〜冥琳 Side〜
教経に連れられていった診療所で治療を受けた後、私の体調はすこぶる良好だ。かなり強引に連れて行かれたのだが、ああもはっきりと私を想ってくれているのを宣言されると逆らう気にもなれなかった。結果として、逆らわなくて本当に良かったと思える。
『俺はお前さんを失うなんて真っ平御免だ。お前さんがいない将来なんて御免被りたい。何としても生きていて貰わないと困るンだよ』
……思い出すと、恥ずかしくなる。あれは熱烈な求愛ではなかったか。
まあ、それはいずれゆっくりと考えれば良い。
今日は平家の軍師達の実力を知りたいと思い、先ず先日戦場で対峙した際に平家の軍師として従軍していた詠に話を聞くべく訪いを入れたのだからな。
「もしあの時ボク達が戦う事になっていたら?」
「そうだ。どういう形で戦を進めようと考えていたのだ?」
私とて自分の軍略の才には自信がある。あのまま戦になっていたとしても、無様な戦にはならなかったと思っている。
勿論勝つ事は出来なかったと思うが、一時的にでも優位に立つことは出来たのではないかと思っているのだ。だからこそ、聞きたかった。どう軍を展開するつもりであったのか、を。
「鶴翼の陣を敷いていたでしょ?」
「ああ。包囲殲滅するつもりだったのか?」
「そうじゃないわ。先ず中央の15,000で一当てして後退し、アンタ達を引き摺り込むように動こうとしていたのよ」
包囲殲滅しようとして居るではないか。
「……流石にその誘いに乗るほど馬鹿ではないぞ?」
「だから、分かってるってば。そうやって引き摺り込むと見せかけて、次に両翼からそれぞれ7,500の騎馬の内5,000で左右から吶喊する予定だったわ」
「ほう……だが、それに対して備えない私ではない。長柄の槍隊で馬を叩いてその勢いを殺し、膠着状態に持ち込むことが出来たと思うがな」
「でしょうね。でもその時機を見計らって、中央が反転して攻勢に出るわ」
「……それに対しては本陣の精兵を以て食い止めただろう」
「それも、織り込み済みよ。そうやった上で、両翼から残りの騎馬を先に5,000が突っ込んだ箇所より更に後側から迂回させて本陣に向けて突っ込ませる予定だったのよ。……これに対応出来るかしら」
……兵が、足りないな。
せめてあと5,000、いや、3,000でもいい。手元にあれば何とか凌げたと思うが。
「……いや、対応出来なかっただろう」
「ま、そうでしょうね。兵数が二倍近く有った訳だしね。ボク達はそうやって勝とうと思っていたのよ。此処までをかなり時間を掛けて行えば、兵数から言って全滅させることも出来ると思うんだけど」
「悔しいがそうだろうな。……どうやら平家の軍師は優秀なようだな、詠」
これが味方になるというのだから、これ程心強いことはない。
「……これを考えたのは全部アイツなんだけどね」
「……は?」
教経が、か?
「この策は、前々から検討されていたのか?」
「そんな訳無いじゃない。アンタ達を目前にしてその場で考え出したみたいだったわ」
短期間で、これだけの策を考えられるのか、教経は。
「ひょっとして、反董卓連合に対する戦略を練ったのも教経なのか?」
「ええ、そうよ。その策全てがアイツの頭の中から出てきたものらしいわ。勿論、実行段階における詳細は稟や風が煮詰めたみたいだけど、大枠は全てアイツが考えたことよ。馬騰との連携も諸侯の国元での流言も火牛の計も洛陽放棄も。ついでに言うと、曹操との密約も。全てアイツが描いたのよ」
……桁外れの才だ。今挙げた内のいくつかを思いつくことは出来ると思うが、その全てを思いつくことは難しいだろう。
「……教経は一体何なのだ?人主として類い希な器量を有するだけでなく、その軍略も一流だと言わざるを得ない」
「ついでに言うけど、武人としても超一流よ」
「そう言えばそうだったな」
雪蓮と祭殿。二人を相手に子供扱いしたのだからな。
「……ボクは、アイツは『覇者』となるべくこの世に生を受けた人間だと思っているわ。それも、時代に望まれて、ね。戦も上手いけど政についてもしっかりとした意見を持っている。かつて多くの覇者が居たけれど、その誰よりもアイツは優れた器量を持った覇者になれると思う。状況に応じて最良の選択をすることが出来る、希有な存在だと思うわ。
もし呉起が男で、人主として望みうる最高の器を有していたら、きっとアイツのような人間になると思う。政に関しても、それこそ伊尹の如き人だしね。それは、異民族に対する考えを聞いているから冥琳も分かって居ると思うけど」
伊尹。商の湯王に『阿衡』と呼ばれた、その渾名に相応しく物事の釣り合いを取ることに長けた名宰相。それ程の男だというのか。
「呉起と伊尹を合わせたような人、か」
「飽くまでも、ボクの主観よ」
その後稟や風にも話を聞き、詠の主観を伝えると諸手を挙げて賛同していた。挙げた名前はそれぞれ違っていたが、いずれ劣らぬ名君・名将・名宰相の名を挙げていた。
旗揚げ前から彼に従っていた彼女達から、教経に関して様々に話を聞いた。
器量に優れ才に恵まれていたのは出遭った当初からそうだったらしい。だが、内面は未熟で、他人の心情を忖度することが少し苦手であり、戦で兵が死ぬ度に涙を流しているような男だったそうだ。それが、風達に支えられ、精神的に成長して終にはああいう男になったのだ。
『揚羽蝶』が羽化し、とうとう世の人間にその真価を知らしめるべく飛び立ったのだ。
教経は必ず天下に静謐をもたらす事が出来る人間だ。
教経は天下万民の為を思ってより良い選択が出来る人間だ。
教経の器量はこの漢という国だけには収まらないかも知れない。
この国を覆って猶余りあるほどの器量を教経は有している。
他人の痛みや苦しみを想って心を痛めることが出来る優しさと、その感傷を斬り捨ててでも己が掲げる理想を貫き通す強さと、そして非情になりきれぬ甘さとを抱えたままで、そのままの教経で居て貰いたい。
二人ともそう言っていた。
詠を始めとした優秀な女達を惹き付けて已まぬ、器量に優れた男が居たのだ。この女性優位の世の中に。
……そしてどうやらその男は、私のことを想ってくれているようだ。
教経を籠絡しろ、と雪蓮は言った。聞いた当初は、馬鹿なことを言うものだと思っていた。雪蓮には悪いが、私は男を媚を売るような安い女になるつもりはなかった。求めてくれば仕方がないから応じてやろう、という程度に考えていたのだ。飽くまでも、孫家の為にだ。その為に、仕方がないから子を為してやろうと考えていた。
自分が教経を籠絡することを、主体性を以て行うことを考え始めていることに少し驚いて、どうやら籠絡されたのは私の方だと気付くのに、そう時間は掛からなかった。
〜華琳 Side〜
麗羽が献帝を廃して劉虞を皇帝に据えた。昭武帝。麗羽はそう呼んでいるらしいわね。
美謚で飾り、名君であると海内に宣言しようとしているらしいけれどね、麗羽。謚は、死人に贈るものよ?まぁ、劉虞は既に死んだも同然だから気を利かせて先に謚号を贈ったのかも知れないけれど。
反董卓連合に参加していた諸侯の内、劉虞を皇帝に据えることに最初に、そして唯一反対の意を表明した公孫賛に麗羽が宣戦を布告し彼女が治める幽州・北平へ兵を入れた、との報告を受けた。
「桂花、公孫賛と黒山賊の連携は上手く行っているのかしら」
「はっ。やはり袁紹が黒山賊の頭目であった張牛角を殺している、というのが決定的だったようです。公孫賛に全面的に協力し共に戦う為に、頭目である張燕が40,000の兵を率いて既に北平に入っているようです。現状、袁紹は50,000の兵を動員して北平に攻め寄せていますが、初戦に敗れることは間違いないと思われます」
「そう。ご苦労様。出来ればその後兵を逐次投入して泥沼と化してくれれば良いのだけれど」
公孫賛がどう頑張っても敗戦は免れないでしょうが、徹底抗戦すれば麗羽にかなりの痛手を与えることが出来るだけの兵力を得ることは出来たはず。私から見た公孫賛は、突出した長所がない代わりに目立った短所もない人間だ。それは凡人という意味ではなく、まず優秀と言って良い程度で才能の均整が取れているという意味での評価。つまり、穴がないということ。こういう人間に徹底抗戦されるとそう易々とは勝てないはずよ。
「で、桂花。袁術を逐った後、孫策がその領地をそっくりそのまま頂戴しようと兵を動かしていたようだけど、どうなったのかしら」
今の孫策達には、袁術の旧領全てを押さえる事は出来ても維持するだけの兵力はない。彼女達が袁術の旧領をを押さえ、一息入れたところに横槍を入れて、予州を手中に収めたい。
「それがその……」
歯切れが悪いわね、桂花。
「どうしたの?孫策が横死でもしたのかしら?」
「華琳様、その、孫策ですが、平教経に臣従したようです」
「……今、『臣従』と言ったの?桂花。『同盟』では無いの?」
「『臣従』です、華琳様。孫策が長安を訪れ、臣従する旨血盟を交わしたようです」
正直な話、想定外だ。
この乱世において飛躍するために、反董卓連合に参加して名声を求めたのではなかったか。それが一戦もせずに教経に従うなんて。
……これは拙いわね。これで私は麗羽と教経の二大勢力に完全に挟み込まれた形になってしまった。孫策達が相手であればこそ予州に侵攻しようと思っていたのに。
だが相手が教経となると話は別だ。アレは、范雎の様な男なのだ。どのような些細な恩にも必ず報い、どのような些細な恨みでも必ず報ずる。今この時点で教経との関係を決定的なものにしてしまうのは自殺行為に等しいでしょう。
「その教経はどうしているの」
「平教経は軍兵を長安に集めています。函谷関にある程度の兵を籠めていることから考えて、どうやら荊州か益州、若しくはその両方に侵攻することを考えているようです」
「……順序が逆になるけれど仕方がないわね。麗羽が公孫賛と争っている間に司隷州と并州を併呑するわよ。春蘭、兵の準備は出来ているでしょうね?」
「はい華琳様!予州侵攻の為、準備は万端でしたので問題有りません!」
「桂花、糧食の準備は?」
「万全です。出陣の号令を受ければいつでも出立出来るよう準備してあります」
「そう。二人とも、よくやってくれたわ」
「か、華琳さまぁ〜」
「華琳様〜」
ここが勝負の分かれ道でしょうね。教経が反董卓連合を向こうに回して勝利をその手にし、大きく飛躍する契機を掴んだように、私も麗羽を相手に勝利を収めて大きく飛躍してみせる。
「出征するわよ。『征』というその字の如く、行ってこの世を正す為の基を築くのよ」
「御意」
春蘭と桂花が慌ただしく駆けていく。
この乱世に曹孟徳の理想を打ち立てる為の戦。
必ず勝ってみせる。勝って覇権争いに名乗りを上げてみせるわ。