かくして物語は終わりを告げる。
創造主と破壊者の戦い
初めがあった物語
こうして終わりを告げる物語
これにて騒乱は終結を迎える。
どうか、彼らに安息を
Catharsis
第三十九話 彼らに安息を
(?月?日 ?)
「思い出した?」
「……ああ…」
「あれが祐一君のMissing Linkだよ」
「……翡憐は…自分の記憶を代償に俺を助けたのか…」
「詳しいことは翡憐さんに聞いて…。さぁ、夢は終わり。目を覚まして…」
あゆの静かな声に誘われて、俺の意識はゆっくりと浮上していった。
「んっ……」
強引に記憶を掘り返された俺は激しい頭痛に見舞われた。
あゆのやろう…無茶をする……。
痛む頭を気遣いつつ、ゆっくりと目を開けた。
「……ぁ?」
俺の視界に入ってきたもの。
それは前後がさかさまになった幼い翡憐の顔。
いったい、どうなってるんだ?
「目が覚めましたか?」
「翡…憐……?」
「無理やり記憶を掘り返したので、少し休んでください」
「…いや……大丈夫だ」
ぜんぜん大丈夫じゃない。
むしろ、翡憐の言葉に従いたいくらいに頭痛が激しい。
だが、いつまでものんびりとしていては翡憐に負担を掛けすぎる。
「…祐一。忘れているのですか? 幼い私の力を…」
「……あ」
「気付いています。無茶はしないでください。私はもう少しの間は持ちこたえられるはずですから」
「…すまん」 【結局、心配を掛けてるな】
「いえ」
言われて思い出す。
人の心を読む力。しかし、この世界でも忠実に再現されているもんだな。
「ここはある種の過去ですから」
「……そうか」 【まだ、頭痛いな…】
「祐一」
「ん?」 【幼い翡憐もかわいいもんだな】
「なぜ、私の過去に来たのですか?」
「……あゆに連れられて…すっかり忘れてたからな」 【嘘言ってもばれるし、ここは正直に】
「そのまま、忘れていれば良かったでしょうに…」
「それはないな」 【一番、好きな相手のことを忘れてるってのもどうよ?】
「別に祐一の責任ではありません。忘れていたのは記憶を封じる代わりの代償。それだけなのですから」
「……それでもだ。そんな選択をさせてしまったのは俺の所為だろ? ちゃんと話を聞いてやればもっとスマートに済んだかもしれないんだ。
俺の責任だよ」 【あのとき、俺がしっかりと話を聞いとけば良かったんだ】
「……」
翡憐は俺を見つめ続ける。
俺の考えは相手に筒抜けだが、別に不快感がないのはやっぱ、信頼してるからだろうな。
あゆの姿が見えないが、気でも使ってるのか?
それならそれで、甘えさせてもらうが…あゆの癖にちゃんと分かってるじゃないか。
「翡憐」 【大丈夫か?】
「そうですね…。そろそろまずいかもしれませんね」
「ああ、分かった」 【と、行く前に済ませとかないとな】
「? 何を済ませるのですか?」
「へっ? あ、ああ、しっかりと謝っとかないとなって」 【びっくりした。ついに電波でも受信したのかと思ったぞ】
「別に良いです。祐一に責任はありませんから。」
「いや、けじめだ」 【これで全員。本当に全員なんだ】
「……祐一らしいです」
「ん? 何か言ったか?」 【何か聞こえた気がしたんだが…】
「いえ……多分、祐一はここでいらない、といっても済ませるまで立ち去らないんでしょうから」
「まぁな」 【もちろん、翡憐が死なない程度までにしとくけど】
俺は立ち上がると、大きく深呼吸した。
どうやら頭痛はどっかに行ったらしい。
正座の格好で俺を見上げる翡憐に、俺は勢い良く頭を下げた。
「すまなかった」 【一番、俺は翡憐を苦しめてたのかもしれない】
「いつまでも祐一はまっすぐですね」
「当たり前よ。まっすぐな事しか好きになれないのさ」 【まぁ、これが俺さ】
「……祐一。一つ、お願いがあります」
「おう、良いぜ。何だ?」 【珍しいな翡憐からの願いって】
「その……ギュッと抱きしめてもらえませんか?」
「……まさか、そんなかわいい願い事とは…」 【この微妙なテレ具合もなかなか……】
「祐一、聞こえています」
「…うっ……ま、まぁ、それはおいといて、行くぞ?」 【忘れてた……】
俺はごまかすように大きく腕を広げた。
翡憐が立ち上がると、まだまだ幼い体で手を広げたまま俺に近寄ってきた。
別に悪いことをしてることはないはずなんだが……
翡憐はこの世界ではこんなに小さいが実際はもう高校生だし……。
何も知らないわけじゃないし……もっと進んだこともしたはずなんだが…。
【なのに何なんだ? この背徳感は?】
「祐一の心に疚しい心があるからではないですか?」
「……お前がちっちゃいからだ」 【小さすぎて何か悪いことをしてる気がする】
「祐一……」
「あー、もう、ほら、来い」 【考えれば考えるほど変な方向に行きそうだ】
「……はい」
ちょっとした距離を翡憐はトコトコ、と近づいてくると俺に体を預けた。
しっかりとそれを俺は抱きとめる。
思った以上に体温が高いな…。それに小さい。
これが翡憐なのか? こんなにもろかったのか?
「祐一……暖かいです」
「ああ…」 【ごめん……翡憐】
「自分を責めないでください。祐一は何も悪くありません。だから……」
「…お前はそう言うが…俺は自分を許せないんだ…」 【どうしても…】
「それなら、祐一。今しばらくこうしてください。それが私に対する償いです」
「……」 【そんなんでいいのか?】
「私が言っているのです。それで良いんです」
そういって翡憐は俺の背中に回した小さな腕に力を込めた。
多分、それが翡憐の言うとおり償いになるのかもしれない。
常に一人だったこいつにしてやれることは傍にいてやることかもしれない。
だったら……
俺は抱きしめる力を強くした。
確かに翡憐はここにいる。その存在を確かめるように俺は抱きしめた。
「……」
「……」 【……】
どれだけそうしていただろうか?
翡憐が軽く俺を押しやる感覚があった。素直に腕を解く。
俺の腕の中で見上げる形で、俺を見つめる瞳と出逢った。
透き通った瞳。
この瞳なら考えていることなど簡単に見透かせれるだろうな。
「祐一。そろそろ行って下さい。私が祐一を待っていると思いますから」
「おう。分かった。おっきなお前によろしく言っといてやる」 【どんな顔するだろうな?】
「分かりました」
「そんじゃ…行くわ」
気付けばあゆが来ていた。
まったくここであった事に気付いていないのか、気付いていないようにしてるのか。
「そろそろ戻らないとね」
「ああ、というか、今までどこにいたんだ?」
「大丈夫だよ。祐一君たちがここでしていた事は何も見てないから」
「見てたら覗き魔の称号をくれてやるさ」
「見てないってば!!」
「祐一。そろそろ」
「おっと、そうだな。そんじゃ…翡憐。また後でな」
「そうですね」
俺はあゆに連れられて、翡憐のところに行こうとしてた。
これで過去の清算は全て済ませた。
後は前を見るだけだ。
今まで過去ばかり見てたんだ。これから未来を見つめないとな。
俺は最後に翡憐のほうを振り返った。
もう、ほとんど姿が見えなかったが、声だけ聞こえた気がした。
『祐一……ありがとう』
「そろそろかな?諦めなよ」
「どうも私は好きになった人の色に染められるみたいです」
そういうと、翡憐は“想い”を放った。最初の頃より明らかに弱ったその力にあゆも適当に受け流す。
すでにかなりの時間が経っている。
祐一のことも気にしていたが、実際のところ祐一を助けるチャンスを待っていたのではない。
祐一が助かるチャンスを待っていたのだ。
そう、翡憐側に時間制限は最初から無かったのだ。むしろ、あゆの方に時間制限があったのだ。
それをいかにして気付かせないか、だった。
気付かせずに、祐一が帰ってこれば彼女の勝利が決まるのである。
「じゃ、邪魔だから」
そういうと今まで以上に大きな“欲望”が溢れてきた。
どう考えても対抗できるものではなかった。
どんどん膨れ上がっていく死の象徴。
今、翡憐に残っている力では防ぎきれるものでは到底無かった。
直撃を食らえば、間違いなく消え去る。
避けるにも、体はすでに殆どの機能を失っていた。
四肢に力は殆ど入らない。もはや、固定目標でしかない。
それほどの絶対的な絶望であるにもかかわらず、不思議と死を恐れることは無かった。
どこかで彼が帰ってくるのを信じているのだろう。
「本当にこれで終わりでしょうか?」
「ん? どういうこと?」
あゆは巨大に膨らんだ“欲望”を上に掲げたまま問いかけた。
翡憐は不適な笑みを浮かべながら、あゆを見つめていた。
「おかしいと思いませんか? 私が祐一を助けようとしていないことに」
「……」
「私が祐一を大切に思っていることをあなたはよく分かっているはずです」
「…だから?」
「ならば、この力は全て防御に回し、祐一を助ける事という行動をとるはず、と思いませんか?」
「でも、この状況を予想していなかったんでしょ?」
「なぜ、そう思うのですか? 予想していなかったと思うのですか?」
「……」
「この状況を私が予想していなかった、というのが正しいことを証明できますか?」
「虚勢は良いよ」
翡憐のそんな態度に苛立ちを覚えていた。どれだけ絶望的な状況に立たされても救いを請わない翡憐の様子。
反抗的なこの態度にあゆは苛立っていた。
「さて、本当に虚勢と思いますか?」
「……」
「あなたは二度、祐一をその手中に入れている。ならば、そのときに返さなければすぐに終わった」
「……」
「それなのに、あなたは二度とも殆ど抵抗せず返した。一度目は自身で。二度目は私の少しの抵抗で返した」
「……」
「ならば、そこに意味がなければおかしい。何故、返すのか?」
「……」
「それは私から絶対的な勝利を得た上で祐一を手に入れたかった。私を完膚なきまでに倒し、その戦利品として祐一を得る」
「……うるさい」
「私を亡き者にし、その後から祐一を手に入れる。これでは世界が崩壊してしまう。
私が機能を停止した時点で世界はすぐに崩壊をはじめる。となると、祐一を手に入れるにはリスクが大きくなってしまう」
「……うるさい」
「では、先に祐一を手に入れる。これでは私がすぐに行動を起こして下手をすれば、何度も私と戦うことになる。
これでも良かった。しかし、あなた自身はそれほど長い間、自立行動は難しい。あまり自立行動をし続けると自分自身が
消えてしまうリスクが発生する。それに度重なる戦闘。自分が負ける確率が上がってしまう」
「…うるさい」
「ならば、自分の本拠地で一回の戦闘で本気を出して私を倒し、祐一を手に入れれば問題なくなる。
本拠地ならば自分の力は十二分に出せる。さらに私を先に殺しても世界は崩壊しない。
ここは私が作った世界ではなく、あなたが私と戦うために造ったフィールド。あの病院すらあなたの世界。
すなわち、世界は崩壊しても病院は壊れない。あなたは安全な世界で祐一を手に入れることが出来る」
「…うるさい」
「祐一を人質に取り、私が苦戦する。そして結局、間に合わず、私はあなたに殺される。
それがあなたのシナリオ。ならば、今の状況を予想できないはずが無い」
「うるさいって言ってるでしょ!!」
ついにあゆの怒りが爆発した。
おおむね、翡憐が言ったとおりであった。
だからこそ、自分の計画に絶対的な自信を持っていたあゆは看破された事が腹立たしかった。
自分の手の上で踊っていたと思っていたのが、最後の最後で自分が踊らされていたと分かった。
それを認めたくないのだ。
認められるはずが無い。ならば、彼女を消せば問題なくなる。
「残念でしたね。私を殺すのはもう少し先のようです」
「えっ?」
翡憐が視線であゆに知らせる。
あゆも視線を辿る。そこにいたのは…祐一ともう一人のあゆだった。
あのお喋りさえ、この瞬間を待つための時間稼ぎであった。喋り始めた時点で殺せばよかった。
しかし、それを出来なかった。それこそがあゆのたった一つの間違いであり、最大の誤算であった。
今までの全て出来事はあゆの計算済みだったのだ。全て最悪の状況を考えて、一つが破られてももう一つ、と考えていた。
そして、全てが予想の範疇に収まっていた。
そこで一つの事実に気付くべきだったのだ。
全ての出来事が、あゆが想像していた最悪の状況の範疇に収まっていた事を……。
最後の最後で最悪の予想を超えてしまった。
「何で? 何でボクがここに居るの?」
「祐一君をいじめてるからだよ」
「悪いが、お前には体も渡せないみたいだ」
「祐一、あゆさん」
「ごめんね。もう少し早く来たかったんだけど祐一君が」
「何! 俺の所為か! 俺の所為なのか!?」
「うぐぅ」
「…どうして邪魔をする?ボクが願った事なのに!」
「祐一君を傷つけるからだよ。翡憐さんを傷つける事は祐一君を傷つける事だからボクはボクを止めに来たんだよ」
「これで何とかなりそうですね」
翡憐自身の体が崩壊した部分は祐一の目覚めと共に回復していた。
それが何を物語るかはもう少し先…。
「ねぇ、還ろうよ。ボク達はボク達のいるべき場所に…」
「イド。戻りなさい。本来の場所に」
「嫌だ!ボクはボクの願いを叶えるまでは還らない!」
再び、イドが“欲望”を放つ。
それは翡憐に向けて放った物だった。
自らの宿敵に対して、自分の恨みを放った。
しかし、翡憐は右の手のひらを正面に突き出すと、その黒い“欲望”は弾かれあらぬ方向へ飛び去った。
「!!」
「祐一がいる今の私ならば、あなたとは引けをとらずに戦えますよ」
力を取り戻した翡憐と、もう一人のあゆ。
二対一で戦ってイドが勝てる見込みなど皆無だった。
「さぁ、どうしますか?」
「ボクも翡憐さんの味方だよ!」
「どうして!? どうして、ボクはボクの望みをかなえるためにいるのに!! どうして邪魔をするの!?」
イドは届かないと分かってもなお、“欲望”を放った。
あゆと翡憐、そして祐一に目掛けて飛んでいく。
あゆはその“欲望”が直撃するが、まったく変化がなかった。
翡憐は驚異的なスピードであゆの横を駆け抜けると、祐一に届こうとしていた“欲望”を弾け飛ばした。
「祐一には手を出させませんよ?」
「翡憐……」
祐一をかばうように立ちはだかる翡憐。
自分と対峙するあゆ。
そしてまだ“欲望”を放とうとするあゆ。
「無駄だと知りながら抵抗しますか?」
「もうやめてよ。そんなことしてもボクは喜ばないよ」
「うるさい!! ボクは祐一君を手に入れる!! どんな手を使ってでも!!」
今まで球状に放たれていた“欲望”が次は鋭い円錐状の形に変化すると扇状に放った。
やはりあゆにはまったく効果が無い。
今までと同じように翡憐はそれを防ぐ。
ただ、少しだけ“想い”の楯を分厚くしていた。
「駄目だよ。そんな強引な手を使って祐一君を手に入れてもボクは喜ばないよ?」
「ううん、手に入れたら絶対に喜んでくれる! だから、どうやってでも手に入れるんだよ!!」
一途過ぎる思い。
それは時に神聖なものとして…
それは時に狂気として…
それは時に哀れみとして扱われる。
今のイドの一途な思いは哀れなものだった。
融通の利かない一途過ぎる、ある種の絶対的な答えに執着している姿は哀れといえる。
ボクを喜ばせるためにイドは必死になっていた。
「駄目だよ。結果も大事だけど過程も大事だよ。過程が変われば結果も変わってしまう」
「違う!! 結果が全てなんだよ! 途中に何があろうと結果が同じなら結果が全てなんだよ!!」
「違います。たとえ、結果が同じものになったとしても、やはり過程が大切なのです。過程がなければ結果は現れないのですから」
「違う! 結果が全てなんだよ!!」
意地でも祐一を奪おうとするイドに対して翡憐は祐一を守るために動き、あゆは説得を試みていた。
ただ、人の本能であるイドを説得できるかどうかは疑問であるが…。
「お願い。帰ろう。私たちのいるべき場所に。祐一君は翡憐さんを選んだんだよ。だから、諦めて帰ろう」
「いや!! 認めない! 祐一がその女を選んだなんて!!」
「認めないと…」
「ボクはそれを認められるの! 祐一君がその女を選んだことに!!」
「ボクは認められる。だから、戻ろう」
「嫌だ! 絶対に認めないよ! 絶対に……!!」
完全拒絶だった。
意地でも祐一を奪おうとするイドを説得することは不可能なのだ。
やはり、それだけ祐一を求めていることになる。ならば…あゆは強引な手段に出るしかなかった。
「翡憐さん」
「はい。手伝います」
翡憐は防御から攻勢に出た。
あゆがしたいこと。それは強引にイドをあゆの中に戻すことだった。
元は一つの体にあったもの。
ならば戻るはず。
もちろん、翡憐が戻せるわけではない。やはり片割れであるあゆで無ければならない。
一部が同化を始めているのならば、よりいっそう楽に出来るだろう。
翡憐はイドを弱めるために“想い”を放つ。
それに対抗するためにイドは“欲望”を放って対抗する。しかし、かつての翡憐が放っていたような弱弱しいものではなかった。
祐一が傍にいるのだから、もっと強い“想い”を放つことが出来る。
“欲望”を消し飛ばし、“想い”がイドの体に到達した。
“想い”というものは本能から現れたものを自我によって変換されたもの。
すなわち、自我の産物だった。
自我はイドを押さえつける。
翡憐の攻撃はイドを弱めるのに効果的であった。
翡憐は放てる限りを絶え間なく、放ち続ける。あゆも隙をうかがって少しずつだったがイドと距離を縮めていく。
「戻りなさい。イド」
「いや……だよ」
「戻って、イド」
「嫌だ……よ」
最後の最後まで抵抗を見せたイドだったが、あゆがついにイドの体に触れた。
すると今まで形を保っていたイドにノイズが入ったかのようにぶれると、急に体が薄くなっていくのが分かった。
「イド。戻ろうよ」
「どうして……どうして、ボクは…ボクの…邪魔を…するの?」
「どうして? それは祐一君が傷つくからだよ。傷つく姿なんて見たくないから」
「それは…ボクが…望んで…いたこと?」
「そうだよ。ボクは祐一君が傷つかないことを望んでいる」
「嘘だよ……ボクは…祐一君が…欲しがっていた…」
「そうだね。ボクは欲しがっていたよ。でも、傷つけてまで手に入れたいとは思っていなかった。だから…戻ろう。イド」
「嫌だ…ボクは……ボクの…願いの…ために…」
それだけを残してイドはあゆの中に消えていった。
すでに小さくなった欲望は自我に取り込まれるだけだった。
「あゆ」
「あゆさん」
「ごめんね。ボクが迷惑を掛けて…」
イドを取り込み終えたあゆは祐一たちのほうに振り返った。
どこか寂しそうな、どこか申し訳なさそうな顔をしている。
「いや、俺も悪かった。あの時、ちゃんとあゆを助けていたらこんな事には…」
「祐一君。過去にこだわっちゃ駄目だよ。今回みたいな事になる」
「今回の事は俺が過去にこだわったから起きたのか?」
「そこは翡憐さんに聞いて。翡憐さんの方が詳しいから。ボクはボクの中に戻るね」
あゆはそういって白い世界に大きな黒い穴を開けた。
かすかに喧騒が聞こえるのは外の世界とつながっているからか?
「待ってください」
「何?御速水さん」
「どうぞ」
翡憐があゆに渡したのは“想い”だった。淡い青色と赤色に発光しているそれを祐一は見た事があった。
その光は粒子になって、あゆの体の中に吸い込まれるように取り込まれていく。
「翡憐さんこれ…」
「私にはもう無用の長物です」
「……時間なんだ」
「……」
二人にしか分からない会話。祐一は自分の存在をアピールするための方法に思考をめぐらせていた。
「翡憐さん…いいの?」
「この事が起きるときから決まっていたことです」
「そっか……」
「…? どういうことなんだ?」
「落ち着いたら話します。今はあゆさんを送り出しましょう」
翡憐は何か隠しているような口調で話を変えた。
ただ、祐一も大事が終わった後で気が抜けていたのだろう。そんなことは大して気にも留めず、うなずいた。
「さようなら、翡憐さん。祐一君」
「はい、さようなら」
「おう、次にあったときはおはようか?」
祐一の軽口には先ほどまで苦しんでいた姿は想像できない。
あゆも苦笑いを浮べながらもそんな祐一の姿をまぶしそうに見ていた。
どこまで行っても祐一は祐一だな、と思うのは祐一以外の二人だった。
翡憐もまたあゆを見送った。
黒い穴に沈んでいくあゆ。病室で眠っているあゆはおそらく先ほどのあゆが体に戻ることで目を覚ますだろう。
真っ白な世界に残った翡憐と祐一。黒い穴はあゆが消えたと同時にしまっていた。
出られない事を感じた祐一は翡憐に聞いた。
「なぁ、一緒に出なくていいのか?」
「病院のど真ん中に飛び出して人気者になりたいですか?」
「いや…まだ、もうちょっとあとで人気者になりたい」
「扉を開けます。水瀬家で良いですね」
「おお、何か久しぶりな気がする」
白い地面に翡憐は手を着くと急に黒い穴が開いた。
これでやっと終わったんだな……。明日から平和な日々だと良いな……。
そんな風に思いながら落ちていった。
これにて争いは終わり。
待っているのは争いとは逆の出来事。
彼らに待ち受けるは平穏。
傷ついた体を十分に癒せればいいね。