一つ目の歯車が外れた。
それだけで、全てが狂う。
だって、かみ合ってこそのものだから…
噛み合わなくなった機械仕掛けの運命は
どこで崩壊する?
Catharsis
第二十六編 悲劇
(1月19日 火曜日 病院)
「お母さん…」
俺の想像以上に秋子さんは重体だった。
手術は一応、終わり集中治療室で今なお、治療が行われていた。
医師から状態を報告されたが、名雪には理解できるはずがなく、ただ呆然としていた。
俺は名雪の代わりに医師からの説明を聞いていた。
今日の夜が山らしい。
「……」
名雪……。ただ、お母さんと呟く名雪の姿が見ていられなくなってきた。
そうだろう。小さい頃に居なくなった父親の変わりに秋子さんが一人で名雪を育ててきたのだ。
名雪にとっては唯一の血のつながった親なのだ。それを失うかもしれない危険があるなら…。
どれだけそうしていただろう。入り口のほうから人が近づいてくるのが分かった。
「…相沢君」
「香里か」
「北川君も来ているわ」
「大丈夫か?」
「俺はな……」
「名雪は…」
隣に視線をやる。正面の一点を見つめたまま、空虚なまなざしを向けている名雪が居た。
「……」
「……」
二人とも黙るしかなかった。香里や北川も名雪に何かを話すつもりで来たんだろうが…。
あまりの名雪の状態に二人は正面の椅子に腰掛けた。
沈黙が支配する中、また足音が聞こえてきた。
「相沢さん」
「…御速水か?」
「秋子さんの状態は?」
「…意識不明の重体。頭部を強く打った所為でそうなったらしい。今夜が山だ」
思った以上に冷静な自分がいた。
これからどうなるか、これからどうすべきか、それすらも分かっていないのに不思議と
不安を感じないのはどこか神経が麻痺しているからか?
それともそこまで感じる余裕が無いのか?
「…そうですか。水瀬名雪さんを家に帰らせたほうが得策だと思います」
「ん…そうだな」
確かに御速水の言うとおりだ。今の名雪をここにおいていることは危険だ。
すでに俺が見るだけでも心はかなりのダメージを負っているのは間違いない。
万が一…。起きて欲しくないが秋子さんの状態が悪化したなど聞いたときには…。
心が壊れるのは想像に難くない。
「なぁ、香里…。名雪を頼めるか?」
「分かったわ。相沢君は?」
「俺はここにいる。北川…悪いが俺の着替え…持って来てくれるか?」
「ああ、分かったが…お前、明日学校に来るのか?」
「皆勤賞狙いだ」
「……相沢」
まだ、それなりの強がりが出来るらしい…。
俺の強がりに気づいたのか香里も北川も何も言わずに病院を後にした。
御速水だけが俺のそばに居てくれた。
「……」
「お前も帰れ。明日も学校だろ?」
「相沢さんを放っておけばどうなるか分かりません」
「……」
「それに最悪のことを一人で聞くつもりですか?」
「……」
「心が持ちません」
「……」
分からない…。どうすれば、良いんだ…。俺はこれからどうやって名雪と過ごせば良い?
何が起きているのか、いまだに分かっていない。それでもなお、事態は勝手に進んでいく。
俺はどうすれば良いんだ?
頭を抱えても何もならない事は分かっている。それでも、そうしなければ自分で自分を保てないような気がしている。
病院の白いリノリウム製のタイルを眺めていると不意に頭に何かが走った。
何かが入り込むような感覚の後、側頭葉が殴打されたような衝撃を受けた。
声を出そうとして声帯を震わす事が出来ない事に気が付いた。さらに呼吸も出来ない。
苦しい…。この圧迫感は…。
また、何かを思い出そうとしてる。
何だ…。また…
「くっ…!」
「相沢さん?」
「あ、頭が…」
「えっ……」
頭が割れそうなくらいにきしむ…。
体の奥のほうで何かが破裂しそうな、内側から何かが生まれてくるような感じだ…。
頭の中で何かが一つはじけると、続いて連続してはじけていく。連鎖反応を起こして頭の中は
爆発の嵐が起きている。すでに目の前に何が見えるのか、判断がつかなくなっている。
ただ、真っ白な光が覆っているようにしか見えない。音も耳鳴りの所為ではっきりと聞こえない。
ただ、キーン、という不快な音だけが聞こえている。
「大丈夫ですか!」
「…悪い……」
倒れこむ俺を御速水が支えた。
「相沢さん」
声が聞こえた。耳鳴りの所為で何も聞こえないはずなのに、なぜか御速水の声だけが聞こえた。
その声が聞こえただけで、頭の中で繰り広げられていた爆発の連鎖は収束していった。
一つ消え、二つ消え…。
頭の中が静かになった。視覚も聴覚も普段どおりの感覚を取り戻していた。
落ち着いて自分の状況を判断しようとして、俺は御速水に抱かれている事に気づいた。
柔らかい胸が顔に当たっている事に気づくと、普段の俺を取り戻した。
「胸、でかいな」
「……」
「……」
「相沢さん」
「何だ?今なら死んでくれって言われても本望だぞ?」
「お願いです。どんなことがあっても相沢さんで居てください」
「……どういう」
「絶望に満ちて信じるものを失っても…それでもなお、相沢さんは相沢さんで居てください」
「……」
どういうことか訳が分からん。ただ、何か深刻なものである事は確かなようだ。
しかし…俺にそんな事が出来るのか?
「……御速水」
「はい」
「約束は出来ない。ただ、努力してみる」
「分かりました。今はそれで十分です。少しお休みなられたほうがいいです」
「……」
「心への負担が大きいですから…」
「眠れないんだがな」
「目を瞑るだけでも変わります」
そう促され目を閉じる。
気分は高揚していて寝付けるはずもない。ただ、そばに御速水が居る。それだけで少しは
心が落ち着いてきてた。浅い眠り…。睡眠と覚醒を繰り返しながら俺は夢を見ていた。
「なぁ…」
目の前に御速水がいる。これは夢か現実か…。
どちらか分からないが、どっちでも良かった。ただ、ぼーとした頭で御速水に話しかけた。
「はい」
「…変な夢を見た」
すげー、気持ちいい。
正面に横向きの御速水の顔がある。
「はい」
「……あたり一面、金色の何かに覆われていたんだ。そんな中をウサミミが走り回っていてな」
「不思議な光景ですね」
「ああ、そのウサミミを追っかけていくと大きな桜の木があったんだが、花びらを散らしていたんだ」
「綺麗でしょうね」
「ああ……綺麗だった。ただ、その木の下を雪ウサギが飛び回っていたんだ」
「雪ウサギですか?」
「ああ、雪ウサギって飛び回るもんだったんだな、と思っていたらキツネがやってきて一緒に遊んでた」
「和む光景ですね」
「木の上でな。天使が座ってその光景を見ていたんだ…。そのとき、天使って実在するんだなって思ったよ」
「相沢さんは無信教者だと思っていたんですが…」
「これでも都合のいい時だけ仏とか神とか信じてるぞ?」
「相沢さんらしいです」
御速水の雰囲気が柔らかく俺を包む。
いつまでも包まれていたいというのは俺のわがままか…。
再び夢に誘われて俺は深みへと落ちた。
疲れた体と精神は正直に意識を手放した。
「……」
「はい。分かりました」
「……」
俺の頭の上で何か会話が行われてる…。
目覚めようとするが、何かがそれを邪魔する。透明なガラスにさえぎられて前にいけないような
そんな感覚だった。意識は完全に覚醒させてくれない。
誰かが遠ざかっていく音が聞こえる。
「まだ、眠ってください。今の相沢さんには休息が必要です。何も焦らなくていいです。今は寝る事だけを考えて…」
「……」
御速水はまるで俺が起きている事を分かっているかのような口調で話しかけてきた。
「今は何も考えず…寝る事だけに意識を向けて…」
「……」
その声に誘われて俺は眠りについた…。再び深い闇が俺を覆う……。
地面を蹴る。校舎二階の廊下を駆け抜けていた。
すでに満身創痍の体に鞭打って肉体の限界に挑んでいた。何かが舞のレーダーに引っかかった。
両手に構えた剣を虚空に向かって横薙ぎに振るう。
“ガキィン”
硬質体と接触する高音の音を響かせて舞と“何か”はぶつかり合った。衝撃で舞がその場で半回転する。
すぐに姿勢を制御するとバックステップで距離を置くが、大して離れない。
本能が危険を察知すると首を傾けた。
舞の後ろのガラスが勢いよく割れた。
サイドステップで体を横に飛ばすと片手でけん制するように姿無き者に剣を振るった。
再び硬質な音が鳴り響く。更に舞は追撃を仕掛けた。
利き足に全体重を掛けて右腕に握られた剣を全力で斜め下から斜め上に切り上げた。
肉を切り裂く感触と共に“何か”の存在が希薄になっていくのが分かった。
「あと一つ……」
そう呟くと再び階段を駆け抜ける黒い影に変わった。
驚くべき身体能力で階段を駆け上がり、三階へ。“何か”はまだ彼女のレーダーに引っかかっていなかった。
気配の探索網をギリギリまで広げて少しでも動くもの捉えようとしていた。
1、2、3、4、5、6……
「見つけた」
ラストの一つを更に上の階で確認した。足音を消して四階へ繋がる階段を一気に駆け上がった。
直線の廊下で瞬時にトップスピードまでスピードを上げると“何か”に肉薄した。
ほんの数秒の出来事。一撃を食らわした。
“ガキィン”
硬質な音を立てながら舞は剣を叩き付けた。その反動を利用して空中で一回転すると体勢を整えて地面に着地した。
抜刀の構えをとると一気に振りぬいた。片手での一撃は空を切った。
と、がら空きになった胴に衝撃が走った。
廊下に叩きつけられる身体。無防備な状態に二撃目を入れてきた“何か”に対して
舞は剣の腹でその攻撃を防いだ。浮き上がる身体だったが二撃目のダメージはほとんど無く
難なく地面に降り立つと相手の間合いに踏み込み、白い軌跡を残して振りぬかれた。
それも空を切る。
間合いに入り込んでいた舞にカウンターが放たれる。
敵の狙いは右に振り抜いたために傾いた左側。狙いが分かっているのならば避けるのは容易である。
タイミングを合わせて首を右側に傾けると、大気が震えたのがしっかりと感じ取った。
次の攻撃を予想してしゃがむと、予想通り頭上を衝撃が通り抜けた。
下から上に剣を突き上げる。
確かな手ごたえ。
確実に貫いた感覚。
その瞬間に襲ったものは自分自身の腹部に焼けるような痛み。
剣先は確かに魔物を貫いた。自分の腕は確かに前を向いており、確かに腹部に刺さるはずが無かった。
剣は半ばまで確かに前方に向いていた。しかし、それより先が消えていた。
剣先を彼女の目には映っていなかったのだ。
ゆっくりと視線をおろすと、足元には小さいながらも血溜まりが出来ていた。
赤い制服が赤黒く染まっていた。
足元から力が抜けていく。腕からも力が抜けていくのが分かった。普段は軽いと思っていた剣が
非常に重く感じる。
そしてゆっくりと重力に引かれて倒れていくのを舞自身は自覚していた。
剣が落ち、夜の静かな校舎にけたたましい音が鳴り響く。
身体が前に倒れていく。うつぶせに倒れた舞は廊下の冷たさすら感じなかった。
ゆっくりと瞼が落ちていく。
そんな虚ろな舞の視線に入ったものはウサミミを着けた少女だった。
その少女が舞の頬を撫でる。
「………あ………」
舞が何かを思い出したようにほんの少しだけ目を見開いた。そして、最後の力を振り絞って呟いた。
「……お……かえ…………り……………」
「くぅううー」
起き上がるとそばには誰も居なくなっていた。
「…御速水?」
呼びかけても返答はない。あたりを見渡し…。今は何時なんだ?
少し遠くで喧騒が聞こえる。すでに目覚めのときを過ぎたか?
時計を探し歩くと、受付のところにあった。
人が結構、待っていた。って事はもう朝か…。
時計を見ると、長針は真上を向いており、短針はY軸よりマイナス方向に30度傾いていた。
……。
「って十一時かよ」
完全に遅刻。俺の皆勤賞狙いが…。俺の野望が…。
「目が覚めたのですか?」
声をする方向を振り返ると私服姿の御速水が立っていた。
私服?
「なぁ、御速水…。どうして私服なんだ?」
「今日は学校が休みだからです」
「休みって…何曜日だ?今日は」
「水曜日で平日です」
「……記念日か?」
「いえ……」
「…なら、なんでだ?」
「…学校で事件があったからです」
「事件?」
「……三年の川澄舞さんが今朝、未明に発見されました」
「は?」
「腹部には鋭利な刃物で刺された傷跡があり、出血多量で病院に運び込まれました」
舞が…?何でだ…。鋭利な刃物っていつも舞が持っているあの剣か?
……どういう…ことだ?
「相沢さん!」
体が傾ぐのが分かった。御速水の声が遠くで聞こえた。
また俺にとって近い人間が死に向かっていくのか…。
……どうすりゃ…いい…。
悲劇には二種類あるといった人がいる。
夢幻と陶酔の世界?
それとも調和的統一の世界?
これはどちらの世界かな?