〜朱里 Side〜
「孔明殿、何処へ行かれるのですかな?」
「……書庫へ行って書物を取ってこようと思っているのですが」
「そうですか。仰って頂ければ、私が持って参りますので孔明殿は自室にてゆっくりお休みになっていて下さい。余り自由に動かれますと、私にも与えられた役目というものがありまして、互いに良い結果をもたらさない事になると思いますので。不自由なことと思いますが、ここはこの沮授の言に従って頂けませんか」
「……分かりました。それでは『戦国策』を」
「畏まりました。併せて『呂氏春秋』もお持ち致しましょう」
「お願いします」
私は現在徐州にいる。
青州で袁家の軛から抜け出そうとしていた孔融を陶謙に討伐させた。孔融を首にするなど戦功著しかった陶謙に重賞を授け、改めて袁家に剣を向けた罪と孔融を殺した罪を問うてこれを処断した。陶謙が慮外に馬鹿で助かった。陶謙が孔融を殺したことで、袁家が受けるべき怨嗟の声を全て引き受けてくれた。これを処断することで、旧孔融領の領民達は袁家にさほど反発心を抱いていないようだ。徐州についても、元々陶謙が傲岸不遜で周囲の人間をおもんばかることが出来ない人間であった為、豪族達は袁家の支配をすんなりと受け入れている。冀州と徐州を奪い、孔融と陶謙を殺したことで危機感を頂いた鮑信は軍勢を引き連れてエン州へ逃げ込んだ。これで、袁家は幽州・冀州・青州・徐州を治める事になった。
次は曹操。鮑信を受け入れたことで開戦の良い口実が出来た。
そう思っていたのに、そうなっていない。
袁紹さんからの通達として長年領内を荒らし回ってきた黒山賊の討伐を行う事が宣言された。黒山賊などと争っている時間はないのに。黒山賊などは虫垂のようなもので別にそれがあるからと言って命に別状はない。だが曹操は違う。悪性の腫瘍のようなものだ。手遅れにならないうちに取り除いておかないと、いつか袁家を殺すことになる。放っておいて何処かで勝手にしていてくれるならまだしも、今回の場合は間違いなく取り殺そうとしてくるに違いない。
戦勝につぐ戦勝に領内は沸き立っているようだが、それは結果だけのことだ。私達を取り巻く状況は、刻一刻と悪化している。策によって、兵力を分散させられている。そう思う。
幽州との国境に、鮮卑や烏丸が兵を率いて現れている。袁家に全くと言って良いほど靡かない幽州の現状を見て、好きに出来ると考えているに違いない。これに備える為に兵を割かねばならない。
その状況下で、青州と徐州を完全な支配下に置く為の軍事行動を行った。暫く軍旅を催す事を控えて地力を取り戻し、その上で曹操と対峙するのが最上の策であろうものを、続けて黒山賊を討伐するなど愚策もいいところだ。練度の高い兵や金穀が無限に、即時に湧いて出てくるものだと勘違いしているのではないか。しかも黒山賊を討伐している最中に曹操が攻め掛かってきた場合、兵力分散の愚を犯すことになる。
袁家の強みは、その領地の口数の多さから来る経済力と兵数にある。だがその一方で、弱点も存在する。それは、驍将と言うべき将がおらず豊富な兵力を分散して方面軍として行動させることが出来ない点にある。私ならそれを努めることは出来ると思うが、残念ながら忠誠心という点で方面軍を任せるに足る人間ではない。桃香様と私を方面軍として配すことが出来れば問題無いが、それだと袁紹さんを制御出来る人間が居なくなってしまう。だからこそ、兵力を一極集中させてこれを効率よく運用する必要がある。その為には、二面作戦を避け得ない状況を回避する為に策を施し、常に一面で戦う事を心掛け、敵を圧倒的な兵力を以て飲み込んでいく戦いをしなければならない。袁家と敵対すれば圧倒的な兵力を以て飲み込まれるしかないのだ、という強迫観念を世人に強く認識させ、二面作戦をとられれば脆いということに目を向けさせないようにしなければならない。
加えて、糧食が心許ない。黒山賊討伐に十分な糧食は用意しているが、それが終わって短い休息で次の軍旅を催す事が出来るほどの糧食は残されていないだろう。それでも、恐らく曹操を討伐する為に即座に行動を起こそうとするに決まっている。短期決戦すれば問題無いと思っているのだろうが、曹操とは短期決戦すべきではない。大軍同士による短期決戦は予測が及ばない危うさに溢れている。そうでなく、時間を掛けてじわじわと、真綿でその首を締め上げるようにゆっくりとその力を削り取って勝利を確実なものにしなければならない。その為には潤沢な糧食が必要だ。商人達から購入しようにも糧食自体がなければ購入出来ない。鉄も馬も不足気味で価格が高騰しているのだ。これを行っているのは、曹操か平教経。それは間違いない。純粋な武力で決着を付けるのではなく、国を疲弊させることによって武力を弱めてこれを撃つ。これだけの企画が出来る人間となると、極めて限定される。その器量がある人間は、その二人以外にはあり得ないのだから。
私達が袁家に仕えるようになるまで袁家の軍師の座を争っていた人間達は、どうやら曹操を取り除くことよりも自分たちの権勢を強めることしか念頭にないようだ。袁家あっての自分たちであるということに気が付いて居ない。本末転倒ではないか。袁家での出世を望んでいるのに、袁家が倒れるような振る舞いをしようとしている。
彼らの妄動を止めさせる為に桃香様と共に袁紹さんを説こうとしたが、何としても逢うことが出来なかった。それだけでなく、雛里ちゃんが出奔したことを口実として徐州に赴任させられ、政を見るように、と言われた。それも、監視付きで。まぁ、監視と知っても沮授さんだから不快な思いをすることはないのだけれど。実情は、二人してやっかい払いされたということだろう。
私は、一体何をやっているのだろうか。
桃香様の理想を袁家を通して顕現させる為に最良と思われることを為してきた。それなのにそれがもたらした結果は、疎まれ遠ざけられるというものでしかなかった。
だが私は立ち止まる訳にはいかない。
黒山賊討伐中に曹操が攻め込んできた場合、徐州からどのように対処するのか。それを考えておく必要がある。傍目的には、私は徐州で蟄居させられており、一歩も動けぬよう監視させていることになっている。だが、沮授さんは目に付かない限り自由にして貰いたい、と言ってくれている。恐らく、彼もこの現状が何を意味し、最悪の場合何をもたらす事になるのかをきっちり見通しているのだろう。
……もし、曹操が来たりなば。
策は、既にある。それを実行するだけの兵力もある。準備も、沮授さんにやって貰う。
曹操。攻め込んできた時、貴女を打ち据えるだけの力があることを証明してみせる。袁家になくとも、この私にそれを為させるだけの企謀があることを。
〜雛里 Side〜
白蓮様と兵を率いて巴郡に入った。
桔梗さんの居城に落ち着いた白蓮様は、公孫賛の生存を宣言した。最初は誰も信じなかった。そうなることは分かって居たが、それでも少しムッとしてしまった。こんなに素晴らしい人が公孫賛でない訳はないのに、それを受け入れることをしようとしない人達に腹が立ってしまった。
難しい顔をしていたのだろう。白蓮様は私に声を掛けて下さった。
『関靖は天で苦笑いをしているだろうな。田楷はその関靖をなじっているだろう。貴様がやり過ぎたのだ、いや貴様だ、とか言いながら、仲良く喧嘩しているに違いないよ、雛里。あはははは。
偽物だ、と言われても良いじゃないか。世の人達が私を見てどう判断するかは、その人自身に拠るんだから。その心までも自分の思い通りにしてやろうとは思わないよ。私を見て、私の噂を聞いて、いつか私が公孫賛に違いないことを認めざるを得ないようにしてやれば良いだけなんだから』
そう言って闊達に笑った。
きっとそうだろう。あの人達は、そういう人達だった。いつも仲良く喧嘩していたのだから。その情景を思い浮かべて、思わず笑ってしまった。
桔梗さんと親交のあった蜀の武将達は、その悉くが白蓮様と面語してこれに付き従うことを宣言した。その中でも、張任さんと李厳さんは尤物だと思う。将が不足気味の私達にとって、心強い存在だ。
紫苑さんは、長沙郡で募兵・挙兵し、白蓮様に付き従うことを宣言した。その軍師として、珂瑛が付いている。武将として、ケ艾さんという非常に有能な人が従ってくれることになった、と珂瑛からの書状にあった。珂瑛が、『非常に』優秀と表現したのだ。瑛に対してさえ、『優秀』止まりだった珂瑛が。きっとその言葉通り、非常に優秀なのだろうと思う。そして何より心強いのが、吉里が付いてくれていることだ。
吉里。姓は徐、名は庶、字を元直。水鏡先生の教えを共に受けた学友だ。私とは親友とまでは行かないけれど、朱里ちゃんとは非常に仲が良かったから私との仲も良好だった。良く三人で、机上で模擬戦をやったものだ。天下国家の規模で戦を考えた時に負けることはなかったが、ことを戦場に限定した時には何度か負けたことがある。その吉里が白蓮様に仕えてくれた。水鏡先生からの紹介状を持って、訪ねて来てくれたのだ。
……相変わらず紹介状には『好々』としか書かれてなかった……先生、もうちょっと考えた方が良いと思います……確かに、それだけで分かりますけど……
白蓮様と話をした吉里は、白蓮様に仕えましょう、と言ってくれた。『鳳の雛が凰を得て鳳凰になった』、と先生から聞かされたけど、どうやらそれは誇張でも何でも無くただの事実だったようね。そう言って。
紫苑さんは、その吉里の企謀に基づいて荊南を一気に攻略しようとしているようだ。武陵、零陵、桂陽、臨賀。紫苑さんに珂瑛。ケ艾さんに吉里。募兵した約3万の軍勢で二手に分かれて攻略を進めている。白蓮様に付き従う、ということで領民達から糧食の提供を受けたり、軍旅に合流してきたり、城門を進んで開ける人間が居たりと順調に事は進んでいるようだ。
益州は、劉璋さんから乱世に嫌気がさしたから白蓮様に後を托して隠居したい、との意思表示があったことで、手荒な真似をせずにこれを領有することが出来た。托す代わりに、一生困らないだけの財貨を提供することを条件に出してきたが、それは問題無く支払えた。その申し出があった時、張任さんが白蓮様に面会を求めてきて、出来れば武力に拠らず平和的に解決して頂きたい、と言った。
「私が武力によって劉璋殿を討伐する、と思うのか?張任は」
「……この儂は愚昧にして、白蓮様の為人を完全に把握して居る訳では御座いませぬ。ご不快に思われたならば、この皺首を差し上げましょう。ですが、劉璋様だけはその生を全うすことが叶うように取りはからって頂きたい」
「……劉璋殿の為に、その命を捨てる、というのだな」
「御意」
「何故そうするのだ?残される劉璋殿の気持ちを考えたことがあるのか?」
……きっと白蓮様は関靖さんと田楷さんのことを想ったに違いない。その風貌もあって、張任さんと二人が重なって見えたに違いないのだ。私でさえ、一瞬二人のように見えたのだから。
その白蓮様に苦笑いをしながら、張任さんが答える。
「……白蓮様。劉璋様はこの儂が死んでも痛痒にも感じられぬでしょう。劉璋様はそういうお方なのです」
「では尚更にお前が命を捨てる必要が無いじゃないか」
「そうは参りません。劉璋様は生まれてこの方この儂が傅育参らせたお方で御座います。言うなれば我が孫のような存在。どんなに愚鈍であろうと、孫は可愛いものでありましょう。それを護る為に命を捨てるのに、躊躇いは覚えませぬ。儂の傅育が不十分であったことが原因でありますし、儂はもう十分に生きて参りましたでな」
「……お前の想いは分かった。劉璋殿にはその生を全うして貰う。なんとしてもだ。最初に言ったように、私は誰かが生きていくのに誰かの命を犠牲にしなければならない世の中を正す為に再び起ったんだ。避けられないならまだしも、避けられるなら絶対に避けたいからな。
劉璋殿の為に死ぬことは許さない。それが出来ないようにしてやる。それが私を不快にさせた罰だ、とでも思って貰おうかな」
張任さんはそう言って笑った白蓮様を眩しそうに、目をしばたかせながら見つめた後、白蓮様のご高恩に例えこの身が朽ちようとも必ず報いるでありましょう、と言った。
「……張任、私の為にも死ぬことは許さない。避けられる限り、自ら進んで死ぬことは許さない。これは命令だ、張任。『生きよ』。生きて私の為に働け。死んで働くことは許さない。絶対、絶対にだ」
そう、強い口調で言い放つ白蓮様に、張任さんは平伏して深々と頭を下げた。
後で言葉を交わした際、張任さんはこう言っていた。
『我、終に終生の主を得たり』、と。