小さな予兆


普段有り得ないようなこと


それが起こる。


大きな事なら気に留める。


でも、小さな事柄なら?










Catharsis

第二十四編 前兆
(1月18日 月曜日 放課後〜夜)










「あっ…!」

“ガシャンッ!!”

「ど、どうしたんですか!?秋子さん」
「どうしたの!?お母さん」
「ごめんなさい。お皿を落としただけよ…」

俺と名雪がテレビを眺めていたとき、いきなり後ろで大きな音がした。
どうも、秋子さんがお皿を落としたようだったんだが…。
珍しいこともあるもんだ。完全無欠と思っていた秋子さんだけど、あんなふうな一面があったんだなぁ。
今は、名雪と秋子さんが共同戦線をはり、落ちた皿の破片を片付けていた。
三人で片付けても動きにくくなるから、のんびりしていてください、なんていわれた以上、
ここでのんびりしているんだが…。
テレビも面白いやつはやってないなぁー。
まだ終わらないのか?と思って俺は台所の方へ目をやった。
名雪がせっせとしゃがみこんで何かをしている姿が映った。まだ、片付けは終わってないみたいだな。

“ズキッ”

「……っ!」

頭痛にしてはいきなりすぎた。何だ?この痛みは…。
息苦しさも感じる…。息が…出来ない…。
酸素を吸い込もうと俺の肺が懸命にあがく。
横隔膜が下がり、肺が広がる。
空気が入る容量は十分にある。なのに何も入ってこない…。
吸い込もうとするが何も吸い込めない。

『名雪が…』

“ズキッ”

目の前がチカチカと点滅している。それが明らかに警告だった。

『しゃがみこんで…』

“ズキッ”

その頭痛の痛さはまるで、かさぶたを剥がす痛みと似ていた。
記憶のかさぶたが剥がされていく。
その下にある傷口があらわにされていく。再び、出血が始まる。


『何かを…』

“ズキッ”

かさぶたは汚れたまま、その傷を覆っていた。
傷は治ることなく、そのまま、七年前のときと同じ姿でそこに傷付いていた。


『している…』

“ズキッ”

頭が痛い…。
血を流す、七年前の記憶。それが頭痛という形で現れているのかもしれない。
息が出来ない…。
少しでも動けば

「祐一?」

名雪の声が遠くで聞こえる。足音もかすかになってる。



あ、白くかすんできた…。
覗き込む顔がぼやけてる…。
痛みも薄れてきたし…。息苦しさもなくなってきた…。
ただ……すごい眠い……。

「お、お母さん!!ゆ、ゆ、祐一が!!」
「どうしたの、名雪?」
「祐一の顔色が…!!」
「ゆ、祐一さん!!」

秋子さんの切羽詰った声が聞こえてきた。










白い雪が俺に向かってゆっくりと飛んできていた。
雪って、空から降ってくるもんじゃなかったか?
そこまで考えて思い当たる。
俺は地面に仰向けになっているのではないか?と
首を横に向ける。地面が近い。俺の予想は正しかった。
体を起こそうとして、自分の腕に指令を下す。しばらく活動していなかったせいか少しのラグの後、
腕はその指令に従った。上半身だけが地面と直角になった。

「……なんでこんなとこで寝てたんだ?」

当然だ。
雪が降る地で寝るとは自殺行為も良いところだ。実際に自殺を謀っていたのなら話は変わってくるが…。

「……雪ウサギ?」

俺の周りを雪ウサギが大量に陣取っていた。
所狭しに敷き詰められているその姿は、地面を雪ウサギが作っているのではないか?
と疑えるほどだった。

「どうして、こんな事になってんだ?」

そのまま、立ち上がる。どうすれば良いんだ?
延々と続く雪ウサギの地面。どの方向へ向かっていっても続いていくそれは間抜けに見えても
恐ろしいところはあった。
何がどうなっているのか?それを突き止めようと、足を踏み出す。

“グチャッ…”

足の下で生々しい音を立てて雪ウサギが原型を失った。
何かと思い、下を見る。
飛び散った紅い液体。白い大地に飛び散ったそれはいっそう鮮明に写った。
反射的に足を引き上げると、血溜まりが出来ていた。

「なっ……」

あげた足を別の場所に下ろす。

“グチャッ…”

そこにあった雪ウサギもまた、音を立てて紅い鮮血を撒き散らしていた。
身動きが取れない…。
どこを歩くにもおぞましい光景しか待っていなかった。
さすがに鮮血を撒き散らせながらこの地面を歩きたいとは思わない。
足元が真っ赤に染まっていく光景は身の毛もよだつ。

「…どうすりゃ良いんだ?」
「祐一…ひどいよ」
「名雪?」

後ろから声が聞こえた。いつも叩き起こしている名雪の声だった。
振り返ると…小さな雪ウサギを手に持っていた名雪が数歩離れたところに俯き加減で立っていた。

「ここは何処なんだ?」
「……祐一が雪ウサギをつぶした……」

名雪の視線は俺の足元に向けられていた。
血溜まりに足を置いている俺はどうやっても誤魔化せない。ただ、誤魔化す必要性があるかどうかだが…。

「祐一…ひどいよ…」
「名雪……?」

様子がおかしい。瞳を隠すぐらいに俯き、雪ウサギを両手で持ちながら立っている。
それ自体がおかしい事だった。
不意に恐怖に駆られる。体全身が寒気に襲われた。頭の中では今すぐにでも反転して
少しでも名雪と距離を取る事を訴えかけていた。
ただ、足が言う事を聞かない。体の全決定権をもつ強制力のある脳からの指令でもそれに従おうとしなかった。

「……祐一…どうしてなの?」
「…名雪」

“グチャッ…”

一歩近づくたびに雪ウサギがつぶれる。名雪はそれに気を掛けず俺に近づく。
懸命に動かそうと足を動かすが動かない。

“グチャッ…”

生々しい音を立てて近づいてくる名雪。足が動かない。逃げろという訴えに従わない足。
体が震える。名雪だというのに名雪と感じられないその雰囲気。

“グチャッ…グチャッ…グチャッ…”

「どうして……」

“グチャッ…”

「雪ウサギを…」

“グチャッ…”

「壊したの?」

“グチャッ…”

目の前に名雪が立つ。雪ウサギを持った手を前に差し出す。
そのとき、初めて気が付いた。雪ウサギの目を作っていたものが人体の眼球である事に…。

「ひっ…!」
「どうして…」

名雪の顔がゆっくりと上がる。
駄目だ…。見るな…。
体中が震え上がる。歯の噛み合わせが合わない。カチカチという音がいやに響く。
想像が現実になるのはすぐそこだった。体中が拒絶の意思を出すのにどこも従わない。

「雪ウサギを…」

顔が上がる。瞳は閉じられていた。一瞬だけ安堵した。ただ、それも恐怖が先延ばしになっただけ。

「壊したの…?」

瞳が開かれる。そこにあったのは空虚な穴。そして、流す血の涙…。

「うわあああぁぁぁ!!!!!」

尻餅をついてこけた。足はその場から動いていない。名雪が手に乗せた雪ウサギを近づけた。

「祐一…」
「……っ!!」

声が上げられないくらいの恐怖が俺を襲う。名雪の空虚な穴が俺を覗き込む。
体中が血まみれになろうと構わなかった。
それぐらいで逃げられるなら…。まだ体は動かない。
雪ウサギに釘付けの俺は見てしまった。
ギョロリとその目が動いたのを……。

「ああああああぁぁぁぁ!!!!」

初めて体が動いた。俺の右手が名雪の突き出した腕を払いのけた。
雪ウサギが中を舞う。ベチャッという音と共に鮮血を撒き散らして地面にへばり付いた。
無様にこけながら、それでも立ちあがった。体中が真っ赤に染まっている。
白い大地に満ちたそこに赤い道が出来た。
そんな事に構っていられる余裕は俺に無い。
ただ、がむしゃらに走った。出口あるのか、分からない。それでもなお、俺は走り続けた。
(目が見えないならそれほど問題ないな)
限界まで走った俺の体は休息を欲していた。ひざに手を当てて息を整える。
血まみれの手で支えているのですべるが、我慢だ。

“ベチャッ…”

「……!」

背筋が凍った。
一瞬にして体中の毛が逆立ち、汗腺から冷たい汗が吹き出る。
体が硬直したのが分かる。
俺の思考が結論を出そうとして拒絶する。答えは分かっているがそれを認めたくなかった。
あの音の正体などすぐに出ていた。ただ、それでも顔を上げなければどうにもならない。
恐る恐る顔を上げる。
が、正面にはいなかった。ならば……。
心臓が破裂しそうなくらいに活動していた。その音が激しく俺を攻め立てる。
振り返れば…あいつがいるのか?

「……」

そこにもいなかった。ただ、俺がつけた赤い道とどこまでも続く白い大地だけだった。
俺の空耳か……
安堵した俺は正面に向き直る。俺の視界に入ったのは……

「どうして、雪ウサギを、壊したの?」










「私が見ておきます」
「すいません。御速水さん」

気づけばベットで寝ていた。
会話が遠くで聞こえてきたが…御速水が来ているのか?
意識が普段よりもはるか深いところにある。
全身を冷たい感覚で覆われており、寒かった。ただ、それでも俺はここに居たいと願うくらいの気持ち良さを感じた。
部屋のドアが閉まる音が遠くで聞こえる。
視界はまだ戻っていない。暗闇が俺の前に広がっていた。
このままゆっくりとしていたい。
そう願うとさらに意識が深みへ落ちていった。音も消え、全て暗闇になった。
なのに不安感は無い。このまま……ここに居たい。
そう思っていたとき、全身に感じていた冷たい感覚が無くなった。
心地よさが無くなり、急に不安を感じだす。

『俺は…どこにいる?』

あいまいだった意識が急にはっきりと鮮明になり、自分の状況が急にしっかりと認識できるようになった。
呟きには誰も答えない。その代わり、熱い感覚が俺を襲った。
燃えるような熱さ。自分を見下ろすと青い光が体から漏れ出していた。

【ここ】

小さな声が聞こえた。どこから聞こえてくるか分からない。

【ここ】

少し大きくなった声で初めて方向が分かった。その方向へ向かう。

【そう】

ここか?俺はそう呟く。と返事の代わりに一際、体が光った。
そして光が小さくなった。そして数秒のラグの後、一気にそれは爆発を起こした。
内側から外側へ向けての解放。俺を形成していたものは吹き飛んだ。
一片も残さないほどの爆発。だからこそかもしれないが、痛みは無かった。
その爆発は超新星を小規模にしたようなものに似ていた。
ただ、俺は破壊されたと思っていたのに、俺自身の意識はここにあった。
(何だったんだ?)
落ち着いて考える暇も無く、体は何か押し上げられた。










「大丈夫ですか?」

声に反応してうっすらと瞳を開けると何かが俺の前にいた。
黒と白っぽいもので形成された何か…。

「私が誰かわかりますか?」

その問いに答えようとして誰か分からない。少し脳内を検索する。該当するものを検索するが、すぐに答えが出ない。

「相沢さん」

その声で検索が終了した。

「み…はや……み…」
「そうです」
「……」
「意識は戻ったようですね」
「…あ……」

返事をしようにも喉に何かが絡み付いているようで声が出せなかった。
重いまぶたが再び閉じようとしていた。

「大丈夫です。明日にはもとに戻っていますよ」

優しい御速水の声が届く。それでも俺自身は信じ切れなかった。
もしかしたら、次は目覚めないんじゃないのか?
そんな不安が俺の心を襲った。
閉じるまい、と思っていたまぶただったが、体は欲求に正直に答えようと閉じてきた。
意識だけが焦る。あがくが、無情にはそれは閉じられた。
意識が再び、深みへと堕ちていく。
深みへ沈む直前、手を包み込む暖かい感覚を嘘だとは思いたくなかった。










初めての前兆は残念な事に起きる前には気づかない。
あとになって前兆があったと気づく。
そして、二度目の時に前兆がその働きをする。
初めての事柄。
残念だけど、前兆には気づけなかったね。