〜琴 Side〜
山が震えている。いや、大地が。
目の前に広がる光景が、信じられない。
山に、たいまつが明々と灯った。
そう思っていたが、次々に灯されていくたいまつの数が尋常ではない。山塞辺りを、横に広く、三列程度の厚みを持って広がっていた。
そのたいまつの群れが、一斉に山を駆け下りて来たのだ。
大きな地鳴りを伴って。まるで、火の壁が崩れ落ちるかのように、一斉に山裾に向かって駆け下りていた。
それが角と尾に火を掛けられた牛の大群であることに気付いた時には、もう既に手遅れだった。
闇で分からないが、たいまつの数から言って5,000頭程度の牛が連合軍陣地目掛けて突進してきたのだろう。孔融軍も、その他の軍も大混乱に陥っている。牛は、その角と尾に火が付いていることもあり、平地に降り立っても猶暴れ回っている。どうやっても、沈静化出来ないだろう。
「て、敵襲!敵襲だ!平家の鬼共が来るぞ!」
袁術軍の兵士がそう叫び声を上げながら逃げていこうとする。
平家の鬼共。
聞けば、平家の兵達は、唯々連合軍の兵を殺す為だけに戦っているのだそうだ。
剣が折れても、首を絞めてくる。
腕を斬り飛ばしても、歯で首筋に噛みついてくる。
一体、どうやってこのような兵を育てたのだ。
死ぬことを、厭わない。兵達とて、元は只の農民達が大半だ。
……只の悪党に、そうまでして忠誠を誓うだろうか。
いや、駄目だ。そう考えては駄目だ。それでは、私は何故此処にいるのか。この戦で今まで私が何をしてきたのか。私の全てが、崩れ去ってしまう。認めることは、出来ない。出来そうにない。
……母から、手紙が来た。
内容を見て、愕然とし、直ぐに破り捨てた。
『董卓と平教経が、困窮する民の為に糧食を施している』
認められない。私は、そんなものは見ていない。母上が、騙されているのだ。きっと、そうだ。大悪党である董卓と平教経を殺せば、問題無い。何も、問題無いのだ。今まで通り、正義を追求する私で居られるはずだ。奴らを殺しさえすれば、連合の皆は私の正義を褒め称えてくれるはずだ。
『目に見えるものが全てではない』
五月蠅い、黙っていてくれ。私は、私の正義を貫くだけだ。
平家の鬼共。兎に角、狩って狩って狩りまくってやるのだ。
私が私である為に。
「やたら郎党共が悲鳴を上げていると思って来てみたら、どうやらお前さんが斬り殺してくれてたみたいだな」
平家の郎党共を求めて斬り進んでいる内に、自陣から随分と離れてしまった。
引き返して更に平家の郎党を斬っていた私に、そう話しかけてくる影があった。
……浅葱色にダンダラ模様の羽織。間違いない。平教経だ。
この闇夜で、それでも目立つ服を着込むとは。こいつは馬鹿だ。
「平教経だな。私は、太史慈。その首、頂戴する」
「……太史慈、か。まさかこの戦場に居るとはね。で、今、なんと言ったのかね?良く聞こえなかったんだが」
「貴様の首、この太史子義が頂戴する!」
「……お前には出来ないかも知れないがね。やってみるかね?」
「抜かせ!この外道め!」
距離を詰めて、抜刀斬りを放つ。
剣速も十分だ。闇夜で、私の獲物の長さも測れていないだろう。この時機で放たれる私の剣を、躱せるものなら躱してみろ!
斬り上げている。まだ、肉を割いた感触がない。
もう、半分以上斬り上げている。
……まさか、躱されたというのか。
「危ないねぇ。辻斬りは、御法度だぜ?……まさか抜刀斬りにお目にかかれるとは思ってもみなかったがね。しかも、言うに事欠いて外道とはねぇ……まぁ、今のこの惨状じゃ言い得て妙か」
「くっ……運のいい奴め」
「運が良い……?はは、自分の力量を高く見積もりすぎだ。慢心するなよ、童。お前は、まだまだだ」
「わ、わっぱだと!」
「あぁ。声や体格からして小僧って呼ぶのは無理があるみたいだからなぁ。だから、童と呼んだんだよ。俺の方が腕が立つようだし、俺が目上でお前が目下だろうが。そう呼ばれても仕方があるまい?」
「ちぃ、減らず口を!」
構わず、斬りつける為に前に踏み込む。
次の瞬間、私は投げを打たれて宙を舞っていた。
「ぐっ!」
折れている肋骨に衝撃が響く。
かなり痛いが、気を失うほどではない。
そのまま、押さえつけられる。
「……童。殺気を垂れ流しすぎだ。いつ仕掛けてくるのかが丸わかりだ。その癖、やたらと揺らいでいる。……何を悩んで居やぁがる。相手を斬り殺す。その瞬間においては、情は不要。斬る事を嘆く位なら、斬ってからそれを嘆くが良い。お前さんの剣の師は、そう教えてくれなかったのか」
「貴様、我が師を侮辱するのか!」
「……今のお前さんの在りようは、お前さんの師を侮辱しているものだと思うが、違うかね?」
「五月蠅い!黙れ!黙ってくれ!」
「滅茶苦茶だな、お前さんは。情緒が不安定に過ぎるぞ……まぁ、いい。言っても分からんなら思い出させてやるだけだ。お前さんの師匠がお前さんに教えたであろうことをな……小野派一刀流、平教経。貴様は?」
私を解放し、立ち上がって剣を正眼に構えている。
……尋常に、立ち合う。
そう言うのか。今なら、私を簡単に殺せたはずなのに。
立ち上がって、剣を構える。
「……我流一刀流、太史子義。……いざ!」
「……参ろうか」
勝負は、一瞬だろう。
迂闊には動けない。
剣を下段に構えながら、平教経を注視する。
その表情は、その心を一片も映していない。
その眼は、何処か一点を見つめているだけで私に注目している様子はない。
まるで潮が満ちるかのように、私達の間にある空気がじわじわと重苦しくなってくる。
……我が師は、剣を振るう際には、何も考えなくとも良いと言っていた。
但し、剣を振るうことの意味については、その都度、命を奪う度に、しかと考えておけ、と。
そう言っていた。あれは、いつだったのだろうか。
私は、いつからそれを考えることを止めてしまったのだろうか。
それを考えていれば、考え続けていれば、終に今日のような日を迎えることは無かったかも知れないのに。
……剣は、只の剣に過ぎない。それを、努々忘れるな。
それを振るう者が正義を忘れれば、その行為は只の斬人に過ぎない。何の意味も持たない。
己が正義を貫く為にこそ、剣を振るうのだ。その正義が何たるかを常に考えておけ。
そう、言われていたはずだ。いつから、自分の正義を疑わなくなったのか。
私は、いつから、こうも歪な人間になってしまったのか。
師が死んでから、私に勝てる人間が周りに居なくなってからか。
平教経はまだ動かない。平然と、泰然と、唯々剣を構えている。
一分の隙もなく、一分の揺らぎも見せず。
剣士として、既に完成しているかのように見える。何をすれば、こうなれるのか。
汗が額から滴る。
息が、苦しい。
もう少し、耐えられる。
まだなのか。まだ、この男は、耐えられるのか、この空気に。
私は、もう、耐えられない。
……動くしかない。
右手を、斬り飛ばす。
その為に、右下から左上へ刀を奔らせる。
だが、平は右手を太刀から離して私の太刀を躱し、左やや下側から、右やや上に向けて太刀を一閃させようとしている。その太刀を、振り始める。
……疾い。これは、どうやっても斬られる。
ああ躱すとは思わなかった。こんなに太刀行きが疾いとは思わなかった。
『己を韜晦することをしない。駆け引きを知らない。そして何より、相手を恐れることをしない。そういうのを、阿呆というんだよ!小娘!』
馬騰の、言う通りだ。私はまた、相手を計ろうともせずに。駆け引きも碌に行わずに。
同じ事を繰り返したのだ。死んで、当たり前だろう。
そう思って、目を閉じる。
正義を剣で実現することが、最早叶わない、惨めなだけの私だが。
せめて、最期くらいは潔く、何者にも恥じることの無いような最期を迎えたい。
「……何を、思い詰めてやがる、童」
その声に目を見開くと、そこに平教経の顔があった。
既に刀を納めている。
「勝負は、お前さんが今感じている通り、俺の完勝だ……命の遣り取りをした仲だ。同じ剣を志す者でもある。人生の先輩としても、剣士としても、お前さんに対して何らかの助言をしてやれると思うんだがね、俺ぁ」
「……貴様のような極悪人に、何を教えて貰うというのだ!」
「そうだねぇ。鍛錬を強要してくる爺共から如何にして逃げ回るか、とか、どうやって虐めてくれた爺共に仕返しをするか、とか。そういうことなら、得意だ。頼ってくれて構わない」
……こいつは、何なのだ。
「……一寸は落ち着いたみたいだな。で、童。何をそんなに悩んで居やぁがる。剣が曇ってたぜ?」
「……私は、この剣で正義を貫く為に今回この連合に志願して参加した。悪を斬り捨てて正義を打ち立てる為に。……だが、貴様のところの馬騰が、この連合は嘘によって発足した、偽りの正義だと言ったのだ」
私は、何を語っているのだ。
「……それで?」
「……北海の母から手紙が来た。その通りだった。董卓も、貴様も、袁紹が言うような悪などではなかった。それを、認めたくなかった。だから、私はお前を殺そうとしたんだ。お前を殺せば、私は私が正しかったのだと自分に言い聞かせることが出来る。周囲も、私の正義を認めてくれる。そう思っていたんだ。
……私は、今まで何をやっていたのだ。この連合に騙されて。偽りの正義を掲げ己の正義を見つめ直すこともせず、平家軍の者共を殺して。」
「……」
「私は、自分が正義だと思っていた。相手が悪だと思っていた。だから、斬り殺したのに。それなのに、相手は悪じゃなかった。私は、正義ですらなかった!正義と思っていたものは、醜い嘘で塗り固められた、糞みたいなものだった!己の正義を貫いて、悪を斬り捨てようと思っていたのに!」
私は、何をやっているのだ。
たった今、斬り殺そうとしていた相手に、このような話をするなんて。
「……『悪・即・斬』、か」
「……『悪・即・斬』……?」
「そうだ。お前さん、『悪・即・斬』を己の信念として定めているんだろう?」
『悪・即・斬』。
言われて初めて気がついた。それこそが、私が求めているものだ。そうやって正義を打ち立てるのだ。
これ程簡潔で、これ程わかりやすい表現は他にないだろう。
なぜ、私を惹き付けて已まないその言葉が、この男の口から発せられるのか。
「……一時期、俺も憧れてたからなぁ。アレに。牙突的に考えて」
「……貴様が、か」
「そうさ。だが、その頃の俺には、正義ってのが一体どんなモンなのか、全く分かっちゃ居なかったンだねぇ、これが」
……今の私も、もう分からない。
分からなく、なってしまったのだ。
いや、実はとうの昔に見失ってしまっていたのだろう。
だから、他人からの伝聞をそのままに信じてしまったのだ。
「……正義とは、何なのだ」
「その辺に落ちている石ころだ」
「何だと!貴様、やはり極悪人ではないか!」
「……ちっと落ち着いて話を聞け」
何故こんなに落ち着いているのだ、この男は。
いちいち逆上する私が、餓鬼みたいではないか。
「……くっ」
「……正義ってのはな、皆自分なりに何かしら持ってるモンだと思う。それが価値あるモンなのかどうかは、分からない。勿論、自分にとっては掛け値無しで価値があるモンだ。だが、他人にとってはどうかな?いや、自分にとってさえ、常に絶対的な意味を持つもので在り得るかな?」
「正義は、絶対だろう」
「いいや、俺はそうは思わないね。例えば、腹を空かせて盗みを働いた小僧が居るとする。その小僧を罰することは正義だ。例えその罰が斬首だとしても、法でそう定められていればそれは正義だ。そうだろう?」
「……あぁ」
「だが、その小僧が盗みを働いたのは、腹を空かせて待っている弟共に飯を食わせてやる為に、その小僧が取り得る最後の手段だったからなンだ。
さて、童。お前さんに聞くがな。この小僧を斬り殺すことが、絶対の正義だと思うか?
それにだ、例えばだが、この小僧と家族が食いっぱぐれることがないような政を実現する為に運動することは正義足り得ないかね?」
「……小僧を斬り殺すのは、完全な正義だとは言い難いと思う。後から言ったことも、正義足り得ると思う。」
「そうだねぇ。俺もそう思う。正義ってのは、そういうモンだと思うぜ?絶対に正しい正義なんてありはしないのさ。それがある、と言う奴は、大体周りが見えていないだけの餓鬼だ。童、丁度今のお前さんのように、な。正義ってのは、それを理解出来る人間に取ってさえ、今の例を見る通り、状況やそれを取り扱う人間の心情に大きく左右されるモンだ。ある状況で二つの正義を提示された時、その両方共に正義であると言えることだってある。それも、今言った通りだ。
では、他人に提示された正義を全く理解出来なかったとしたら?恐らく、何の価値も認めることはないだろう。そこらに転がっている、石ころ同然にな。正義は、それに価値を見いだせる人間には、玉たり得る。が、見いだせない人間には只の石ころだ」
「……」
「だから、正義ってのは、自分の思う正義でしかないのさ。より多数を幸福にする為の正義を見つけ出して、それを貫く人間にこそ、『悪・即・斬』は相応しい。俺は、そう思うけどねぇ。
まぁ、今の俺なら、きっと『悪・即・斬』を貫けると思うが」
そう言ってニヤリと嗤う。
「……私は、どうすればいいのだ、これから」
「そんなこと、俺が知るかよ。テメェで考えやがれ」
「此処まで話をしておいて、それはないだろう。貴様は貴様の正義についてすら話していないではないか。」
「ったく、世話掛けさせやがるな……俺の夢は、世の中の人間が『平凡な人生』を送れる世の中を実現することだ。何の波乱もない、乗り越えられない苦しみのない、人並みな人生を誰もが送れる、そんな平凡な世の中を作り上げるのが俺の夢だ。
その俺の夢を実現する為に、その実現を阻もうとする奴らを斬る。それが俺の正義だ。
我欲によって俺の夢を阻む奴らは、悪だ。少なくとも、俺にとっては。そして、俺の夢を共に抱いてくれているものにとっては。だから、斬るンだ。『悪・即・斬』の下に。
勿論、そいつなりの正義を以て俺の夢を否定してくる奴だって居るだろう。
だがそれでも、俺が思い描く夢をこの世界に現出させる為に斬り捨てるのさ。そいつの正義諸共にな。それが覚悟というものだ」
連合軍に極悪人のように言われているこの男は、そのようなことを考えているのか。
嘘を言っている、と思わないでもない。
だが、あれ程の剣を修めた人間が、そのようなくだらない人間であるとはどうしても思えなかった。
「まぁ、童。貴様は貴様の正義を見つけて、その正義を貫くことだ。『悪・即・斬』の下に、ね。人生と、剣の先輩からの有り難いお言葉だ。しっかり覚えておくが良いさ。
……じゃぁな、童。次に殺しに来る時は、しっかりとした自分の正義を持って俺を殺しに来い。そうでないと、また説教だぜ?あと、テメェの師匠に宜しくな。もっとしっかりと仕込みやがれ、とでも言っておいてくれ。剣の腕じゃなく、剣士としての心構えを、な。
必ず、伝えろよ?童。故郷に生きて帰ってな。
……ったく、私とか貴様とか正義だとか悪だとか、エラくませた童だな、本当によ……」
そう言って、平教経は立ち去っていった。
故郷に、生きて帰れ、か。
自分を殺そうとした私に、生きろなどと言う。
あれは、悪党ではない。只の善人だろう。
そうでもないと、自分を殺そうとした人間の悩みを聞いて話をした上で、無事に故郷に帰れ等と言うはずがないではないか。
……私は、盲いていた。自分の正義が唯一無二の、絶対的なものだと思い込んで。さぞや、醜かったことだろう。
素直に、そう思えた。