シェヘラザード
それは千夜一夜の語り部
千と一夜にわたる物語
そして、語り終えたとき、
王は心を開いた
私に寝物語など語れない
そんな私は“無口なシェヘラザード”
Catharsis
第三十四編 千夜一夜物語
(1月27日 火曜日 夕方〜夜)
「ごっそうさん」
「はい」
久しぶりのうまい食事に舌鼓を打った。
秋子さんに劣るもののそれでも学生の腕にしては十分なほどと言えよう。
翡憐って秋子さんのミニバージョンみたいな感じだな…。
性格とは全く正反対だけど…。
手馴れた様子でお茶を入れるその姿は主婦を連想するのは俺だけではあるまい。
「なぁ…これからどうなるんだ?」
心の底で思っていた不安。
そう、俺は不安だった。これから起き得ることは何にも予想が付かない。
しかし、少なくとも翡憐の身に何かある可能性はあるのだ。
「…私に聞かれても答えられません」
「そうか…」
「予測はある程度、立てられる可能性はあります。祐一しだいですが…」
「俺しだい?」
「はい、あゆさんは祐一を狙っています。それは今回の事ではっきりしたはずです」
「…確かにな」
明らかにあゆは俺を独占しようとしていた。
もし、今回の事にあゆが関わっているなら…。間違いなく次の狙いは翡憐だろう。
「なぁ、お前が狙われる可能性は?」
「そうですね。次のターゲットとしては最有力候補でしょう」
淹れたてのお茶を「どうぞ」と出しながらそう言った。まるで他人事のように言っているが…。
「あゆをどうにかできるのか?」
「…それも祐一しだいです」
「…全部俺かよ…」
「そうですね。言ったはずです、あなたが鍵だと」
「そうだったな。それで、時はまだ来てないのか?」
「鍵である理由がまだお分かりになられないのですか?」
「いや…十分、分かってるよ」
そうだ。俺が鍵である理由。それは七年、八年前に関わった人間と俺の関係だからだ。
俺は確かに関わりある。なら…俺はこれからどうすれば良いか、だ。
「次はどうすべきだと思う?」
「因果…」
「はい?」
「因があるからこそ、果が存在する。ならば、果から辿れば因に辿り着くはず。
そして再び、因から果へ辿れば解決方法が分かるはずです」
「すなわち…今のあゆが形成された理由を探せ、ということか?」
「もしくは月宮あゆ自身を探す事で少しは何らかの手立てが見つかるはずです」
「あゆを探す、か…」
翡憐も俺も少し考え込む。
始まりの場所に行けば、何らかの事がつかめるかも知れないという淡い希望はある。
ただ…記憶が正しければ俺を捕まえたあゆはあゆじゃない。
「なぁ…翡憐」
「はい」
「俺を捕まえたあゆはあゆじゃない」
「では、何者だと?」
「いや、あゆは病院で入院しているはずなんだ」
「入院?」
あゆとの過去を翡憐に話した。そう、怪我をして入院しているはずだという事を…。
「では…あゆさんは三人いることになりますね」
「三人?」
「はい、病院で入院している月宮あゆ。祐一に何らかのアプローチをかけてくる月宮あゆ。
そして、商店街などで出会う月宮あゆ。以上、三人だと思います」
「なら…活動しているのは二人。という事か?」
「はい」
…やっかいだな。一人なら分かるが…。二人となると区別しにくくなる。
もし、人畜無害あゆを責めたら、また俺は…。
「翡憐、見分ける方法は?」
「今のところ、私が触れることによって判別できます」
「そうか…」
「しかし…少しずつですが見分けが付かなくなっています」
「どういうことだ?」
「推測ですが、病院で眠っている月宮あゆ。これが本体である事は祐一にも分かりますね」
問いかけにうなずき、先を促す。
「しかし、祐一にアプローチをかけてくる月宮あゆ、と商店街などで出会う月宮あゆ。
この二人は本体から抜け出したアニマではないかと推測できます」
「あにま?」
「はい、魂ということです。すなわち、どちらも幽霊と思っていただければ良いでしょう。
それがもし人間の本質的な部分で分離していたら?世界とはイレギュラーが発生した
場合、それを元に戻そうと強制的な力、遡及性を持って、排除、もしくは修正します。
それが自然の摂理である以上われわれがどうこうするには…」
待て待て待て…訳が分からん。
「ストーップ!」
「はい?」
「意味が分からなくなってきた。もう少し噛み砕いてくれ」
「……」
翡憐…そんなに拗ねんでくれよ…。確かに俺の頭が悪いのが悪いんだが…。
「…おもしろくありません」
「説明する事が楽しかったのか?」
「はい。ただ、それに祐一の頭が付いてこられなかったのは至極残念です」
「はいはい、馬鹿です。馬鹿で良いから簡単に…」
「祐一。人間は認めればそこで成長が止まります。そこで成長を止めるつもりで…」
「もっかいストーップ!話し逸れてる」
「…いずれこの話をしなくてはいけませんね。分かりました。この話は保留にしておきます。
月宮あゆさんのことに話を戻します」
「おう」
「二人の区別が付かなくなりつつあるのは、それが一つになろうとしているからです」
「そうか…しかし、何でだ?………って質問はしません」
表情に変化が無いが…。そんなに俺に苛立ちをぶつけないでくれ。
ちゃんとこの馬鹿は治すから…。
「なら、一つになるまで待つっていう方法は?」
「手段の一つに加えても良いでしょう。しかし、もし、名雪さんなどのことに関わっていた場合、
手遅れになる恐れが出てきます。犠牲は大きいですが、手詰まりになった場合の手段でしょう」
「なら…病院に直接、行ってみるか?」
「もしくは、活動しているあゆさん自身に出会うか、でしょう。それが確実に本質に近づけるかと思います。
しかし、攻撃性のあるあゆさんに出会った場合のことを考えると、リスクも大きいでしょう」
「なら、前者だな。急がば回れっていう言葉もあるし」
「時には急がねばならないときもあるのですよ」
そうだ。確かに翡憐の言うとおりだが…時間を掛けてでも負担は減らしたい。
「ああ、でも、お前にこれ以上負担を掛けたくないんだ」
「私のことは気に掛けなくても構いません」
「大切な人が苦しむ姿なんて見たくないぞ?」
「えっ?」
何で、そこで驚くんだ? 俺にとっては翡憐が一番、大切なんだ。
じゃなきゃ、好き、なんて言わん。
「…お前、驚くところか?そこは…」
「本気ですか?」
「ああ、もう一度、言うが、お前は大切な人だ」
「……」
悲しみような、悩んでいるような顔に変わった。
なんでそんな顔をするんだ?
「そんなに迷惑か?」
「いえ…そういうわけではありません。ただ…」
「珍しく歯切れが悪いな」
「…祐一。私を大切な人と思ってくれていることはうれしいです。それは私も思っています」
少し視線が下る。なんと言えばいいのか考えているようだった。
しかし、それも数秒。迷いは吹っ切れたのか何かを決意した雰囲気で聞いてきた。
「分かりました、祐一。ただ、どんな結果が待っていようと悲しまないでください。
あなたは精一杯の事をしているのですから。どうか、それだけは約束してください」
「分かった。覚悟はしておく」
「はい」
何があっても俺は後悔しない。自分のやるだけのことをやっての結果なら後悔することなんてあるもんか。
「帰るのか?」
「はい、明日も学校がありますから」
「そうだな…」
翡憐がそう言って背を向けて去っていこうとする。
それは別に帰るのだから…当然だろ。
そう、俺の理性はそう言っていた。しかし、本質的な部分はそれとは逆の事を訴えかけていた。
どこか一人になることを恐れる自分がそこにいた。
無意識の行動というものは、人間の本心を表す。
「祐一」
「えっ?」
「痛いので手を離してください」
「あ、ああ…」
気づけば俺は翡憐の腕を掴んで止めていた。
何でこんな事をしたんだ?
表面は一人でいることになんとも思ってないんだろう。
しかし、少しでも深みに入ればそれは逆のものになっている。たぶん、そこが俺に訴えかけてきたのだろう。
「じゃあな」
それだけを言って、俺は家に戻った。これ以上、翡憐の傍にいると甘えてしまう気がする。
あまり、あいつに負担をかけるわけには行かないしな。
サクサクと雪を踏みしめる音が妙に寂しく感じるのは、
今の俺の心うちを表しているように思うからか?
扉を閉めようと振り返ると…
「おわっ?」
「なんですか?人の顔を見て驚くのは失礼です」
「ひ、翡憐?」
「それ以外のものに見えるのですか?」
「い、いや、見えないが…なんで?」
「あれだけ寂しそうな顔を見てしまっては放って帰れるほど、私は冷たくはありません」
そういうと、俺の横を通り抜けて家の中に入っていった。
何も聞かず、何も気にしない。そんな翡憐の優しさが身に沁みる。
「ありがとな」
「……」
聞こえただろうが、何も言わずリビングに入っていった。白い肌がほんの少しだけ赤くな
っていたのは外の冷気の所為か?
テレビの雑音と暖房器具の雑音だけが、リビングに響く音の大半を占めていた。
無言で湯気が立つコーヒーを持つ祐一と、珍しくホットミルクに口をつけている翡憐の
間に会話というものは無かった。
時間は疾うに日付変更線を突破しており、一部のチャンネルでは白と黒の波が画面を
支配している時間だった。
「……」
「……」
そんな時間になっても二人は寝付く様子も無く、色彩鮮やかなチャンネルに合わせて無駄な音を出させていた。
「なぁ…」
「はい」
祐一の声が雑音に乱れた大気を通り抜けるかの様に、鋭く翡憐の鼓膜を震わせた。
「大丈夫か?寝なくて」
「それは祐一にも当てはまる事です」
そこで話は途切れる。二人とも話す事がないのでそこで終わり。
また、リビングの大気はまた無駄な音を伝えるだけのものとなった。
「なぁ…」
「はい」
再び、祐一が大気を震わせた。
雪が深々と降り積もっていく。それに比例してリビングの沈黙も強くなっていく。
ただ、雑音だけは激しく大気を震わす。
「一人でいる事は辛いんだ」
「人は常に一人です」
翡憐のマグカップを置く音が響いた。硬質なその音は冷たく響いた。
「誰かに傍にいてほしい」
「しかし、傷つく事もあります」
遅れて、祐一のマグカップを置く音が聞こえた。再び、硬質な音。
「それでも願う事は罪か?」
「傍にいてほしい人を傷つけます。それが願った者の罪」
「それでも俺は居てほしいと願う」
祐一は眺めていただけのテレビから横に居る翡憐のほうに視線を向けた。
翡憐もこちらを向いていたらしく、視線が絡んだ。
「それは私にそれを望むのですか?」
「…ああ…」
雪はいつしか止み、世界が生きて居る事を危うく感じるほどの無音が外にあった。
翡憐がリモコンを手に取るとテレビを消した。
二人の間に沈黙が訪れる。
テレビの音も消えた完全な沈黙。聞こえてくるのは生活をする上で必要な器具の駆動音。
祐一と翡憐以外にいないその家では、生活の雰囲気がとても薄い。
沈黙した夜があたりを包む。
夜はまだ長い…。
祐一が手を伸ばす。
ゆっくりと翡憐の肩に置かれる。拒絶の意思はなく、ただ視線を逸らすことなく見つめていた。
引き寄せると翡憐の体が傾いだ。祐一の腕の中に抱かれるような感じで倒れこむ。
翡憐は目を閉じてそれを受け入れる。
女性らしさが強くなりつつある翡憐の体に祐一の本能は刺激される。
翡憐はそれに気づいているのか、祐一の胸に埋めていた顔を上げる。
普段に無いほどの近い距離。互いの心音が伝わるほど、二人の鼓動が早まっていた。
―――――翡憐の視線に熱が帯びているのは気のせいか?
―――――翡憐の吐息に熱が帯びているのは気のせいか?
祐一はそんな事を頭の片隅で考えながら、内側から溢れる性に身を任せた。
距離が近づく。
これから起きることを分かっているようで、翡憐は目を閉じた。
唇が触れ合う。
思った以上に冷たいな…。伝わる冷たさに祐一の理性が少しだけ戻る。
が、それ以上に圧倒的な力で誇示してくる翡憐の女性としての香りがそれを消し飛ばした。
“ちゅ…ちゃ…”
しばらくすると粘っこい音が聞こえてきた。
熱い息もまたそこに混じる。
祐一はそうやって自分の口で翡憐を封じながら、セーターの裾から手を入れた。
“ビクッ”
翡憐の体が驚いたように一瞬はねた。しかし、そんなことを一切、気に掛けない祐一の手は
そのまま上へ上っていった。
外は寒さと沈黙が支配する空間
内は暑さと音が支配する空間
熱い吐息と淫靡に響く水音
欲望に身を任せたものは人に非ず。
純粋に快楽に身を堕とし、貪るケモノ
何事も許容量超えれば破裂するもの。
理性が完全に崩壊し、崩れ落ちる音が聞こえたとき。
ケモノは熱き情熱を放った。
熱さに身を震わし、ケモノは果て…。
再び、内は寒さと沈黙が支配した。