きわどいバランスで保っていた『それ』は
ついに崩壊を遂げた
一度、崩れたそれは一から組み立てないと…
生まれることは痛みを伴う物
混沌より秩序
新たなる秩序が生まれようとしていた。
Catharsis
第二十五編 混沌に満ちた世界へ
(1月19日 火曜日 朝〜学校)
空と海が遥か彼方で合わさっている。
それこそ空と海の祝婚が見られる場所。その統合が見ることが出来る世界。
空と海と大地しか存在せず、それ以外のものは無い世界がそこにあった。
青い空に太陽はなく、それでも明るかった。
砂浜に寄せる波が母なる恵みのリズムを刻み、来るものを心地よい世界へといざなう。
ただ、そこに来る者などいるかどうかである。
そこに人が来る手段など無いだろう。誰もそこには住んでいるとは思えなかった。
どこからも続いておらず、どこへも続いていない世界。
入る場所がなければ、出る場所も無い世界。
存在する理由が曖昧な場所だからこそ、世界の存在が曖昧になっていた。
そんな曖昧で誰一人としないと思っていた場所に狂ったような笑い声が響いた。
「あはははっ、あははははっ、あははは〜」
とても無垢で純粋な笑い声だった。
子供が笑っている光景と被っても十分、その光景とあう声であった。
ただ、それを狂気と感じるのはそこには本当に何も汚れも、醜さも無い、純粋な本物の
笑いだからではないだろうか?
汚れがあるからこそ、人が人であるのかもしれない。
濁りが無い『無垢』というものはそら恐ろしいものだろう。
「あはははっ、あははは〜」
その声の発信者は笑いながら、ただ狂々と回っていた。
茶色のダッフルコートの裾が翻り、両腕を精一杯広げて、ミトンに隠れた指先までも
懸命に横に伸ばして、笑い声を上げながら笑っていた。
やっとだよ…。
やっとその時がやってきたよ。
ボクは待っていたんだ。二度目のチャンスを…。
彼女がボクの大切な人と出会うのを待っていたんだ。
彼女がボクの大切な人の為に“これ”を作るのを待っていたんだ。
彼女がボクの大切な人のために“これ”を作ったんなら、絶対に起きる事なんだよ。
あの子は気づいてないかもしれない。
でも、それが世界の選択。
でも、それが世界の必然。
彼女の“力”は年代記を変えるほどのものじゃないからね。
絶対に起きるんだよ。
だから……
だからこそ、ボクは知っている。
年代記を知っているから、“それ”が起きる時を知っているんだ。
Catharsis
それをするためには悲劇が必要だから…。
泣いて、苦しんで、精神を侵している化膿した傷を癒すためには悲劇が必要だから。
必ず、悲劇は起きる。
絶対にね。
それが世界の必然であり、それが彼女の必然。
次こそ、絶対にボクは祐一君を手に入れる。絶対にね……。
もう、間違いはしないよ。
ボクは史実を変えてみせる。彼女が描いた史実をボクの史実に切り替えて見せるよ。
「行ってきます!」
「行ってきまーす!」
俺と名雪は普段と同じように学校へ向けて走って向かっていった。
雪がいつものように降っていた。
雪はいつものように白かった。
どこまでもいつもの延長である事に変わらなかった。
しかし今日が平穏の終わりだと俺は気づかず……。
「あら、今日も大変そうね」
「あ、ああ…。正直言ってかなり限界に近い…。そろそろ俺一人で行くかな…」
いつもの習慣とは言え、やっぱり辛いんだけどな。
これって中々、慣れんぞ?
「うー、祐一。ひどいよ」
「お前がひどい」
つ、疲れたー。椅子に座ると同時に疲れがどっと出てくる。
マジで倒れそう…。
俺の机にはいつものメンバーが周りを囲んでいた。
名雪と香里は二人仲良く話しに花を咲かせているし。
北川は俺に話しかけてきている。もちろん、半分聞き流しているが…。
御速水は俺のそばに居るが外を眺めていた。
「どうかしたのか?外を見ても面白くないだろ?」
「そうですね。ただ、ぼんやりと眺めているだけです」
「ふーん」
「たまには気分を落ち着けるに良いと思いますが」
「俺は気分を高揚してないと冴えないのさ」
「冴えなくて結構です」
「むぅ、そういうなよ」
「相沢さんが冴えると私が困りますから」
「困らせるためにやっているのさ」
「やらないでください」
「あら? 御速水さん、また相沢君に苛められているのかしら?」
香里が俺たちの会話に気付いたようでこっちに話を振ってきた。
「失敬な。親睦を深めていると言ってくれ」
「苛められています」
「ほら、御速水さんが私に訴えかけてきているわよ?」
「御速水。もっとやんわりと訴えようぜ?」
「やんわりと訴えるというのはどうかと思いますよ? 訴えるというものは切実なものですから」
「何っ! 俺が話しかける事はそれほど切羽詰った事だったのか!?」
「からかわれる事がです」
「……御速水を俺がお前をからかうな、という事は呼吸を止めろというのと同義語だぞ?」
「相沢君…」
「相沢さん…」
「ど、どうした、二人とも」
「それほど御速水さんの事が好きなら、さっさと告白しなさいよ」
「相沢さん。迷惑ですから告白なんてやめてください」
……二人揃ってそれかい。
香里は香里で物騒だし、御速水は御速水で冷たい事、言ってくれるし…。
御速水と馬鹿をやってから、また北川の話に耳を傾ける。
それが俺の朝の習慣。そんな日常。
「相沢、水瀬、ちょっと…」
授業中、俺と名雪は急に呼び出された。
面倒な授業だったから、まぁ良い感じで時間が潰れて良いかも、と思っていたがどこか胸の奥で警告音が鳴っていた。
香里が「寝すぎで呼び出されたの?」なんていうから、名雪はすごい落ち込んでいた。
まるで自分の存在理由を否定されたぐらいの勢いだ。
廊下に出ると担任の石橋がそこに居た。
「実はだな、水瀬」
「は、はい」
かなり緊張している名雪だった。
石橋の次の台詞が「お前は寝すぎで留年が決定した」なんて言われた日には俺は多分、名雪に好きなものいくらでも奢ってやるだろうな。
なんせ、学校始まって以来の快挙だろうし…。祝わないと怒られるだろ?
「お前の親御さんが事故にあった」
「えっ?」
「はっ?」
…寝すぎで留年じゃないよな?
……今、なんて言った?
「もう一度言うぞ、水瀬。親御さんが事故にあった。中央病院に搬送されたが…」
……事故って……あれだよな。よくテレビのドラマとかで起きてる奴だよな?
水瀬の親御さんって…秋子さんのことだよな…。
秋子さんに何が起きたって言うんだ?
…なんだ?分からないぞ…事故?秋子さんが?
巻き込まれた?
事故を起こした?
何があったんだ?
「お前たちはすぐに病院へ行け」
「……」
「……」
駄目だ。頭が追いつかない。
思考が停止するっていうのはこういうことか?
何も考えられない…。考えようとして片っ端から考える事が消えていく。
いや、考えることを脳が拒絶してるのかもしれない。
「相沢、水瀬、しっかりしろ!」
石橋の声が聞こえるが、分からない…。何が…起きてるんだ?
横に居る名雪も呆然としている。
あれ?分からない…理解できないぞ?
何を言っているのか……。
思考が濁ってる。どこも酸素が足りなくて途切れがちだ。
分からない。
分からない。
分からない…。
「相沢さん!!」
俺を呼ぶ声がした。
誰の声か分からないが、その声が耳に入り、脳で受け取った瞬間……目が覚めた。
頭にかかっていた靄の様なものが消えた。綺麗に消し飛んだ。
酸素が脳に供給される。
どこまでも透き通った思考回路。後はそこにデータを走らせるだけ。
思考が再開されていく。
今まで止まっていた脳とは思えないくらいに鮮やかになった。
フリーズしたパソコンが再起動していくような勢いで活動していく。
情報が頭のなかで整理されていく。
何があった?
【事故があった】
誰が?
【秋子さんが】
どこに居る?
【中央病院…】
なら、今の俺がすべき事は?
【病院へ向かう】
こうやって、俺たちが混乱している暇は無い。今は一刻も早く病院に向かうことだ。
「名雪」
俺と一緒に混乱していた従姉妹の名を呼んでみたが、返事が無い。
そばに居るはずの従姉妹の姿がない。視線を下げるとしゃがみこんだ名雪が居た。
「おい、名雪!しっかりしろ」
「お母さん?」
「名雪…」
「ど、どうしたらいいの?祐一…。私、一人?」
名雪も同じように思考が停止していたようだったが。
それが動き出すと、名雪はパニック状態に陥っていた。おろおろとするばかりだった。
「まだ、秋子さんは死んでないだろ!?しっかりしろ!病院に行くぞ」
まだ、意識が混濁している名雪をひっぱって校舎を後にした。校門には石橋が呼んだのか、
タクシーが待っており、乗り込むと中央病院に向けて走り出した。
混沌も実は法則があるんだよ。
だから、この混沌もなるべくしてなったこと。
意味がある混沌。
さぁ、混沌の意味に気づくかな?