自分でも思う
よく愛想を尽かされないな、と
あれだけ馬鹿やっても
嫌われるような事をしても
それでも…
傍に居てくれる
俺はあいつにどれだけの事が出来た?
俺はあいつにどれだけの事を返せた?
結局、頼ってばかり…
Catharsis
第三十二編 常あらぬ日常
(1月26日 火曜日 夕方)
意識がしだいに覚醒してくる。
消えていた五感が俺の体に広がってくる。
視覚が見慣れた天井を映し、聴覚が静けさの中の音を捉え、嗅覚が慣れた部屋の匂いを拾い上げる。
触覚が自分の寝ている場所を認識する。味覚が口の中に広がる自分の味を捉えた。
「……」
まずはどこにいるかだ…。
目覚めたばかりの脳はすぐに判断を出さない。どこかで詰まりながら、どこかをさまよいながら…。
普段に無い経験をした体は、普段のような反応を見せない。
ゆっくりと身体に染み渡ってくる感覚。そして一つの答えが出てきた。
自分の部屋のベットだ。
気だるい感覚が体中を支配している。指一本動かそうにも一苦労のようだ。
「無事のようですね」
少し疲れたような冷たい声が聞こえてくる。
騒音に悩まされた疲れた耳を癒すかのような心地よい声。
すでに活動を始めた脳は瞬時に答えをはじき出す。
「…み…はや…み……」
のどがカラカラに渇き、粘っこい何かがのどに張り付いて声が出しにくい。
冬なのになんでだ?
俺はそう思いながらも、再び思考を閉ざそうとしていた。
どうもかなり疲れているのかもしれない。それともこの世界に居ることに疲れたのか?
「飲み物を持ってきます。三日も飲まず食わずでは体が持たないでしょうから」
三日?何かの聞き間違いか?
俺は一日しか…。
記憶を辿ろうとして愕然とする。
記憶が無い。
一体、昨日、何をしたのか…。記憶に残っていない。
思い出せるのはあゆと何か会話をしていたこと。そして、何か同じことの繰り返しをしていた記憶。
ただ、後者の記憶はひどく曖昧でただ繰り返していた、という記憶を思い出しただけであった。
「……」
何か御速水に話しかけようとしたが、すでに横に姿はなく、立ち上がって入り口に向かっていく後姿だけだった。
「待ってくれ」と声を掛けようとしたが、すぐに声は出ず、そして扉に手をかけた。
部屋を出て行く音がやけに寂しく響いた。
「一体…どうなっているんだ?」
やはり本当に三日も寝ていたらしく、御速水が持ってきた水をゆっくりとだが全て飲み干すと、身体が動き出し、だるさが少しだけ軽減した。
そして、胃腸も正常な動きを見せはじめた。
結果、盛大な音を立ててなるお腹に御速水は驚きと呆れを持った苦笑を浮かべると、「何か作ってきます」と言って再び部屋を出て行った。
今度は留める気などなく、むしろ早くお腹に固形物を入れたい衝動に駆られていた。
おいしそうな匂いと共に御速水が作ってくれたものを入れると体のほうはそれを受け入れ、
やっと一息ついたところで御速水の話を聞くことにした。
「どう…といわれましてもただ、三日間、寝続けていたとしか良いようがありません」
「そうか…俺が寝ていた間、何かあったか?」
「それは、相沢さんの身に、ということですか?」
「いや、そうじゃない。周りの状況のことだ」
「……」
御速水の雰囲気が少し沈む。
不吉な事しか起きてないようだな。
「…話してくれ。どんな事でも良い」
「しかし…。もう少し体調を整えてからのほうが」
「御速水」
「…」
「話してくれ」
「………分かりました。…水瀬名雪さんですが、相沢さんが私を追い返してから二日後、病院のほうに運ばれました。
発見者は北川潤さんで、部屋を覗いたとき、手首を切って自殺を図ったところだそうです」
「……」
名雪までそんなことになっていたのか?
やはり、秋子さんが居ないと駄目なのか?
……いや、仮にそうだとしても俺は支えないといけなかったんだ。
それに…俺は償わないといけないんだ…。俺が犯した罪は消えない。
なら…それ相応の罰は覚悟しとかねーと。
だから…名雪、生きていてくれよ。
「大丈夫ですか?」
「えっ?」
「顔色が優れないようですから…」
「あ、ああ、大丈夫だ。真琴はどうしてる?」
「……名雪さんが病院に運ばれた次の日から行方不明です」
「……そうか…」
この家には俺一人か…。
「一昨日から探しているのですが…すいません」
「いや…お前の所為じゃない…」
「……」
そうか、真琴も何が何でも見つけないと…。
起き上がっていた体を寝かしてベットに沈める。
天井を見上げながら俺は記憶の事を話した。
「なぁ…」
「はい」
「七年前の事を思い出したんだ」
「……そうですか」
「……正直言って、思い出したくない記憶だった…」
「……」
「名雪も、舞も、真琴も…思い出した」
「そうですか」
「なのにな…お前だけ思い出さないんだ」
天井から御速水のほうに視線を向ける。
驚きをその顔に浮かべていた。あゆに聞かされた。七年前に御速水も関わっていた事を…。
「…どうして、私も七年前にあなたに関与していたと思うのですか?」
「あゆに聞いた」
「疑う事は?」
「しない。何となく疑えない」
「……」
俺の顔に視線を向けていた御速水の視線が下に落ちる。
伏せ目がち…というのはこういう事か…。
「なぁ…」
「それはあなた自身が思い出してください」
先をさえぎられて言われる。御速水の記憶だけ思い出せないのだ。
ただ…何かイメージがあったとして残っていない。
少し小高い丘にただ一本、大きな桜の木がある。
それだけ。
そのイメージだけ少女が出てこない。
たぶん、このイメージが御速水との記憶なんだろう。
「…御速水…俺はお前にも…」
「相沢さんの心労を増やすつもりはありませんのではっきりいます。相沢さんは私に対しては
何もしていません」
「そうか…」
ほっとする自分がいる。これ以上の罪を重ねていなかった自分に対して…
しかし…記憶云々について思い出していたが…今は何時なんだ?
あれから三日といえば…今日は学校だろうが…。
「今、何時なんだ?」
「もう夕方です。一応、学校が終わってのでここに寄っています」
「そうか…」
「すぐに帰ります」
「えっ?」
「私が傍にいられる事が苦痛なのでしょう?だから、あの時」
そこで止める。
そうだ…。俺はあゆと一緒に行く直前、俺は御速水を…
「いや…そういう訳じゃないんだ」
「なら、どういうことですか?」
「そ、それは」
刺々しい口調。
俺を攻め立ててくる…。
「……」
「いや…」
「……」
「その…」
「弁明が無いのなら帰りますが?」
「…すいません」
「……はぁ」
大きくため息をつく御速水。
どっと疲れが表れたようなその仕草が、なぜか俺には優しく見えた。
さっきまであれほど俺を責めていたにも関わらず、その優しさはどこから来るんだろうな。
「YesかNo、どちらかで答えてください。あいまいな答えは認めません」
「Tes.」
俺のお茶目心がこういう反応をさせるんだよな。
しかも、俺のお茶目さを無視してやがるし…。
「自活能力はありますか?」
「No.」
「一人でいれると思いますか?」
「Nein.」
「反省はしていますか?」
「Oui.」
「私にことは好きですか?」
「Si.」
……待て…。最後の質問に肯定したけど…
何も考えずに肯定したぞ!
「お、おい、さ、最後の質問!」
「それは別に無視していただいて結構です」
「……」
「一応、集計の結果、私が世話をしないと相沢さんは死活問題に直面する事になります。
さらに私が世話をすることに異議が無いようですのでかまいませんか?」
「はい…」
最後の質問…全く関係無しかよ…。
まぁ、確かに好きだけどさ…。本人が何も思ってないとな。
「相沢さん」
「あ?」
「翡憐で結構です。苗字では呼びにくいでしょうから」
そう言って、俺の部屋のドアが閉まった。
……どういうことだ?
えー、と…思考が付いていかん。
いつも俺はなんと呼んでいた?
“御速水”
では、なんと呼んで良いとなった?
“翡憐”
「……」
多分、少し距離が近づいたということでいいんだろうな。
うん、そうしておこう。
深く考えると余計に分からなくなりそうだし…。
時計の長針が120°ほど回転してから部屋のドアが叩かれた。
「相沢さん。夕食のリクエストはありますか?」
どうも服を着替えにいったん、家に戻ったようだが…
「何でもかまわないが…そのー、御速水さん…じゃなくて翡憐さん」
「何ですか?」
「どういった風の吹き回しで?」
「どういうことでしょう?」
「いや、何でも無いです」
はい、もう、何がなんだかまだ思考が付いて行っていないのですが、おそらく少しは
近づけたといった事だろう。そういうことにしとく。
「夕食のリクエストが無いようですので勝手に買ってきます」
「あ、俺も行く」
「相沢さんは休まれたほうが良いと思いますが」
「いや、あまり寝すぎるのも体に悪い。少しは運動しないとな」
「分かりました。ですが、無茶はしないでください」
「お前さんほどはしない」
とりあえず、動けるときに動かないと。
三日間も寝ていたとなると、体が運動を欲するもんでね。
やっぱり、日ごろからマラソンをしていた体は運動を求めるものだな。
しかし、何か体が気持ち悪い。
服がへばりつくし、髪は何かべとべとしてる気がする…。
「相沢さん」
「何だ?」
「シャワーなり風呂なりに入ってきてください。結構、臭います」
ストレートな物言いは相変わらず。
「分かった。浴びてくるから待っててくれ」
「はい」
傷つきあい、そして分かり合う。
彼女に感謝するんだね。その寛容な心に。