プロローグ「藍色の街」
半年前――
御納戸町。都市部寄りに位置する中規模の町で、昔からよく怪異や不思議なことが発生しているとの噂が絶えない。
その日は朝から暗雲たちこめる、陰鬱な空気を漂わせていた。
とある小さな教会の一室で、一人の中年神父が椅子にもたれかかり、仰向けで白目を剥いて息絶えていた。
人間の顔にこれまで見たことがないような、純然たる激しく凄まじいまでの恐慌状態の末に訪れた狂気と恐怖の果てとさえ形象できるほどの死顔であった。
机の上では何やら不均整な金属製の小箱が開かれており、その近くに、妖しい笑みを湛えた謎の黒人神父が薄闇の中に立ち、太陽すら飲み込みそうな漆黒の双眸が既にこときれた神父の死体を睥睨している。
「まったく……人間というものは進歩がない。――だからこそ面白いのだが」
嘲笑を交えた、無明の暗闇の底の底から揺らめくような声。
「さて、これで駒が動き始めるというもの」
五ヶ月前――
トルコのイスタンブール。薄灰色の丸眼鏡をかけた日本人の青年が、祖国の知人から連絡を受けた。
その内容に、温和な顔を沈ませて悲しげに鳶色の瞳をそっと伏せた。
「わかりました。彼は僕にとって今の道に進ませてくれた恩人のような人でしたからね……遺言どおり教会を継がせてもらいます。なるべく早く帰国の段取りを整えますので」
四ヶ月前――
御納戸町の住宅街。羽丘家では引越しの準備が進められていた。
「お父さん、本当にお母さんと一緒に地方へ引っ越しちゃうの?」
見た目十代前半。肩までの金髪を頭部の左上でバラ風のお団子にまとめた碧眼の少女が、半ば諦めたように言った。
がっしりした体格を引き締まらせる禿頭の中年男が、何を今更という感じに頷く。
「あの馬鹿者が帰ってくるのだぞ。同じ町でなど暮らせるものか、虫唾が走るわ」
「そりゃまあ……あの破戒僧にうんざりするのはわかるけど」
「お前はどうするのだ」
「十七年間生まれ育った町を離れたくないわよ。友達もいるし今の生活結構気に入ってるし。だから残るわ」
「そうか。まあ生活費は送るから心配するな」
「ありがとうって言えばいいのかな。一応私バイトしてるし、最低限の仕送りで大丈夫だから」
父が引越しの準備に戻ったあと、娘はうーむと溜息をついた。
「まさか自分の家で一人暮らしすることになるとはねー」
三ヶ月前――
チェコのプラハ。広い豪邸で引越しの準備が進められていた。
「ヴィエちゃん、もしかして引っ越すのかい」
「そうだよー。ちなみに日本」
「わっ、日本って外国じゃないか」
「うん。わたしは問題ないけど、サイモンくんは日本語喋れたっけ?」
「大丈夫さ……数年前に必死に勉強したからな」
「ああそっか。日本のアニメやマンガの、その、オタク文化が好きだからって言ってたっけ」
「ところで、日本に行くのはヴィエちゃんの探し物関連?」
「うふふ……数ヶ月ほど前ついに情報を手に入れたの。とうぶんそこで暮らすことになるからそのつもりでね、サイモンくん♪」
心底嬉しそうな声だった。
二ヶ月前――
穏やかな春の季節。御納戸学園初等部の五年に、外国からの転入生がやってきた。
栗色のショートカットをした端正な顔立ちの美少女。お嬢様然とした風貌にクラス内が軽くざわめきたつ。
「チェコからきました、フヴィエズダ・ウビジュラです。フヴィエズダはチェコ語で星を意味しますが、ヴィエと呼んでくれて結構です。みなさん、よろしく」
銀鈴の鳴るような瑞々しい声と驚くほど流暢な日本語で自己紹介を終えた少女は、爽やかな笑顔でダークブルーの瞳をきらめかせた。
一ヶ月前――
ひっそりとした図書館の特別閲覧室に、薄い眼鏡をかけた白人の女性司書が佇んでいた。
二十代にも四十代にも見える年齢を特定しにくい不思議な容姿が特徴的で、抑揚のない表情をしている。
「盤上に新たな駒が揃った……さて、どうなるかしらね」
感情の起伏に乏しい、不自然なまでの雰囲気に相応しい淡々とした声色が、まったき人のいない室内に吸い込まれて消えた。
そして――
緑や灰色を帯びた藍色の名を持つ町で、ひとつの物語が幕を上げた。