不思議と恐怖はなかった。
自分の血がとめどなく流れていたのに、俺を見下ろすアイツの顔が歪んでいたというのに、どうあがいても死んでしまうであろう事も理解できていたのに、なぜかこの時、温かいと感じた。
それは血の生暖かさなのかもしれないし、今自分に向かって呼びかける声の温もりなのかもしれない。
けど、その時の俺はそのどちらでもない、俺を斬りつけたアイツの温もりと寂しさなんだと思った。
1月11日―――突然の終わり―――
「――――ぃち」
誰かの声がする。
「ゆ―――ぃち」
ああ、誰かが俺の名前を呼んでるのか。
「うーどうしよう。あ、そうだ。えっと―――あ、あった」
どうやら何かを探しているようだ。あ、でもクローゼットの奥においてあるダンボールだけは触らないでほしいな。
「よいしょ」
ん、いったい何が―――
「グボォッッ!!」
「もう、やっと起きた」
腹に衝撃を感じて起き上がると、見下ろす名雪の姿を見つけた。
「な、名雪、何しやがる」
「何って広○苑を祐一のお腹に落としただけだよ」
俺がすごい剣幕をしているというのに、名雪は何をそんなに怒っているのかわからないと言った様子で答えやがった。
「そういうことを言ってるんじゃない。それにそれは違うゲームだ!!」
「……?祐一それってどういう意味?」
そういえば俺は何を言ってるんだろうか、違うゲームっていったい。
「あ、それどころじゃないんだよ。祐一早く起きて、遅刻しちゃうよ」
世界観について真剣に考えていた俺だったが、名雪の言葉に驚いて時計を見た。
時刻はただいま9:00。
「どう急いだって遅刻じゃん」
名雪を恨みがましい目で見つめる。が、名雪の反応はなかった。
「……名雪?」
何かあったのだろうかと思い顔を覗き込む。
「うにゅ〜、わたしけろぴー食べれるお〜」
寝てやがった。
「な、なんだと。バカな、そんなことがあってたまるか。ま、まさかこの部屋はすでに別次元へと入り込んでしまったとでも言うのか。くそっ、どうする。どうする俺!!」
体中から冷や汗が流れるのがわかる。これほどの戦慄はいまだかつてない。
「祐一さん、早く名雪を起こしてくださいね」
「………わかりました」
いつのまにかやってきた秋子さんの声は温度が低かった。絶対零度かと思った。さすがにあの状況で冷や汗を流し続ける勇気はない。早く名雪を起こさなければ。
「さて、問題はどうやって起こすかだ」
―――ムニュ
取り合えず頬を引っ張る。
「おー、良く伸びる」
なかなか楽しかった。
「祐一さん?」
が、後ろから聞こえてきた秋子の声にパッと手を離す。ちなみに後ろを振り返ってはいない。もし振り返って秋子がいなければ怖いを通り越してもうどうすればいいのか解らなかったからだ。
「ふむ、しかたない。ここはプランCだ!!」
仕方ないので、名雪を担ぎ上げる。ちなみにプランCとは強硬手段のことだ。
「必殺タワーブ○ッジ」
首に背中を置いてそれを支点にして足と首を手で引っ張った。
「うにゅぅぅぅぅぅぅ!!」
「ふははははは、どうだ起きたかね名雪君」
「起きた、起きたから放してぇぇぇぇぇ!!」
「ふ、いいだろう」
と、本気で言うと思っているのだろうかこの寝雪は。ふ、その安堵した顔を苦痛にゆがめてやるぜ。
「とう」
掛け声と共に名雪を空中に投げる。そして、そのまま自分も飛び上がり
「ロ○ンスペシャル!!」
名雪の頭をベットに叩き付けた。
「うにゅ〜」
「ふ、決まったぜ」
「うー、祐一のせいでまだ頭が」
「悪い」
「ちがうよー、それに頭が悪いのは祐一のほうだよ」
「そんなことはどうでもいいから急げ」
「うー、祐一が悪いのに」
「わかったから急げって」
「イチゴサンデー」
「は?」
「イチゴサンデー」
「百花屋にあるぞ」
「イチゴサンデー」
「太るぞ」
「イチゴサンデーは別腹だもん」
「イチゴサンデーは718kgcalだ、ちなみに名雪の体重は―――」
「わー、わー、わー」
「なんだようるさいな」
「ひどいよ祐一。極悪人だよ」
「そうだな、俺はひどいヤツだ。だからイチゴサンデーはおごらん」
「うー」
「………はあ、わかった俺の負けだ」
「え、じゃあ」
「おう、今日帰りに百花屋に行こう。割り勘で」
「うん………ってえ?」
「きまりだな」
「うー、ひどいよー」
頬を膨らまして抗議する名雪。ふむ、俺は結構飛ばしているのに普通についてくるな。それに、走りながら話せるとは心肺機能は強いのかもしれない。
「ほら、ぐずぐずしてると置いてくぞ名雪」
もう少し試してみたくて、速度をまた上げる。
「あ、まってよ祐一」
名雪はこの速度にまでも付いてきた。
この分なら結構早くつくかも知れない。
「……ふう」
この世界は本当に―――つまらない。
「あら、あれはもしかして」
窓の外を眺めていたら、視界に2つ影が写った。どうやら疾走しながら言い合いをしているように見える。
「なにやってるんだか」
あの2人はもしかしてわざと遅刻しているのではないだろうか。楽しそうな様子からはそう思える。
そんな事を思ううちに2つの影は校門を通過し―――
「うーっす、遅刻しましたー。すんませんっしたー」
ガラガラと扉を開けて男の子が飛び込んできた。相沢祐一、つい3日前に転校してきたばかりだが親友の水瀬名雪の従兄妹と言うことで私も知り合った。3日間の付き合いでわかった事は変だと言うことだけ。まさに名雪の従兄妹だと思う。
変と言えば今もそうだ。謝る気がない謝罪もそうだが、あの速度で走っていながら少しも息を乱していないとこなんか人間だとは思えない。
「はあ、はあ、はあ。お、はよう、ござい、ます」
今度は女の子が入ってきた。親友の名雪だった。今日の遅刻もどうせ名雪の寝坊が原因だろう。まったく困ったものだ、相沢君も大変だろう。
仕方ないわね、名雪は。
「づーかーれーたー」
ぐてんと机に突っ伏す俺。それは走ってきたからなのか、それとも授業の終わりを告げるチャイムが鳴るまで続いた説教のせいなのかはもうわからなくなってる。
「ごくろうさま」
香里が労いの声をかけてくきた。しかしその声は嘲笑、どう考えても言葉通りの意味ではないだろう。
「この程度この相沢祐一様にとっては何てことはないが、それはどういう意味での発言だかおりんよ」
「いろんな意味でよ。あと、次にかおりんって言ったら殺すわよ」
頷く。高速で頷いた、だって目が笑ってなかった。
香里に殴られそうになった休み時間からすでに数時間がたち、現在4時間目。
「ここ、次のテストで出すからなー」
出すとか出さないとかそういう問題ではない、そもそも俺にはテストをする意味が解らん。
教師の話もそこそこに昼休みを告げるチャイムがなった。
「祐一、お昼だよ〜」
昼休みと同時に名雪が席にやってくる。
「ああ、そうか。今日から午後も授業があるんだよな」
考えると憂鬱な気分になるので脳内から自動的に消去していた。
「んで、名雪はいつもどうしてるんだ?」
「私はお弁当を持って―――」
「嘘だ!!」
気が付けば俺は叫んでいた。
「わ、びっくりした」
俺の脊髄反射はともかくとして、それの何処がびっくりした動作なのかを問いたい。周りのクラスメイトを見てみろ、俺を見る目がまるで珍獣を見るようではないか。
「何、さけんでるんだよ」
「見ろ名雪、後ろの席で寝ていたアンテナも起きてくるほどの声量だろうが」
「なんの話よ」
さらに香里までもが加わってきた。
「いや、名雪が弁当を作る時があると嘘をつくからな」
「嘘じゃないよ〜」
口を尖らせて抗議するがそんなもの却下に決まっている。何せ名雪がそんな早くに起きれる事はないからだ。
「相沢君……残念だけどその話は本当よ」
「な、バカな!!」
そんなことがあってたまるか、嘘だと言ってくれ北川。そう信じ北川のほうを向いたが、北川は唇をかみ締めて視線を落とした。
「う…そだ、嘘だろ北川!!嘘だと言ってくれ」
北川の肩を掴んで揺らす。そんな俺に北川はそっと呟いた。
「……すまん」
「あ、あ、ああ」
それは絶望の言葉、よく見れば香里と北川以外のクラスメイトも皆視線を外している。そして俺は驚愕の眼差しのままゆっくりと名雪を見た。
「ねえ、もしかしてみんなひどいこと言ってない」
「「「「全然そんなことないぞ(わ)」」」」
クラスメイト全員の声がハモる。なかなかチームワークのいいクラスだ。合唱コンクールでも優勝間違い無しだ。
「う〜」
名雪だけは納得言ってないらしい。
「おっと、そろそろ食堂行かないと席取れないぜ」
北川の言葉に何人かの生徒が慌てて動き出す。
「う〜」
「ほら、速く行かないと席なくなるらしいぞ」
俺もまだむくれている名雪をせっつき北川の後に続いた。
「祐一、ここが学食だよ」
言われなくても見ればわかる。わかるのだけれど、でかすぎはしないだろうか。
入り口を入ってすぐに置いてある食券販売機は17台、飲み物の自動販売機も10台あり、その全てに列ができていた。
今までいったい何処に隠れていたんだこいつらは。それともここの学校は学食を開放しているのだろうか。
そんな分けないのだが、そう思ってもおかしくないほどの人、人、人の群れであった。
「すごい人ね。開いてるかしら」
香里の意見に俺も賛成である。開いてるほうがおかしいという人の群れであった。
「あ、ここ開いてるよ」
普段は抜けてるくせになかなか目ざとい名雪が席を見つける。
「よし、俺が席取ってるから俺の分も頼むな」
「おう、何食うんだ」
ここは率先して俺が聞く。こういうところで立ち上がらないで何が相沢祐一だ。
「親子丼」
「わかった、カレーうどんでいいんだな」
「おい」
「冗談だよ北川。そう睨むな、ちゃんと買ってきてやるって」
「本当だろうな」
「ふ、俺に任せろ」
「そういう台詞は目を見て言うもんだろうが」
「ふははは、さらばだ!!」
「あ、待て相沢!!」
北川の声が聞こえるがそれよりも速く人ごみの中にまぎれていく。
やがて全員の注文したメニューが行き渡り、雑談の中、昼食を終えた。ちなみに別段香里に何かされたわけではないが北川のメニューはちゃんと親子丼だった。香里に何かされたわけではないが………。
この昼食でわかったことは香里に逆らってはいけない事とカツカレーのカツがヒレカツだった事、名雪がAランチしか食べない事だった。常にAランチって、たしかにイチゴムースがデザートだけど普通飽きるだろうに。
「お腹いっぱい……」
名雪は満足そうだった。
「あたし、Aランチのメニューは全部暗記してる自信があるわ…」
対する香里はげっそりとしていた。
「………」
北川は最後まで俺の右目の痣を気にしていた。
三者三様の様子で食堂を後にした俺たちは教室に戻ると昼休みが終わるまで話続けていた。
午後の授業は暇だった。
何か面白い事でもないかな、と周りを見渡してみても真面目に授業を受ける香里と寝てる北川と名雪がいた。
しかし名雪はどうなっているのだろうか、寝ているのはまず間違いない。なのに手が動き続けている。人間極めるとあそこまでいけるものなのか。
試してみようと思ったが俺には無理な話だ、ノートは名雪に借りてコピーでもしよう。
そう思うとなんだか集中力が途切れてくる。ふむ、ここは1人○×ゲームでもして時間をつぶそう。
6時間目は担任の石橋だったので、授業が終わると同時にHRが始まった。
そして、それも20秒以内に終わる。いつも思うけどあれで教育委員会から苦情が来ないのだろうか。まあ、俺にしてみれば楽でいいけど。
「っん、あー。やっと終わった」
座ったまま、ぐぅっと体を伸ばす。
隣では名雪が帰り支度をしていた。瞼を閉じたままで。
「名雪、今日も部活か」
一応話しかけてみる。
「そうだお〜」
返事がある。ということは寝ぼけているが意識はあるということだ。
「じゃあいいや」
「どうしたんだお〜」
「探してるCDがあったな。帰りに買って帰ろうかと思って」
「CDなら商店街の中にお店があるお〜」
「ああ、でも場所は知らないからな、案内してもらおうと思ったんだよ。でも部活ならしょうがない」
「ちょっとわかりづらいよ…」
申し訳なさそうに声を落とすが、それよりもいつの間に覚醒した。断言するが俺は一度も名雪から目を離してはいない。
「じ、自分で探してみるさ…」
平静を装って言葉を返す。
「うーん。……地図書こうか?」
「いやー、大丈夫でしょー」
自分でも声が上ずってるのがわかるが、地図を描いてもらうわけにはいかない。ここで変なものが出てきたらリアクションを取れない可能性があるからだ。
「うん、ごめんね」
名雪は最後は笑顔で去っていた。俺の頬は引きつりっぱなしだった。
放課後の商店街を何処にあるかもわからないCD屋を目指してさまよう。
歩道の脇に積った雪は薄い朱色をしていた。
「まいったな、7年前の記憶でも何とかなると思ったんだが……」
何の手がかりもないまま時間だけが過ぎていく。
「どうすっかなー、俺の覚えてる店といえば百花屋と米屋とその手のビデオ屋とじいさんの店ぐらいだし……ってじいさん!!」
忘れていた。じいさんに聞けばよかったんだ。
そう考えるとすぐに記憶の中にある骨董品を取り扱う何かよくわからない店『Un altro mondo』を目指す。
「場所変わってなきゃいいけど」
不安はあるがたぶん大丈夫だろう。俺の聞いた話だとじいさんはあの場所で50年以上店をやってるらしいから。
問題は俺の記憶。店の中は覚えているけど場所はなんとなくしか覚えていない。しかも俺は探し物が苦手ときている。
「見つかるのかねぇ」
寒空の下でもう一度呟いた。
「あ、祐一。遅かったね」
日が落ちてから家に帰り着くと、名雪はすでに帰宅していた。
「探してるCD。見つかった?」
「ウッテナカッタ」
「ふーん。なんてCD、私も探してみようか?」
「イヤ、イイヨ」
「そう、わかった。あ、もうすぐ夕食だから着替えたら降りてきてね」
「ウ、ウン」
良かっただまされてくれた。俺の演技が完璧だったのだろう、いくらなんでもCD屋はともかく、昔に世話になった店まで忘れるとは。一回行ったっきりだけど、命の恩人のようなものなのに。
「あ、そうだ祐一。私、木曜日は部活がお休みだから一緒に行こうか」
オウ、バレテーラ。
「あ、はい」
「うん。じゃあ、早く降りてきてね」
どうも昔からどんなに名雪をからかっていても、実際名雪には敵わないような気がする。いや、気だけじゃないだろう、あの時だって迷惑かけた。
「怨んでるだろうに……」
気づかれないように呟く。
7年前に俺がしたことを忘れてるわけじゃないだろう、名雪の気持ちを踏みにじった俺の姿を。それでもアイツは3日前、7年ぶりの再会を果たした時に笑いかけてくれた。
「ホント、俺なんかじゃ敵いっこないって」
名雪の笑顔にはすくわれている、だから俺も目いっぱい笑わなくてはいけない。名雪の前では、どんな時でも『相沢祐一』でなくてはいけないのだ。
3日目だが夕食のおいしさからまたまた食べ過ぎてしまった。さっさと部屋に戻って寝転んでいよう。
ドアノブに触れたところで、とんとんと階段を上がってくる足音。
誰がやって来たのかと顔を向けると、名雪が俺の姿を見つけ、急いでやってくるところだった。
「祐一」
「ふむ、食後のマッサージか。悪いな」
「そんなのしないよっ」
「そうか、じゃあ風呂上りで頼む」
俺はそれだけ言って、部屋に入ろうとしたが、名雪に呼び止められた。
「なんだ?」
「まだ、ようじいってないよ。わたし」
「風呂上りにゆっくり聞いてやる」
「マッサージはしないよっ」
「じゃ、なんの用事だ」
「ノート」
「は?」
「今日、帰りにコピーして帰るからって取ったわたしのノートを返して欲しいの」
ああ、そうだった。書くのが面倒なのでコンビニかどっかでコピーして帰ろうと名雪に借りたんだった。
「わたし、寝る前に予習復習するから、返して」
「ああ、待ってろ」
部屋に入り、床に置いてあった鞄を拾う。かなり軽かったので入ってないだろうと思いながらも、一応中身を確認してみる。
「………」
案の定ない。
「と、いうわけで学校だ」
「嘘だよね」
「悪い悪い。明日学校で言ってくれればその場で返すよ」
じゃ、と言って立ち去ろうとした俺の服が引っ張られる。当然名雪だ。
「なんだよ」
「なんだよ、じゃないよ〜。わたしどうしたらいいの」
「はあ、わかったよ。ちょっと待ってろ」
それだけ言ってまた部屋に入り、コートを羽織って戻る。
「学校、行ってくる」
「いいよ、悪いよ」
「気にすんな、名雪が困ってたら俺が何とかしてやるよ」
「でも、外寒いよ」
「大丈夫だ、任せろ」
「学校、開いてないかもしれないし…」
「何とかなんだろ。行って見ないことにはわからないしな」
「でも…」
「心配すんなって、ちょっと行ってくるだけだからさ」
ポンッ、と名雪の頭を叩いて階段を降りて、外に出た。
「さみー」
今日はまだ風がないほうだけど、それでも空気が冷たくて痛い。
鼻の下までコートをかぶって、急いで学校に向かおう。
「ち、やっぱ門は開いてねーか」
仕方ないので飛び越える。だだっ広い空間にポツリポツリと灯る常夜灯が、ぶきみな空間を演出していた。
開いていないとは思うが、昇降口まで歩くと一つ一つ調べていく。が、やはり開いていなかった。廊下と階段がすぐ見える位置にあるのでやきもきする。
仕方ないので、開いてる窓はないだろうかと校舎全体を見渡す。
「お、あそこの窓開いてる」
2階の窓が開いているのが見えた。他にも開いてるところがあるかもしれないが、面倒くさいし思い切ってそこから入ることにした。2階なら無理な高さでもないし。
「よっこらせ、と」
夜の校舎に踏み入れただけで、異世界に来てしまったかのような錯覚を覚える。
夜は嫌いだ、夜の明かりのないこの感覚がたまらなく嫌いだった。加えて言えば、月明かりなど無くなってしまえばいいとさえ思う。
「っと、ボーっとしてる場合じゃなかった。ノートノート」
教室の前まで急ぎ、ドアに手を掛ける。予想に反してガラガラと音を立ててあいた。
どこまでもずさんな管理だ。
「誰もいない教室ってのは怖いな。……いや、いたらいたらで怖いか」
怖さを紛らわす為に一人で話続けてここまでやってきたわけだが、ようやく目的地である自分の机にたどり着いた。
机の中にはたくさんのノートや教科書が入っていたが、目的のノートは比較的楽に見つかった。これが前の学校だったら見つからなかったことだろう。机に賞味期限の切れたメロンパン入れっぱなしだったからな。
入れっぱなしにしてきた事怒ってるだろうな、と数人の友人の顔を思い浮かべながら廊下に出る。
空気が変わった。
さっきも異界だと比喩してみたが、今度は異界ではなく位相だ。さっきまでと完全に同じ場所だと頭が言っているのに、それを体が拒否している。
顔を上げたその先に、幻想的な光景があったからだろう。否、非現実的というべきだろう。 でも俺には、その不思議な存在である少女がこの空間の自然なもので、俺自身こそが不自然なように感じた。
でも、それはこの場所に似つかわしくない。だから異界ではなく位相だと言ったのだ。
少女は夜の校舎に立っていた。一振りの剣を携えて。
「よお、元気か」
正面に立っているので視界には入っているだろう。あとは日本語が通じるかどうかだ。
「………」
返事はない。俺の背中のその先を凝視している。
まさか俺を殺す、なんてこと言い出すんじゃないだろうかと考えたが、不思議とそれはないように思えた。
もちろん俺のほかに誰かいるわけでもないし、後ろを振り返って見たらゾンビがいたなんてこともない。
「何やってるんだ、こんな時間に」
「………」
またまた沈黙。そりゃそうだ、今の台詞はまったく俺に当てはまる。向こうが何をしてるのかと問いたいもんだろう。
「あー、日本語はわかるよな。俺は忘れてたノートを取りに来たんだけど、あんたは演劇部の練習か?」
「………」
そして沈黙。本当に日本人ではないのかも知れない。もしかしたらマジで俺を殺しに来た人種だったりして。
ふ、と少女の持つ剣を凝視する。紛れもなく真剣だった。
「まさか、俺を殺しに来たとか」
「………」
この少女、俺の幻覚じゃないだろうな。かなり不安になる、いろんな意味で。
「あー、なんだ。夜は危ないし、帰るとこなら送って行こうか?」
「………」
そろそろ泣きたいし帰りたい。だが、この少女を放っておく気にはなれなかった。
ガキッ――
「ん?」
音のしたほうを振り返る。しかし、何もなかった。そもそも、俺が気配を読めないはずがない。
気温が低いから窓が軋んだんだろう。たいしたことではなさそうなので少女のほうへと向き直る。
が、その姿はなかった。角度を下げた体が脇をするりと抜けていく。
「おい、どうしたんだ」
その背中を追おうとすると、入れ替わり、何かが俺の体にぶつかってきた。
「なッ…」
不覚にも壁に体を叩きつけられる。
「ぐっ…」
衝撃で声が漏れる。
少女がやったのだろうかと目を開くと、こちらへ剣を引いた格好で猛然と彼女が向かってきていた。
彼女じゃない。その姿を見て、直感でそう思った。
でも、いったい誰が。そう考えると同時に目の前までやってきた彼女が、剣を水平に薙いだ。
ガギィッッ!!
異質な音。骨で受けてもこんな音はしない。
だが異様だったのは音だけではなかった。
目の前の空間が裂かれる。何もない空間が、だ。
バカな、ありえない。そう思うほどに完璧な空間の断絶―――いや、違う。これは空間が避けたのではなく、見えない何かが裂かれたのだ。
ガンッ!!
少女の振り下ろした剣が床に突き刺さっていた。
「………」
それで動きは止まった。
「………」
俺も何も言えずに、すべての音が消えていた。
剣を持つ少女は、俺に一瞥をくれると、何も言わずに背中を向ける。
「おい、あんた。何者だ」
見えない何かも気になったが、それ以上にこの少女が気になった。
「このまま帰るってのはひどすぎないか」
「状況説明だけでもしてってもらいたいな」
「何なら名前と住所と電話番号と3サイズを教えてくれるとありがたい」
何も言わずに去ろうとする背中に捲くしたてる。
「………」
彼女の足が静止した。
「…私は魔物を討つ者だから」
その一言だけが、清閑となった空間に残された。
………。
「ただいま…」
家に着くと、帰って来るのを待っていたように名雪が現れた。
「どうだった?」
「ほらよ」
「わ、ありがとう。本当に持ってきてくれたんだ」
「ん、まあ約束したし」
「うん。そうだ、お風呂沸いてるよ」
「おう」
寒い中歩いたので風呂は助かる。早速入ることにしよう。
俺は湯船に浸りながら、先程の少女の言葉を思い出す。
「…魔物を討つ者…か」
知らなかった。最近の魔物を討つ者は学校の制服を着てるらしい。そもそも魔物を討つ者ってなんだよ。。
「なんてたって魔物だからな」
そう、少女は確かに魔物と言った。煮物なんかじゃ決してない、魔物、それは―――
「ったく、変なヤツだぜ」
面白い。どうやら少女の事を本気でそう思い始めたらしい。いや、少し違うな。
―――俺は
空虚だった心の中に風が吹く。
―――出会った瞬間
知らず知らずに笑みがこぼれる。
―――あの少女に
その口元に光る八重歯。
―――恋をした。