〜琴 Side〜
私は、姓を太史、名を慈、字を子義。真名は琴。
私が至らず、母に迷惑を掛けて居た際に母の面倒を見て下さった孔融様へ恩返しをする為に、此度の大乱に孔融軍の卒として参加している。軍へ参加したのは、先に述べた通り孔融様へ恩を返したい為であるのは勿論の事だが、今洛陽で圧政を布いている董卓とそれに荷担する平教経を討伐し、無辜の民達を救う事こそ正義であると感じたから。
志を同じくする諸侯と共に、巨悪を討って正義を実現する。
孔融様はそう仰っていた。その孔融様を助力することは正義の実現を剣で目指す私にとって願ってもないことだ。
悪を打ち倒す。その為に私は力を尽くすのだ、この剣を振るって。
「敵襲!敵襲だ!」
その声に前を見れば、袁紹軍と袁術軍に向かって水関から騎馬隊が突撃を行っていた。
『揚羽蝶』の旗が風に棚引いている。集団の先頭にいる派手な羽織を着込んだ男を殺そうと、多くの友軍が立ちはだかったているが、その悉くを一刀の下に斬り伏せている。あれが、平教経だろう。
……もし、こちら側に来れば。
孔融軍の隣は曹操軍だ。到着してからの軍兵の様子を見る限り、非常に練度が高く、また戦意も旺盛だ。彼らと連携できれば、己が武勇を恃んで突出してきた敵将を討ち取ることが叶うかもしれない。普通であれば。
だが、敵騎兵から逃れる為に諸侯の軍兵達が曹操軍と孔融軍の前に殺到してきており、現状それを捌くのに精一杯だ。この状態で敵がこちらに来たら少なくない損害を被ることは間違いないと思うが、曹操軍を避けるようにして軍を移動させている。
此処にいては、敵将は討ち取れない。そう判断し、平教経を討ち取るべく陣から抜け出て移動する。彼を殺せば、この戦の目的の約半分を達成出来る。この機会を失う訳には行かないだろう。見れば、袁紹軍の一部が動揺が収まらぬ友軍を叱咤するかのように果敢に戦い、騎馬隊の勢いを押し止めようとしている。騎馬と徒とが交互に寄せて戦っている。
騎馬隊の勢いが完全に止まった時。その時が殊勲を狙う時だろう。本当は剣で斬り殺してやりたいが、乱戦の中彼に近づくことが叶わない。弓を使う。一矢で、その命を頂戴する。
彼が見える場所で静かにその時を待つ。だが友軍が徐々に落ち着きを取り戻しつつあったその時に、敵騎馬隊は馬首を巡らせ水関へ退却し始めた。殿を務めながら平教経が語りかけてくる。
「愚かにも我欲に塗れ、『義』を見て為せぬ糞共よ。貴様らに決して勝利は来ない。
たとえ殺されようとも、悪に屈しない心。それがやがては勝利の風を呼ぶ……
人、それを凱風という……!」
貴様のどこに、『義』があるというのか。
『義』を見て為せぬのは、この正義の連合に加盟しない貴様の方ではないか。
悪。
そう言ったのか。この私を、孔融様を、『悪』と言ったのか。
この男には生きている価値はない。
必ず、私が斬り捨てる。
この太史子義が、ね。
〜愛紗 Side〜
水関に篭もって防戦に専念して半月もしないうちに、華雄が出撃する、と言い出した。連合軍から罵声を浴びせられ、怒りが収まらぬようだ。
これまでのところ、教経様の構想通りに戦は進んでいる。
諸侯の軍勢が入れ替わり立ち替わりに押し寄せてきては、矢を射掛け、罵声を浴びせてくる。だが、教経様は関の上に高々と掲げられた平家の旗の下で悠然と構え、兵達はそんな教経様を見て落ち着いて対処出来ている。逆に、敵兵を挑発し、笑う余裕を見せていた。……教経様も一緒になって敵兵を挑発していたが。
ある時は、その、お尻を出して叩き、『これでもくらえぇぇぇい!』と叫んで。お尻に矢が刺さりそうになって直ぐにやめたけれど。
またある時は、矢が飛び交う中関を上ろうとしている敵兵の面に向けて、その、尿を掛けながら、『喰らえ!必殺の!ゴールドスプラッシュだぁぁぁ!』と叫んで。
……まるっきり6歳児だ……教経様、戦が終わったら折檻です。何故か、周囲の兵が私から逃げていく。
ま、まぁ兎に角、順調に防戦をこなせている、と言って良いと思う。なにせまだ一度もあわやという場面を迎えていないのだから。こちらにはまだ矢も豊富にある。射掛ける敵にも事欠かない。
ここで、構想から外れさせる訳にはいかないのだ。華雄が出撃して死ぬようなことがあれば士気が下がり、結果として教経様の構想を揺るがしかねない。教経様は抜かれても問題無い、と言ったが、予定通り『抜かせる』が良いに決まっているのだから。予定された退却と、予期せぬ撤退。受ける被害も大きく違うのだから。
そう思って華雄を止めようとすると、教経様がやってきて華雄を殴りつけた。
「貴様、何をする!奴らは私の武を侮っているのだぞ!」
「……華雄、お前さん、聞いていなかったか?俺の命を軽んじるものが居れば殺す。そう言ったはずだ」
「グッ……」
悔しそうにする華雄に、構わず話を続ける。
「華雄、貴様の武も大した価値がないな」
「何だと!」
「そうではないか。その武を奮う理由が、自分の武人としての矜持を守る為、などとみみっちい事を言いやがるのがいい証拠じゃないかね?」
「それの何が悪い!」
「そのせいで月は死ぬことになる。貴様は自分が仕えている主を己の武を奮うことで殺すことになるわけだ。そんな奴を誰が天下最強だと尊敬してくれるのかね?主殺しの間抜けじゃないか」
「何を言っている!私は最強だ!月様を殺させはしない!」
「どうやって?」
「戦に勝つ!それだけだ!」
「袁紹の目的を説明してやったろうが。それをもう忘れたのか?」
董卓殿の命。洛陽の奪取。
水関に入った時、教経様から華雄と霞に袁紹の目的を説明してある。
霞は、教経様が今回描いた戦の全貌を知り、それを実現する為に協力することを約束してくれた。
華雄も約束したはずだが、やはりこ奴は駄目らしい。
「それがどうしたのだ!」
「言ったはずだ。目的を果たせなかった袁紹は、月を暗殺しようとするだろう、と。それが分かって居て猶、俺の構想を破綻させ、袁紹を復讐鬼にしようとしているわけだ。
……貴様が、月を殺す。
己の武人としての矜持などと言う、糞ほどにも価値がないモノに拘ってな」
「価値が無いだと!」
「無いな。お前は、月の為にその武を奮うと言っている。だが、その実情は月を殺す為にその武を奮おうとしている。貴様のような奴の矜持にどれ程の価値があるというのかね?馬の糞ほどの価値もないと思うがねぇ」
「いい加減にその口閉ざさんと貴様を殺すぞ!」
「……テメェこそいい加減にしやがれ!」
教経様が殺気を叩きつける。
華雄の顔色が変わる。教経様への恐怖から、一気に冷静になったようだ。
「良いか、貴様に選択肢をくれてやる。
貴様の武を貶される事と、月を殺される事。
どちらかを選べ。今すぐに、ここでだ。どちらも選ばぬと言うことは許さん。もしそう言うなら今此処で俺が貴様を殺してやる。宣言通りにな」
さて、どちらを選ぶのやら。
華雄は俯き、考え込んでいる様だ。
暫く沈黙した後、顔を上げて応える。
「……私の武を貶される事を選ぼう」
「ほう、何故だね?あれ程に拘っていたじゃないか、そのくだらない矜持とやらに」
「……月様がこの世に居ないなど、耐えられぬ。それならまだ私が貶されている方が遙かにマシだ。月様だけは、死なせる訳には行かないのだ。私は自分が猪武者であることは自覚している。大した学が無いどころか、字も真名もない。周囲のものがそれらのことで私を馬鹿にして見下している事は分かって居る。だがそんな私を馬鹿にせず、慈しみ、気に掛けて下さったのが月様だ。例えこの命が無くなろうとも、月様だけは絶対に死なせたくない。幸せになって欲しい。そう思うからだ」
……華雄は、直情的に過ぎる。が、その心映えは一角の人物となるだけのものはあるようだ。
「……それを選択できるなら、お前さんにはまだ見込みがある。あぁ、勿論、お前さんが天下無双の武人となる見込みがある訳じゃ無い。お前さんにはそれは無理だ。何せ俺にすら勝てないのだからな」
「……くっ」
「……だが、お前さんなら最高の武士に成ることが出来るだろう。月の為に、己の武人としての矜持どころかその命さえ捨てることが出来る、今のお前さんになら、な」
「……最高の、もののふ、だと?」
「そうだ。
どんなに馬鹿にされようとも、どんなに軽んじられようとも。その者が望むのは唯々その仕える主の望みを叶えることだけだ。そしてその身の無事のみを願い、只ひたすらに主を守る。己を捨て去り、主の為にその武を、その勇を、その智を、その忠を捧げるのさ。己を評価するに、他者の評価は只唯一、その主からのものが在れば十分だ。その他のものは必要ない。その者にとって、それは無用なのさ。
その者の真価を知るものは少ないだろう。ひょっとすると、その主しかそれを知ることはないのかも知れない。だが、それは武士の望むところだ。自分に遠慮して他の人間が主を助ける機会を狭めることなど、望んでいないからだ。主の為になることであれば、積極的に自分の地位をもっと有能なものに譲ってやるだろう。主が己を知っていてくれる。それだけで、武士には十分なのさ。
だが一朝事あった時、周囲のものは終に知ることになるだろう。如何にその者が勇敢であるかを。如何にその者が主に忠たるかを。如何にその者が、武人の鑑となるべき者であるのかを。
今のお前さんなら、この天下で最高の武士になれるはずだ。唯々、月の為に。その為だけにお前はこの世界で生きて行く。そのお前さんを、誰も汚すことは出来ないだろう。例え天下無双で無くとも、その武は誇り高く、また尊い。その心映えは美しく、見事の一言しか発し得ない。それを貶す者どもは、只のカスだ。気にとめる必要もない。」
「……最高の、武士……」
「そうだ。お前さんは、正しくそういう存在になれると思うぜ?
……訊こうか、華雄。お前さんは、天下無双の武人となりたいのか?それとも、天下最高の武士となりたいのか?」
「……私は、月様の為に、この天下で最高の武士となろう。」
「良い返事だ。それを聞いて安心した。
……愛紗、華雄を押さえる必要はない。武士に対して失礼だからな。」
「は、はい。」
もう、暴れようとしない。罵声もどこ吹く風だ。哀れむような顔すら浮かべて眺めている。
……この短期間で、教経様は華雄の内面を塗り替えてしまった。
唯々、董卓殿の為に。
そう心に固く誓って居るであろう華雄の顔は、誠に美しかった。
……誰も、これを汚せない。誰も、これを貶めることは叶わない。誰もが、この在りように心震わされるに違いない。
私も、肖りたいものだ。
唯々、教経様の為に。