平穏…


そんな時がずっと続くと思っていた。


二人で得た平穏もまた…


夢のものだった…。


平穏の終わり…


そして平穏の始まり…










Catharsis

第四十編 平穏の終わり、平穏の始まり
(4月9日 金曜日 朝)










「ち、遅刻するよぉ〜」
「ふ、ふざけるなー!新学年早々、遅刻なんて出来るかー!!」

久しぶりの学校。これから最高学年になろうとしてる俺たちなんだが…
いい加減、名雪よ。早起きしてくれ。

「あらあら、気をつけてね」
「うん、気をつけて行って来るよ〜。お母さんもね」
「ええ」
「では、行ってきます。秋子さん」
「はい」

挨拶だけはしっかりとして、俺たちは雪が少しだけ解け始めた道を走り出した。
スリップもせずコーナリングを駆け抜ける俺たちに拍手など無い。
ただ、学校を目掛けて走るのみ。
慣れが、そうさせるのか普段よりも遅く家に出たが、学校にはいつもに近い時間で着こうとしていた。

「ほら!相沢君、名雪!遅れるわ!」
「そうだぞ!急げ!水瀬、相沢!」

親友二人組みからの激励を受けて、昇降口へと急ぐ。靴を履き替え、さらにダッシュ。
新学年とあって、教室が違う事を思い出した。
あいつらは同じクラスだったんだな…。
余裕の表れか? 他人を意識できるほどの余裕はあった。
自分のクラスを確認するために一時停止。三つ目のクラスにて俺の名前を発見。
再び、体は加速を始める。
『あ』で始まる名前は良いな。見つけやすくて。
予鈴はすでに鳴っているらしく、あとは本鈴がなるのを待つだけ。
職員室のある階を駆け上がる。職員室の扉が開いたのは気のせいと思いたい。
教室のある廊下に到達。
あとは一直線。教室まで爆走だ!
ドアは開いている。あとは間に合うか否か。
本鈴まではあとどれくらいか分からない。だからこそのスリルを楽しむ。

「しゃあぁぁ!!」
「着いたよー」

“キーンコーンカーンコーン”

グッジョブ、俺。ぎりぎり間に合った。クラスのみんなも生暖かい視線で出迎えてくれた。

「いつも以上にギリギリね」
「結構、ハラハラしたぞ?」
「心臓に悪い事が好きなようですね」

みんなそれぞれ言いたい事を言ってやがる。ただ、言い返せるだけの体力はなく、後は
机に沈むだけ。思えば…俺の親しい奴は全員、同じクラスになったのか…。
しばしの安息後、教師が入ってきた。今日の予定を話すだけで教壇を降りた。
最後に「遅刻者無しとは奇跡だな」と言ったのは俺への当て付けか?

「まだ、時間があるわ。少し休みなさい」
「あ、ああ、すげーしんどい」
「だろうな。相沢も良くやるぜ」

バテバテの俺にねぎらいの声を掛ける香里と北川。

「なぁ、妹さん大丈夫だったのか?」
「ええ、今は元気よ。今日は学校に来ているわ」

翡憐から後で聞いたことだった。

『美坂香里さんの妹さんは重病だそうです』

だから、途中でこなくなったんだな。と思いながら、名雪へ視線をやる。
元気になったのは良いんだが、この早朝マラソンでもピンピンしているところが微妙に憎らしい。
手首の傷跡は残るらしいが、本人は気にしていない。
曰く『馬鹿なことした自分が悪いんだよー』だそうだ。そうかも知れないが…支えられなかった
自分が悔しい。
秋子さんの傷もほぼ完治しており、あと数回の検査で終わるそうだ。

「これから面白くも無い始業式があるのか……」
「そうね。まぁ、すぐ終わることを願って行きましょ?」
「祐一。もうひと踏ん張りです」
「ほら〜、行こうよ〜」
「がんばれ、相沢」

みんな、思い思いの励ましをしてくれるのはうれしい。
みんなが戻ってきたんだって実感できてうれしい。
でもな、休ませてくれ。マジ、疲れた。

「なんて、俺の気持ち分かってくれるわけないよな……」

現にみんな俺を放って行ってるし。





なんと面白くないことか。
始業式ほど無駄な儀式はないんじゃないか、と思えるくらい暇だった。
好い加減に疲れた体と好い加減に疲れた精神。
眠気を誘ってくるねぇ。

「ここですね、行きましょう」
「あ、あの、ここは上級生のクラスですよ」
「大丈夫です」

なにやら入り口で入るか否かを言い争っており後輩生の声。
ばてた俺はこのまま机に眠っているほうが…。

「あら、栞。こっちよ」
「あ、お姉ちゃん!」

トタトタと近づいてくる足音二つ。

「そっちの子は?」
「あ、今日、友達になった子です」
「はじめまして、天野美汐と申します」

天野美汐…そういや、あの丘で出会った子か…。

「紹介するわ、この子が私の妹の栞よ」
「よろしくお願いします」

ぺこりと頭を下げるかわいい女の子…。香里とは少しタイプが違うらしい。
フリフリのレースとか付いた服とかを着ても似合いそうな雰囲気だった。

“ズガッ”

「うごっ」

一体、俺が何したとよ?
しかも、机に頭を付けてるから、机と密着している方もダメージが…。

「香里!何する!」

ガバッ、とおきあげて抗議する俺に対して冷静な対処

「私の妹が挨拶しているのよ。もっとまじめに聞きなさい」

シスコン?

“バキッ”

「へぶっ!」

起き上がった体が机に沈む。
俺は机に頬ずりをする羽目になった。

「何……で…?」
「変な事を考えたでしょ?」

やはりだ。翡憐で手一杯だというのに…俺の周りにはエスパーに満ち溢れている!
このままでは俺のプライバシーが無くなってしまう。

“バシッ”

「なっ…翡憐まで何するんだ!」

前二回に比べれば優しいものだが、それでも痛い。

「非常に不愉快な感覚が襲いましたので」

気づいたか…。










「ただいま」
「あら、おかえりなさい」
「あー、祐一、お帰りー」
「あ、お帰り、祐一君」

…壮観だな。目の前には一人の女性と、一匹の狐と、一体の幽霊。

“ズガッ!”

「ごへっ」
「あらあら、名雪。どうしたの?」
「ううん、何か祐一が変な事を考えた気がしたから」

……名雪。お前までエスパーに進化したのか。ジャムの所為か?

「とにかく、ここは寒いでしょうから上がりましょう」

倒れている俺の横を上がっていく名雪。
そしてなぜか靴を脱がされ真琴たちに運ばれている俺…。
なんか俺って不憫?

「運んであげたんだから感謝しなさいよね」
「うぐぅ…祐一君重い」

居候2号、3号がそういう。
居候2号、もとい真琴はまた拾い上げてきた。商店街で再び俺を襲おうとしたところを
拿捕、連行してこの家に持ってきたのだ。記憶はあやふやながらも残っていたようでこの家ともすぐになじんだ。
ただ、俺たちのことより、翡憐の事を覚えているのはどうかと思ったが…。
居候3号、もといあゆはあの後、すぐに目を覚ました。医師もびっくり、筋力の低下が見られなかった。
そのため、すぐに退院したもの近くに引き取り手がいなかった事もあり、この水瀬家での引き取りとなった。
もちろん、二人の受け入れは「了承」の一言で終わったが…。
恐るべし秋子さん

「ところで祐一さん?」

再起動が終了した俺に秋子さんが話しかけてきた。

「御速水さんはどうしたのですか?」
「今日は用事があるらしく帰りました」
「あら、そうだったの」

少し残念そうな声。確かに俺も寂しい。
あの事件から一週間、俺は寝たきりだった。原因は不明。
翡憐にはそんな事なく、入院でいなかった秋子さんや名雪の代わりに俺の世話をしてくれた。
実のところ、俺以外にも名雪や秋子さん、果てはあゆの世話もしていたらしい。
秋子さんも保護者として俺を見れなかった事と、翡憐に世話を掛けた事もあって夕食はほとんど招いていた。
こうやって早く帰ってきたときは昼ごはんもたいてい食べて、帰っていたが…。

「何か、翡憐がいないと寂しいわね」

と真琴。やはり、一番記憶に残っていただけあって、翡憐に懐いている。
翡憐も満更ではなくその甘えを許容していた。

「うぐぅ、何かあったのかな?」

とあゆ。名雪並みの鈍さを誇ってるくせして、俺の心うちを代弁するとはたいした進歩じゃないか。

「祐一。後で御速水さんの様子を見てきたら?」

と名雪。どうしてこうも、ここに居る奴らは俺の心境を物の見事に代弁してくれているんだ?

「それは顔に出ているからですよ?」

と秋子さん。俺の顔って素直? そんな素直な顔に花丸君

「あはは〜、祐一さんは翡憐さんにぞっこんですね〜」
「翡憐も大変…」

………あー…約二名なんかイレギュラーなんですけど?
どうして、ここに佐祐理さんと舞がいるんだ?

「舞も佐祐理さんも…二人とも今日は大学じゃ……?」
「もう終わりましたよ〜。だからこうやってのんびりしているんですよ〜」

数週間前に退院した舞は無事、卒業もでき大学へ行く事ができた。
一時、かなり危険な状態にあったが、何とか持ち直してこうやっている。
実は改造されて、別のものになったのか?
それとも、治癒能力が人間のレベルを遥かに凌駕しているとか…?
いや、もはや治癒能力ではなく自己再生能力?

「祐一。迷惑?」

…そんな目で見られたらなんとも言えないじゃないですか…。

「祐一さん」
「はい、迷惑じゃないです」

全面的に俺が悪いみたいに聞こえるんだが……。
俺が悪いわけではないんだが…。
でも…こうやって、のんびり話ができるとは、少し前から考えれば絶対に有り得ない事だった。

「ところで、話は変わりますが、食事が終わり次第、出かけてきます」
「はい、気をつけてくださいね。それと…お泊りは結構ですが、相手を気遣ってあげてくださいね」
「……い、いえ、ただ呼んでくるだけです」

頬に手を当ててにこやかに笑う秋子さんは何処と無く怖かった。
台所に戻っていく際

「若いって良いわ」

という台詞が聞こえた気もしなくもなし…。





「上がるぞ?」
「上がる前に言ってください」
「それは無理だ」

翡憐の家にやってきた。用事は済んだらしく、家でのんびりとくつろいでいる時に邪魔をしたようだ。

「ところで何か御用ですか?」
「いや…今日は食わなかっただろ?それで何かあったのかと思って…」
「いつもお世話になっていますから、たまには自分で作らないと腕が鈍ってしまいます」

小さくため息を付いているあたり、俺の心配性を呆れているのだろうか?
ただ、鈍られると困る。俺としては翡憐の料理は秋子さんの次にうまいと思っているし、
まぁ、その…何だ。好きな人の手料理は食いたいんだよ。

「…そうか、なら良いんだ」
「祐一」
「ん?」
「『全てが終わったときに全てが分かります』そう言ったのを覚えていますか?」
「…何か覚えあるかも…」

そう、一度、中庭で言われた気が…

「全て分かりましたか?」
「…一応、大まかな流れは分かった。だが、まだ分からない事がある。お前の能力が結局、分からなかった。
 それにあの時、あゆとの会話も分からん」

そう、あの不思議な世界で最後に交わしたあゆと翡憐の会話。

「……まだ、分からないんですか?」
「なんだ、まるで馬鹿ですね、って言ってるみたいだな」
「そういうわけではありません。ただ、気づかれていないみたいなので…」
「気づいてないって」

翡憐が力を使うときの共通点?
何かあるか?

「『全て祐一しだいです』」
「えっ?」
「この台詞を忘れましたか?」
「いや…いつも事あるごとに言ってたな」
「そうです。私の力は全て祐一にあるのです。私の力は祐一の“想い”なのです」
「俺の…想い?」
「はい、祐一が願う小さな願いを糧に私は能力を行使していたのです。小さな願いでも私は増幅することが出来ますから」
「だから…俺次第…だったのか」
「祐一が切に願えばそれだけ私の力の行使もより強大になったのです」
「どんな願いでも叶うのか?」
「祐一が願う大抵の事は……。もちろん不可能もありますけど」
「ふーん、知らなかったな…」

ちょっと意外な真実。だから、いつも俺の傍にいて俺に事あるごとに声を掛けてたけど、
そうやって力を行使していたんだな。

「ところで、最後の会話の意味は?」
「…それは今日、食事にそちらに伺うので食後に…」
「ん…今は言えないのか?」
「はい、別に焦る事ではありませんので」
「そうか…まぁ、良いか。秋子さんには伝えとくから」
「はい」

別にもう、終わったんだから問題ないよな?
様子を伺うために来ただけの俺はそのまま、翡憐の家を後にした。
そのとき、翡憐が少し物悲しい顔をしていた事に気づいていれば……。
また少し変わったかもしれない。
いや、過程は変わっても結果は同じかもしれない…。










「お邪魔します」

リビングでくつろいでいた俺と名雪の耳にそんな声が届いた。
もっとも、半分寝かかっている名雪に聞こえているかどうか分からないが。
パタパタと秋子さんが玄関へ向かう。ついでに二階から降りてくる音が聞こえる。
真琴が降りてくる音だろう。

「のんびりと過ごしていますね」
「まぁな。お前も相変わらず大変そうだな」
「好かれる事は嫌ではありませんから」

降りてくる音が聞こえてきたと思えば、俺の横をすり抜け抱きついていた。
早業だ…。
翡憐は抱きついている真琴の頭を優しく撫でる。
気持ちよさそうに目を細めるしぐさは狐の習性が残っているからか?

「あ、御速水さん、来てたんだ」
「はい、お邪魔しています」

その巨大な物体に寄生された状態でリビングに突入。
真琴に抱きつかれ、行動が制限されているため、体全身は向き直れないが、
何とか名雪の声に反応した。やっとお目覚めのようだ。
しかし…真琴を見ていると俺も翡憐に抱きつきたいんだが…。
無性に俺のいたずら心が沸いてくる…。

「翡憐」
「はい?」

“ガシッ”

真琴とは逆の方向にしがみついてみる。
普通に考えればセクハラだろうが、俺の中ではそんな言葉の意味など持ち合わせていなかった。

「あうー、真琴のだよ」
「いや、俺のだ」
「……」

二人の低レベルなやり取りを繰り広げる間で、翡憐は何も言わず、ただ抱きつかれるままに身を任していた。

「あらあら、人気者ですね。御速水さん」
「少し重いです」

食事の用意があらかた済んだようで、俺たちの様子を身にきた秋子さんの一言だった。
名雪も俺たちのやり取りを呆れた視線で見ていた。

「食事の用意が出来ましたから、食べましょう」
「あ、うん!」
「おう」

本能丸出しの真琴と俺。その言葉ですぐに翡憐から離れると食卓へ向かった。
もしかして、俺たちって似たような思考回路?

「いただきます」

コートすら脱がせてもらっていなかった翡憐はソファーにコートを掛けると少し遅れて俺たちの後を追ってきた。
総勢六人が食卓を囲む。楽しい夕食が始まった。





「では、部屋に戻るので…」
「はい」
「真琴、名雪、悪いが部屋に入ってこないでくれな」
「うん、分かった」
「えー、どうしてよー。真琴もー」
「真琴、これからが祐一さんたちの時間なんですよ」

静かな優しい口調で真琴を諭す秋子さん。ただですね、秋子さん。
頬を薄紅色に染めて説得しないでください。こっちの頭の中まで薄紅色になってしまいます。

「うー、分かったわよ」

しぶしぶ納得した真琴は名雪とあゆ一緒にリビングでテレビを見に行った。
俺たちは三人を置いて、二階の部屋に向かった。

「なぁ…」
「あわてないでください」

コートを俺の椅子にかけ、ベットに腰を下ろした。
どこかゆったりとした動きが普段の翡憐とは違う印象を与えた。

「……」

その仕草が俺の本能にアラームをならす。ただ、もう終わったんだ。
全部、何もかも全部終わったんだから…。
そう言い聞かせている自分がおかしかった。

「…祐一はこの世界を自分のいるべき世界だと思っていますか?」

唐突に喋り始めた。
普通ならば明らかにおかしく、浮世離れしている質問だった。
ただ、翡憐が話すとそれが深刻な問題に聞こえるもんだから不思議だ。

「……ああ、思ってる」
「この世界もまた、あの白い世界のようなもの、と考えた事はありませんか?」
「…誰かに作られた世界とは思わないのか?ってことか?」
「はい」

そんなこと、考えた事も無い。
自分のいる世界に疑問など普通の人が持つはずが無い。そんな事を考えていては全部が
嘘っぱちに見えてくる。

「…そんなもん…考えていたら不安にならないか?」
「確かにそうです。ですが、それでもなお、疑う事はした事はありませんか?」
「無いな…。世界が違うって事は前提を疑う事だろ?」
「はい」
「翡憐…お前の質問を聞いているとどうも嫌な予感がするんだが?」
「どんな予感ですか?」
「この世界も創られた世界じゃないのかって言う予感」
「そのとおりです」
「…ごく自然に言っているが…恐ろしいぞ?」
「真実は小説よりも奇なり。真実は人に優しいものではありません」

衝撃の真実……だった。この世界も俺のいるべき、いや、俺が俺として安定した世界じゃないのか?

「どういうことだ?ここもまた、あゆの創った世界とでも言うのか?まだ俺は迷っているのか?」
「…いいえ。あゆさんはあゆさんです。この世界にはもう関与していません」
「…突っ込むところが満載なんだが…」
「お好きなところから」
「整理さしてくれ。まず、あゆが関与していたこと。誰がこの世界を創ったのかということ。俺はどこにいるべきなのか?」
「……第一の質問。あゆさんの関与というのは、イドであったあゆさんがこの世界の構築に関わっていました。
 正確に言えば紛れ込んだ、というべきでしょう。第二の質問。誰が創ったか?
 それは私です。この世界の創造者は私です。そして第三の質問。祐一がいるべき世界はこの世界の先の世界。
 そこが祐一のいるべき世界にして、何も疑うこと無い世界です。少なくとも故意に造られた世界ではありません」
「……」

一気に話される事柄に俺の頭は付いていかなかった。
あー、駄目だ…。追いついていかない…。

「頼む、ゆっくりと話してくれ」
「はい、では第一の質問について話します。これには第二の質問と被りますので一緒に話します」
「ああ」
「私がこの世界を構築しました。それはこの世界とは違う世界、本来いるべき世界の祐一が再びやり直すことを願ったからです」
「どうしてなんだ?どうして俺がそれを願ったんだ?」
「今回のような事件が起き、みんなが助かる事も無く、祐一が一人になったからです」
「俺が…一人…」

という事は、俺は前にもこうやって助けようとして俺は助けられなかった。
だから、翡憐に頼り、もう一度、世界をやり直した?
冗談…って言えないんだよな…。

「なら、どうしてそのときの記憶が無いんだ?」
「未来を知っていたら、世界はイレギュラーとして排斥するでしょう。
 未来を知っている人間というのは普通、有り得ないことですから」
「翡憐は何でなんとも無いんだ?」
「私は創造主ですよ?なぜ、自分が排斥されないといけないのですか?」
「…」

ごもっとも。なら、どうして俺の記憶を引き継げるようにしなかったんだ?

「私が出来た事は世界を模造する事。ありとあらゆる理論、摂理、法則を組み立てられるほど、私には
 力はなく、既存のものを真似るだけの事しか出来なかったのです。だから、祐一の記憶を
 こちらに持ってくる事が出来なかったのです」

顔に出ていたのか?俺の考えている事をものの見事に返事してくれていた。

「あゆの関与は?」
「私が世界を構築する事に力を添える事によって、私の世界での権限を強めたのです」
「だから、あれだけの無茶が出来たのか…」
「あゆさんが関与した理由として、本来の世界でも関与しており、全員の事故に関係していました。
 しかし、祐一を手に入れることに失敗したため、今回の世界構築に関与したと思います」
「なぁ、これがお前の世界ならどうして事故を消せなかったんだ?」
「あゆさんが紛れ込んでいたからでしょう。彼女が願ったから起きてしまったと思います」

俺が本来いた世界でもあゆは関与していたのは驚きだが…。しかし、翡憐はよくそんな芸当が出来たな。

「この世界を創ったって事はそれだけお前の力はすごいんだよな?」
「はい?」
「いや、あゆ以上の世界を創ったからな」

これがタブーだと俺は知らずに発していた。俺はこの事を話題に触れなければ…。
そんな風に考えるも、ここに翡憐が来た事はいずれ話さなければいけないことだったのかもしれない。
ただ、聞かなければ少しだけ知る事が先延ばしになるだけだったかもしれない。

「……」
「翡憐?」
「この世界の構築には相応の代償を支払っていますよ」

妙に落ち込んだ深刻な声。一抹の不安を感じる。

「…翡憐の力、だけじゃないのか?」
「それだけでは足りませんでした。私の全てとあゆさんの力が混じってこの世界はなっているのです」
「…いま、あゆの力は無いよな?」

まさか、急に不安定なってこれ以上持ちません。だから、世界は崩壊します。
なんて洒落にならない事いうなよ…。

「だから、私はこの話をしているのです」
「世界は終わりを迎えるってことを教えてくれるのか?」
「概ね、そういうことです」
「冗談が…」
「別に崩壊をするわけではありません。ただ、私の世界が終わり、本来の世界へと移行する、
 という事を知らせておこうと思っただけです」
「何か不都合でもあるのか?」
「いえ、特には」
「ならなんで?」
「……」
「翡憐…」
「気付きませんか?」
「……何に…だ?」

何か嫌な予感がする。
何だ、何に気付くんだ?
いや、気付いているのに、気付いていないふりをしようとしている自分がいる。
そう、今、明らかに彼女は発言していた。

「気付いたようですね。祐一」

俺の予想が顔に出ていたらしい。
いや、やめてくれ。それだけは違うと言ってくれ。

「気付いているのでしょう?」
「駄目だ」
「今、私は言いました」
「やめてくれ……言わないでくれ」

そう、気付いていたんだ。
あの時、俺の耳に引っかかったんだ。
『私の全て……』と言っていたのが……。






















「私の全てを賭けてこの世界を造っているんです。この世界の最後が私の最後です」






















と……。

「………」

ああ……俺が一番、怖がっていたことだ…。
気付いたんだ。言った瞬間に。
でも、認めたくなかった。
翡憐が消えるなんて認めたくなかった。

「……翡憐」
「……」
「…何で言ってくれなかったんだ?」
「……」

何か言ってくれ。そうやって何もせず消えることを認めないでくれ。

「…頼む、翡憐。違うって言ってくれ。翡憐……」
「…ごめんなさい」
「……」
「……」
「………本当なんだな……」
「はい」

夢なら覚めてくれ。
いや、覚めないでくれ。このまま夢の中にいさせてくれ。
………駄目だ。ここで諦めてたら駄目なんだ。
翡憐が消えることを肯定することになってしまう。

「…なんで今まで黙っていた?もっと早く分かっていたことだろ?」
「この世界が始まってから決まっていたことです」

初めっから死ぬつもりでこの世界を構築したってことかよ?
自分の命を捨てて、この世界を創ったってのかよ?

「…なんで黙ってた?」
「……」
「なんで黙ってたんだよ!」
「……」
「何とか言えよ!翡憐!!」
「…負担を掛けたくなかった…それが理由です」
「…負担だと?」
「そうです。もし、もう少し早く私が話していたら、祐一は間違いなくあゆさんの事と
 平行して私の助かる方法を探したでしょう。そんな事をしてしまっては、祐一は誰も
 助ける事が出来ずまた一人になってしまう。それを防ぐためです」
「助かる確率はあったのか?」
「…あゆさんとの争いが無ければ、何とかなったかもしれません。それでも非常に低い確率ですが…」
「…俺にお前を見捨てろ、と?」
「助かる見込みは無いのです。きつい物言いですが、諦めてください」

……本来の俺が望んだ事とはいえ、翡憐を見捨て自分だけ助かる事なんて出来るか…!
いつも助けられっぱなしで、何も恩返しが出来てないんだぞ?

「今から助かる確率は!」
「ゼロです」
「どんな方法も無いのかよ!」
「あの時、私はあゆさんに力の源を渡してしまった以上、どうしようもありません。私はもう能力を行使できません」
「……お前、あの時、あゆにそれを渡したのは自分が助からないためか?だから、あゆは
 筋力の低下も無くすぐに退院した。お前の力を受け取って!!」
「……祐一はゼロではない限り諦めないと思っています」
「ゼロでも諦めないんだ!!」
「…今日の十二時。世界は移行します」
「…それがタイムリミットだというのか?」
「はい」
「くそっ!」

助かるところを翡憐は全部ふさいでやがった。
あゆに力を渡して、可能性をゼロにして、今の今まで黙って時間を無くした。
完全に手段をふさぎやがった。
だが、あゆにでも聞けば分かるかもしれない。
それにあゆならもしかしたら、翡憐と同じような力を使えるかもしれない。
翡憐の力の源をもらっているんだからな。

「祐一」

袖を掴まれる。あゆに聞き出そうとしている俺を翡憐は引き止めた。

「何で止める?」
「十二時になれば、私がいたことも忘れます」
「何?」
「本来の世界ではすでに死んだこと、いえ存在しなかったことになります。世界を構築した瞬間から私は消えた事になっているのですから。
 そのため、今こうしている私は本来の世界ではイレギュラーになります。だから、消えるのです。
 だから…余計な事で人との関係に波を立てないでください」
「……」

なんてこった…。
翡憐との事は何にも残らないのか?全て忘れて……。
存在した事すら忘れ去られる。
俺のために一人で戦い続けて、そして俺は何も出来ず、忘却する事が報いる事になるのか?
存在自体否定されるのか?

「…翡憐」
「はい」
「自分のことを“余計なこと”…何ていうな。俺にとってはかけがえの無い人間なんだ」
「…はい」
「…どうすれば良い? 俺はお前に何も出来てない」
「十分してくれましたよ。祐一はいつでも私を気遣ってくれました。だから気にしなくていいです。」
「……ごめんな」
「構いません。祐一には笑っていて欲しいです。だから、私の事は忘れて今、あなたの
 周りで微笑んでいてくれる友人を大切にしてください」
「……」

自分の事より、他人のこと…。俺よりお人好しだって事に気づいているか?

「……」
「……なぁ」
「はい」
「何かあるか?願い事みたいなもん」
「願い事ですか?」
「俺に出来る事で、ついでに自分の事に限定だ。他人に如何こうしろは無しだ」
「……難しいです」
「なら、わがままを言ってみろ。言った事無いだろ?」
「確かにありません。忙しかったからかもしれません」

小さな笑顔…。
今日でもう見る事の出来なくなるそれを焼き付けようとして記憶が出来ない事を
思い出し愕然とする。こんな些細な事ですら覚えていられないなんて…。

「決まりました」
「ああ、いい忘れていたが、わがままの言える回数は無制限開放中だ」
「それは得です」
「で?何だ?わがままってのは?」
「温かい飲み物をください。いつも私が淹れていますから、たまには祐一が淹れたものが飲んでみたいです」
「分かった」

俺は台所へ向かう。扉を閉めるとき、一瞬躊躇いがあった。閉めて良いのか?
もし、閉めたら、その向こうには誰もいなくなっているんじゃないか?
俺の心境に気づいたのか、翡憐は「大丈夫です」とだけ言った。
扉を閉める。
妙に家全体が静かだ…。
もう、寝たのか?ダイニングのほうに出るとテレビを一人で見ている秋子さんの姿があった。

「あら、祐一さん。どうかしましたか?」
「あ、いえ、良いんです。翡憐が暖かいものを飲みたいって言ってきたので…」
「作りましょう」
「大丈夫です。俺が作りますから」

食器棚からカップを二つ取り出す。二食を食べに来る翡憐にはすでに自分のカップがここにあった。
……。
作るったって…何を作りゃ良いんだ?まぁ…無難にコーヒーでも作っとくか。

「ほれ」

と言って扉を開けると翡憐の姿が無かった。
かくれんぼをするにも隠れる場所など無い。何処だ? まさか…嫌な予感がする。
と、かすかに外に人の気配を感じた。

「翡憐?」

ベランダに出ると、空を眺めている姿があった。

「焦らさないでくれ……」
「すいません。少し外に出てみたくなったので」

冷たい冷気が肌を突く。春先とは言え、雪国は結構冷えるんだが…。
持ってきたカップからは白い湯気が漂っていた。

「ほれ」
「ありがとうございます」
「いや…いいさ」

カップで手を温めるように持ち、ゆっくりと口をつける。白い吐息が寂しげに漂う。

「おいしいです」
「普通のコーヒーだぞ?」
「それでも、です」
「…そうか」

何を話して良いか分からない。諦め…たくは無い。だが、諦めなきゃならないんだ。
翡憐は受け入れているのにな…。
隣を見ると少し体が震えていた。

「寒いんだろ?入るぞ」
「…そうですね」

さすがにオーバー無しじゃ、俺も凍死する。
暖房の効いた部屋はやっぱり暖かい。体がほぐれていく。が…翡憐の震えは止まっていなかった。

「寒いか?寒いなら温度をあげるが…」
「……いえ、大丈夫です」
「大丈夫って…お前、震えてるぞ?」
「……」
「翡憐?」
「…怖いものは幽霊だけと思っていのですが……」
「……」

少し自嘲気味に笑うそれは強がり以外の何物にも俺には写らなかった。
…気づけよ、俺。
どんだけ強がったって消えるって事は怖いんだろうな。
体験した事はないから分からない。だが…自分がそんな場面に置かれたら…
カップを傍に置く。
これで最後なら、何だってしてやるさ。

「出血大サービスだ」
「祐一……」

振り返って驚いた顔がすぐ目の前にある。後ろから抱きしめたなら飲み物も飲めるしな。

「赤字覚悟だ」
「…どうするのですか?赤字だと経営が成り立ちませんよ」
「安心しろ、また後で回収してやる」
「出来るのですか?」
「俺の経営手腕は神業だ」
「今度、見習いたいです」
「おお、いつでも来い。教えてやるよ」
「祐一…」
「何だ?」
「……ごめんなさい」
「ありがとう、なら聞いてやる」
「……ありがとう」
「おう」










どれだけ、そうしていただろう。
耳に入ってくるのは一定のリズムで時を刻む音と、部屋を暖めるために必死になって活動している
暖房器具の騒音。
そして自分たちの息遣いだけだった。
話す事も無くなったし…何より、話す事が出来ない。
何か言葉にするだけで、全てが壊れるんじゃないかと思うくらい部屋の雰囲気は脆かった。
当然、眠気が襲ってくる事も無い…。

「何時だ?」
「そろそろ十二時…です」
「そうか…シンデレラだな」
「私は灰を被っていませんが?」
「被せてやろう」
「ちなみに姫でもありません」
「大丈夫だ。最初はいじめられっ子の平凡な人だ」
「平凡ですか?」
「平凡と言い張れば平凡だ」
「…強引ですね」
「今更の事か?」
「言われてみれば…今更ですね」

少し強く抱きしめる。まだ、俺の腕の中に存在感はある。
まだ…それは確かにある…。消えてない。

「祐一」
「何だ?」
「……ごめんなさい」
「まだ、何か隠していたのか?」

翡憐が腕の中でそう呟く。急に視界が揺らぎ、体から力が抜けてきた。
瞼を開けようと努力するが、少しずつ落ちてくる。
……な……なん…だ…。
急激な睡魔…。普段の俺でもこんな事は起きない…。こいつは翡憐…の仕業か。

「何を…した…?」
「良い子は十二時前に寝るものです」
「ふ…ざけん…な…」
「祐一。あなたは一人じゃありません」
「おまえ…」
「あなたが望んだ世界です。大切にしてください」
「……俺…は……」
「朝が来れば、私の事も、私に関連する事全てを忘れているでしょう…」
「ひれ……ん」
「どうか、皆さんを大切にしてください」
「……ひ…れん」
「今日が夢の終わり。そして現実の始まり。どうか、良い現実を…」
「………」






















「おやすみなさい。そして…さようなら。私の大切な人…」























――――――――  祐一……  ――――――――





――――――――  良い夢を  ――――――――





――――――――  見させて  ――――――――





――――――――  くれて  ――――――――





―――――――― ありがとう ――――――――





――――――――  どうか  ――――――――




――――――――  楽しい  ――――――――





――――――――  現実を  ――――――――





――――――――  ………  ――――――――





――――――――  ………  ――――――――





――――――――  ………  ――――――――





――――――――  ………  ――――――――





――――――――  消エタクナイ……  ―――――――