第23話「すれちがい」
『星の智慧派』本部。
広々とした薄明の室内は、壁が天井から床まですべて、黒いビロードのような布で覆われていた。闇のカーテンに包まれた内陣を照らすのは、ほのかな青白い照明。側壁に沿って並べられた背の高い錬鉄の火鉢から香が燃えあがり、奇妙な甘い匂いを漂わせている。
集まっているのは、星の智慧派の司祭たちと一部の信者たち。黒っぽい古びたオーク材の重厚な腰掛に坐り、不気味なほど静かに前方中央の演壇を見つめている。演壇は両側にカーテンがおりて狭い中央部だけが見えるようにされ、背後が闇に包まれている大きな書見台があった。
突如として銅鑼の響きが室内の静寂を打ち砕き、黒い服に赤いローブを纏った者が影の中から現れて演壇に立った。
「汝らに安らぎと智慧を」
その漆黒の肌は、まさしく石炭のような、スペードのエースのような黒人だった。
彼こそは星の智慧派の指導者、ナイ神父である。
神父が深紅のローブの下から両腕を出し、白の手袋をはめた手をあげると、会衆が立ち上がり、唱和した。
「安らぎと智慧を」
「星の智慧を」
「星の智慧を」
祈りの言葉と唱和。
それが一通りおさまると、説教と教団活動の報告が続き、最後に、ひとりの信者が名を呼ばれた。信者は隣に座っている少女に優しい眼差しを送ってから列を外れると、中央演壇の前まで進み、恭しくその場に跪いた。
「顔を上げるがよい、隆志よ」
信者――隆志が跪いたまま面を上げると、ナイ神父は演壇から彼を見下ろし声をかける。
「汝の実践はしかと確認した。その結果をうけ、汝に「銀の鍵」の使用続行許可と、そして、汝が星の智慧の司祭となることをここに受按せんことを」
軽くどよめきがおこるなか、隆志は再びこうべを下げて眼を伏せた。その頭上に白い手袋をとったナイ神父の手がかざされた。その手は、掌まで黒かった。ピンク色ではなく、漆黒だった。
暗黒の洗礼を受け、たったいま、隆志は『星の智慧派』の幹部となったのだ。
他の司祭たちから祝福の声があがった。その中の一人、マグヌス・オプスも型どおり無表情に祝福の言葉を述べた。隣で、金髪の美少年が腹立たしそうな眼を隆志に向けていた。
「われは汝らに福音をもたらそう」
ナイ神父は手袋をはめなおした手を書見台の後ろに下ろし、収納箱らしきものを取り出すと、書見台に置いた。会衆がざわめき、すぐに静まり返った。
ナイ神父がおもむろに箱の後ろを押すと、蓋がはねあがり、金属製の容器の内部から、くるめくばかりの乱舞する光がひらめいた。ナイ神父の顔がその輝きに包まれ、彼は箱を前に傾け、内部で光を放っているものを見せた。
「海底よりのぼってきた旧支配者の贈物を見よ。汝らを自由にする、星たちからもたらされた真実の贈物を見よ」
四インチほどある球形の物体――ふぞろいの平面部を数多く備える、赤い線の入った殆ど黒に近い多面体。その驚くべき結晶体は箱の底面にふれることなく、中心を取り巻く金属製の帯と、箱の内部の上部から水平に伸びる奇妙な形をした七つの支柱とによって吊りさげられていた。
みなが一様にそのまばゆい輝きに魅入った。一番近い隆志はもとより、ミィエも、マグヌスも、アルカへストも、そのほか、この場にいる全員が、めくるめく輝きのまえに恍惚の面持ちで口をぽっかりと開き、謎めいた詠唱のもとに不思議な唱和を反響させたのである。
「隆志よ、汝に<輝くトラペゾへドロン>を授けよう――」
信者たちが自室へ散らばってゆくなか、同じく自分の部屋に帰ろうとする隆志の前に、アルカへストが立ちふさがった。端正な美貌を歪め、敵愾心に燃える瞳をきらめかせた。
「ぼくは認めないぞ。お前がそれを授かるに相応しい者だなんて」
司祭の仲間入りをはたし、さらには<輝くトラペゾへドロン>を授けられた隆志は、いまや名実ともにナイ神父の後継者候補筆頭にのぼりつめたのだ。
隆志は困ったように微笑を浮かべ、両手で持つ金属製の箱に眼をおとす。
「君がどう思おうとも、事実は曲げられませんよ」
「貴様――」
美少年から爛々とした魔力が燈りかけたとき、隆志の後ろにいた少女が前に出た。
「隆志さんに手を出すつもりでしたら、わたしが相手になります」
清涼と凄まれ、アルカへストは忌々しげに舌打ちした。彼女が本気を出したらとても太刀打ちできない。ミィエの戦闘能力は圧倒的で、星の智慧派内でも最強なのだから。
無言で背を向け、その場から立ち去るアルカへスト。
その表情にはこのままではすまさないという意志が溢れていた。
御納戸町。
羽丘隆志の行方は杳として知れず、ヴィエはトラペゾ教会を隅々まで調べたが、重要と思われるものは何一つ見つからなかった。隠された地下の地下に、未知のテクノロジーで作られた形跡のカプセルが残照を留めているだけだった。
正月を過ぎたある日、ヴィエはリアを連れて高級住宅街を歩いていた。富裕層が軒を連ねる一帯で、リアは殆ど足を踏み入れたことがない。
「お父さんのお得意様だった知人の息子さんがこの町に住んでるんだけど、何か最近奇妙なことが立て続けに起きて、一週間前に奥さんが精神を患って自殺して、さらに先日には七つになる娘さんが原因不明の昏睡状態に陥ったみたいなの。その娘さんが意識を失う直前に、わたしの名前を口にしたらしくて……それでわたしが呼ばれたってわけ」
「あんたが私に同行を求めるときは、たいてい厄介事絡みね」
「それだけリアさんを信頼してるってことで♪」
「別に私なんか連れていかなくても、魔術で何とかできるでしょ? あんたの魔法を見てると、何でもありって気がしてくるわ」
「そーお? わたしにすれば現代科学のほうがよっぽど何でもありだとおもうけど。よく言うでしょ、行き過ぎた科学は魔法と何ら変わらない――って。千年前の人間が現代を目の当たりにしたら、それはきっと都合の良すぎる世界に思うんじゃないかしら」
「まあ……そう言われればそうだけど」
「それに魔術とは本来、生活に密接な関わりを持って派生したもの。西洋における魔術はそれすなわち錬金術のことを指し、卑金属から貴金属を生み出すための『科学技術』だったわけ。錬金術を意味する『アルケミー』という英語は、アラビア語の『アル・キーミヤー』から来ている。そして科学を意味する単語『ケミストリー』もまた、本来は『アル・キーミヤー』から派生した言葉なの。つまり――解るかな? 魔もまた法なの。大いなる法則の結晶……『科学』なんだよ」
「なんか、こじつけっぽくない?」
「うふふっ、埒外のことには理解力の乏しい、そんなリアさんがわたしは好きよ」
「このやろー」
そういった会話を交わしているうちに、目的の家に到着したのだった。
二十代後半の青年はセガールといった。眼前では幼い娘ソニアがベッドの上で眠っている。一見して普通に睡眠中のようだが、数日前から目覚めないのだという。医者に診てもらったが原因はわからず、やむなく藁にもすがる思いでヴィエに連絡をとるに至った。
「それで、こうなる前に娘さんに変わったことはありませんでした? 昏睡前にわたしの名前を呼ぶ以外に、何かおかしな言動とか」
「そういえば。最近、トミーがよそよそしいと……」
「トミー? なんですかそれは」
「そ……それは」
セガールは一瞬口ごもり、やがて意を決したように眼を据えた。
「トミーとは動物の名前だ。不器用な熊が眼鏡をかけたような姿をしているらしいんだけれど、私は見たことがない。娘だけに見える生き物なんだ」
こんなことを言っても信じてもらえるかどうかという声音だったが、ヴィエは納得いった様子でうんうんと頷き、微笑した。
「それはI・Cね」
「I・C――?」
聞き慣れない用語にきょとんとする二者へ、ヴィエはいつものように薀蓄を語りだした。
「イマジネーション・コンパニオン。多重人格の一種といっていいかな」
自分自身の人格から派生したもうひとつの人格であり、それは空想の生物であるがゆえに他人には見えようはずがない。
「たとえば人形やぬいぐるみとか、そうやって擬人化した友達と遊ぶことは、子供が社会へ出ていくためのひとつのシュミレーションになるものなの。ところがごく稀に、その友人をゼロから空想する感性を持った子供もいる。やがて成長していくにしたがって消えていくはずのI・C……だけど、彼女の場合は消えずに残っちゃったのね」
「すると、原因はトミーなのかい?」
「うーん……それはありえないかな。これはたぶん第三者の、あるいはポルターガイストみたいな、こほん、リアさんを連れてきたのは正解でした。リアさんは初めに紹介しましたとおり退魔師さんです。あとは彼女に任せてわたしたちは退室しましょう」
「ちょ、ヴィエ!」
「わたしはちょっと調べたいものがあるから、リアさんは彼女の様子を見張ってて」
一方的に小声で告げるや、ヴィエはセガールとともに部屋を出ていった。
リアは憮然とした表情で溜息をつき、眠りつづける幼女を心配そうに見やった。
二十分ほどが経過したとき、突然に異質な気配を感じた。身構えるリアの前にそれはいた。ベッドの脇の床に、不器用そうな眼鏡をかけた熊のぬいぐるみが立っていたのだ。
これがトミーだろうか。出方を窺っていると、今度は魔力が流れだし、壁際に小柄な人影が現れた。
背丈はリアとさして変わらない、金髪碧眼の美少年だった。
「初めましてリアライズさん。ぼくはアルカへスト、『星の智慧派』の一員さ」
「あなたが怪現象を起こしてこの子を眠らせたの?」
「半分正解で半分不正解だね。きみには因縁はないんだけど、そうだね……隆志が思い入れのある人間だから、使えるかもしれないな」
「隆志を知ってるの!?」
思いがけず出た名前に大きく反応するリアに、アルカへストは憎々しげに眼を細めた。
「ああ知っているさ。ぼくはあいつが大嫌いだからなぁ!」
美少年から魔力が溢れると同時に、部屋全体が異空間と化した。さらに、熊のぬいぐるみが巨大化して恐ろしい叫び声をあげたではないか。
「な――っ!?」
「ははは、驚いたかい? どんな人物にもその潜在意識に怒りと憎しみという名の獣が棲んでいる。それがイドの怪物。ぼくはエスの方程式を操作することによって、その獣を自在に操ることができるのさ!」
イド、またはエスとも呼ばれるそれは、精神構造モデルにおける自我、超自我の奥に位置する「抑圧される欲動」。今日の精神分析の主流である対象関係論、自己心理学からはやや外れているが、愛情欲動、攻撃破壊欲動のすべてを指す。
アルカへストはソニアの持つI・Cを、エスの方程式を操ることで凶暴化させたのだ。
「さあ、喰われてしまえ。イドの怪物に喰われた者は精神崩壊するんだ」
全長五メートルはある不器用な熊が唸り声を発して襲いかかってきた。
リアはその一撃をかわして密教術で応戦を開始するが、
「言っておくけど、その獣を滅ぼしてしまったら、発症者の心も壊れちゃうよ?」
「……っ、卑怯者!」
「ありがとう、最高の褒め言葉だよ」
怪物の攻撃を避けながら、愉悦の笑みを浮かべるアルカへストへと拘束術を放つ。操者を捕らえてしまえば何とかなるはずだ。
しかし、期待に反して術は効果がないどころか、素通りしてしまったのだ。
「無駄だよ。ここにいるぼくは投影された影に過ぎない」
「それならっ」
今度はベッドへ駆け寄るリア。眠りについているソニアの精神に働きかけ、怪物の発生を抑制しようと試みるが――思わず立ち尽くした。
幼女の目が開いたのである。
上体を起こしてリアを見つめるや、凄まじい絶叫を迸らせた。
「パパに近づくなぁぁぁーーーーっ!!」
強烈な衝撃波をまともに叩きつけられ、リアは受け身も取れず転がった。起き上がろうとした瞬間、トミーの熊手に体を鷲掴みにされ、ものすごい力で締め上げられる。シュールで不気味なぬいぐるみが大きな口を開けて彼女を飲み込もうとしたとき、漆黒の刃先が熊の腕を切り裂いた。
解放されて床に投げ出されたリアは、そのまま意識を失った。
鋭利な爪で窮地を救ったナイトゴーントが、音もなく翼をはためかせて幼女の全身を押さえつける。
「やっぱりね」
と、異空間に入ってきたチェコ第五の魔道士は言った。
「玩具部屋にあったその娘の日記を見たけど、重度のファザコンなのがわかったわ。母親を精神崩壊させて自殺に追い込んだのもソニアの仕業ね」
「そのとおり、ぼくはその子のエスを開放して密かな願望を後押ししてやっただけのこと。ようこそフヴィエズダ。きみを呼び寄せたのは他でもない、きみの妹を始末するための触媒となってもらうよ」
「仲間割れ?」
「あんなの仲間でもなんでもないさ。それよりこの事態、どう解決するつもりだい」
「どうもなにも、こうするまでよ」
ヴィエは右の掌を突き出しエルダーサインでイドの怪物を怯えさせ、その動きを抑えると、魔力を集中して魔法を行使した。
見る間に幼女が苦鳴を漏らし、夜鬼に押さえつけられたまま必死の形相でもがき始める。愛らしい顔は痛みと恐怖に引きつりかえった、常人なら眼をそむけたくなるような有様で血管を浮き上がらせていた。
「エスを反転逆流させるだと……? そんなことをすればその子が大変なことになるぞ」
「知ったことじゃないよ」
チッと舌打ちして、うっすらと消えていく美少年の姿。しかし消え去る直前の顔は、薄い唇の端をにんまりとつりあげていたが、それは幼女の絶叫に掻き消された。
異空間の崩落とともに光が爆ぜた。
ひっそりとした寝室で、顔から足まで全身包帯巻きでベッドに横たわっている小さな体。
セガールは沈痛な面持ちで眼を閉じ、娘の手を握り締めることしかできず、かすれるような嗚咽が漏れた。
ごめんなさい、パパ。そんな言葉が幼女の口から何度もうわごとのように流れた。
夕焼けに染まる御納戸公園で、リアがやるせない眼差しを傍らに向ける。
「ねえヴィエ……何とかならなかったのかな。ほかに手段はなかったの?」
ソニアは目を覚まして意識を取り戻したのだが、その方法が強引だったため、幼い身体に一生消えないような傷が残ったのだ。
「手段ならあったよ」
「え――? もっと無事に助けることができたってこと?」
平然と頷くものだから、リアは困惑した。
「じゃあ、なんでそうしなかったの。あの場ではできなかったとか、準備が足りてなかったからとか?」
「面倒だったから」
「……」
「だって手順を踏まないといけないし、手間が増えるし、面倒じゃない。だいたい悪いのは向こうなんだから、命が助かっただけでも御の字でしょ」
そう言って得意げに嘲笑した、次の瞬間。
パシンッと音が鳴った。
一瞬なにが起こったのかわからず、ヴィエは自分の頬に触れた。じんじんとした熱が伝わってきて、赤くはれている感触――頬を張られたのだと理解できた。
みるみるうちにダークブルーの瞳が潤み、眉が八の字にさがると同時に、信じられないといったふうに涙がこみ上げてきた。
「ぶった……リアさんがわたしをぶった……友達なのに……素直に話してあげたのに……それなのに……っ」
「あ……」
対するリアも、茫然自失の状態で、ふるふると自分の手を見つめた。
そんなつもりではなかった。ヴィエを責めることなどできない。何の役にも立たず、逆に窮地を救ってもらった自分が彼女を非難するのはお門違いだ。
ただ、その場でもっと穏便に解決することができたのに面倒くささを優先させ、幼女を重体にしておいて笑ってすませるのを見た途端、無意識のうちに口より先に手が出てしまったのだ。
「リアさんなんか、大っ嫌い!」
感情を爆発させた声を張り上げ、ヴィエは目に涙を溜めながら走り去っていく。
リアは後を追うことができず、赤黒く変色する空の下に影を落とし、立ち尽くすのみだった。