第3話「笑顔の理由」後編
空間の中は森林生い茂る山中だった。ヴィエを降ろしてぽつぽつと数歩、辺りを見回し、思わず呆気にとられるリア。
「なんなの、ここ……」
遠くに、黒い門のある一軒家が目についた。左右に開いた門へ一直線に向かう少女たちの後ろ姿へ大声で呼びかけるが反応はない。
嫌な予感がした。あそこへ行かせてはいけない――そう直感して駆け寄ろうとするが、お約束ともいえる不可視の空圧によって跳ね飛ばされてしまった。
すぐに起き上がり、指を二本あわせた手刀で空中に素早く格子状の九字を切ると、リアは内縛印を結んだ。
「ノウマクサンマンダ・バサラダンセン・ダマカラシャダソワタヤ・ウンタラタカンマン」
続けざまに次々と結んでゆく印と唱える真言の正確さよ。
「オン・キリキリ オン・キリキリ ノウマクサンマンダ・バサラダンセン・ダマカラシャダソワタヤ・ウンタララカンマン ノウマクサラバタタ・ギャテイヤクサラバ・ボケイビャクサラバ・タタラセンダ・マカロシャケンギャキサラバ・ビキナンウンタラタ・カンマン」
剣印、刀印、転法輪印、外五鈷印ときて、最後に諸天救勅印と外縛印を結ぶ。
「オン・キリウン・キャクウン ノウマクサンマンダ・バサラダンセン・ダマカラシャダソワタヤ・ウンタラタカンマン!」
キンッ、と振動が走った次の瞬間、少女たちはネジの切れたゼンマイ人形のように不自然な格好で停止した。一軒家まであと少しというところで。
ホッと息をついたところへ、背後からゆっくりと近づいてくる気配。振り向いた碧眼に不敵な笑みが映った。
「なるほど、不動縛かあ。さすが真言密教系の退魔師さんね」
「ヴィエ、体のほうは大丈夫なの?」
「わあ、風邪人を無理矢理連れ込んでおいてよく言うわよー。大丈夫な風に見える?」
「う……わ、悪かったわね……ごめん」
言葉を詰まらせながら、申し訳なさそうに謝るリア。そんな彼女の様子にヴィエはぽかんと大きな眼をパチパチさせた。
「いやあ、リアさんってほんとに……」
言いかけたのを途中で止め、
「まあいいか。こうなったからには逆に楽しまないと損だし、えーと……ふうん、そっかあ」
納得いった風にニヤリと頷くヴィエ。何かわかったのという顔で見つめてくるリアへ、得意げにウインクして人差し指を左右に振った。
「これはマヨイガね」
「マヨイガ?」
「リアさんは柳田国男の遠野物語を読んだことあるかしら」
「いや、ないけど」
「漫画やライトノベルばかりじゃなく、たまには文学書物に目を通してみたら? 児童文学なんかもなかなか奥が深くて面白いわよ」
「う、うるさいうるさい。それでそのマヨイガとやらがなんだっていうの」
普段は隠しているが、リアの趣味はマンガやゲームだったりする。以前ヴィエに自宅へ不法侵入されたことがあり、部屋を物色した彼女に発覚されたのは苦い思い出だ。
「マヨイガは『迷い家』というんだけど……よくあるでしょ、山で道に迷った人間がおかしな一軒家を発見するってパターンの話」
「ヘンゼルとグレーテルとか?」
「まあそんなのでもいいけど、各地で共通する伝承的なものとして、隠れ里伝説とか、所謂「どこにもない場所」ってやつ」
「よくわからないけど、つまりこれはそういう「現象」ってこと?」
「そういうこと」
「それじゃ、あの家に入ったらどうなるのよ」
「このパターンだと空間を越えてどこか別の場所に放り出されると思う」
それなら大事にはならなさそうだと思ったリアだが、運が悪かったら断崖絶壁とか海の上なんかに出るかもしれないとのことで改め直した。
不動縛の効果もそんなに長く続くわけではない、早くこの状況を脱しないと。
リアは印を結んで精神集中し、空間の特異点を探り始めた。
「……よし、意外に早く――えっ!」
探知を開始して程なく反応があったが、直後に予想外のことが起きた。
本来一箇所であるはずの特異点反応が多数感知されたのだ。それも信号機の明滅かモグラ叩きのように、それぞれ消失と点灯を繰り返し始めたではないか。
「どうなってるのこれ」
「防衛反応というところじゃないかしら。意思の無い現象のくせに面白いわね」
「そんな悠長に面白がってる場合じゃないでしょっ」
この防衛機構を見破るのは骨が折れそうだ。時間をかければ何とかできないこともないだろうが、困ったことにそれだけの余裕はない。
「ふふん、しょうがないなあ。友達のよしみで手助けしてあげるから感謝してね」
「ちょっとヴィエ?」
「まあ黙って好機に備えてなさいな」
先程から妙にご機嫌らしいヴィエは、軽やかな足取りで数歩距離を置いた。
濃密な魔力の放出。十一歳ながらその高い魔術練成は見事なほどで、あまり認めたくはないが技量は本物だと実感せざるを得ないリアだった。
「クロック・オブ・ド・マリニー」
ヴィエの声と同時に、中空で霧状の闇が形を整えた。それは、文字盤に不可解な象形文字が記され、四本の針がこの惑星にて知られるいかな時間律にも一致せぬ動きを見せる、棺の形状をした奇妙な時計。
リアは眼を見張った。大時計が異様なリズムで時を刻み出した途端、分裂と明滅を繰り返していた空間特異点の反応がひとつに収束を開始したのである。
ド・マリニーの時計――象形文字の刻まれた棺形の時計が奏でる異様な音色が、宇宙的な尋常ならざるリズムをもって真実を暴き出す。
訪れた好機。
「そこだわっ」
間髪入れず水色のポーチから独鈷杵を取り出し、流れるような動作で投擲するリア。
ヴィエの魔法で防衛機構を破られ浮き彫りとなった特異点に突き立った。
「オン・アビラ・ウンケン・ソワカ!」
印を結び真言を唱えた瞬間、鏡の破砕音が一度だけ鋭く響くや、薄靄が晴れるように周囲の森林と一軒家が瞬く間に消失したのだった。
視界がもといた角の小道に戻り、ヴィエのクラスメイト数名は意識を失ったままアスファルトに横たわっている。
「ふう、よかった。なんとかなったみたい」
一息ついたリアがホッとした顔を傾けると、
「あはは、やっぱりちょっとつかれたきゅー」
「――ヴィエ!」
ふらっと膝をついて倒れこんだ少女に駆け寄り、慌てて抱き起こすのであった。
「うう……ん」
目を覚ますと、ベッドの上。額に置かれた濡れタオルを取り、寝ぼけまなこで辺りを見回したところ、自分の家でないことは明らかだった。それどころか見覚えがある。
「確かリアさんの母親の部屋だったかな。そっか、ここはリアさんの家か」
服の感触が違うことに気づいて目をやると、青色のパジャマ姿だった。ベッドに寝かせるときに着替えさせられたのだろう。壁を見ると自分の学生服がハンガーにかけられている。
そのときタイミングよくドアが開き、リアが入ってきた。
「目を覚ましたのね。体調はどう?」
「ん……だいぶましになったみたい。えっと、わたしが気を失った後どうなったの」
「よかった。えーと、ちょうど明石焼きが通りかかったから、事実は伏せて、あんたのクラスメイトの介抱を任せてきたわ」
「ああ、彼女のゆったりした関西弁は面白いわね」
明石焼きとはこの春に大阪から引っ越してきた少女で、現在はリアのクラスメイト兼友人。本名は秋霜止(しゅうそう いたる)という。
「それであんたのことだけど、私の家のほうが近かったから……あと、さっきあんたの携帯にサイモンさんから心配の電話あったから事情伝えておいたわ」
「オーケイ、妥当な判断ね。恋人に看病されるシチュを堪能したかったけど仕方ないか。――ところでこのパジャマはリアさんの?」
「そうよ。あんたの下着は汗でぐしょぐしょだったからタイツと一緒に洗濯して脱衣所に干してあるわ。乾くまでもう少しかかると思うから、それまでパジャマだけで我慢してね」
ヴィエの下着は上品な白のキャミソールとショーツだった。
「わあ、リアさん、わたしの服を脱がして全裸にしたんだぁ」
「いやらしい言い方でわざとらしく頬を染めないでくれる?」
ジト目で突っ込みながらも、扇情的な声色と仕草に思わずドキッとなる。性根はともかく素面は器量良しな美少女だけにタチが悪い。着替えさせたときに目に入った素肌と肢体は、繊細でとても綺麗だった。
「うふふっ、照れちゃって。そうだリアさん、わたしのお腹に何か変なところなかった?」
「ん? そんなじっと見てないからよくわからないけど……小さなほくろが腰の近くにひとつあったくらいかしら」
「なるほど、やっぱり術者には感じられる程度の綻びがあるか〜。改善点ね」
「なんなのよいったい」
意味が分からず首をひねるリアに、こっちの話と流すヴィエ。
「お礼がまだだったわね。わたしをここまで運んで看病してくれてありがとう」
「あんたが素直に感謝の気持ちを表すなんて珍しいじゃない」
「くすくす、社交辞令よ」
「てめー」
と毒づいてから、リアは急にまじめな顔になって頭を下げる。
ごめん!――真剣な態度でそう謝ると、ヴィエは口を半開きにして呆気にとられていた。
「熱でふらふらなのに無理矢理付き合わせて、それでこんなことになって……私のせいで本当にごめん! それと、あの空間で手助けしてくれてありがとう」
「……」
暫し、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていたヴィエだが、
「いやあ、リアさんってほんと、いいひとって言うか……お馬鹿さんねえ」
ひたすら感心するばかり。正直なところ楽しくて楽しくて仕方がない。
「気にする必要ないわよー。だってわたし、本気で嫌だったら空間内へ連れ込まれる前に脱出してるし。抵抗らしい抵抗をしなかったのは、付き合ってもいいかって思ったから」
「でも……」
「うふふ、まあリアさんのそういうお馬鹿さんなところ、わたしは結構好きよ?」
「……からかい甲斐があるから、とか言わないわよね」
「えー? 友達に向かってそんなぁ」
愉快そうに口端をにんまりさせるヴィエを見て、こいつに少しでも負い目を持った自分がバカだったと、うんざりしたように溜息をつくリアだった。
「あんた、昔からそんななの?」
「人を根っからのろくでなしみたいにー。以前のわたしは自分で言うのもなんだけど、ひねくれてない純粋な女の子だったんだから……ってなに、その「嘘だッ!」って顔」
「いやだって、とても信じられないというか……じゃあなんでそんなになっちゃったのよ」
「リアさんさらりと酷いこと言うねー。――ほんの一年ちょっと前のことだけど、ショックなことがあってね。それで今の性格になっちゃったの」
「そう、なの?」
さらっとした口調からして嘘を言っている様子はない。今更取り繕うとも思えないし、本当だと見て間違いないだろう。そう思うと何だか緊張してくる。
そんなリアの挙動を見透かしたか、ヴィエはパタパタと手を振った。
「ああ、勘違いしないで。べつに不幸自慢に参加できるような重い過去じゃないわよ? ただ当時のわたしにはすごく衝撃的だっただけ。今から思えば大したことはないんだけれど――人が変わるのはきっかけがあれば簡単なことで、そして一度変わってしまったら元には戻れない。それがいまのわたし」
「ヴィエ……」
「何かを失って何かを得て、でも、わたしが失ったもののなかのひとつ、だいじなひとつが、サイモンくんと一緒にいるとね……それが燈るんだ」
ふっと眼を閉じ、そして浮かんだものは、
「わたしは、誰かに依存しないと生きていけない人間だから――だから、わたしにはサイモンくんが必要なの。今も、これから先も」
大人びた少女の――子供らしい笑顔であった。
思わず見惚れてしまい、リアは無性に悔しくなってそっぽを向いた。
「な、なによ、結局ノロケじゃないの」
「リアさん素直じゃないんだからー」
「う……うるさいっ。その様子じゃもう大丈夫みたいだし、下着が乾いたら帰ってもらうわよ」
「はいはーい。そういえばひとつ聞きたいんだけど」
「ん、なによ」
「この町って今回みたいな現象とか頻繁に起きてるの?」
御納戸町にやって来て二ヶ月ほど経つヴィエだが、その間にもこの前の蛇女を含めて結構な数の事件に遭遇した。それなりの情報は仕入れていたが、これは予想以上だ。
どうやらリアも覚えがあるのか、少し考え込んでから頷いた。
「昔から不思議なこととか発生してたけど……それでも年に数回程度だわ。これだけ頻繁に起こるようになったのは、最近になってからだと思う。そうね、今年に入ったあたりからかも」
「ふうん……そうなんだ」
「あんたでもそんなこと気にするのね」
「ふふ、まあね。ちょっと御膳立てが良すぎるかな――って」
安楽椅子探偵のような思案顔を見せるヴィエ。後半は殆ど呟き口調である。
「なんでもいいけど、とりあえずもう少し休んでなさい」
「ふむ……折角のご好意を無碍にするのもなんだし、お言葉に甘えさせてもらうわ」
その優しいほほえみよ。いつも嘘偽り抜きにこうであればと苦笑するリアだった。
それでも、心のどこかでホッとした、そんな日のこと。