎないのです。その可能性の芽を摘んだ結果そうなったのではなく、ただ偶然その結果が得られただけでしかないのですから。だから、今貴方が思い描いている戦略は僥倖を端から望んで建てられたものに過ぎないのです。
今回の戦については、既に私の方で粗方検討を済ませ、いくつかの危険な要素についてはそれを押さえ込むべく策を施してありますが、今後もこのようでは困ります。貴方の知らないところで私が手を打って居たから上手く行った、というのも、貴方にとっては僥倖でしかないのですから」
言っていることが正しい事は理解出来る。だがそれを徹底して行える人間が果たして何人いるだろうか。孔明殿には出来るのだろう。孔明殿が高く評価している曹操と平教経もそれが出来るに違いない。
「……根拠のない優越感は醒めたようですね」
「はっ。申し訳ありません」
「貴方はこれで問題ないでしょうがその他の人はそう簡単に目を醒ますことは無いでしょう。先に挙げた様々な状況を想像さえしないで戦を行えば、袁家は苦汁を舐める事になります。その後、攻め滅ぼされることは自明です」
「……」
「しかしそれを座して待つ私ではありません。私は徐州へ内政官として厄介払いされるようですが、策は考えてあります」
「それはどのような?」
「……袁紹さんと桃香様が率いるであろう本隊には、そのまま苦汁を舐めて頂くことにします」
「……それは」
「戦に負けて敗走する袁紹さんと桃香様を必ず追撃するでしょう。その後背を私が徐州から長駆して突きます。その兵を率いる将については目星を付けてあります」
「少し、お待ち下さい。本隊が負けることが分かっていて、何故それを防ぐ為の策をお考えにならないのです」
「無駄だから、です」
「無駄ですと?」
「はい。そもそも私が徐州に遣られるのは、袁家における権勢を競うことにしか意識を働かせることが出来ない蒙昧の輩がいて、その意見に袁紹さんが重きを置いている為です。彼らは戦場においてさえ己の権勢を高める為に互いを牽制しあうことでしょう。家中の和が保たれているならば他にやりようがありますが、それを望むことが出来ない現状では手の打ちようがありません。
勝つ為に最上と思われる策を献策したとしても、袁紹さんはそれを受け入れないでしょう。なぜなら、その周囲にいる者達が私や田豊さんに手柄を立てさせまいと妨害するであろう事が間違いなく、また袁紹さんが彼らの意見を採用するであろう事が確かであるからです」
「そうとも言い切れますまい」
「田豊さんが納得出来ないのであれば、本隊が負けることを回避する為に最善を尽くされるが良いでしょう。但し、もし何を言っても事態が好転しないであろう、と感じた場合は私の策に則って時機を待って欲しいのです。しつこく献策や諌言を繰り返し、軍兵を掌握する事が出来ない状態になることだけは避けて下さい」」
「……分かりました。必ずそのように致します。孔明殿の策についても了解致しました。しかし、それだけで勝てるでしょうか。それに、孔明殿が仰るように苦汁を舐める事になったとしても、負け様という物がありましょう」
「田豊さんに頼みたいのはその事です。貴方が今言ったように、敗戦すると言っても配下の兵を悉く喪うような敗戦になってしまったのでは例え曹操に勝てたとしても平教経に攻め込まれることになるでしょう。それでは拙いのです」
「壊滅するような負け方をしないようにしろ、と仰るのですか」
「そうです。そうなりそうになった時の為に桃香様への書状を認めておきます。それを田豊さんに預けておきますから、桃香様へ見せると良いでしょう。ただ、貴方にやって頂きたいことはそれだけではありません。私は長駆して後背を突きますが、そのこと自体を陽動とするつもりです。恐らく曹操は敗走する本隊を捨て置いて、後背に迫る軍を討とうとするでしょう。その曹操の後背を突く軍が必要です。張コウさんにも既に話をしてあります。彼と貴方で軍勢を隠し、温存し、その時に備えておいて欲しいのです」
「張コウ殿にも」
「ええ。このことを知っているのは、私、沮授さん、田豊さん、張コウさん。あと、正式に決まったらになりますが、麹義さん。この五人だけになります。
……田豊さん、此処が袁家が迎える最初の山になります。私達5人だけですが、この5人の和によってこの山を越えるしかないのです」
「……微力を尽くします」
そう言うと孔明殿は頷いた。それから直ぐに孔明殿は徐州へ内政官として赴いていった。
『後は任せます』。
そう言って。
「田豊殿」
「……張コウ殿か」
「何やら考え事をしていたようだが、後にしようか?」
「いや、孔明殿の仰ったことを思い返していただけだ。首尾は?」
「……白馬周辺に15,000の兵を埋伏させた。意図を気取られないようにするのは骨が折れたがな」
「郭図達は何か言っていたか?」
「『白馬を突かれると思っているのか、阿呆め』と言って笑っておったわ。言い様には腹が立ったが、後のことを思えば何も知らぬ奴らが憐れで仕方が無くなってな。適当に流しておいた」
「そうか。……無駄になってくれれば良いのだがな」
「さて、あの様子ではそれは望めまいよ。まあ、保険を掛けておいたと思っておけば良かろう」
「うむ」
「それで、どう黄河を渡渉する?」
「文醜殿と顔良殿に先行して貰う」
「……妥当だろうな」
「自分が行きたい、と言うかと思ったが」
「馬鹿なことを。孔明殿から、来るべき時こそが俺の戦の始まりとなるのだ、と聞かされている。この俺は大事を控える身だ。前哨戦でつまらぬ意地を張って負傷したのでは顔向け出来ん」
「ならば良い」
「しかし来るかな?既に官渡に到着して我らに備えている、と郭図達から聞いたが」
「分からんが、あり得そうにないことでも考えて置くべきだ。この場合は、あり得そうなことであるから尚更に、だな」
「孔明殿の受け売りか?」
「何故そう思う?」
「同じ事を俺も言われたからさ」
「私でもこの程度の事は考える。まあ、予断を持つなと叱責されたことは認めるが」
「ははっ、俺と変わりが無いじゃないか。……どうやら渡渉することに決めたようだな」
騎馬隊が2隊、それぞれ5,000程渡渉し始めている。旗は『顔』に『文』。私の献策を採用させる事が出来たようだ。
「では俺たちは後からゆるゆると付き従わせて貰おうか」
「それが良いだろうな」
騎馬隊は対岸まで渡りきり、周辺を警戒しているようだ。曹操はきっと何処かでこの様子を見ているに違いない。そう考えて警戒しておくべきなのだが、余り言い過ぎると不興を被りかねない。ここは、騎馬隊で周囲を警戒させることが出来ただけで満足すべきだろう。
……味方を警戒しなければならないとはな。それも、己が主を。
釈然としない想いで渡渉の順番を待っていた。
〜華琳 Side〜
南阪で埋伏して麗羽達の動向を窺っていると、情報収集に当たっていた桂花が待っていた報せをもたらしてくれた。読み通り、延津の対岸から渡渉するようだ。
「華琳様、袁紹軍は騎馬隊10,000を二手に分けて警戒しているようです」
「そう。良くやってくれたわ、桂花」
「か、華琳様〜」
待ちに待った報せをもたらした桂花を褒めると、桂花は恍惚とした表情を浮かべた。
「桂花、まだ策が成ったわけではないのよ?」
「は、はいっ、華琳様」
「ふふっ、可愛いわよ、桂花。今晩可愛がってあげるから頑張りなさい?」
「はいっ!」
「それで華琳様、如何致しましょうか」
「分かっているでしょう秋蘭。私達は渡渉中の敵を襲う為に此処に埋伏し、そして警戒しているとは言え予測通りの場所で渡渉し始めたのよ?……後は為すのみよ」
「畏まりました」
「桂花、敵軍はどの程度居るの?」
「延津対岸に集結している袁紹軍は、およそ120,000。かなり無理をして集めたのでしょうが、これだけ時間を掛けても想定より20,000多い程度しか引き連れる事が出来なかったようです」
「そう。それで時間が掛かっていたのかも知れないわね。
春蘭は敵右翼側を警戒している隊に当たりなさい。秋蘭は左翼側へ。私がその間隙を縫って敵を叩く。渡渉を終えた敵が40,000を超えた時点で撤退するわ」
「お任せ下さい華琳様!邪魔する敵を薙ぎ倒して直ぐに駆けつけて見せます!」
「姉者、私の配下の兵から3,000程姉者に預けよう」
「ん?何でだ?」
「その方が早く華琳様の所へ行けるだろう?」
「成る程!……秋蘭はどうするのだ?」
「私は救援に向かうであろう左翼を防ぐだけになりそうだからな。姉者、私の分まで頼むぞ?」
「任せておけ!季衣、征くぞ!」
「は〜い」
「では私達も征くとしようか、流々」
「はい、秋蘭様」
「桂花、準備は良いかしら?」
「いつでも出陣出来ます!」
「では征きましょう。勝利を掴む為に」
「全軍、矢を射掛けなさい!後方に注意を払う必要はないわ!思う存分におやりなさい!」
号令一下、一斉に矢を放つ。敵の半渡を捉えることが出来た。これでこの場の勝利は確定したわね。渡渉する袁紹軍は身動きを満足にすることが出来ぬ状況で斉射を受けたことにより混乱しているようだ。その場に居すくんでいる隊もあれば、後退しようとする隊まである。
……馬鹿ね。遮二無二突進してくるより他にはないと言うのに。一度決めた方針は途中で曲げない物よ?
「敵は混乱している!間断なく矢を射掛けて殺してやりなさい!死にたいと言っているのだからその望みを叶えてやるのが慈悲というものだわ!」
兵達が気勢を上げ、嵩に掛かって矢を射掛け続ける。この分なら、かなりの損害を与えることが出来るでしょう。対岸で警戒していた敵右翼を、春蘭達が蹂躙している。こちらへ来させぬように右翼部隊の左側から圧力を掛けて川岸へ押し込んで行っている。敵左翼も事態に気が付いてこちらへ進出してこようとしているけれど、秋蘭に良いように勢いを殺されて進めないで居る。
「そろそろ敵が上陸してくるわ。槍隊の用意を」
「はっ」
「それから秋蘭たちが居る側に上陸しそうな隊があるわ。騎馬隊を差し向けて時間を稼がせなさい」
「畏まりました」
「華琳様!春蘭ただ今参りました!」
「随分早かったわね、春蘭」
「秋蘭のお陰です!兵数で敵を圧倒してやりました!」
「そう。春蘭は一旦待機して居なさい。上陸した敵に先ず槍隊をぶつけるから、その槍隊が後退する時機に春蘭が代わってあげて頂戴」
「お任せ下さい!おい!部隊に一旦休息を与えろ!」
「はっ」
春蘭が来たのであれば、本陣から秋蘭達の後背を付ける位置に上陸しそうな隊を叩く為にいくら寡兵を割いても問題無いでしょう。
「桂花、春蘭の隊が前線に投入された時点で秋蘭の側へ兵を増派するわ。選別しておきなさい」
「畏まりました」
敵はまだ一人として渡渉出来ていない。思惑通りの展開ね。こうも順調だと張り合いがないわ。
「敵後続部隊が横一線に並んで渡渉してきます」
「遅いわ。今までにどれだけの兵を喪っていると思っているのかしら」
「それでも変じないよりはマシでしょう」
「そうね。それは認めてあげるわ」
押し包まれる前に撤退すれば問題無い。それまでに、出来るだけ敵兵を削っておくのよ。
上陸し始めた敵兵と槍隊がぶつかる。あちらの足場は悪く、衣服が濡れて動きが制限される。こちらの優位は揺るがないわね。
秋蘭の隊を見れば、兵を交互に退かせて敵に突破出来る可能性を見せることで引きつけ続けて居る。敵よりも多くの兵を有しているが、突破させない為にあえて負けぬ戦いをしているのでしょう。
前線では既に春蘭が敵兵の中に飛び込み、これでもかと叩き続けて居る。……槍隊が後退する時機に、と言ったはずなのだけれど。まあ、敵兵が続々と上陸している中、槍隊が孤立することになりかねなかったし、春蘭としても黙ってみていることが出来なかったのでしょう。
春蘭が敵に突っ込んだのを見た桂花が直ぐに秋蘭側へ兵を増派したようだ。この辺りは流石ね。
「桂花、状況は?」
「はっ。敵軍が一斉に寄せてきた関係で、既に35,000程が上陸に成功したようです」
「そう。そろそろ退くわよ、桂花」
「まだ40,000を越えておりませんが?」
「あれを見なさい、桂花」
そう言って指で敵後方を指し示す。
前方で戦闘になり、矢がさほど多く飛来しない状況であっても兵に木盾を持たせて前進してくる部隊がある。その隊の先頭は長柄の槍を持っている。上陸後直ぐに襲撃されることを想定して用意しているに違いない。
「あの隊が上陸してきたら、こちらの損害が大きくなるでしょう。これはまだ前哨戦に過ぎないのよ、桂花」
「はっ。各隊を撤退させます」
「それが良いでしょうね。秋蘭の隊に季衣を合流させ、これを殿としなさい。撤退時の先頭は春蘭。先行して安全を確保させなさい。その後に私が続くわ」
「ではそのように」
「ええ」
全軍を撤退させる。秋蘭なら上手く殿を務めるでしょう。
そのまま、想定外の事態もなく撤退に成功した。
「桂花、我が方の損害は?」
「1,000に満たない数です」
「そう。それで袁紹軍に与えた損害は?」
「10,000以上20,000未満、と言ったところでしょうか。先ず大勝と言って良い戦果かと」
「上出来だわ」
これで当初の予定よりも兵力差を詰めた状況で対峙することが出来る。こちらは60,000、あちらは100,000。攻城戦を行うにはちょっと兵力が不足しているわね、麗羽。
あとは糧食の問題になるが、それはあちらとて同じ事。
攻勢を防ぎきって後退を誘い、その後背を突いて一気に冀州を制圧する。その後はじわじわと締め上げてやれば自ずと立ち枯れることになるでしょう。
まぁ、言うほど簡単にはいかないのでしょうけれどね。