〜朱里 Side〜
「孔明殿、申し上げます」
「何ですか」
「士元殿が出奔なさいました」
「……えっ?」
「……士元殿が出奔なさいました。徐州から揚州へ。それに付き従っていた兵の内約10,000が共に出奔した模様です。……如何致しましょうか」
「……追う必要はありません。田豊さんは引き続き易京の包囲をお願いします」
「……宜しいのですか?孔明殿」
「構いません」
「……孔明殿が良いと仰るならば何も言いますまい。では、私はこれで」
「……ご苦労様でした」
雛里ちゃんが出奔した。
最近雛里ちゃんの様子がおかしかった事には気が付いて居たけど、桃香様のことで悩んでいるだけだと思っていた。雛里ちゃんは、自分が仕える主の理想だけに従うことは辛うじて我慢出来るようだったが、信頼されていないことには耐えられない様子だったから。
それでも、まさか出奔するなんて思ってもみなかった。
……でも、それで良かったのかも知れない。元々私が桃香様にお仕えすることを決めた際に、お願いして雛里ちゃんに来て貰ったのだから。命を救って頂いた桃香様にお仕えするしかない私とは違って、雛里ちゃんには桃香様に対して尽くすべき義理というものがないのだから。雛里ちゃんまで私と同じ道を歩むことはない。この道は茨の道なのだから。歩ききった先には死が待って居るであろう、茨の道なのだから。
……もし、桃香様が独立自尊の途を歩んでいらっしゃったら。
今となっては最早意味をなさない自問だけど、それを考えるのを止める気にはならない。諦めきれない未練のようなものだけど。
もし桃香様が独立自尊の道を歩んでいらっしゃったら、きっと苦労をしただろうが今よりも遙かに充実した日々を送っていたことだろうと思う。雛里ちゃんと一緒に、策を考えて。一緒に泣いて、一緒に苦労をして、一緒に笑って。雛里ちゃんが出奔したことで、望むことさえ出来なくなったけれど。
これで、いいんだ。
せめて雛里ちゃんだけでも、自由になって欲しい。
私は、絡め取られてしまってもうここから抜け出すことは出来ないから。
「元気でね、雛里ちゃん」
口に出すと、わたし達が違えた道がもう二度と交わることがない気がして。
寂しくて、一人で泣いた。
一人で。
〜田豊 Side〜
士元殿が出奔した。
その報告を孔明殿にした際の、孔明殿の顔が目に焼き付いて離れない。
私と沮授は、孔明殿に命を救われた。
郭図や辛毘から讒言され、処刑されるところだったのだ。
その我らを助けた上で、袁家の天下を描き出す為に我らの才と命が欲しい、と。そう仰った。我らは元よりその為に命を捨てることを厭わないつもりだった。我らに否やのあろうはずがなかった。
これまで孔明殿を見てきたが、孔明殿は無理をしている。体力的にではなく精神的にだ。本当は、袁家の天下など描きたくもないに違いないのだ。
それが従っているのは、偏に劉備殿が麗羽様に従っているからであろう。
だがあの顔は。
孔明殿は、我らには決して頼らない。弱みを見せたくないという事もあるのだろうがそれ以上に、余計な感情を持たないようにしなければならないと考えている節がある。恐らくだが、気を許してしまった人間に死ぬことが分かっている策を実行させることが辛いからだろう。辛い思いをせぬように、気を許さないように心がけているように見える。
その孔明殿が頼ることが出来る唯一人が士元殿であった。その士元殿を失った孔明殿はそれでも気丈に振る舞っていたが、人はそのように強いものではないだろう。そう思って陣屋の前で中の様子を窺っていたが、案の定泣いておられるようだ。
……私は袁家の家臣だ。だが、孔明殿から受けた恩は計り知れぬものがある。
只命を救われただけではない。劉備殿に知恵を付け、その劉備殿から麗羽様を説くことによって袁家をより望ましい方向へ導くことが出来るということを示して下さった。そのことで、私も沮授も再び夢を描くことが出来るようになったのだ。孔明殿が認めた人間ということで、劉備殿は格別に目をかけてくれている。お陰でわたし達が思い描いていた策のいくつかを現実のものと出来た。それもこれも、孔明殿のお陰だ。
袁家の為に尽くす事も重要だが、この恩に報いることはそれ以上に重要だろう。私という人間が私の夢を失わず私としてこの乱世で生きていけるのは、間違いなく孔明殿のお陰なのだから。
そう、この恩には必ず報いなければならない。
いずれ、孔明殿とわたし達は道を違えることになるだろう。確信はないが、漠然とそう感じる。孔明殿は本来麗羽様などに仕えるような人ではないのだから。孔明殿が一度選んだこの道を歩むことに悩む日がもしも来たならば、たった一度だけ。たった一度だけだが、袁家より孔明殿を優先しよう。
孔明殿の陣屋の前で人払いをしながら、そう心に決めた。
きっと沮授も賛成してくれるだろう。
〜華琳 Side〜
当初の予定通り并州を併呑した。
春蘭を総大将、桂花を軍師とし、将に三羽烏を付けて并州攻略を行わせたが、思いの外上手くいった。やはり麗羽では教経を慕う并州を従わせることが出来ていなかったようね。教経と同じように統治することは出来ないと思うけど、今よりはマシな政を行う自信がある。もし私を信じて貰えるなら、協力して貰えないかしら。そう言ってやると、領民達が并州各地で一斉に蜂起したのだ。後は、約定を守るだけである程度の落ち着きを見せるでしょう。麗羽が馬鹿だったお陰で、戦も統治も随分と楽になる。何せ、麗羽を下回らなければ良いのだから。これ程楽なことはないわ。
その麗羽はまだ易京を落とせていない。細作を密に放って戦況の把握に努めているけれど、袁紹軍の総軍師とも言うべき存在である諸葛亮は易京を力攻めにするようなことをせず、地下を掘り進めて城内に一気に兵を送り込むことを考えているようね。工事自体は捗っている様だけれど、そもそもその企画を為す為にはかなりの時間を必要とするでしょう。易京を囲んで一月半程度経過しているが、まだもう少し時間が掛かると見て良いでしょうね。
後背を突くべきか。
それとも、来るべき麗羽との雌雄を決する戦に向けて兵を休息させ、新しく募兵し、訓練を施したり兵糧を集めたりする時間に充てた方が良いのかしら。
個人的には後背を突きたい。突いて一気に麗羽の領地を併呑したい。しかし北平に攻め入った兵とは別に、領内にはまだ100,000近くの兵がいる。細作によれば、冀州には沮授が残って不測の事態に備えているのだ。易京攻略に時間を掛けているのは、私を誘っているのかも知れない。麗羽だけであればその可能性を否定出来るのだけれど、諸葛亮の存在が麗羽達の戦略というものを見えにくくしている。
今結論を出さずに暫く様子を見る、という結論は最悪のものね。時間は平等に過ぎてゆくもの。私が足踏みをしている間に、易京が落ちるかも知れないのだから。真意が分からず後背を突きかねている現状を考えれば、残されている時間を将来の準備に充てた方が良いでしょうね。
「秋蘭、募兵を行うように天和達に伝えて貰えるかしら」
「畏まりました、華琳様。……しかし、今から練兵して間に合うでしょうか」
「別に募兵した兵を前線で使わなければならない等という決まりはないのよ?秋蘭。募兵して練度が不足している兵を国元の警備に当て、練度の高い兵を全て前線に連れて行ける状況を作れれば御の字だと思っているわ」
「成る程、そうでしたか」
今から兵をかき集めても、50,000が限界でしょうね。
けれど条件は麗羽も同じ。領民全てを兵にする訳にはいかないのだから、今回と同じで総勢140,000程度でしかないでしょう。公孫賛が随分抵抗したお陰で、即動ける兵となると110,000前後になる。
そして、麗羽達は幽州を手に入れてしまった。戦禍に呑まれ動揺の激しい幽州を烏丸や鮮卑が放っておくとは思えない。劉虞と彼らの関係も一部を除いて険悪なものだし、侵攻は免れない状況でしょう。彼らにも備えなければならない事を考えると、更に投入出来る兵は減るはず。
……これなら勝てそうね。
青州と冀州の境、東郡で麗羽を迎え撃つ。河水を盾に防衛線を張れば、渡河中の袁紹軍を叩けるし守りやすいでしょうからね。
「秋蘭、烏丸と鮮卑に金穀を与え、幽州で暴れてくれるように依頼して貰えるかしら。実際に幽州で暴れるかどうかは、気が向いたら、という程度に考えて貰って構わない、と。但し、幽州に攻め込まなくても構わないが、国境で兵を集結させることだけは行って欲しいと」
「御意」
麗羽だけが相手であれば、これで大丈夫でしょう。
だが一番の問題が残っている。
教経。
麗羽が攻め寄せて来た際に教経が後背から襲ってきた場合、絶対に耐えられない。現在教経は漢中と荊州北部を攻略し、益州北部をあと僅かで攻略し終える所まで来ている。何とか、教経を押さえることは出来ないか。
……劉季玉と劉景升。二人とも新皇帝劉虞の親類だ。
荊州を治める劉表はまだ教経と戈を交えては居ないが、劉璋については既に教経と派手にやり合っている。そして益州北部を今正に奪われんとしている。そして結局奪われてしまうだろう。
劉璋を劉虞に泣きつかせ、劉虞から劉表に対して教経討伐の詔を出させれば。連合して教経を討伐するように、との詔を出させれば、教経を領地に縛り付けることが出来るのではないかしら。
その策をどうやって為すのか、桂花と話をする必要があるでしょう。
私が宮廷に持っている伝手だけでなく桂花が持っている伝手も使って、劉璋から訴えがあった際に劉表と連合させて教経を討伐しようと思わせることが出来るように前もって仕込みを行っておく必要があるでしょうからね。
そうなると、その策を仕込む時間を稼ぐ必要がある。仕込みが完了する前に麗羽が攻めてきたのでは意味がない。
やはり、黒山賊を使うしかないのでしょうね。私と連携を行うことで、麗羽に徹底抗戦しようと思わせる必要がある。しかし、そう上手く踊ってくれるかしら。今回公孫賛と連携して敗戦したことで、抗戦の意志を無くしてしまっていては意味がないわ。
……諸葛亮を追い落としたい人間で、己の才を高く評価しすぎている人間。その周囲にいる強欲なものに金品を与えて黒山賊を討伐するように進言させ、黒山賊を戦うしか途が残されていない状況に追い込めば黒山賊も戦わざるを得なくなる。そうなれば時間を稼げるでしょう。
その進言者は多ければ多いほど良い。郭図、審配、逢紀、辛評、辛毘。この五人の周囲にいる者達に積極的に働きかけ、公孫賛攻めに功績を挙げた諸葛亮に対抗する為には、長年悩ませ続けられている黒山賊を討伐して功績を挙げる必要があると思わせる。
それと同時に公孫賛攻めの最中に出奔したホウ統と親友であることを理由に挙げ、彼女を監視させて暫く自由に動くことが出来ないように行動を制約する必要があるという事も進言させる。若しくは、徐州か幽州に内政官として左遷させ、来るべき戦に参加出来ないようにしてしまう、ということを進言させても良いかも知れない。あの娘がその辣腕を私との戦に振るえぬような状況に追い込めれば、より容易く麗羽に勝てることでしょう。全く違うことを考えている過程で、意外な名案を思いつくことが出来たわ。
……万全を期す必要があるわね。桂花に劉虞・劉璋・劉表に対する策を行わせる以上、私が直接それを行うべきでしょう。
これだけを、一月以内に実現させる。
それ以上の時間を与えられるとは思えないから。
もし全てが上手くいったら、教経と期限付きで不可侵の約定を交わすことが出来るかも知れない。私が麗羽に勝つ。彼が劉璋と劉表に勝つ。その両方が為されるまで、互いに互いを攻めない。そういう約定を結ぶことも不可能ではないだろう。もし策が成れば、教経は私を気にしながら益州と荊州での戦に乗り出すことになる。その状況であれば、可能かもしれない。
兎に角、此処を乗り越えれば私が登っている山の頂が漸く見えてくるだろう。
……早く頂に登って、そこから見える景色を眺めたいものだわ。
家臣達に忙しく指示を出しながら、未だ見えぬ頂を思っていた。