それは虫の知らせだったのでしょうか?
忘れたくないものありますか?
「朝の天気予報では午後からは雪といっていたのに…」
いつもよりも少しだけ気温が高かったからなのでしょうか、
雪が雨に変わってそれでもいつもと同じように私はものみの丘へと向かいます。
「どうして雨なのでしょうか?」
ぱらぱらと降る雨が私の傘に叩き付けられては流れて。雪だったら全てを真っ白にしてくれるのですけど。
雨は……どうしてなのでしょう、泣きそうに、悲しくはないのですがなぜか泣きたくなります。
あの子と初めて会ったのは梅雨の時期で雨だったような気がしますが。
怪我をして傷を負っていたあの子を抱いて、傘もささずに濡れながら両親のところへ走っていった記憶があります。
一時の温もりを与えて、そしてものみの丘へ返したのは晴れた日でした。
再び会えたのはやっぱり晴れで、確か夕方だったでしょうか。
まるで迷子のように…いえ、実際に迷子だったのでしょう。
まわりは全て知らない人、何を探しているのかも自分が誰かもわからなくて、
それでも私たちは出会いましたね。
夕方の路地裏であの子は涙目になりながらぽつりと一人だけで立っていました。
どうしたの?と声をかけると、あの子は俯いていた顔を上げてくれました。上げてくれましたけど、ぽろぽろと涙がこぼれてしまって少しだけおろおろしたのを覚えています。
幼かったあのときの私はとっさにおばあちゃんが私にしてくれたようにポケットから飴玉を取り出してあの子の手にぎゅっと握らせました。
あの子は自分の手にある飴を不思議そうに眺めていましたけど私が再びポケットから飴を取り出してあの子の目の前で口に入れるとあの子は戸惑いながらも私と同じように口に飴玉をほおばりました。
「おいしいですか?」
「…うん、美味しいよお姉ちゃん」
……………。
あのときのあの子の笑顔だけは色褪せないで今でも鮮明に覚えています。
私は笑えなくなってしましましたけど、あの子は今でもあのような笑顔で笑っているのでしょうか?
あの後、あの子は私のスカートをぎゅっと握って、私もそんなあの子にちょっとうれしくなって迷子だから交番へ行くとか、親御さんを探すとかそんなことは全然頭になくて……。
私には兄弟姉妹はいませんでしたが、あの子はあの時から私の妹になったのですね。
家に連れて帰ってあの子の事情がわかったとき両親にはほんの少しだけ怒られましたけどおばあちゃんはよくやったねとやさしく撫でてくれました。
それからの約一ヶ月間は本当に幸せでした。あの子は私のすぐ後ろをとことこと歩いて付いて、私もあの子のことを放さなくて。
最初の異変は箸がもてなくなることでした。それからはよく転ぶようになったり喋りがぎこちなくなったり。そしてあんなに元気だったのに熱を出して倒れてしまいました。一時は回復に向かうと思われましたが二度目の発熱から進行が一気に進み最後にはここで、このものみの丘で私の腕の中から微かな温もりだけを残して消えてしまいました、ね。
……………。
その後おばあちゃんからあの子のことを聞いて。おばあちゃんの所為ではないのにおばあちゃんを責めて。あの子のことを拒絶しようとして、完全に忘れようとしてもそれは出来なくて、最後にはあんな思いをするならと他人との繋がりを拒否して、そして私は笑わなくなりました。
私はなぜここにいるのでしょうか?
あの子は……、あの子は多分もう帰ってこない、
でも、私はいつもここに一人で待って……。
「……いったい私は何を待っているのでしょう?」
雨で雪が中途半端に溶けて水が私の靴に染み込んで、それでも丘を進みいつものように時を過ごそうとしたとき、視線の先に一人の少女が傘もささないでぽつりと佇んでいました。
「え……」
どうして…まさかあの子なのですか?
そう思った瞬間走り出していました。
生きていてくれた?帰ってきてくれた?本当に…本当に……。
頭の中の思考が乱れて冷静に考えることが出来なくてそれでもただ会いたいという思いだけで走って走って、息も絶え絶えになりながら、濡れるのも関係なくて――。
「あ、あの!」
あの子と同じ髪の色をした少女はびくっとしながらもこちらを向いてくれました。
「……あ」
…違う、あの子ではないですね。
でも、この子の雰囲気はあの子と同じで、……多分あの子と同じ存在。
「あぅ…」
「は、はじめまして。私は、天野美汐といいます」
自分でもこの子に語りかけている声が震えているのがはっきりとわかりますけど、私はやさしく言えているでしょうか?
「あ、あなたのお名前を教えてもらえますか?」
ゆっくりとやさしく丁寧に噛み含めるように尋ねます。
多分、この子は末期の状態。ただ”還る”ためにここにいる。
「…………」
「ほらお名前は?」
少しだけ落ち着いてきた私は優しくあの子と同じこの子に語りかけます。
この少女は多分わたしの言っていることは解からないかもしれません、でも……。
「あぅ…」
口篭ってただ私の顔をじっと見つめて、私も出来るだけ怯えさせないように瞳を返します。
「お名前は?」
私は穏やかにゆっくりとたずねて、この子は私の言っていることを理解しようを一生懸命になって。
「お名前は?」
「あ、あぅ…」
「おいで」
私は濡れることも厭わずに少女を迎え入れようと腕を開きます。そんな私を見て彼女は少し迷いましたけどとてとてと私に納まってくれました。
彼女の体はずっと雨に濡れていたのでしょう。すっかり冷えてしまってかすかに震えていました。
「お名前は?」
やさしくあの子にしたように頭を撫でて再び尋ねます。
「あぅー……ま…」
「ま?」
こくりと頷いて、
「まの次は?」
「こ……」
「まこ?まこでいいの?」
少女はぷるぷると顔をふって、
「まこ…の続きは?」
「あぅ……と」
それでも懸命に私の問いかけに答えてくれて、
「まこと?真琴でいいのですね?」
「まこと、あぅ。まことっ」
「いい名前ね、真琴」
「あぅーっ」
「よくがんばりましたね」
そう言って私は真琴を褒めてあげました。
この子の、真琴の笑顔は私には眩しくて悲しくてそれで泣きそうになって。
ただ会いたかったから、ただ会いたいから。
そのためだけに全部。記憶も、家族も、自分の命も何もかも投げ出して会いに着てくれて、束の間の奇跡にすがって。
「私は天野…いえ、美汐と呼んでください」
「…み?」
「ええ、み・し・お、です」
「みし……あぅ…」
「ゆっくりとでいいですからね」
やさしく濡れた髪をハンカチでこれ以上濡れないようにやさしく拭いてあげます。
「……みし、お?」
「ええ、そうです、美汐ですよ」
「みしお!みしお!」
私は名前を呼んでくれたことが嬉しくなって何度も何度も撫でてあげます。
「真琴はどのような人と一緒だったのですか?」
「あぅ?」
「わかりませんか?あの子の場合はですね。私や、両親、おばあちゃん、おじいちゃんあの子も含めてみんな家族でした」
「あぅ……か、ぞく?」
「ええ、そうですよ家族です。真琴にもいませんでしたか、温かい温もりを与えてくれた人たちは?」
もし、いなかったなら、出会えていなかったらそれはとても悲しいことですよ、真琴。全てを投げ出したのに悲しすぎますから。
「…あたたかい?」
「そうですよ」
「あぅ、なゆき…あきこ……ゆーいちぃ」
真琴は幸せそうにはにかんで答えてくれます。そして最後のゆーいちという人だけは少しだけ温度が違いましたね。
「祐一さん、という方だったのですか、真琴が会いたがった人は?」
「あぅ♪」
真琴の嬉しそうな肯定的な返事に私は優しく真琴の髪を撫でて、その祐一さんという方のことを考えます。
真琴はその祐一さんに会えたのでしょうけど、でも今ここにその人はいません。
どんな出会いだったかは私にはわかりませんが真琴の本質に、本当のことに気付けなかったのでしょう。
もし、もし私がもっと早く真琴と祐一さんという方に会っていたのなら何かが変わっていたのでしょうか?
本当のことを話して、徐々に何もかもを忘れていく様子を目の前で見せられて、そして最後には消えてしまう。
その人は堪えられると思いますか?私のように閉じこもらないでしょうか?
「み、しお?」
「あ、いえなんでもないですから。真琴はお腹すいてはいませんか?といっても私もたいしたものを持っているわけではありませんが」
お昼を食べてしまって食べ物という感じのものはありませんが確か制服に飴があったはずです。
私は濡れて湿った制服のポケットから飴を二つだけ取り出して、一つを真琴にもう一つは私にと。
「こうやって舐めるのですよ」
真琴にお手本になるように包みを解いて飴を口に入れると、真琴も同じようにほおばりました。
「あぅ、……おいしい」
『…うん、美味しいよお姉ちゃん』
真琴の笑顔があの子の笑顔に重なって……。
「あぅ……みしお?」
真琴が不思議そうに、キョトンとした表情になった後、私の頬を流れるソレを慰めるかのように舐めてくれました。
流れるソレは――。
「え……涙、ですか?」
もうあの子に対して涙何て枯れ果ててしまったと思っていたのですが……。
「…………っ」
ひとたび気付いてしまったらもう我慢なんてすることが出来なくて、もう自分の意思で止めることなんて出来ませんでした。
今までさしていた傘を放り投げて大切なものをなくさないように、消えないようにぎゅっとぎゅっと真琴を抱きしめて、ぼろぼろ涙がこぼれてしまって、すぐ目の前にあるはずの真琴の顔すらも見ることも出来なくて――。
あなたは幸せでしたか?
あの子は幸せだったのですか?
……消えてしまう運命なんて。
こんな奇跡なんて初めから無ければよかったのに。
そうすれば私は変わることも無くて、あの子も真琴も消えることも無くて。
…でも、それは私たち、私と、祐一さんという方がこの子達に温もりを与えてしまったため。
でも、でもっ!
「あぅ、みしお……泣かないで…」
「あ、あぁぁっ!」
真琴はもう体がよく動かないはずなのに、やさしく、本当にやさしく撫でて、とめどなく流れる涙を舐めてくれて、ぎゅっと抱きしめてくれました。
「ま、真琴、うん、あ、ありがとう、ありがとうございます」
この子達のことは決して忘れることなんて出来ません。
私はこんなになってしまいましたけど、それでも……。
「真琴?」
真琴の目がとろんと眠たそうな瞳に……もう、もう最後のときなのですか?
せめて最後は穏やかに送りますよ、真琴。
母親が赤子をあやすように、背中をぽんぽんと叩きながらゆっくりと髪を撫でてそれをずっと繰り返します。
私と会話できていた反動でしょうか。もう話すこともなくなりただ本能的に、人の温もりを求めるように強い力ではないですが私に抱きつきます。
「真琴も私を置いていってしまうのですか?」
でも、あの子のときには気付いてやれませんでしたけどこんなに穏やかな顔をしていけるならそれはそれでいいのでしょうか?
真琴はわかりますか?
雨が私と真琴をとめどなく濡らし、
西日が、夕日が私と真琴の顔を赤く照らします。
「……み…しお」
「真琴?」
「ゆー…いちぃ……」
「真琴?」
真琴が焦点の合わない目を、もう見えているのかすらわかりませんが私の方に向けて私は最後に―――。
「――――――」
「また雨が降ってきてしましましたね、いえ、先ほどから降っていましたか」
ふらふらと冷たい雨の中体がとても重いですがなんとか立ち上がります。制服はずぶ濡れで下着まで濡れてしまって。腰を下ろしていたせいでしょうか、スカートが所々泥だらけで。家に帰ったら確実に怒られますねこれは。それにこんなに体を冷やしてしまって多分風邪も引いてしまうでしょうか。年度末ですがたまに学校を休むのもいいでしょう。
「――――っ!」
……いけませんね。気が緩んで涙がこぼれてしまわないようにしなければ。
「でも、どうしてこんなに明るいのでしょうか?」
ふと疑問に思って空を見上げると、あれほど暗く厚かった雲は今ではほとんどその姿が無くてそれでもこの雨は実際に降っているのですから。
「天気雨?」
何ていいましたか、こういう天気雨のことを……。
「そう…確か、狐の嫁入り」
そう呟いた瞬間、ものみの丘を風が吹き抜け周囲の雰囲気ががらりと変わって。
「え?」
先頭には高く掲げた大きな提灯。
それに続くように鮮やかな緋色に染まった衣装箱や大きな傘。
白装束を着た烏帽子の人や、
緋袴を穿いた巫女のような人たち。
いくつものいくつもの提灯が連なって、
華やかな行列が私の目の前をゆっくりとゆっくりと通り過ぎて行きます。
まるで夢のような幻想的な光景。
………本当に、狐の嫁入りなのですね。
時が経つのも忘れてただただその行列に見入ってしまって、ふと気がつくとその行列がいつのまにか止まっていました。
そして私の目の前には煌びやかな籠、花嫁の籠が――。
「…お姉ちゃん」
「えっ、そんな、そんなことって」
籠から出てきたのは純白の綺麗な着物を着た、このものみの丘で私の腕の中から消えてしまったはずの最愛の妹。
「あ、き、綺麗になりましたね」
「…はい、お姉ちゃんも」
にっこりと柔らかく、暖かい笑みは一緒だったあのときと全然変わってなくて。
薄く化粧をした顔に鮮やかな紅を引いてとても綺麗ですよ。
「お、大きくなりましたね」
「はい」
「あ、近寄ってしまってはだめです!綺麗な着物が濡れてしまいますから!」
「いえ、大丈夫ですよ。お姉ちゃんを抱きしめられるなら、そんなことは気にしません」
そういってぎゅーと抱きしめてくれて、私はあの時、この子が消えてしまったときからずっとずっと思っていた思いが溢れて――。
「あぁぁぁぁぁっ!」
堰を切って流れ出した私の涙はとめどなく、恥も外聞もそんなものは関係なくてあとからあとから涙が流れて。
「もう大丈夫ですか、お姉ちゃん?」
「は、はい。もう大丈夫です。恥かしいところを見せてしまいましたね」
あの子はそんなことありませんよと言って、ぽんぽんと私が真琴にしたように背中を叩いてくれて、まだ少しだけ鼻がひっくひっくしてますけどもう大丈夫です。
「なんだか、姉と妹の立場が逆転していますね」
「ふふふ、いいじゃないですか。どんなに時が流れても、私は妹でお姉ちゃんはお姉ちゃんですから」
少しだけ意地悪そうな笑顔が悲しそうな、泣きそうな表情に一転して。
「……本当に、ごめんなさい」
「え?」
「私のせいで色々なものまで背負わせてしまって。お姉ちゃんにはずっと笑っていて欲しかった。それなのに私はおねえちゃんの笑顔を奪ってしまって、悲しい別れをさせてしまって……。本当に本当にごめんなさい」
「い、いえ、もういいんですよ。こうしてもう一度会えたじゃないですか。それもこのような晴れの舞台に」
「それに私だけではなくて……いらっしゃい」
呼ばれてとてとてとやってきたのは私の目の前から消えてしまった――。
「真琴、なの?」
「うん…美汐ごめんね」
「いえ、いいですよ。気にしなくていいですから」
あの子はどこか陰りがあるような表情で真琴を見つめて私へと視線を移します。
「この丘の狐たちは本当に罪深い存在なのです。厄災の狐と呼ばれ、人の心に一方的に傷を残して、弄んだと言っても過言ではありません」
「……確かに、あなたがいなくなって私は他人との繋がりを拒否して笑わなくなりました。でも、それでも!私はあなたのことを完全に拒絶しようとしても出来なかった…いえ、したくありませんでした。あの束の間の奇跡での思いだけは本物で、とても綺麗なものでしたから」
そうですこの思いだけは、あのときの笑顔だけはけして嘘ではありません。
「こうして再び会えているからかもしれませんが、せめて私だけはあなたたちの存在を肯定します」
この子は少しだけ驚いた表情をしましたが、心から溢れ出るといった笑みを私に向けて浮かべてくれました。
「私たちを肯定してくれるならお姉ちゃんも笑ってください」
「…ええ、今すぐにというのは無理かもしれませんが努力してみます」
「お姉ちゃんが幸せになってくれないと私、泣いちゃいますから」
クスッと笑って私もつられて小さく笑い出してしまいます。
「あー!真琴も!」
「はい、真琴も一緒ですよ」
ぎゅっと抱きついてきた真琴の頭を撫でてふと気付きました。
「真琴、本当はこんなに元気でお転婆だったのですね」
「あぅ……」
しゅんとうな垂れてしまった真琴に大丈夫ですよと言って撫でてあげました。
「お姉ちゃん、もうそろそろ行かなければなりません」
「…はい」
「もう会えることは無いかもしれませんけど幸せになってくださいお姉ちゃん」
「それは私の台詞ですよ。妹に先を越されてしまいましたが、旦那さんと幸せになってください。そして妹の門出を祝福できてとても嬉しかったです」
「美汐!真琴のこと忘れたらだめだからねっ!」
「大丈夫です、真琴のこともけして忘れたりはしませんから」
真琴を見てふと真琴に温もりを与えてくれた人たちのことを、確か祐一さん、秋子さん、名雪さんといいましたか、そのような人たちがいたことを思い出しました。
「真琴、もし私が祐一さんという方たちに出会えたら、何か伝えることはありませんか?」
「ゆーいちなんてどうでもいいのよ!」
「本当に何も伝えなくていいのですか?」
意地になってしまっている真琴にじっくりと念を押すように尋ねると、やはり心配だったのでしょう、口を開いてくれました。
「あぅ…。元気で暮らしてるから心配するなって伝えて」
「わかりました。それでは真琴もお元気で」
「ばいばい美汐」
「さよならです、お姉ちゃん」
「あなたたちもいつまでも元気でいてください」
あの子は再び煌びやかな籠へと乗って、私に向かってやさしく手を振ってくれて、真琴も元気に振ってくれました。そして止まっていた行列が再びゆっくりと動き出します。
私はこの幻想的な光景を一生忘れないように目に焼き付けて、最後の一人が見えなくなるまでずっと見送りました。
しとしとと降る雨は冬なのにどうしてか少しだけ温かかったです。
「くしゅんっ」
……もう辺りも暗くなってしまいましたのでさすがに帰らなければいけませんね、本当に風邪を引いてしまいますから。
心が温かいからでしょうか軽い足取りでものみの丘をあとにして帰路へとつきました。
そしてこの時期にずぶ濡れで家へと帰った私は親にかなり怒られましたが、怒られている私の、どこか憑きもが落ちたような表情を見て、毒気が抜かれたのでしょう。思ったほど説教は長くはありませんでした。その日は早々にお風呂に入ってさすがにすぐ寝ました。次の日、案の定私は風邪を引いてしまいきっちり三日間寝込んでしまいましたけど、私とあの子と真琴の三人で笑いあいながら、ものみの丘を駆け回って遊んでいる夢を見れたのでたまには風邪をひくのもいいものかなとうつろな意識の中で思っていました。
あの奇跡のような別れと邂逅を経て、ほんの少しだけ前へ進めるようなって私は高校二年になりました。
「えぅー、お姉ちゃんの馬鹿!」
ある春の日の放課後、図書館で少しだけ帰るのが遅くなったとき、生徒用の玄関からそのような大きな声が聞こえてきました。
少しだけだけ興味がありましたので声が聞こえた方へ向かうと、そこには短い黒髪に華奢で白い肌をしたどこかで見たことがあるような少女がうな垂れていました。
「どうかしましたか?」
「あっえっと、なんでもないですぅ」
「雨、ですか?」
昇降口の先は雨で濡れていて……。
「傘がないのですか?」
「そうなんですよ!聞いてくださいお姉ちゃんと一緒に帰ろうと思ったのに一人でさっさと帰ちゃったんですよ、こんな可愛い妹を置き去りにして!」
彼女は頬を膨らませてなんと言ったらいいのでしょう、ぷりぷり怒ると言った表現にぴったりな可愛い怒り方でこっちまで微笑んでしまうような。
「あ、笑いましたね!」
「え、笑っていましたか?」
「そうです!ひどいです!」
笑えていたのですか、そうですか……。
「どうかしたんですか?」
「いえ、なんでもありません。そういえば自己紹介をしていませんでしたね。私は二年の天野美汐と言います」
「あ、はい。私は見てのとおりの一年生で美坂栞と言います。よろしくです」
美坂、栞さん、ですか。
「美坂さん――」
「あ、お姉ちゃんも美坂なんで栞でいいですよ。先輩ですし」
「では、栞さん。もし間違っていたなら申し訳ありませんが…」
「はい」
「病気、治られたのですか?」
「え?」
「違いましたか?」
「あ、ううん」
「やはり栞さんでしたか」
「私の事知ってるの?」
「微かにですけどね。今二年生のはずでしたからどうかなと思いましたが当たっていたようですね、よかったです。それで体の方はもう大丈夫ですか?」
「はい!大丈夫です!これからはちゃんと学校に通えますから。あ!そうだ!」
「どうしました?」
「天野さん友達になってくれませんか?」
「友達、ですか?」
「はい。同じ学年…じゃなくって、一緒に学校入った人で私のこと覚えている人ですから。それになんとなくですけどいい友達になれる予感がするんです、私たち」
すっと栞さんが私に手を差し出してきた。栞さんの顔はさっきまでの朗らかな顔ではなくて、少し緊張したような、心配そうな顔をしています。
「…わかりました」
ぎゅっと栞さんの手を握り締めた瞬間、栞さんの表情がまるで花開くかのように強張った顔が輝いて、手にはよほど緊張していたのでしょう汗でしっとりと濡れていました。
友達…ずっと避けてきましたけどあの時、真琴に、あの子に出会わなかったら。ずっと自分の殻に閉じこもっていたのなら。多分この手を払いのけていたのでしょうね。
でもあの子と約束しましたから。それにこのように思ってくれるなら友達というのもいいのかもしれません。
「では、一緒に帰りましょう!」
「栞さん傘は?」
「あ!天野さん一緒の傘に入れてください」
「ええ、いいですよ。靴を履き替えてきますので少し待っていてください」
私は靴を履き替えて栞さんが待っている昇降口へと戻ると雨の降っている外から何かが聞こえて来ました。
「あ、お姉ちゃんだ」
微かに声にした方、校門には緩やかなウェーブがかった髪の長い女性がこちらに向かって歩いて着ます。
「迎えに来てくれたようですね」
「はい、何てったって私の自慢のお姉ちゃんですから」
「ええ、妹のことを本当に完全に忘れてしまう姉なんていませんよ。例えどんな辛いことがあっても」
「そう、ですね。………ちゃんと帰ってきてくれましたから」
栞さん?
「天野さんはお姉ちゃんか妹さんがいるの?」
「ええ、妹がいました」
「いました?」
「そうです。結婚してしまいましたけどね」
「ええーっ!結婚しているんですか!?詳しく教えてください!」
「それは……」
「それは?」
「それはですね…」
「うんうん」
「…内緒です」
「えーっ!そんな引っ張っておいて卑怯です!横暴です!そんなこという人嫌いです!!」
まくしたてている栞さんの罵詈雑言を右から左に流して、自分が笑ってることに気付いてさらに笑って。
栞さん、あなたのお姉さんが私たちを見て目を白黒させていますよ。
そのうち教えて差し上げますから。
束の間の奇跡を体験した私のことも、束の間の奇跡だったあの子と真琴のことも。
何ていったって私たちは友達で、これから歩いていけるのですから。