休息
それは身体を、心を休めること。
そして、また次の仕事や事件に備えること。
休息とはいわば、間奏曲のようなもの
出来事と出来事
その合間を流れる穏やかなもの。
それが束の間であっても
休息には変わらない。
どうか、ほんのひと時でも休息を
与えたまえ
Catharsis
第三十三編 束の間の休息
(1月26日 火曜日 夕方 商店街)
「それで?どうする?」
「それは祐一が食べたい物をリクエストしない限り、私が決めます」
「…リクエストって言ってもなぁ…」
俺も苗字で呼ばれるのがあまり好きじゃないからな、「祐一」で良いと改めて言うと
「分かりました」と言って今の呼び方に落ち着いているが…。
なんとも新鮮だな…
少し新鮮な雰囲気に浸っていると…。
「どうしました?」
「うぉ!」
翡憐の方が俺より身長が低いので必然的に見上げる形になるんだが…。
如何せん距離が近すぎた。
やべ…かなり、心臓に悪い。
中々、これは…男に来るものがある。
結構、やるじゃねぇか。翡憐。
「考え事ですか」
「あ、ああ」
心臓がバクバク言ってやがる。
あー、焦った。
ただ、時々、自分で自分が分からなくなるんだよな。
これだけ、焦ってても心の中ではボケられるみたいだし…。
どんな精神構造してるんだろうな。
「そうですか」
その一言だけ。
それから彼女から聞こえてくるのは雪を踏みしめる音だけだった。
何も言わず、何も聞かずただそれだけを返す翡憐の姿が俺はうれしかった。
別に恥ずかしいことを聞かれなかったことが嬉しかったわけじゃない。どんなときでも俺を信じている彼女の姿がうれしかった。
ただ、そんなことを素直に言える俺ではないんだがな。
「それにしても学生が少ないな」
俺は話を変えるためにそう言った。
しかし、実際にそうだった。学生の姿がとても少なかった。
学生たちの寄り道時間を少し外れた時間のため、学生の姿は見られない。
たまに当たっても良いと思うんだがな?
俺はそんな事を考えながら店を眺める。
「こうして、のんびりと商店街を歩くのって久しぶりじゃないか?」
「そうですね。とても久しぶりですね」
翡憐はどこかほっとした表情で俺の質問に答えた。
確かにここんとこ忙しいことばかりでのんびりとは出来なかったのが事実なんだが…。
とくに俺が問題を起こしてばかりだった気がする…。
「悪いな」
「何が、ですか?」
「言っている意味が分かりません」といった表情で翡憐は俺を見つめる。
迷惑をかけてて俺は謝ったのだが…。もしかして翡憐にとっては俺のことは迷惑じゃなかったって事か…。
って、俺、かなり自信過剰気味?
「祐一。何をぼー、としているのですか?」
「あ、いや、なんでもない」
「さっきから少し変です。やはり家で休んでいたほうがよろしかったのでは?」
心配そうに覗き込む翡憐。
確かに病み上がりの身体で出かければ少しでも変なことをすれば心配をかけるのは当然だったが…。
俺としては心配されるほうが嬉しいんだがな。
何か気にされてるって思えて。
「いや、ほんとになんでもないぞ?」
「なら、いいのですが。無茶しないでください」
と念を押す翡憐だが…。
一番、無茶をしているのはお前さんの方だと思うんだが…という言葉は飲み込んどこう。
下手に言うと何を言われるか分かったもんじゃない。
「それよりも、夕飯の調達なんだが…」
「そうですね。もう一度、聞きますが、何か食べたいものはありませんか?」
何か食いたいものか…。
ついさっき、腹の調子を戻すためにおかゆを入れたんだが、俺の体格維持のためには量が
少なすぎる。中途半端な減り具合に悩まされながらも…
「なぁ、翡憐は何か食いたいものはあるのか?」
「私ですか?」
声に反応した翡憐の視線がいったん、こっちを向く。
そして再びそれは前に向けられた。
「特にはありません」
「そうか」
翡憐が食いたい物って言おうにも無いなら仕方ない。
適当に店を廻っていい食材を探すしかないんだが…。
こうして店を二人で回る姿は世間的にはどう見えるんだろうな…。
友人?恋人?夫婦?
「なぁ」
「はい」
「俺たちって周りから見られたらどう見えるんだろうな?」
「少なくとも友人には見られないと思います」
「そうか…」
「妥当な線で言うならば恋人同士でしょう」
「そうか…」
臆面も無く言うその言葉。
翡憐がいうと軽く聞こえるなぁ…。
「なぜ、そのような質問を?」
「別に…気になったからな」
そりゃ、少しは気になるだろうよ。
女の子と二人でこうしてのんびりと歩いていたら、どんな風に見られてるとか。
特に、翡憐ぐらいに綺麗だったらな。
ま、本人はほとんど気にしていないだろうけど…。
前を向いている翡憐を少し横目で見ながら俺はそう思った。
「……好きですよ」
「へっ?」
すげー、間抜けな返事。
俺の耳に聞こえた事自体が奇跡のような小さい声。拾い上げた俺の耳に感謝しないとな。
「どうしました?」
「いや…その…それって?」
「前に祐一はSi.と答えたので私もすべきかと」
といいつつ、なぜか微妙に照れている翡憐はどこか新鮮だった。
最初に出会った頃に比べると随分と表情豊かに感じる。
ただ、普通の人に比べると遥かに小さいものであるがそれは仕方ないだろう。
それでもこうして翡憐の小さな変化を見れるようになったのはいい傾向かもしれない。
「……」
ただ、ほかの連中と違ってどうも感覚がずれる。
別にそれが嫌というわけじゃない。嫌いというわけでもない。
むしろそれに好感を持っている自分がいたりするんだが…。
「祐一が決めないのでしたら、私が勝手に買いますが良いでしょうか?」
急に話を変える翡憐を見てあの微妙な照れは間違いなかったんだな。と感じた。
ただ、そんなことを考えていた所為で少し返事が遅れてしまったが。
「お、おお。良いけど…」
「祐一はアレルギーなどありませんか?」
「アレルギー?」
「はい、卵とか蕎麦とかです」
「んー、いや、特にないけど」
「そうですか」
いつも秋子さんにはそんなことを聞かれたことはなかった俺はまったく今まで意識していなかった。
こうして考えると秋子さんって俺のこと随分と知ってるんだな…。
って、まぁ、甥っ子だし。
「すいません」
「へっ?」
今度は俺が「何がですか?」っていう顔をする番だった。
いきなり謝るとは一体、何事だ?
「秋子さんなら祐一の好みやアレルギーが分かると思うのですが、私では…」
「いや、別に構わないって」
「しかし…」
「秋子さんは俺にとって叔母さんなんだからそれなりに知ってて当然だろ?」
「…」
「翡憐が俺を知らないように、俺だって翡憐のことあまり知らないんだぞ?」
「…そう、ですね」
「そうだって。それにむしろ、翡憐が俺のアレルギーとか知ってたら逆に驚きだって」
「かもしれませんね」
そういって残念そうに少し下がっていた肩が元の位置に戻っていた。
かすかに雰囲気が暖かくなったところを見ると、どうやらちゃんと分かってくれたようだ。
「それじゃ、何でも構いませんね?」
「ああ、嫌いなものはないぞ。ただ、紅生姜は勘弁な」
「分かりました。では、紅生姜を使わないものにしておきます」
「あ、それと人の食えるものにしといてくれよ」
「祐一より料理の腕はあると自負しているのですが、それは間違いでしょうか?」
「いや…たまーに全般的にうまくても、なぜか特例的に食えないものを作る人がいてね…」
そう、例外…。
例えをあげるなら秋子さん。
そう、料理の腕前は一級品。プロも裸足で逃げ出すほどの腕前。
しかーし、ジャムだけは例外…
あのオレンジ色のジャムは…。ならば俺が翡憐に対して釘をさすのは間違いといえるか?
否、それは言えるはずも無かろう。
自分の身を危険にさらすような事を――人といえど動物の端くれ――するであろうか!
この問いもまた否!
というわけで、俺の質問は正しかったと証明される。
「どこかで出会ったのですね」
「…ああ」
「もしかして、それは…」
翡憐が何となく勘を働かせて、俺が出会った例外を作った人を連想した。
しかし、どことなく顔が引きつっているところを見ると、どうやら真実と翡憐の推測が当たったようだ。
「……気づいたか?」
「……私の推測が間違いという可能性があります」
「それじゃ、その人の名前を口に出すか?」
「……出しかねます」
「そんじゃ、ジェスチャーで」
「難しいです」
「おし、それなら手話だ」
「出来ません。それに祐一は理解できるのですか?」
「無理」
「……無理なら提案しないでください」
「分かった。手旗信号」
「旗がありません」
「腕の動きのみで」
「理解できますか?」
「無理」
「……」
「お、俺が悪かった。頼むから命だけは」
久しぶりの俺のボケに翡憐は本気でキレそうになっていた。
まったく、最近の若者というやつは…。
「どうやら、本調子のようですから。心配などは無用のようですね」
そう言って翡憐は俺をおいて先に行ってしまった。
俺は先に行った翡憐を追いかけるように少し早足で商店街を歩いた。
ゆっくりと穏やかに流れる間奏曲
それは聞くものを穏やかに、そして癒す音色
ささやかで短い間奏曲
それでも奏でられる曲は美しいね