第26話「未知なるカダスを現に求めて」中編
ヴィエとリアを背に乗せたナイトゴーントは北方の暗澹たる闇の中をひたすら飛翔し、上昇し続ける。途中、象のごとき巨体を持つシャンタク鳥が何度か現れたが、夜鬼の姿を認めるや、みな狂乱した声をあげて逃げ去っていった。
やがて濃密な闇を突破し、雲の薄れた頭上で星がぼんやりときらめいた。それでもさらに空高く舞い上がり、途方もない速度、軌道をめぐる惑星の速度にせまるほどの急上昇を続けているのだが、幻夢境の物理法則に支配された領域内の次元特性ゆえ二人に身体の影響はなく、想像を絶する高みにありながら、大地はなおも眼下に広がっているのだった。
ついには永遠の夜の領域に達し、青白い光が一つ、前方の稜線に見えた。その光景に声一つ出せないでいる間も上昇は続き、北方の空の半ばが銀歯状の円錐形の塊にかき消されるまでになった。青白い篝火はなお上にあり、地上の全ての山峰をしのいでそびえ、遥か眼下に浮かぶ高みの雲もそのふもとの縁飾りでしかなく、大気の最上層すら、その山の腰を取り巻く帯でしかなかった。ヴィエはそのまたたきを瞳に映すと、自分たちが既に成層圏どころか熱園を抜けたことを知った。
謎めいた月と狂った惑星が旋回する原子一つないエーテルを味到する、青白くまたたく光はなおも高く、天頂の最も高い星と混ざり合い、少女たちを見下ろしていた。そしてついに、星を背景にして、黒々とした輪郭の巨大きわまりない山頂を眼にするに至った。計測もかなわぬ至高の頂にあるのは人間の考えの及ばぬ城であり――未知なるカダスの頂にある、大地の神々の度し難く信じられない住処に他ならなかった。
「これが……カダスの居城」
あまねく感動と感嘆と歓喜と驚愕と茫然と感慨を一瞬に集約したような表情でかすれ声を発したヴィエは、縞瑪瑙の城の巨大さそのものが殆ど冒涜的なものであることを悟った。リアなどは口を馬鹿みたいに開いて、ただただ絶句するばかりだ。
するうち巨大な城門を通り抜け、夜闇に包まれた中庭を飛行し、迫持造りの入り口を過ぎると、内奥の黒い闇を進み始めた。ヴェエとリアの眼にはいかなる光も燈せぬ真の闇であるが、ふたりを乗せたナイトゴーントは縞瑪瑙の迷宮のなかを曲がりくねりながら飛翔し、ついに、青白い光がぼんやりきらめく、高みの窓がある塔の房室へ到達するや、広大な縞瑪瑙の床に着地したのである。
「ようこそ、現に顕現した未知なるカダスの居城へ」
薄れてゆく霞の向こうに、ひとりの少女が立っていた。
純粋であり、このうえなく儚げな存在感――ミエシーツ・ウビジュラ。
「未知の星たちの二重冠と謎めいた月が悠遠と輝くこの場所こそ、わたしとお姉ちゃんが存在の泡沫を決する夢の跡に相応しいと思いませんか?」
フヴィエズダとミエシーツ。
星と月。
「そうだね、舞台としては申し分ないかな。たとえ仮初めの擬似具現でも」
本物の精巧な再現に過ぎないが、それでも、ランドルフ・カーターしか辿り着くことのできなかったカダスの居城を目の当たりにした感動は筆舌に尽くしがたい。
「いまは仮初めですが、あと一時間もしないうちに完全に顕現し、第二のカダスが地球に誕生することになります」
「ふうん、人間にとって悲惨な結果にしかならないことは間違いないのに?」
「わたしは隆志さんが望むからそうしているだけです。ぜんぶ彼のためです」
「なんであんたは隆志のやつに手を貸してるの? 何かわけがあるの?」
ミィエとの共存や円満な解決は絶対に無理だとヴィエに念を押されたので、話し合いは諦めている。だからせめて、隆志に協力している理由だけは知りたいリアだった。
「隆志さんが好きだからです。そして彼もわたしの想いにこたえてくれました」
「……そ、そうなんだ」
「なーんだ、タカくんもロリコンだったんだ」
「違います。隆志さんを変質者のように言わないでください。お姉ちゃんの恋人さんと一緒にされては困ります」
「甘い、サイモンくんは立派なロリコンなんだから」
少しむくれた顔で否定するミィエと、得意げに胸をそらすヴィエ。
なんなんだこの会話は。リアはジト汗を浮かべた。
「ま、こんなことでせっかくの雰囲気を壊すのもなんだし……そろそろはじめようか」
腹部のアーチ門を開くヴィエ。周囲がさらなる夢に覆われていくなか、リアが想いの力を強める。縞瑪瑙のブローチが淡く輝き、蒼の輪郭が巨大な刃を形成した。
ヴィエは遥かな高みの天井に漂う幾つもの光球を見やった。間違っても恐るべき蕃神どもではありえない。窮極の盲唖の蕃神を具現化するなど不可能だ。とすると脆弱なる大地の神々に見立てた球体であろう。
星のまたたきと月明かりを背景に、ミィエが幻想的な動作でステップを踏んだ。
「さあ、奏でましょう――星と月のソナタを」
地上の一角で行われる激しい空中戦。単体で空を舞う男と、ドリルのついた空飛ぶ自転車を駆る二人の少女。戦いは後者のほうが若干優勢だった。
機動力と攻撃力はマグヌスに分があるが、空想具現化の確立変動により相手に防御無視で確実にダメージを与えることができる明石焼きと麻生香月のほうが有利なのだ。
「よし、このまま一気にたたみかけるっ」
「体当たりでOKやー」
「ちがう明石焼きっ、それは一気やなくて一揆や!」
接近してミニドリルミサイルを一斉発射する轟天号。相手の機動力が高くとも、数撃てば当たる。すべて回避できる距離ではなく、マグヌスは渋面で大ダメージを覚悟した。
砂塵に阻まれて爆発するドリル。本来命中するはずのものは当たったことになるはずだが、不可解なことにマグヌスが直撃を受けた様子はなかった。
「あれれ? はっ、まさか……うわ、やっぱり!」
CR機の画面に確変終了が表示されており、思わずぎょっとする香月。近くに眼を向けると、マグヌスの冷笑がはっきりと見えた。
「どうやら変則時間は終わりのようだな」
「まずいっ、逃げろ逃げろー!」
「急にそんなこと言われても……わ、わあ〜」
方向転換して急速離脱に入る轟天号。強烈な砂弾を連続で受け、激しい衝撃に空中できりもみ状態となる。そこへ追い撃ちの砂槍が加わり、大きくバランスを崩した香月は後部荷台から足を踏み外し、まっさかさまに転落していった。
助けに向かう明石焼きは間に合いそうもなく、少女の死が秒速で近づいた瞬間――
「サイモンアルティメットブーストッッッ!」
女の子を助けたい――女の子を守りたい――その想いが男を戦士に変える!
加速装置もかくやといわんばかりの高速で疾走してきたサングラスの男が、揺るぎなき跳躍で落下中の少女を受け止めると、そのままの勢いで轟天号の後部に着地した。
「俺の名はサイモン、愛の戦士さ!」
「わ〜、サイモンさんやー」
「おおおっ、ありがとうございますっ。そしてなんという美味しい登場!」
眠りながらにして少女の危機を察知したサイモンは、熱き想いをハートに焦がし、「夢見る人」として覚醒したのだ。
「ふん、いまさら夢見人が一人増えたところで、お前達の死は定まっているぞ」
「それはどうかなっ」
足場の位置を調整しながら、香月が自信に満ちた顔で声を張り上げる。
「人が死ぬときは、その命が尽きるときではないのです。生きることを諦めたときが、その人の死なのです。私たちはまだ生きています。生きているんです!」
「勝てないと思って挑んで勝てる相手など無い。思い出すんだ、俺たちの紡いできた熱き思いを。俺たちの本当の力を!」
「あんたにはわからへんのや。一つになった心の強さがぁ〜」
香月、サイモン、明石焼きがそれぞれ思い思いのセリフを繋いでいく。その異様なテンションはどこから生じるのか、マグヌスは理解できぬものを見る眼差しで眉を寄せた。
「なんだこいつらは……いったい何を言っている」
いまや夢見る人の三者は、勝手に壮大な脳内展開をつくりあげ、ボルテージを上昇させていた。だが幻夢境の物理法則に浸食されたこの場では、夢が、想像が、すべてとなるのだ。
「あなたなんかに負けない! 私はもう負けない! 私の中にみんながいる限り、私は諦めない! 絶対に諦めない!」
「お前には決してわかるまい! 思い知れ! みんなの想いを! 心を! 紡ぎ束ねた力の、本当の強さを!!」
「コタツの中でぬくぬくあったまって神様にお祈りする覚悟はええかあー?」
「わけのわからないことをいつまでも……お前達全員バラバラにしてくれる!」
魔力を集中させたマグヌスが、凄まじい砂の波動を放出させた。
退かず、媚びず、省みず、真正面から特攻する轟天号。
唸りをあげて回転する巨大ドリルが、荒れ狂う砂の波動を突き抜けていく。
マグヌスが驚愕に眼を見開いた。
「ドリーム・インパクトォォォォーーーーーーッ!!」
三人の声が、心が、一つに重なる。
其のドリルは――あまねく夢を貫くドリルなれば。
静けさが戻ったとき、マグヌスは地面に仰向けで倒れていた。上体を起こすこともせず、中空に浮かぶ自転車を茫と眺めた。
「なぜ……私を殺さなかった」
彼を貫いたドリルは、物理的攻撃ではなかったのである。
清々しい表情の三者。サイモンがよくわからないポーズを決めて言った。
「俺たちは人は殺さない。その怨念を殺す」
またも理解不能なセリフだったが、マグヌスはふっと眼を閉じた。その口もとはかすかなほほえみを湛えていた。
渺茫とした、凍てつく荒野。十メートルの距離を挟んで対峙する兄と弟。
「邪神の敷いたレールの上に乗っていると気づきながらも、軌道を変えなかったのだな」
「僕はこの世に生まれたその時から、大いなる意思の下にあったのです。無貌の神の掌中に落ちたものは決して逃れられないことを、兄さんもわかっているでしょう?」
「すべてはナイアルラトホテップの計画通り……か。だが、行動するのはお前の意志だ」
「そうです。僕は僕の意志でここまできました。神の掌で踊るしかないのなら、華やかに踊り狂うまで。そして、ここでそれを阻止されるわけにはいきません。――だから、僕が、この羽丘隆志が……兄さん、あなたを葬ります」
「いいだろう。ならば私も心置きなくお前を断つことができる」
錫杖を構える権化。今、彼は隆志を打ち倒すべきものと認めた。
「オン・バザラ・タラマ・キリク」
錫杖の大輪にかかる飾り輪が無数の刃となる。避けようとも防ごうともしない対象めがけて四方八方から飛翔したが、命中する前にすべて粉々に砕け散った。不可視の何かに払い除けられたかのようであった。
冷笑を浮かべる隆志の背後にぞっとするほど巨大な影が降り、権化は反射的に防御結界を張るや、立て続けに真言を唱えた。
「オン・ソンバ・ニソンバ・ウン・バザラ・ウン・パッタ!」
直後、信じがたい圧力が一撃で結界を打ち砕く。
錫杖を構えた権化の背に明王の姿が浮かび、結界を砕いた圧力から身を護る。しかし、それでも完全には防御しきれず、険しい表情で地に膝をついた。
「ぐ……なんという力か」
「ふふふ、見えますか? 僕の背後に聳えるものが……この力の源が」
「――!」
眼を凝らしてそれを視認した途端、権化は激しい戦慄を覚えた。山脈の上にまで及ぶ朦朧とした輪郭は、途方もない広がりをもって宇宙的恐怖を示しており、その全貌を眼にするや、権化の心には完全にはぬぐいさることのできぬ冷気が押しよせた。
それはカダスの彫像山脈が生をもった想像を絶する歩哨であり、その化け物じみた双頭のいただく丈高い司教冠が、地上より何千フィートの空中で揺らめき、途轍もない巨大な姿をあらわして右手を振り上げていたのだった。
防御結界を一撃で打ち砕き、明王憑依による護りをもってした権化さえも地に膝をつかせたのは、間違いなくその右手なのだ。
それこそ、未知なるカダスの恐るべき双頭の守り。
「ご覧の通り、今ここに立つ僕にはカダスの歩哨の力が宿っています。兄さんに勝ち目はありません」
全身をわなわなと震わせながらも悲鳴を口に出さず立ち上がった権化を見つめ、隆志は寂しげに瞳を揺らめかせた。
窓一面に広がる星のまたたき。カダスの居城の房室では、ヴィエとリアが有利に戦闘を展開させていた。
「むー、思ったよりやりますね」
押され気味なミィエは、しかし一切の余裕を崩してはいない。
ミィエはこの世に存在を得た瞬間から、膨大な魔力と、現存する殆どの魔法をその身に秘めている。一般的に知られている武術や格闘技も達人レベルで行使することができ、さらには、あらゆる超常の力と物理攻撃に対して強固な抵抗力と防御力を兼ね備えているという、反則まがいの能力を個人で有しているのだ。
二対一とはいえ、ヴィエ側が優勢なのは、ひとえにヴィエとミィエの相性の差に他ならない。存在的に同一であるゆえ、本存在であるヴィエはミィエの行動に対してある程度のイニシアチブを発揮することができる。くわえて、エルダーサインでミィエの攻撃威力を大幅に軽減可能なため、リアと共闘することで互角以上に戦えるのだった。
そしてついに、青く輝く刃の一撃が、ダメージの蓄積していたミィエを吹っ飛ばした。
「あいたぁ……いまのは結構ききましたよ?」
軽く頭を振りながら起き上がる少女に、リアは驚きを通り越して呆れた。頑丈すぎるにも程がある。
リアの構える巨大な刃を見つめ、ミィエは楽しそうに笑った。
「それにしても面白い剣ですね。ですが、そんなオモチャでは相手になりません」
「……蒼き彗星」
「ん?」
「蒼き彗星――私の信念のかたちよ。見くびらないで」
「わあ、リアさんかっこいいー」
「しょうがないですね、本気を出すことにします。少し寿命が減ってしまうのであまり使用したくはないんですけど……」
ミィエの額に、翠光を放つ紋様が浮かんだ。迸る七色の閃光が幾重にも彼女を包み、今まで感じたこともない膨大な未知のエネルギーが収束していく。その光り輝くオーラにヴィエとリアは圧倒されて立ちすくむばかりだった。
閃光がはじけ、翡翠の粒子が散った。
輝きがおさまると、ミィエの衣服がやや扇情的なものに変容していた。しかしなによりも眼についたのは、額で淡い光を放つ紋様と、濃いエメラルドグリーンの双眸である。
どこまでも清涼な空気を漂わせていた少女が、初めて不敵な表情を見せた。
「お姉ちゃんなら、わかりますよね」
「ただのホムンクルスじゃないだろうとは思ってたけど……まさかあなたの肉体が『不死兵』だったなんて」
ヴィエは慄然とした様子で声を震わせた。
不死兵――それは神代に創られた不老不死の超戦士。神代の破壊技術の粋を集めた結晶であり、絶大な戦闘能力を有しているという。不死兵たちは神代の戦争終結時に役目を終え永い眠りについたのだが、稀に目覚める者もおり、正常な者は比類なき勇者として、暴走した者は恐るべき魔王として、それぞれ遠い昔の伝説に名を残している。
経緯は不明だが、隆志は眠りについていた不死兵のひとりを発見し、セラエノの大図書館で得た知識を用いて、ミィエの存在をその不死兵に上書きすることに成功したのだろう。
「では、わたしのターンということでよろしいですか?」
周囲に浮かぶ無数の碧玉。閃光状の刃を両手に形成し、ミィエが深い翡翠の瞳をきらめかせた。