〜朱里 Side〜
反董卓連合を解散する。
そう、斗詩さんから伝えられた。
……これで漸く袁紹さんから独立して、桃香様ご自身の夢を追いかける事が出来るようになる。
そう思い、密かに連合解散を喜んでいた。雛里ちゃんも喜んでいたと思う。
これから、何処を拠点としてどう立ち回っていくのか。その為に必要となる兵や物資を如何にして用意するのか。それについては既に腹案があった。
袁紹さんから、搾り取れるだけ搾り取った上で、并州を拠点として独立する。并州は、平教経さんの領地だった。それが大きく影響しており、未だ袁家に馴染みを見せない土地だ。此処を拠点にする。平教経さんと連携をする、と宣言すれば領民は私達を選んでくれると思うし、実際にそうすれば私達は二つのものを手に入れる事が出来る。私達を慕い反乱など起こさない領民と、強力な同盟者を。
終戦後、洛陽の民達から平教経さんの為人についての情報を集めた。彼は并州から雍州への移動の際に董卓さんに借りを作っていた。その借りを返す事と、善政を布いている董卓さんを救い、この世に『義』を打ち立てる事。それだけを目的として、連合を敵に回したようだ。
今後の事を考えれば、連合に参加して名声を得れば良かったのだ。丁度良い売名になったに違いないのだから。私は桃香様が独立勢力であったとしても、連合に参加する事をお勧めしたと思う。だが、彼はそれをしなかった。それは、何故なのか。
その疑問を、機会があって話をした際に、黄巾賊討伐の際に多少交流があったと思われる曹操さんにぶつけてみた。すると曹操さんは少し考えた上で、こう言った。
『……まぁ、アレはきっとこう思ったのよ。『見義不為、無勇也』、とね。あの状況で、本当に馬鹿な男だとは思うけれど。でもそれだからこそあの男にはこの時代の英傑たる資格があるのでしょう』、と。その言葉に、同席していた周瑜さんが得心がいったかのように頷いていた。
『見義不為、無勇也』。
これが、力なき夢想家の言う事であるなら、関わらずに放っておけばいい。間違いなく、敗亡する事になるのだから。だが、彼には力がある。連合を向こうに回して、完勝することが叶うほどの力が。決して簡単な事ではないけど、同盟者として認められる事になればその同盟を彼が破る事はないだろう。危急の際には必ず助けてくれるだろう。そういう同盟者となることは、疑いようがない。実際に、彼はやって見せたのだから。同盟者でもない董卓を、その思うところの『義』に拠って救う事で。
後は、如何に彼と繋がりを作って連携をしていくのか。それだけが問題になる。
その為の方策を考えていた。それが全て無駄になるとも知らずに。
ある日、桃香様から呼び出され、大切な話がある、と言われた。
そう言った桃香様の横に、何故、斗詩さんがいるのか。
……私が思い描いていた様な、良い話ではない。そうでなければ、このように言いにくそうに、申し訳なさそうな顔をするはずはないのだから。隣にいる雛里ちゃんを見ると、雛里ちゃんは沈痛な面持ちで次の言葉を待っていた。良い話ではなく、それでいて斗詩さんに関わりがある話。……もしかしたら。だが、それは無いだろう。そうあって貰いたくない。そんなはずはない。一瞬思い浮かんだその事を追い払うように頭を振った。
「どうしたの?朱里ちゃん」
「いえ、なんでもありません。それで、桃香様、お話とは何でしょうか」
「あのね、朱里ちゃん、雛里ちゃん。……私は、袁紹さんを天下人にして、袁紹さんを上手く誘導する事で自分の理想を実現しようと思うの。だから、その為に力を貸して貰いたいの」
……最悪の想像が、目の前にある。その言葉は、それだけは、聞きたくなかった。
しかもそれを、斗詩さんの前で言うなんて、桃香様はどうかしている。
「……斗詩さん、斗詩さんは、それで構わない、ということなのでしょうか……?」
「……私だって、本音を言えば麗羽様を利用するような真似はして貰いたくないですよ?でも、麗羽様はああいう人になってしまったんです。このまま行けば、麗羽様は諸侯から疎まれて討伐されてしまうかもしれない。丁度麗羽様がそうしたように、麗羽様を標的として討伐の為に連合を組む事だって考えられる。
でも、もし麗羽様が、人から敬って貰えるようなしっかりとした理想を抱いて、それに基づいて行動するなら、そんな事にはならないと思うんです。ただ、残念ながら、麗羽様は『名族袁家の袁紹』としての自分を演じる事をやめる事が出来そうにありません。でも麗羽様は、桃香さんの言う事なら、何故か素直に聞いて下さる。そして桃香さんの抱いている理想は、本当に好ましいものだと思うんです。
私達袁家には人を惹き付けて已まない夢や理想、そしてそれを掲げ実践する君主が欠けています。そして、桃香さん達にはその夢を実現させる為の兵や資金が不足している。私達は、お互いを利用し合う事でこの世の中をより良い形にする事が出来ると思うんです。だから、『構わない』のではなく、そうして欲しいんです」
「……」
桃香様を戴いて、桃香様の理想を、この世の中に顕現させたかった。それが私の夢だった。
でも、それはどうやら叶わないらしい。
出奔。一瞬、その思いが胸に去来する。
……でも、駄目だ。私は、桃香様に命を救われた。その理想に、自分の才を捧げることを誓った。桃香様の元を出奔することは、考えられない。この人が居なければ、私はもうこの世に居ないはずだったのだから。
……それが叶わないなら。
桃香様を頂点に戴いて独自の途を歩む事も出奔する事も叶わないのなら、せめて、桃香様が抱いた夢だけでも。その夢を顕現させる事で、世の人が桃香様が思い抱く生活を送れるようにしたい。
「……わかりました」
「朱里ちゃん?」
「桃香様の思い、承りました。この上は、桃香様の夢を実現させる為に、微力を尽くさせて頂きます」
そう言って、雛里ちゃんを見る。
雛里ちゃんは、まだ納得していないようだけど、私を見て頷いてくれた。
「……ありがとう、朱里ちゃん、雛里ちゃん」
桃香様が、そう仰る。
私の夢は、死んでしまった。
それならば、せめて、その夢の一部だけでも実現させよう。いや、させてみせる。全てを、桃香様さえも利用して。
〜白蓮 Side〜
私は、姓は公孫、名は賛、字を伯珪。真名は白蓮。幽州・北平の太守だ。
「殿、袁紹殿から書状が参っております」
「麗羽から?……何なんだ、一体」
反董卓連合軍が解散して、早一月が過ぎた。
その間、不穏な雰囲気に包まれていた民や兵達を、時に宥め、時にすかし、時に討伐して、領内を掌握することに奔走させられていた。
やっかいな相手を敵に回していたのだ。私達は。
天の御使い、平教経。
并州牧として并州内の賊徒を討伐し、黄巾の乱を終熄せしめた男。
その後、雍州に半ば流刑のような扱いで赴任していったが、反董卓連合に対して馬騰を臣従させて親董卓連合とも言える勢力を作り上げ、水関・虎牢関で連合軍を策と奇計で散々に打ち破り、董卓を洛陽から救い出してみせた、文武に優れた男。
その男が虎牢関で対峙中に施したであろう策によって、連合軍に参加した諸侯の領地は未だその落ち着きを取り戻せないでいる。それどころか、また新たな流言を飛ばしているようだ。曰く、『漢の忠臣であり良臣である董卓と平教経を、無道にも討伐しようとした君主にこのまま従っていても良いのか?』。
決起せよ、とも、味方になれ、とも言っていない。唯々民に問いかけているだけだ。だが、その問いの、何と心を揺さぶる事か。激高しての言葉でも涙ながらの言葉でもない、平坦な感情で発せられる言葉。その調子が、より一層民衆を煽る。
私は、自分の領地経営にはそれなりに自信があった。
その私の領地にして、この有様なのだ。その他の諸侯の領地がどのような状況であるかは想像に難くない。そのように大変な状況の中、態々私に書状を出してくるなんて。麗羽の奴、今度は一体何を言ってきたんだ?
書状を確認して、唖然とした。
『劉虞を皇帝として推戴する。ついては、これに賛同する諸侯の一人として名を連ねて貰いたい。これを断るなら敵対するものとみなし、それなりの対応をさせて貰う』
相変わらず、人に物を頼む態度ではない。後半の言辞など、無礼に過ぎる。だが、問題はそんなところではない。
……『劉虞』。
私にとって、奴は決して受け入れることが出来ない最低の男だ。
奴が幽州の州牧となった際、北平の太守であった私は挨拶に赴いた。皇帝の血類である劉虞に誼を通じておく事は、利をもたらす事はあっても害をもたらす事はないだろうと思ったからだ。代へ赴いて挨拶を行った私に、劉虞は、あの男はこう言ってきたのだ。
『中々いい女じゃないか。どうだ、皇帝の血に連なるこの俺様が、貴様を抱いてやろうじゃないか。……なんだ?断るつもりか?俺の女になるなら、中央へ口を利いてやっても良いのだぞ?まぁ、貴様の態度次第だがなあ……良い思いがしたければ、先ず俺に良い思いをさせろ……そら、服を脱いで、この俺に尽くして見せろ。今、ここでだ』
初対面の人間に、あの様な事を言われた事は初めてだし、今後もあんな事を言われる事はないだろう。余りの言い様に、劉虞をぶん殴って北平へ帰還した。『貴様を必ず犯してやる』、という言葉を背にしながら。
あんな卑劣漢が。
あんな屑が、皇帝になると言うのか。
あの屑を皇帝に推戴しようなどという麗羽の神経が知れない。
そんな馬鹿な事の片棒を担ぐ事などお断りだ。
麗羽に対して、断りを入れるべく書状を認める。
……これを麗羽に送りつければ、麗羽は間違いなく北平に攻め込んでくるだろう。けど、劉虞は、あの屑だけは認める訳には行かない。推戴しても碌な事にならないのは目に見えている。あの時のように、今度は皇帝という絶対的な存在として、その絶対的な権力を以て私を陵辱しようとするに決まっている。
賛同しても拒否しても碌な事にならないのであれば、自分の思う通りにした方がいい。そうであれば、例え悪い結果になったとしても後悔する事だけはないと思うから。
〜雛里 Side〜
「桃香様、何故黙っていらっしゃったのですか?」
「……御免、朱里ちゃん。でも、袁紹さんはどうしても袁王朝を樹てることを諦めないと思ったの。漢王朝から禅譲によってその正当性を主張できることが出来る。そう斗詩さんや猪々子さん、審配さんに言われて……言えばきっと反対される。そう言われたから、黙ってたの。ごめんなさい」
劉虞を皇帝に付け、それから禅譲を受ける形で袁王朝の樹立を宣言する。
その企画を、朱里ちゃんも私も知らされていなかった。
絶対に、反対したと思う。朱里ちゃんも、多分反対したと思う。
どう考えても、反発しか招かない。今上陛下に落ち度がある訳ではないし、何より皇族としてあまり評判の芳しくない劉虞を皇帝に付けるなど、愚策だと思う。その男から、禅譲をさせる。あからさますぎて、鼻白んでしまう。
けれど、既に賽は投げられた。
『劉虞を皇帝に付けることに賛同しろ、さもなければ討伐することも辞さない』。
そう諸侯に対して書状を発してしまったのだ。
公孫賛さんに、依頼という名の脅しを掛けて突っぱねられたことで、公孫賛さんを討伐すると袁紹さんが言い出した。その時初めて、私達はこの企画を知らされた。他の誰からでもない、私達自身の調べによって。
「桃香様、理想を実現する事は大切な事です。その為に利用出来るものを全て利用する事も必要な事です。ですが、利用の仕方を誤ってはいけません。劉虞などは、増長させて非道を行わせた上でこれを斬り捨てる事によって、天下に広く袁家の姿勢というものを示す事に利用出来たはずです。そういう利用法こそが、彼には相応しかったと思います」
あの話の後から、朱里ちゃんは少し変わった。
桃香様の為ではなく、桃香様の理想を顕現させる為だけに自分の才を使い切る。
そう考えているのがよく分かる。
私も、そう思っていた。
けれど、自分を信頼してくれない人を君主として戴くなんて、私には出来そうにない。先ず人として、こう有れかしと思うような人に、私の主君であって欲しい。私は、朱里ちゃんのように割り切れない。
「……ごめんなさい、朱里ちゃん」
「……二度と、このような事はしないで下さい。今後は私も必ず含めて頂きます。それが叶わないなら、私もこうやってお仕えする訳には行きません。愚かな味方に足下を掬われて、理想を顕現させることなく死にたくはありませんから」
「……うん、二度と、しないよ。……ごめんなさい」
「……分かって頂ければ、宜しいのです。田豊さんや沮授さんが投獄されたのは、これに反対したからなのですね?今すぐ、彼らを解き放って私のところへ連れてきて下さい。協力するように、私が説得しますから」
説得して、利用する。
そう考えていると思う。
朱里ちゃん。
朱里ちゃんは、無理しているようにしか見えないよ。
私は、どこか無機質な感じのする朱里ちゃんの顔を見ながら、朱里ちゃんをこう変えてしまった桃香様のことを、少しだけ、憎いと感じ始めていた。
この人さえ、朱里ちゃんの想いを裏切らなかったら。朱里ちゃんが、こんな風になる事はなかったのに。理想という名の泥沼に胸まで浸かりながら、汚辱に塗れんとすることはなかったのに。
どうやって朱里ちゃんをその沼から掬い上げるのか。その後の桃香様の話など聞かず、その事だけをずっと考えていた。