〜翠 Side〜
珍しく、今日ご主人様は朝から執務室で政務に明け暮れている。
脱走しないように、稟と風と詠が揃ってご主人様を取り囲み、決裁が必要な書類を次々とその前に差し出して、決裁を仰いでいる……いや、決裁させている。
以前から脱走癖があったご主人様だけど、最近は特に脱走する回数が多い。
脱走して街に出て行っているのは間違いない。部屋にいないのだから。
それは、断空我にも確認してある。
でも、ご主人様を街で見かけたという人間は居ない。
……なにか、おかしい気がする。
ご主人様は、何か隠しているんじゃないのか?あたし達に。
「教経殿。次はこの件について、決裁をお願い致します」
「……ん、あぁ」
「……?お兄さん?」
「……大丈夫だ。で、何だっけ?」
「長安を最近騒がせている、華蝶仮面と蝶人・ぱぴよんなる者達を捕らえる為に、警備兵を増やして貰いたい、との嘆願書です」
あたしが出した嘆願書だ。
以前は華蝶仮面だけだったのに、最近頻繁に変態が街に現れてお茶屋でお茶を飲んでいたり、服屋に服を作らせたりしているようだ。余談だけど、服屋の主人は『黒乃駆流・阿紗』というらしい。変態がそう呼びかけていた。珍しい名前だ。最近は、『パピ☆ヨン☆』様御用達、という看板を掲げて大いに繁盛しているようだ。聞けば、題字は変態自身が書いたのだという。無駄に達筆だ。
兎に角、変態が出た、という報告を受けては捕まえる為に出動しているのに、一向に捕まえることが出来ない。もの凄い疾さで逃走するんだ、あの変態は。『パピ☆ヨン☆』とか『蝶・サイコー!』とか『オレはこの未完成の体を脱ぎ捨てて、更なる高みを目指して翔ぶ!!』とか叫びながら。
昨日なんか、雨が降っている中半日以上追跡したにも関わらず、遂に取り逃してしまった。城の中で、見失ってしまったんだ。ご主人様の命を狙う刺客かもしれない、と思い当たってご主人様の寝所へ駆け込んだら、その、ご主人様は素っ裸で……あ〜!もう!そんなことはどうでも良いだろ!兎に角、無事だったんだ!けどご主人様に、『へ、変態だぁ〜!』と叫ばれた。
……それもこれも、全部あの変態のせいだ。
「……稟。『パピ☆ヨン☆』、な。もっと愛を込めて……」
「……教経殿?」
そのまま、ご主人様は机につっぷして意識を失ってしまった。
「お、お兄さん!?」
「ちょ、ちょっとアンタ!?どうしたのよ!……って、凄い熱じゃない!」
「翠!先生を呼んできて下さい!
風!風は教経殿の寝所を整えておいて下さい!
詠!私と一緒に教経殿を寝所まで運びますよ!?」
「わ、わかった!」
「了解なのです」
「わかったわよ!」
稟が矢継ぎ早に指示を出す。稟の指示は、いつも的確だ。
……そんなことより、早く先生を連れてこないと。
指示された任を果たすべく、先生の元へ駆けだした。
「……風邪だろうな。疲労も溜まっているようだし、養生させることだ」
「……良かった。……先生、お忙しいところ、有り難う御座いました。それで、どの位休んでおけばよいでしょうか?」
「そうだな、先ず十日程は安静にさせることだ。熱が下がったら動こうとするだろうが、しっかりと休ませておけ。お前さん方でしっかりと寝かしつけておくことだ。縛り付けてでも何をしてでもな」
「分かったのです」
「相も変わらず、愛されていることだねえ……私は帰るぞ」
そう言って先生が助手の小さな女の子を連れて帰っていった。
偉そうな物言いの医者だが、先生はご主人様が見つけてきた凄腕の医者だ。
黒男というらしい。
琴が、ご主人様がやっていた鍛錬をやってみようと思ったらしく、ご主人様立ち会いの下で太刀の上を歩こうとして、失敗した。左足の小指が落ちてしまった。
その時ご主人様があの先生のところに琴を連れて行って、『ブラックジャック先生!主治医になって下さい!』とか『い、いいですとも!一生かかってもどんなことをしても払います!きっと払いますとも!』等と言っていた。そのご主人様に、『それが聞きたかった』と言って先生は琴の主治医になった。どうやったのかは分からないけど、琴の左足の小指は元通りに動くようになっていた。そのまま、今では平家の主治医という立場に収まっている。
……怪我から復帰した琴が星達に、『お屋形様にキズモノにされました』、と言った為、入れ替わりでご主人様が先生の世話になることになったけど。
「今日から、交代で教経殿を看病しましょう」
「それはいいけど、コイツが本気で動き出そうとした時に押さえられる人間じゃないと駄目なんじゃない?ボク達じゃ絶対押さえられないわよ?」
「星ちゃん、愛紗ちゃん、碧さん、翠ちゃん、琴ちゃん。5人いるのですよ。二日ずつ看病すれば、丁度十日なのです」
「なるほど。でもその間の仕事はどうすればいいんだ?」
「そんなものは放っておけばよいのですよ、翠ちゃん。お兄さんが元気になることが一番大事なのです」
「その間は、ボク達三人で政務を滞らせないようにしないとね」
「それはそうです。教経殿が快復した時に政務が滞っていた、など、この郭奉孝の誇りが許しません」
「そんなこと言ったらボクだって!」
「まぁまぁ、二人とも。そうやって女同士の劣情を育むのも良いですが、静かにしておかなければなりませんよ?お兄さんは病人なのですから」
「風!」
「シーッ」
「う……ボクだけ怒鳴れないのはどうなのよ……」
「一番最後の妾さんから仕方ないのですよ」
「誰が妾なのよ!誰が!」
「シーッ」
「ほら、ご主人様が苦しそうな顔をしているんだし、もうちょっと静かにしようよ、な?」
ほんと、ご主人様のことになると見境が無くなるんだからなぁ。皆。
〜教経 Side〜
不覚にも風邪をひいて倒れてから、もう八日経過している。
はっきり言おう。
暇だ。
早く蝶人に変身して、長安の街を闊歩したい。
クロノクルに頼んでおいた新作のスーツが出来上がっているはずだ。
それを早く着込んで、蝶・サイコーな俺を見せつけてやりたい。
のだが。
「ん〜……」
……OK、落ち着くンだ。まだ慌てるような時間じゃない。状況を把握しよう。
何時だ?……今は朝だろう。私の記憶が確かならば。鹿賀丈史的に考えて。
ここは?……俺の、俺による、俺の為の部屋だ。リンカーン的に考えて。
今俺は?……寝台で寝ている。
横には?……何故か、翠が添い寝している。
わかったぞ!犯人はヤスだ!
……あれバラされた時、バラした奴を本気で殴ったなぁ……
まぁ、そんなセピアならぬポートピア色の思い出はこの際どうでも良い。
問題は、何故、翠が、俺の横で、添い寝しているのか、だ。
……人生を、甘く、見ること!
いや、もういい、電波は十分だ。
「んぅ……ご主人様……」
……こいつ、どんな夢見てるんだろうか。
いつもポニーテールにしている翠の髪留めを、ちょいと取ってみる。
髪を下ろした翠は、親子だからだろうが、碧に似ている。
碧よりも、柔らかい印象を受けるが。
可愛いモンだねぇ。
寝ちまって無防備な女の子ってのは、こう、そそるものがあるねぇ。
といっても、手を出したいとかそういうことじゃなく、鑑賞してたいってことだけど。
翠の頭を撫でながら、寝顔を見ている。
外はまだ寒いとは言え、部屋にいて、日が差し込んでくれば暖かい。布団もあるし。このまま俺ももうちょっと寝ちまおうか。
そう思ってたんだが、翠が抱きついて来た。
……よせよ、苦しいじゃないかね。
頭を抱き抱えられて、翠の胸に顔を押しつけられる。
フフ、この風、この肌触りこそ戦争よ!
いや、まぁ、まだ一度も此処を戦場にしたことはありませんが。
良い香りがするねぇ。もしこれが野郎だと、『こいつはくせえッー!ゲロ以下のにおいがプンプンするぜッーーーーッ!!』とか叫ぶんだが。
折角なのでこのままでいようと思ったら、翠が身じろぎした。
……起きるのか?
抱き抱えていた腕から解放されたので頭を上げてみると、目の前に翠の顔があった。寝ぼけているようだ。目の焦点が合ってない。
……アホの娘みたいだな。
そう思ったのが悪かったのだろう。ツボに入ってしまって吹き出しそうになり、それを我慢して思わず笑い顔になってしまった。微笑みかけられたと勘違いしたのだろう、翠が嬉しそうに微笑んでいる。
……その笑顔は、ちょっと卑怯じゃないかね?美少女が柔らかく微笑みかけてくるってのは、かなりポイントが高いと思うンだよねぇ。寝ぼけているからだろうが、普段より眼光も柔らかいし、顔が近寄ってくるし……って!ちょ、ちょっと待て……お前さん、何を……
「んっ……」
……翠に口づけをされた。思いっきり。
「……はぁ」
……満足そうな顔してるがねお前さん、これはちょっと……その、不意打ち過ぎるだろうが。
言葉もなく、何と話しかけて良いかも分からず、呆然としていると、翠が覚醒したようだ。
「……あれ、ご主人様?……え?これ、夢じゃ……」
「……無いンだねぇ」
「★■※@▼∀っ!?」
俺の寝台で大暴れだ。
「ななな、何するんだよ!」
「いや、俺はされた方。貴女した方。ドゥー・ユー・アンダスタン?」
「どぅー……?そ、そんなことはどうだっていいんだ!何で避けないんだよ!あたしみたいな奴に、その、口づけなんてされても迷惑だろ!?」
「……ご謙遜を?」
「謙遜なんかしてないよ!」
「迷惑じゃないぜ?むしろ嬉しい?」
「何で疑問系なんだよ!」
「そらお前さん、俺だって人間だ。不意を打たれた訳だから当然ドギマギしてるからねぇ。照れ隠しくらいするさ」
「嘘吐け!」
「嘘じゃねぇよ、ほれ」
そういって、翠の頭を抱き抱える。
「ななな、何するんだ!」
「俺の心音、聞こえるだろ?」
「あ……」
「早鐘を撞くみたいに、早いだろうが」
「……うん」
「……まぁ、だから、照れ隠しだ」
「……嫌じゃ、なかったのか?ご主人様は」
「何で嫌だと思うンだ?」
「そりゃ、あたしみたいな女に」
「あ〜、その『あたしみたいな女』ってのは、いい女ってことか?」
「ちちち違うよ。なんでそうなるんだよ」
「いや、見たまんまだと思うが」
「何処が!」
「全部が」
「★■※@▼∀っ!?」
初心だねぇ。
まぁ、そこが翠の良いところだろう。
「と、とにかく、今のことは忘れること!」
「忘れられる訳無いだろうが」
「な、何言ってるんだよご主人様!」
「普通に無理だと思うぜ?可愛い女の子に口づけされるなんて、忘れられる訳無いだろう」
「うるさい!うるさい!うるさい!兎に角、忘れてくれ!」
「だが断る!」
「忘れろ!」
「ふむ。」
「……分かってくれたのか?ご主人様」
「あぁ、翠が恥ずかしいから忘れて欲しいってのはよく分かったよ……だが断る!」
「あ〜!もう!あたしは知らないからな!」
翠はそう言って、走って俺の部屋から出て行った。
……やれやれだぜ。俺を監視してろってブラックジャック先生に言われたんじゃないのかね?まぁ、大人しくしているさ。『パピ☆ヨン☆』スタイルで往来を闊歩する気にもなれないし、ね。
〜翠 Side〜
あの雰囲気に居たたまれなくなって、ご主人様の部屋から逃げ出してしまった。
ご主人様が悪いんだ。あんな事を言って、忘れないなんて言うから。
……でも、あたし……ご、ご主人様と口づけを……
「……翠、アンタ何やってるんだい!?」
「うわっ!お、お母様!」
「折角良い雰囲気になりそうだったのに、アンタ何逃げ出してるんだい!」
「ななななんでお母様がそんなこと知ってるんだよ!」
「決まってるだろう!アンタが寝ているご主人様の顔を見ながら『あの時は凛々しかった』だの『こうやってみると可愛い』だのと言った後、何だかんだと理由を付けて添い寝するところまで全部見ていたのさ!」
「お母様!趣味が悪いぞ!」
「こういうのは良い趣味してるって言うのさ」
「それを目の前で暴露されているあたしの気持ちも考えてくれよ!」
「アンタの気持ち、ねぇ……翠。アンタ、ご主人様のこと、やっぱり好きなんじゃないか。自分から口づけするなんてねぇ。アンタが」
「ちちち違う!あれは!」
「翠。アンタ、素直にならないと本当に後悔することになるよ?ご主人様の周りに他の女がいるから諦めよう、なんて考えているんだろうけど、そんなものは関係ないよ。ご主人様とお前の気持ちが大切なのさ。
ご主人様は、アンタに口づけされて、嬉しいと言っていたじゃないか。照れくさそうにしていたのは、アンタに好意を持っているからだと思って良いと思うんだがねぇ。あとは、アンタの気持ちだけだと思うよ?私は」
「あたしの、気持ち……?」
「そうさ。アンタはご主人様に情人がいることを口実にして、自分の感情を露わにすることから逃げているだけに過ぎない。情人がいなかったら、どうしたいのかを考えな。それがアンタの本心なんだろうからねぇ」
お母様は、用は済んだ、とばかりに歩き去っていった。
あたしの本心。
……あたしはご主人様を……
……あたしは……
……あたし……
その日は、そうやってご主人様と自分の感情について考えながら、ずっと過ごしていた。