お母さんってね。ああ見えて寂しがりやで泣き虫なんだよ=\――

名雪がいつだったか、会話の途中にぽつりと呟いた言葉。
その時は意外に思っただけだった。
特に理由も追求しなかったし、信じたわけでもないし、でも疑ったわけでもない。
ただ漠然と聞いていた。
普通の日常会話なんていうのは、そんなものだろう。
だからそのことを思い出したのは本当に偶然であり、そしてまた小さな奇跡かもしれない。
その偶然か奇跡の引き金となったのは名雪の話。
三日間。
三日間という短い期間ではあるが、名雪が友達と旅行に出かけるらしい。
なんでも卒業する前に一度クラスの女の子だけで行きたいとか。
残り半年もあるのに気が早い。
それでもって卒業後も行くというのだから、単なる旅行好きということか。
俺は北川や久瀬と日帰りで遊びに行くくらいだろう。
その後に香里たちとも出かける予定はあるが。

閑話休題。

名雪がその話をした時。
あの秋子さんが、とても儚く、とても小さく、今にも泣き出しそうに見えた。
母性に溢れ、いつも温かで、笑顔を絶やさず、誰にも優しい秋子さんが。
俺が知る限り、誰よりも強いと思っていた秋子さんが。
だから俺は思い出したのだ。

「いってきまーす」
「おう。楽しんでこいよ」
「いってらっしゃい、名雪。気をつけるのよ」


―――お母さんってね。ああ見えて寂しがりやで泣き虫なんだよ










水瀬秋子は寂しさを嫌う










昼過ぎに名雪を見送ってすぐに俺は自室へと向かった。
たしかに今の感じだけでも、この家は少し静かになってしまったと俺も思う。
それはやはり名雪の明るさがないからか。
俺も秋子さんも暗いというわけではないが、お互い積極的に会話はしない。
だが……この程度で秋子さんは崩れるのだろうか。

「賑やかなの、好きな人だってのは知ってるんだが」

よく人を招いていた。
パーティーなんかもイベントがあると必ず開いていた。
ずっと名雪と二人だったからか、たしかに賑やかなのを好むのはわかる。
だが寂しいのが嫌いと結びつくだろうか。
泣いてしまうほど、寂しいのが嫌いということになるとは思えない。
さっきの様子を見ても追い詰められたような感じはしなかったんだが。

「俺がいるから? ってのは少し自惚れてるな……相沢祐一というよりも誰か≠「るから、か」

気になる。
どうしても気になる。
俺が見ている秋子さんは限りなく完全に近い。
仮にそれが作られた完全というのなら、素の姿を見たいと思うのは変だろうか。
別に悪意があるわけではない。
この家に住んで、俺も長い。
でも、いまだに秋子さんとは距離を感じてしまう―――あの人は、高みに在りすぎる。
そんな彼女を身近に感じることが出来るなら。

「そうしたい。というか……もう少し、頼ってほしいというか」

何でも出来るから、何でも自分でしてしまう。
それは俺にとって少しつまらない。
何でも出来るからって、何でも自分でしてしまう必要はないのに。
それが俺に出来ることなら任せてほしい。

「名雪がいると出来ないし、止められそうだからな」

これから俺がしようとしていることは少し悪質だ。
名雪がいれば俺を叱るだろう。
だが何かしないと何も変わらない気がする。
ならば、この三日間は俺にとって数少ない機会ということだ。

「さて」

ごめんなさい、秋子さん。
少し辛いかもしれませんが、俺を信じてくれますか?




















用意したりするものは特別ない。
必要とすれば、俺の気持ちだけだろう。

「秋子さーん? いますかー?」

あれ?
リビングにいると思ったんだけど返事もなければ本人もいない。
ぐるり、と見渡して気付く。

「うわ、雨だ」

窓の外はいつの間にか暗くなり、小降りではあるが雨が降っていた。
ということは洗濯物を取り込んでるに違いない。
時間との勝負だし手伝わないとさすがに大変なことになるな。
とりあえず先ほどまでの考えは忘れる事にして、俺は早足で移動した。

「手伝います」

洗濯物は残り半分ほどだったが、それでもまだ手伝えるだろう。
だが返ってくる言葉はやはりというか、予想通り。

「あら。大丈夫ですよ、これくらい。ゆっくりしててくださいな」
「濡れたら大変じゃないですか。取り込むくらいやりますって」
「祐一さんが濡れてしまいますよ」

そう言って微笑む秋子さんは、全身が雨で濡れていた。
雨足は強くないが健康に良いわけない。
もしかしたら風邪を引くかもしれない。

「手伝います」
「祐一さん」

静かな声。
だが、絶対的な力を秘めた声。
これが厄介だ。
秋子さんは本気で俺の体を案じて手伝いを遠慮している。
だからこそ、厄介。
俺が手伝っても秋子さんは喜んではくれないし、むしろ悲しむ。
もちろんお礼は言われるものの、必ず優しく諭される。

「風邪を引いてしまいますから」
「秋子さんだって濡れてるじゃないですか」
「ふふ、わたしは平気ですよ。それに祐一さんは姉さんから預かってるんですしね」
「……家族だって言ってくれたの、秋子さんなのに」
「あら、覚えててくれて嬉しいわ。でも、それとこれは別ですよ」

前髪から水を滴らせながらも微笑む。

「わたしは祐一さんがいてくれるだけで、幸せです」

結局、手伝うことはしなかった。
秋子さんを悲しませたくはないし、気持ちを固める機会となったから。
やはり多少荒療治だが秋子さんに変わってもらおう。
まあ。
俺に強引さが足りないのも、認めないといけないけれど。




















俺は演技でなく普通に不貞腐れながらリビングのソファーに沈む。
なんていうか、秋子さんに頼ってもらえないのが素で哀しかったのだ。
普段から寂しさは感じていたが、改めて冷静に考えるとかなり凹んだ。
演技するまでもなく予定通りに振る舞えそうな気がする。
それは幸いでありつつも虚しい。

「どうかしましたか?」
「…………」

無言。
その理由は俺の決意。
それに加えて顔を上げた時に見えた秋子さんが、まあ、その。

「祐一さん?」

シャワーを浴びたからだろう、髪を解き下ろした姿に見惚れそうになったから。
だがしかしそんなことで揺らぐわけにもいかない。
俺は決めているのだ。

「……なんですか?」

徹底的に秋子さんに冷たく接すると。
その仮面を取り去ると。
だから声は凍えて重たく。
視線は気持ちが漏れ出してしまいそうだから、合わせずに。

「え、そ、その」

静かな世界に雨音が反響する。
それはどことなく雑音の世界。

「怒って……ますか?」
「別に。だいたい、俺が何に怒るっていうんです?」
「わたしが、お手伝い、断ったことに」
「まさか。だって秋子さん、俺を心配してくれたんでしょう?」
「あ―――」

少し気配が和らぐ。
それを目で見ていない俺にもわかるほど、秋子さんは強張っていた。
だが甘い。
俺という人間は、決めてしまえば全てに揺らがない。
追い詰める。
引き際は見極めるつもりだが……追い詰める。

「俺も秋子さんが心配だったのに。自分のことはどうでもいいんですよね、秋子さん」
「ち、ちがっ! 違います! そんなことありません!」
「どっちでもいいんですけど。俺、受験もありますし。勉強してきます」
「ま、待ってください! その、ちゃんとお話を……」

たしかに、弱い。
というか慣れていないのだろう。
誰にでも分け隔てなく接することが出来、周囲にも良い人が集まる環境だからか。
秋子さんはきっと、冷たくされるということに慣れていない。
現に、彼女は今にも崩れてしまいそう。
だけど俺が折れてしまえば何も変わることはないだろう。

頼ってほしいと言ったこともある。
俺も名雪も子どもじゃない。
してほしいことがあれば、何でも言ってほしい。
でも返ってくる答えはいつも同じ。

わたしなら、大丈夫ですよ

「なんでですか?」
「だ、だって、祐一さんと……喧嘩なんて初めてですし、だから、わたし……!」
「だから、なんです?」
「このまま……祐一さんと喧嘩したままは、嫌、です」

俺はリビングから一歩だけ外に出て、振り向かないまま。
背中の秋子さんが縋るような視線を感じたまま。

「でも秋子さん、俺がいるだけ≠ナ幸せなんでしょ?」
「そ、それはそういう意味では……」
「それに。俺、いなくても秋子さん何でも出来るじゃないですか」
「…………あ、ぁ」
「手伝いとかしないでも、大丈夫でしょう?」
「それ、は!」
「心配しないでも出て行ったりしませんよ。居候ですから」
「―――祐一、さん?」

ぱたん。

「後味悪いな。かなり、自分にも響く」

ドアで二人を隔てて溜息。
本当に悪質で性質悪いことしてるが、秋子さんをかなり揺さぶることは出来ている。
ただ問題があるとすれば予想以上の狼狽具合か。
下手すれば今も一人で泣いていたっておかしくないくらいだ。

「……あまり時間をかけるのは双方に毒だ」

俺も、辛い。
その痛みが秋子さんに遠く及ばなくても、辛い。
だって、秋子さんは俺にとって大好きであり大切な人だから。
だからこそ甘えてほしいし力になりたい。
これで二人の間に確執が生まれては本末転倒。

「勉強、しよ」

手につくかは、わからないけど。




















血の気が引いている。
鼓動が早すぎる。
いけない、このままではいけない、なんとかしないといけない。
でも体は思うように動いてくれなくて。
声すら発することもできなくて。
ただ祐一さんが見えなくなるのを見送ることしかできなかった。

「祐一さん?」

呼ぶ。
応えてくれる人はいない。

「え……あら?」

何が起きたのか。
それも頭の中で処理が追いついていない。
追いついてしまいたくない。
もし追いついてしまえば、認めたくない現実が待っている。
だって、今、わたしは、祐一さんに。

「拒絶、された?」

現実に追いついた。
追いついてしまった。
落ち着かないと。

「何が、悪かったの? どうして、わたしは……!」

祐一さんの体を心配していた。
わたしはわたしに出来るなら全てを自分でやっていた。
名雪と二人で生きるのに必死だった。
育てるのを諦めたくなかったから、笑顔で今日まで頑張ってきた。

でも本音はきっと、一人になりたくなかったから。
名雪を育てるのは母親としての感情だけど、笑顔の理由はきっと一人が嫌で。
わたしの周りにいる人に嫌われたくなかったから。
悪意を向けられるのが怖かったから。
拒絶されるのを避けたかったから。
大切な誰かを失うなんてこと、もうしたくなかったから。

だから、わたしはわたしの手の届く範囲ならば、全てをこなせる。

「でも祐一さんには……違うの?」

いけなかったのだろうか。
わたしの生き方は。
間違っていたのだろうか。
わたしの接し方は。
どうしたらいいのか。
これからの、わたしは。

「……夕食に。その時、ちゃんとお話を」

電話が鳴る。
名雪だ。
ああ、いけない。
心配をかけないように、深呼吸をしてから出たほうがいい。
普通に会話が出来るように。

「大丈夫。わたしは、大丈夫」

そんな言葉にも力はなく、どうしようもなく視界が滲んだ。
名雪が家を空け、ただでさえ曇り空だったわたしの心は。
祐一さんとの心の距離を受け、完全に雨模様となってしまっていた。

「だい、じょうぶ……」

気が付けば。
わたしの心を鏡に映したように、外の雨も激しさを増していた。




















窓を叩く音でまどろみから覚める。

「寝てたか。ああ、ノートが折れてる」

どうやらいつの間にか小雨から大雨へと変わったらしい。
流れる雨水で窓の向こうはぼやけている。

「……俺も何してんだろ。秋子さんを一方的に傷つけてるだけじゃないのか」

よくわからなくなってきた。
最初は素顔の秋子さんが見たかっただけだが、予想外に秋子さんは脆い。
このままじゃ本当に参ってしまうんじゃないかと不安に思ってしまうほどに。
もう、このあたりでやめておくべきだろうか。
どうやら眠ってしまったことで弱気になっているらしい。

「いや。自己犠牲が過ぎる秋子さんは少し痛い目を見るべきだ」

俺も自己犠牲が過ぎるって言われるけど。
そんな俺だからこそ、秋子さんを何とかしたいと思ったのかもしれない。

「とはいえワンクッション入れておくか」

時計を見れば夕食も近い。
そうだな……夕食も険悪なのは秋子さんにも悪いから少し普通に接しよう。
あまり過度の優しさは見せないがいつものようにするくらいなら。
それに、一時の優しさの後に落とされれば……秋子さんとはいえ仮面が消えるはず。

「しかし考えてることは性質悪いな。今さらだけど」

持ち上げて落とす。
これは常套手段ではあるが落差が激しいと磨耗する精神も辛くなるから。
軽く溜息を吐きつつ手で少し乱れた髪を整え、部屋から出る。

「あっ」
「夕食ですか?」

部屋の前に何もせず立っている秋子さんがいた。
恐らく夕食が出来たことを知らせに来たが、先ほどのこともあり声をかけれなかったんだろう。
さすがに無視して行くことはせず、俺は普通に声をかけた。
それだけのことだが安心したのか小さな微笑みを見せてくれる。

「え、ええ、夕食です。食べます……よね?」
「もちろん」
「では準備してきます」

笑顔だ。
どうやら俺と普通に会話出来たことが嬉しいらしい。
そんな秋子さんに共鳴するかのように外の天気が和らいだ気がした。
非科学的だと思いつつ、秋子さんの心が窺えたようで嬉しくもある。
自分もリビングへ向かいつつ次はどうするかを考えないといけない。
とりあえず夕食は普通に取るとしよう。

「少し待っててくださいね」
「何か手伝いましょうか?」
「いえ、二人分で量も少ないから大丈夫ですよ」
「んじゃ座ってます」

これくらいはいい。
たしかに俺が手伝うまでもない量……手伝いたい気持ちはあるが。
無理して手伝わないといけない程じゃない。
折角秋子さんの機嫌もいいことだし、無理に言うこともないだろう。
そして並んだ料理はいつも通り美味しそう。
うーん、やはり夕食時くらいは普通にして正解かな……自分勝手だが。

「いただきます」
「はい、召し上がれ」

やはり会話の起点ともいえる名雪がいない分は静かだ。
俺も学校でのように秋子さんとは話せない。
さらに今はお互いに気まずい状態なのだから、会話は自然少なくなる。
美味しいですね、そうですね。
そういった味への感想程度しか、交わす言葉はなかった。
黙々と重苦しい食事が続く。
俺が先ほどよりも柔らかくなっているから最悪な状況にこそならないが。

「……その、祐一さん」
「はい?」

そんな空気の中、意を決したかのような声が響く。
料理から視線を上げると秋子さんは笑顔を消していた。
何か怖がっているような……そんな気配。
表面こそ厳しそうに取り繕っているが、その実すぐにでも崩れてしまいそう。

「先ほどのことでお話があります」

予想通りではある。
秋子さんの顔を見たときから切り出す話題はわかっていた。
こちらとしては夕食では持ち出さないつもりだったんだが。
そうか、あちらからすれば俺と顔を合わせる機会は今くらい。
これ以降は部屋に閉じこもるなりしてしまえば機会は得られないだろう。
俺からすれば違うが、秋子さんからすれば今が数少ない場ということだ。

「なんですか?」
「どうして、あんなことを?」
「秋子さんほどの人が、言われないとわかりませんか?」

態度を改める。
この話題が出た以上、多少は和らげていた態度を戻さざるをえない。

「わたしがお手伝いを断ったから……ですね」
「ええ」
「でも、祐一さん。わたしは祐一さんのことを考えて」
「ですから。俺も秋子さんのことを考えて言ったんです。手伝います、と」
「わたしのことはいいんです!」

そこを自覚してくれないと話は進まない。
秋子さんが俺たちのことを考えているように、俺たちも秋子さんのことを考えている。
秋子さんが自分のことを気にしないでも、俺たちは秋子さんを気にしている。

もう子どもじゃない。
自己管理も出来ているし、無理なものは無理だと断ることが出来る。
俺や名雪が手伝いを申し出ているのは全て、秋子さん一人では手間がかかり且つ俺たちで可能なことだ。
何も仕事を手伝わせろと言っているわけじゃない。
なのに風邪を引くから、なんて理由で何もさせてもらえないんじゃ、たまらない。

秋子さんは寂しさを嫌う。
おそらく笑顔の理由には人に嫌われたくない≠ニいう要素も大きいだろう。
さらに天性なのか何でも出来てしまうが故に人の手を煩わせない。
だからこそ出来ることは全て一人でこなしてしまう。
それがこちらの寂しさを誘うとは知らず。
出来ることにも限度があるのに。
それが秋子さんの負担となっているのは間違いないのに。

何でも出来る。
だが何でも何の代償もなく出来るわけじゃない。
もちろん疲れは溜まるし自分の時間も減っていく。
それぞれ分担して、協力して、助け合ったほうが楽なのに。
秋子さんには自分でやれば人に迷惑をかけない。だから嫌われない≠ニいうのがあるんだろう。
近所の人などの他人であれば、たしかにそうかもしれない。

だけど、家族だ。
家族にくらい迷惑かけたっていいんじゃないか。
俺たちはそもそも迷惑だとすら思わず、むしろ嬉しいのに。
最初に此処に来た時、家族として迎え入れてくれたのは貴女なのに……!

「祐一さんは何も手伝えないのが不満なんですよね。でも、別に何もしなくても……」
「どうして!!」

想いは声になる。

「ゆ、祐一さん?」
「どうして頼ってくれないですか! 俺も名雪も子どもじゃない!」
「わたしに出来ることで迷惑をかけるのは……」
「だから、どうして迷惑なんて言うんです!? 家族でしょう!? 家族、なのに……!」

ああ、くそ、こんなつもりじゃなかったのに。

「そんな遠慮してる関係なんて、そんな風に考えてる秋子さんなんて―――」

落ち着け、それ以上は本当に

「家族なんかじゃない!!」

本当に、傷つけてしまう。




















椅子に座ったまま天を仰ぐ。

「……最悪」

さっきまで少し良かった天気も今は酷い。
音だけで勢いがわかってしまうほどの大雨。
冗談のつもりだったが秋子さんの心に共鳴してる説を信じそうだ。
それほどまでに外の天気は酷い。

「探しに行かないと」

秋子さんはいない。
俺が叫んだあと、涙を流しながら外に出て行ってしまった。
ああ……泣かせてしまった。

「あれだけ自分のことを考えてって言ったのに、傘、持っていかないし」

さすがに効いた。
自分の心にまで亀裂が入ったような気分だ。
俺がこれでは、秋子さんがどれだけ辛かったか。
悔やんでも悔やみきれない。
こんなはずじゃなく、秋子さん本人が気付けるようにするつもりだったのに。

「雨、凄いな」

億劫な体を動かして外へ出る。
傘は一本だけ持ってきたが役に立たなさそうなので使わない。
なんとなく手に持つだけ持って、すぐにずぶ濡れになった。
暖かい季節ではあるが肌寒く感じる。
そのまま歩きつつ空いた手で前髪をかきあげた。

「くそ……視界は悪いし秋子さんの行く先なんてわからないし」

秋子さんが出てすぐに追うべきだった。
呆けてる場合じゃなかった。

「探そう」

謝らないといけない。
だから、一刻も早く見つけたい。
俺は足を踏み出した。




















家族じゃない。
それはどんな言葉よりも胸に突き刺さった。

知り合いに嫌われることよりも。
誰かに悪意を向けられることよりも。

本当に、辛かった。
それを言ったのが祐一さんなのだから、尚更に。

「わたしは……わたしは!」

叫ぶ声も雨音に掻き消される。
そういった点で、この天気はわたしにとって好都合だった。
わたしという存在を隠してくれる優しい世界。
視界は狭く、音は消され、わたしの周りには何もない。

「わたしだって、わかってるのに」

本当はわかってる。
祐一さんと名雪の気持ちも、わたしが悪いということも。
もちろん全面的にわたしが悪いとは思わない。
でも譲るべきところは譲り、頼るべきところは頼らないといけない。
家族とはそういうものであるべきだと思っている。

でも、それでも。
わたしは怖かったのだ。

「怖いの……一人は、嫌なの……」

涙が流れる。
雨で濡れている今、涙と雨の区別なんてない。
傍から見たらわからないかもしれないけど、わたしは泣いている。
ああ、泣いちゃいけないのに。
わたしは、笑顔でいないといけないのに。
そうしないと、みんな離れていってしまいそうで。

「あ」

ふと気付いた。
今、まさに一人だ。
暗い世界に一人きり。
そう思うと急に怖くなる。
優しかった世界は一転して色を変える。
暗く寒い、一人の世界。

「わたし、一人?」

立ち尽くす。
雨は容赦なく体に降り注ぎ、しかし何の慰めにもならない。
それは逆に自分が存在していることを示してしまう。
いっそ、雨すら当たらなければ悪い夢で済むかもしれないのに。

「祐一さんに嫌われて、これから、どうすれば……」
「……嫌いだ、なんて言った記憶はないんですけど」

雨が止んだ。

「探しましたよ」

緩慢な動作で振り返る。
そこに、全身を雨で濡らして、でも傘をわたしにさしてくれている祐一さんがいた。
少し疲れた表情……走り回っていたのだろうか。
でもさっきまでのような感じはなくて優しい感じだ。

「祐一さん?」
「ああ、もう。こんなに濡れて……体、冷え切ってるじゃないですか」

手を握ってくれた。
温かい……本当に、温かい。
この雨に濡れた彼の手だって冷え切っているはずなのに、温かい。

一人を強調する冷たい雨とは違う。
一人でないことを示してくれる、温かく優しい手。

「その、すみませんでした。さっきはつい感情的になって」

どうして祐一さんが謝るの?
謝らないといけないのは、わたしのほう。
祐一さんは決して間違ったことをしていないのに。
だから毅然としていていいのに。

片手で傘を、片手でわたしの手を。
そのままの体勢で、祐一さんは申し訳なさそうに話す。

「俺、寂しかったんですよ。何も頼ってもらえなくて」

懺悔するように。
後悔するように。

「だから名雪がいない今、無理にでも秋子さんとの壁を壊そうって」

なんで苦しそうなの?
なんで泣きそうなの?

「でも結果的に秋子さん泣かせて……本当に、すみません」

それはわたしの言葉。

「違うんです。わたしが、悪いんです。わたしが弱いから」

言葉が溢れる。

「祐一さんたちの気持ちもわかってました。でも、怖かったんです」
「迷惑をかけて嫌われるのが、ですか?」
「はい。そんなことないって思っても、やっぱり不安で」
「……言ってくれれば、よかったのに」
「言えません、そんなこと」

少し拗ねたような声になる。
だって、言えるわけがない。
嫌われるのが怖いから迷惑かけたくない、なんて。

ああ、やっぱりわたしは一人が苦手らしい。
こうして祐一さんがいてくれるだけで幸せだ。
少し違うかもしれない。
誰かがいて安心することはあるけど、この幸せは祐一さんがいてくれるから。
きっと彼にはそういう魅力がある。

「そろそろ帰りましょうか。本当に風邪引きますよ、秋子さん」

気付けば雨は幾分か小降りになってきていた。
なんだか本当にわたしの心みたい。

「祐一さん。わたしからも言わせてください」
「いいですけど……何を?」

一呼吸。
握られている手を握り返して。
それから、勇気を振り絞って。

「今までごめんなさい。これからは、少し頼ってみようと思います」

可愛い甥。
これまで真剣に謝るなんてこと、したことはなかった。
でも今わたしは謝ろう。
そして、名雪が帰ってきたら名雪にも。

「あ、秋子さん! そんな、いいですって!」
「いいえ。今日まで甥と娘……家族の気持ちを蔑ろにしてきたんですから謝ります」
「……それなら、お互い様ということにしましょうか」
「そうですね。今日は祐一さんに散々いじめられましたから」
「うっ、そ、そういうつもりじゃなかったんですけど」

仲直りの握手という気持ちで手を握り合う。
それから笑顔で祐一さんに抱きついた。
その勢いで傘が地面に落ちる。
でも大丈夫。
だってほら、雨はとっくに上がってる。

「ちょ、秋子さん!?」
「名雪にも謝ります。でも、これは祐一さんにだけ言います」
「な、なんですか!?」

怖がることなんて何もない。
だって優しい子たちに囲まれて。
こんなにも、わたしは幸せだ。

「わたし、寂しいの嫌なんです。だから一人にしないでくださいね」

囁いて、わたしは彼の手を取り歩き出す。

「帰りましょう」

明日は良い天気になりそうだ。