そこそこ降ったなぁ


 あーセットが崩ちまった


 こんな寒いのに雪じゃなくて雨かよ


 折りたたみ鞄の中に入れっぱなしでラッキー


 お母さん、雨やんだよ


 え? 降ってたの?


 雲とかないじゃん


 晴れか雨かどっちかにしろってぇの!


 狐の嫁入りって言うんでしょ?




 ――――じゃあその狐は、幸せになれるかな?



















               終章の街は



















 日が眠る。
 冬の昼は短く、もう太陽が西へと還ろうしているのだ。
 ぼぅっと、その太陽を見詰めながら天野美汐はひたすらかつての事を思い出す。


(あんな夕焼けをあの子と一緒に見た気がする……あの丘で)


 覚えている。
 覚えているがその思い出は鮮明に脳裏に蘇りはしなかった。
 友が消えたのはもう随分と昔だ。
 そしてその友と戯れた記憶はさらに奥にある。
 忘れ得ぬかけがえの無い記憶たちだが、当時を完全に思い返す事には少し時が経ち過ぎている様だった。

 それでも、友が消えた時の痛みだけは簡単に美汐の中で鎌首をもたげてくる。
 楽しく嬉しく愛しい記憶は遥か後方へ遠のいていくのに、ただ辛み悲しみが影のようにぴたりと自分に付き纏い、蠢きを留めようとしない。

 いや、本当は友と在った自分をはっきりと思い出せるかもしれない。
 しかし幸福だったあの頃が明確に浮かべば、友を失った激痛もまた強烈に黄泉返るだろう。

 だから思い出に霞がかかる。
 不明瞭になる。


(相沢さんも……こうなってしまうんでしょうか……)


 過去の彼女と友のような境遇に立つ、現在の男と女を美汐は知っていた。
 名は相沢祐一と沢渡真琴。
 もう、別れ近しい二人だ。

 狐の変化である真琴に、もう美汐は会った。
 そして大切な絆を得た。

 しかしその絆を手に、真琴はもう去る。
 去るのだ、美汐の友のように。

 胸の悪くなる激昂が美汐に高まる。
 友が消え逝くのに、また何も出来ないのだ。
 真琴の友となり、後悔など微塵も無い。

 それでも負の念が込みあがって来る。
 溢れてくる。
 抑えられない。


―――哀しい


 そんな美汐の頬が、微量の水に叩かれた。

 驚いたように空を見上げるが、茜色の天には雲ひとつない。
 加えて、現在冬という時期だ。
 降るのは雨でなくて雪であるのが妥当だろう。
 しかし現実として、ぽつりぽつりと雨が降り始めるのだった。


「雨……天気雨……」


 数秒ほど、ぼんやりと夕間暮れの空に魅入っていた美汐だが、すぐさま顔から血の気が引いていく。
 平衡感覚を失ったかのように視界がゆさぶられ、確実に上昇する体温を感じながら、しかし極寒の中にいる錯覚に陥った。
 夢から醒める鍵のように、幽鬼より青ざめた美汐が唇をわななかせてその言葉を虚空に溶かす。


「狐の…嫁入り……」


 悟った。
 それが真琴の最期の願いだと。

 祐一と真琴は、美汐と違って恋仲だ。
 そして真琴の存在を現世に留める糸は、もはや切れそうなほどか細い。
 単純な話、人の言葉も忘れ去り、肉体さえも意に背く。
 もう行動の須らくに枷がはめられ、存在を許された時間は極微小すぎる。

 そんな真琴だ。
 最期の願望を祐一との結婚にあてたと美汐は悟る。


 気づけば美汐は走っていた。


 もう真琴が消える。
 だからこそ真似事であれ、真琴は祐一と結婚しようとしたのではないだろうか。
 直感だが、悪い予感があたるというんが世の常だ。



 泣きそうになるのを堪えて美汐は小雨の中を走った。



――――止まないで


 心の底からそう願う。
 そもそも動く事がままならぬ真琴が末期を飾ろうとし、この雨は降ったのであろう。
 だからきっと雨が上がった時、もう真琴はいない。

 真琴が消えてしまう覚悟はもうできている。
 しかし、しかし、せめてその場に立ち合いたい。
 最後にもう一度だけあの子を撫でてやりたい。
 友として別れを見取ってやりたい。

 その後、確実にやってくる悲しみへの覚悟はもうできている。
 だから、せめてその場に在りたい。

 儚いほど小さな時間の友だった。

 それがどうした。

 美汐にとって、百の他人の薄い繋がりよりも大切な絆だ。

 だから、


――――止まないで


 祈りにも似た願いを魂で叫ぶ。

 何に願ったのかよくわからない。
 神様かもしれない。
 しかし、どうあれ祈りも願いも無意味だという事が美汐には骨身に染みている。
 それでも祈る。
 願う。
 
 そして走る。
 ものみの丘に。

 本能でしかないが、その本能が告げる。
 二人はあの丘にいる、と。

 疑う気も起こらなかった。
 ただ一分一秒でも、雨の止まぬ内にあの二人へとたどり着きたかった。


――――止まないで


 友を失ったあの頃とほとんど変わらぬ街並みを駆ける。
 元々少ない体力は、トップスピード維持と雨と冷気にどんどんと削り取られていくが、苦しみを噛み砕いて走った。


 そして色あせていた思い出達が熱を孕み始める。


 深淵にまどろんでいた思い出は、記憶のままの場所を走り抜けるたびに輝き出す。
 幾重にも折りたたまれていた記憶が、加速度的に花開いては、美汐の心に哀愁を差し込んでくる。

 公園に、橋に、十字路に、坂に、友と幼かった自分の姿が見えた。
 どちらも無邪気に、ただ楽しそうに笑っている。
 二人で手を繋いで歩いてる幻を追い越すたびに、美汐の頬を雨ではない水滴が流れていく。



――――美汐



――――またあそぼう



――――美汐



――――夕焼けきれいだね



――――美汐



――――ずっといっしょだよ



――――美汐



――――美汐



――――美汐










――――大好き











 それと同時に、雨の音の向こうから友の声も聞こえた。

 それでも立ち止まらない。

 立ち止まれば追懐に手を伸ばして泣き崩れるから。

 立ち止まれない。


 今はただあの丘へ。


――――やまないで


 それだけを願って走って、ようやく美汐は商店街へと差し掛かる。
 もうあと10分もかからずにたどり着ける。
 たどり着けるのに、


「降って! もっと降って!」


 雨足が徐々に引くのを美汐は感じていた。
 それでも走るしかない。


「降って! あの二人を祝福して……お願い……」


 叫ぶ。
 雨宿りする人々の目を潜り抜けて、張り裂けんばかりに叫び、走る。
 もう雨の量も減った今、視界がぼやけるのは涙のせいばかりだ。


――――ヤマナイデ



 雨が止んだ。


 そして美汐の足も動かなくなる。

 商店街のど真ん中。

 静止する美汐とは反対に、雨を凌いでいた者達が動き出す。

 晴れた夕空の雨を語る客たちの声が、美汐にはやけに大きく聞こえる。
 聞こえるだけだ。
 何一つ頭に残らない。

 まだ空は紅く明るいのに、美汐は暗黒に浸かっている気分だった。
 腹の底から悔しさとも悲しさともつかぬ想念が零れ落ちては心にたまっていく。


「う……ぅ……ぅうぅ…」


 とめど無く溢れ返る美汐の涙に気づいた者はいただろうか。
 商店街がまた活気を取り戻していく中で、美汐は泣いた。
 濡れた事も、人ごみである事も塵芥のように小さな事だった。

 走馬灯のように真琴の表情が一つ一つ脳裏に流れていく。
 真琴を撫でた感触が手に生き返る。

 もう会えない。

 あの子と同じ様に。

 ただ哀しかった。
 ただ寂しかった。

 通り過ぎていく人々の声が、美汐を通り過ぎていく。



 そこそこ降ったなぁ


 あーセットが崩ちまった


 こんな寒いのに雪じゃなくて雨かよ


 折りたたみ鞄の中に入れっぱなしでラッキー


 お母さん、雨やんだよ


 え? 降ってたの?


 雲とかないじゃん


 晴れか雨かどっちかにしろってぇの!


 狐の嫁入りって言うんでしょ?




 ――――じゃあその狐は、幸せになれるかな?




 誰かの声だった。

 本人からすれば他愛も無い疑問だったのだろう。
 しかし何気なく耳に刻まれたそのセリフに、美汐は弾かれたように身を強張らせた。


――――きっと……きっと真琴は……


「うぐぅ! どいてどいて!!」


 その思考が中断されたのは、慌しい声のせいだった。
 はっとなる美汐だが、遅い。
 背後から強い衝撃を感じた時には前に倒れていた。


「きゃっ!」


「わわわっっ!!」


 コンクリートで舗装された道は固く、思わずついた手が雨の湿りに冷たかった。
 傷らしい傷はなかったが、面食らったままぶつかってきたものに美汐が振り向けば、


「うぐぅ……ご、ごめんなさい」


 小脇に袋を抱え、ダッフルコートを着た少女が申し訳なさげに尻餅をついていた。
 背負ったリュックにプラスチックの羽がついていて、随分と印象的だ。


「いえ…わたしこそぼーっとしちゃってて。大丈夫ですか?」


 立ち上がり、美汐は手をさし伸ばす。
 その手をとって少女も立つが、上目遣いには罪悪感が秘められていた。


「急いでいたのに………邪魔しちゃったみたいですね」


「うぐ? ………うん、そうなんだ。最後のお願いを、かなえなきゃ駄目だから……」


「お願い……?」


 今しがた、自分の願いがもろく砕かれた手前、美汐の表情は曇る。
 しかし少女はそんな美汐の表情を別な風に捉えたのだった。


「泣いてたの?」


「えっ?」


 言われて反射的に目を擦る。
 しかしそれは相手の問いに肯定しているようなものだ。
 少女は心配げに美汐の目をじっと見詰めてくる。


「……悲しい事があったんだね……?」


「…はい…」


 およそ断定に近い少女の言葉に、美汐はうつむく。
 悲しくて、哀しくて。


「じゃあ、これを食べるといいよ」


 そして、少女は抱えていた袋を美汐に差し出した。
 覗いた中にあったのは、たい焼きだ。


「元気が出るほど美味しいよ」


 太陽のような微笑みだった。
 純粋な優しさの波動に、美汐の頬にまた一筋涙が流れる。


「で、でも……」


「いいから、いいから。今日は、ちゃんとお金を払ったんだけどね、ぼくは……もういかなきゃ駄目だから」


 遠慮する美汐に、しかし少女は強引に袋を美汐の胸に差し出した。
 ぎこちなく受け取った美汐の手に、温かさが伝わる。


「……ありがとう…」


 掛け値なしに感謝の気持ちが込められた有難うだった。
 ぎゅっと、たい焼きの入った袋を柔らかに抱きしめて、美汐もつたなく笑う。
 絶望にも似た深みから、掬い上げられたかのように少女の心遣いが暖かかった。


「じゃあ、ぼくはもういくね」


「はい……たい焼き、ありがとうございます」


「うん。それを食べて悲しい事なんて忘れようよ」


 穏やかな空気が、重い喪失感をわずかに緩和してくれる。
 忘れることなどできるはずもないが、それでも少女のおかげで少し楽にはなった。

 ぱたぱたと手を振って去っていく少女を見詰めて、美汐はもう一度だけ泣いた。
 それで悲愁が晴れるわけでもない。
 それでも、泣いた。
 今はただ、真琴を想って泣いた。

 たい焼きは元気が出るほど美味しかった。























「すみませんお客さん、遅れちゃって……」


「あの渋滞です。仕方ありませんよ」


 晴れた雨の日。
 豪奢なホテルの正面口に、一台のタクシーが停まる。
 降りたのは赤みがかかった髪を、短めにそろえた美女だ。
 そもそも綺麗な顔にした化粧も上品だった。
 代金を支払いった折の礼も丁寧で、物腰も柔かい。


「まいどあり」


 片手を挙げ、人好きのする笑顔のまま運転手はそのままタクシーを回す。
 それを見送り、美女は蒼穹から降り注ぐ雨の一粒をその掌に握り締めて苦笑した。


「今度は、間に合いましたね……」


 美女がバッグから取り出すのは招待状。
 控えめで可愛らしく整えられたそれは、結婚式のものである。

 7年前、二人は二人だけで結婚式をしたらしい。
 しかしそれは真似事というか、正式なものではない故、時を置いて今、晴れやかに行われる。
 遅れたが、今日はそれに参加できるのだ。
 それがたまらなく嬉しかった。

 式はもう始まっているが、それほど時間が経ってはいない。
 間に合ったのだ。

 祐一と真琴の結婚式に。


「スピーチ、頑張りましょう!」


 最上の微笑みをたたえて、美汐は式場へと急ぐ。





















 そこそこ降ったなぁ


 あーセットが崩ちまった


 こんな寒いのに雪じゃなくて雨かよ


 折りたたみ鞄の中に入れっぱなしでラッキー


 お母さん、雨やんだよ


 え? 降ってたの?


 雲とかないじゃん


 晴れか雨かどっちかにしろってぇの!


 狐の嫁入りって言うんでしょ?




 ――――じゃあその狐は、幸せになれるかな?














 なれますよ、きっと。