雨。

 簡単に言えば、空から降ってくる水滴、といったところだろうか。

 少し難しく言えば、大気中の水蒸気が気温の低い高空で凝結して雲となり、その中に雨粒が成長して地上に降ってきたもの、といった感じだろう。

 だが、雨を見るたびにわざわざそんなことを考える奴はほとんどいないだろう。

 大抵の人は嫌だとか良かったとか、そんなことを考えるんじゃないだろうか。

 雨夜の月・雨夜の星・雨上がりのあひる・恵みの雨など、良いことの例えであったり悪いことの例えであったりと様々だが、沢山の雨の付く言葉もある。

 他にも、雨気顔といったように人の身体のことを表すものであったり、雨蛙・雨燕・雨虎のように動物の名前にも使われることがある。

 また、雨の花といえば紫陽花といったものが思いついたりもする。

 こうして考えてみると、雨というのは不思議だと思う。

 まあ、それは雨に限ったことではないとは思うが。

 人によっては雨のことが好きだったり嫌いだったりするし、その理由も様々だ。

 それは雨の付く言葉からも明らかなように、見る角度によって様々な形に変化する。

 そしてそれは見る人によっても変化する。

 ある人は雨は濡れてしまうから嫌いというかもしれない。

 でもまたある人はそれが気持ち良いから好きというかもしれない。

 雨は嫌な記憶を蘇らせてしまうから嫌いという人もいるだろうしその逆の人も居るだろう。

 雨。

 これを説明すること自体は難しいことではない。

 だが、本当の意味で説明することはかなり難しいのではないだろうか。

 何故、雨に抱く感情が十人十色なのか。

 何故、こんなにも雨に感情を揺るぶられるのか。

 それを万人が納得するような説明をすることは……

 しかし、一つだけ言える事があるとすれば、それは――


 「祐一さん!」


 その声に思考を中断させる。

 声はすぐ傍から聞こえてきた。

 そちらに視線をやると、そこには頬を少し膨らませている少女が一人。

 少女の名は美坂栞。

 初めて会ってからまだ半年も経っていないが、俺にとって一番大切といえる存在。


 「どうした?」

 「どうしたじゃないですよっ。

  さっきからずっと話しかけてるのに……」

 「ああ、悪い……ちょっと考え事をな」

 「それで、答えは決まったんですか?」

 「ん?」

 「さっきの、雨は好きか嫌いかって問いのです」

 「ああ、それをさっきから考えてたんだがな……」


 そう。

 何故俺がさっきまでのようなことを考えていたかというと、栞から雨は好きか嫌いかを聞かれていたからだった。

 普段あまり意識したことのないようなことだったので少し考えてみたのだったが、何か余計なことまで考えていたような気がする。

 というか、随分と柄じゃないことを考えていたものだ。

 そういうのを考えるのは天野の役目だろうに。

 そんなことを考えていると天野の怒った顔が頭に浮かんでしまい苦笑する。

 が、それを頭を軽く振って追い出し、話を先に進めるために口を開いた。


 「栞は雨は嫌いなんだったよな?」

 「はい。

  雨を見ると何となく嫌な気分になってしまいますから……」


 答えながら栞は首を上に向ける。

 俺もそれに倣って空を見上げた。

 視線の先には真っ黒な雲が広がっている。

 そこから落ちてくる幾つもの雫。

 これで何日続けてだったかなぁ……

 すでに覚えていないほど雨は降り続けていた。

 ――今は梅雨の時期だった。


 「じゃあ、栞にとって今はかなり嫌な時期だな」

 「はい、ほとんど毎日のように雨が降り続けていますからね」


 顔を上空に向けたまま話す栞。

 ふと気づくと栞の身体が傘から少しはみ出ていた。

 上を向いたまま歩いているからだろう。

 傘を少し横にずらしてやる。

 と、それに気づいたのか栞が俺の方を向いた。


 「ありがとうございます」

 「別にいいさ」


 言いながら、栞の着けているそれに自然と目が行ってしまう。


 「……そういえば、まだストール着けてるんだな?」

 「はい。

  ……だって、お姉ちゃんがプレゼントしてくれたものですから」


 笑顔で答える栞。

 しかし、それは何処か翳を感じる笑顔だった。

 一瞬間が空く。

 俺がそれに対して何かを言う前に――


 「それに」


 栞はまた空を見上げ呟いた。


 「ん?」

 「それに、雨は何となくこのまま嫌な事がずっと続いてしまうような気がするから。

  だから、私は雨が嫌いなんだと思います」

 「……そうか」


 何か気の利いたことの一つや二つ言えれば良かったのだが、生憎とそんな言葉は思いつかなかった。

 だから、代わりに俺の答えを聞かせてやることにする。


 「でもな、栞」

 「はい?」

 「俺は――」















 梅雨が終わる時















 ……身体が動かない。

 ……暗くて何も見えない。

 ……何も感じられない。

 ――ち。

 一体俺の身体はどうしたんだ?

 ……何か起こったのだろうか?

 ――いち。

 ……駄目だ、何も思い出せない。

 何かがあったような気はするのだが、それが何かまでは。

 ―ういち。

 って、さっきから何か煩いな。

 俺は考え事を――


 「祐一!」

 「――え?」


 その声で目が覚めた。

 辺りを見回す。

 ここは……教室?

 あれ?

 俺、授業受けてたんだっけ?


 「もう、ようやく起きた」

 「……名雪?」

 「本当によくそこまでぐっすりと寝れるわね」

 「まったくだ」

 「……北川君は人のこと言えないでしょ?」

 「……香里?

  ……北川?」


 視線を横に向ければそこには名雪が、少し後ろにずらせば香里と北川が立っていた。

 ……あれ?


 「……俺授業受けてたんだっけ?」


 さっきも頭に浮かんだ疑問を今度は声に出してみる。

 それに呆れた顔を向けてくる三人。


 「……どうやらまだ寝ぼけてるようね?」

 「もう昼休みだよ、祐一」

 「早く移動しないと飯食う時間が無くなるぞ?」


 ……なるほど、さっきまで見てたのは夢か。

 頭を軽く振って目を覚ます。


 「悪い、寝ぼけてたみたいだ」

 「そうみたいね」

 「ねぇ、早く行こうよ〜」

 「ああ、もうみんな来てるんじゃないか?」

 「何?」


 北川の言葉で時計を確認してみる。

 ――昼休みが始まってからすでに十分近くが経過していた。


 「やばっ!」


 ガタン、と勢いよく席を立つ。

 拙い、みんな怒ってるだろうな……


 「もう、ずっと起こしてたのに中々起きないから」

 「……名雪、半分はあなたのせいでもあるのよ?」

 「はっはっはっ、水瀬さんにも困ったものだな」

 「……北川君、そのさらに半分はあなたのせいなんだけど?」

 「さて、急ぐぞ、相沢!」

 「祐一、急ぐよ!」

 「……お前ら」


 そんなことを話しながら、屋上へと続く階段を上っていく。

 やがて屋上へと続く扉の手前にある踊り場が見える。

 そこを超えると、すぐそこに扉。

 扉を開けると、目の前には青空が広がっていた。

 あまりの眩しさに目を細める。

 そのまま視線を下ろすと――


 「あ〜、やっぱりみんな揃ってたか」

 「祐一さん、遅いですっ」

 「あはは〜、さすがに十分以上だってますからね〜」

 「……祐一、遅い」

 「祐一、遅いわよ!」

 「相沢さん、遅刻です」

 「祐一君、遅いよ!」


 すでに俺たち以外のみんなが揃っていた。

 って。


 「ちょっと待て、お前ら!

  何でお前らは全員俺の名前を出す!」

 「……祐一が原因だから」

 「いや待て。

  確かに俺も原因だが、他にも名雪や北川も――」

 「やっぱり、佐祐理の作ったお弁当は美味しいわね」

 「あはは〜、ありがとうございます〜」

 「……」

 「栞さん、また腕を上げましたね」

 「いえいえ、美汐さんも相変わらず料理が上手ですね」

 「……」

 「月宮さん、ここはこうした方が美味しくなるわよ?」

 「へ〜、そうなんだ〜」

 「……」

 「な、それは俺が狙ってたのに!」

 「……早いもの勝ち」

 「……」

 「祐一、早く食べないと時間無くなるよ?」

 「……ああ、そうだな」


 何か非常にやるせない気分になったが、時間が無いことは事実なので素直に座る。

 ざっとその場を見回すが、相変わらず色取り取りのおかずが並んでいる。

 みんなで弁当を持ち寄っているため沢山のバリエーションがあり、色々な味を楽しめるのが良い。

 たまに同じおかずもあるが、人によって味付けが変わるのでそれはそれで面白い。

 人も沢山居るため会話も所々で弾み、笑い声は絶えない。


 「……栞、この玉子焼き甘すぎない?」

 「そうですか?

  ……う〜ん普通だと思いますけど?」

 「……そうね、栞の味覚は普通とは違ったんだったわね。

  ごめんなさい、栞」

 「お姉ちゃん、それ何気に酷いですよ!?」

 「言葉通りよ」

 「フォロー無しですか!?」

 「本当に、あの二人はいつ見ても仲睦まじいよな?」

 「……そうだな」


 楽しい日常。

 いつもと変わらない日常。

 ……そのはずなのだが。

 何故――


 「祐一さんどうしたんですか?

  ……おかずが口に合いませんでしたか?」

 「栞か。

  ……いや、相変わらず美味いよ」

 「そうですか、良かったですっ」

 「でもな」

 「でも?」

 「……いや、何でもない」

 「……そうですか?」

 「ああ」


 首を傾げる栞。

 ふと空を見上げてみる。

 雲一つ無い晴れ渡った空。

 屋上で昼食を食べるにはもってこいの天気。

 ――何故。

 いつものことなのに。

 楽しいはずなのに。

 ――俺は。

 みんなの声が遠くに聞こえる。

 ……空が歪んで見える。

 ――違和感を感じているんだろうか。















 「祐一、放課後だよ〜」

 「……ああ、そうだな」

 「……祐一、何か元気ない?」

 「いや、そんなことはないぞ?」

 「そう?

  何かいつもと反応が違ったから……」

 「……ちょっと疲れてるだけだ」

 「ならいいんだけど……」


 拙いな。

 気付かれないようにしようと思ってたんだが、俺ってそんなに分かりやすいんだろうか。

 それとも、そこまで酷く考え込んでいたのか。

 だが、かといって誰かに話すのも何となく躊躇われる。

 ……疲れてるのが原因でこんなことを考えてるんならいいんだが。


 「お姉ちゃん、一緒に帰りましょう!」


 と、そんなことを考えていると栞がやってきた。

 どうやら、今日は香里を迎えに来たようだ。


 「ええ、良いわよ――って、相沢君とじゃなくて良いの?」

 「はい、今日はお姉ちゃんと一緒に帰りたいんですっ」

 「そう……まあ、わたしは別に構わないけど」

 「はい。

  それでは帰りましょう!」

 「ちょっ、そんなに焦らないでも家は逃げないわよ?

  それに、何でそんなに嬉しそうなのかしら?」

 「お姉ちゃんと一緒に帰れるんだから当然ですよ!」

 「まったく、一緒に帰らなくても家に帰れば嫌でも会えるでしょうに」

 「ええ、まあ……そうなんですけどね」


 そう言って笑う栞の顔が寂しそうに見えたのは気のせいだったのだろうか。

 だがそれは一瞬ことだったので、はっきりとは判らなかった。


 「それでは祐一さん、さよならです」

 「じゃあね、相沢君」

 「ああ、じゃあな」


 二人が教室を出て行くのを何となく見送る。

 香里は優しい顔で栞を見守り、栞は本当に楽しそうな、嬉しそうな顔で香里に話しかけていた。

 でもその顔に――やはり時々寂しさが混じっているような気がした。

 ――さて、俺も帰るか。

 二人の姿が完全に見えなくなると、俺も立ち上がった。

 鞄を手に取り帰ろうとしたところで、ふと何気なく窓の外を見上げた。

 空は相変わらずとても映える蒼だった。

 でもやっぱり――どこか作り物めいて見えてしまうのだった。

 その考えを振り払うようにして俺は教室を後にした。

 校門を抜けたところで、そのまま帰ろうかとも思ったのだが――


 「……商店街にでも行くかな」


 何となくまだ家には帰りたい気分ではなかったので、商店街へと向けて歩き出した。















 商店街を、何をするでもなくぶらぶらと歩く。

 今はこうしていたい気分だった。

 何も考えずに、ただボーっとしていたかった。

 ――あまり考えると、何かが壊れてしまうような気がしたから。

 視線を巡らせ、辺りの光景を眺める。

 俺と同じく学校帰りの学生。

 これから夕飯を作るんであろう、買い物袋を提げた女性。

 まだ仕事中であるのか、忙しなく動き回っているサラリーマン。

 当然みんな色々なことをしている。

 同じ事をしている人がいないではないが、基本的にみんなバラバラの事をしている。

 しかし、何故か――それらが機械めいたものに見える。

 決められた事に沿って動いているように感じられた。

 みんな異なる事をしているはず。

 なのに、顔は全員図ったように笑顔。

 それは悪いことではない。

 いや、むしろ良い事のはず。

 だが。

 ――それはどこか作り物めいていた。

 と、その時――


 「っ!?」


 視界の端に見知った顔を見たような気がした。

 急いで振り返るも、そこにその姿は無かった。

 ――ダッフルコートにミントの手袋。

 それを意識した瞬間。

 ――一瞬だけ頭痛がした。

 同時に、頭に掛かっていた靄が振り払われるような感覚。

 もう一度よく探してみるが、やはりその姿を見つけることは出来なかった。

 が、そこでさっきまでとは辺りの様子が異なってることに気づく。

 ――さっきまでは、まだ明るかったのに。

 空を見上げる。

 そこには、さっきまでの蒼い空などは無く、今は橙と闇とが混じった色をしていた。

 陽はほとんど沈んでおり、辺りはすでに薄暗い。

 ――逢う魔が時。

 大きな災いの起こりやすい時、人と魔物の判別がつきにくい時間帯、か。

 ――じゃあ、お前は差し詰め、この世界を終わらせるために現れた魔物、ってところか?

 天使と魔物の両立か。

 忙しい奴だな。

 つい苦笑が浮かぶ。

 ――さて、とりあえず帰るとするか。

 踵を返し、水瀬家への道を歩き出す。

 と、その前に言うことがあったことを思い出して立ち止まる。

 振り返り、さっきそれを見掛けた――何も無い場所を見つめ――


 「じゃあな。

  それと――ありがとな」


 別れと、色々な意味を含めた感謝の言葉を述べた。

 ――視界の端に、ダッフルコートを着た少女が微笑んで手を振ってくれているのが見えたような気がした。















 家に着く頃には陽は完全に沈み、夜の帳が完全に辺りを覆っていた。

 すでに夕食は出来ていたらしく、そのまま夕飯ということになった。

 俺・名雪・秋子さん・真琴が席に座り、いつものように歓談しながら飯を食べる。

 楽しい食卓。

 いつもの食卓。

 ――いつかの食卓。

 俺は自分から話すことはせず、三人の話に耳を傾けていた。

 まあ、三人とはいえ主に話すのは名雪や真琴なのだが。

 いつもとは違う俺のその様子に、名雪や秋子さんばかりか真琴にまで勘繰られそうになったが曖昧に笑って誤魔化しておいた。

 夕食が終わっても、その場では引き続き歓談が行われていた。

 ここでも俺は主に話を聞くだけ。

 真琴が見たいテレビがあるといえば見せてやったりもした。

 そこでもやはり燻しがられたが、今日は何となくテレビが見たく無い気分だと言っておいた。

 だが、そろそろ限界だと悟り、俺はその場を立ち上がった。

 体調があまりよくないのだと嘘を吐き部屋へと戻る。

 これ以上はもう、駄目だった。

 これ以上は判断が鈍ってしまうかもしれないから。

 鈍りそうになってしまったから。

 部屋に戻った俺は、ボーっとしながら今日起こった事を思い返していた。

 楽しかった今日の思い出を胸に刻むように。

 暫くはそうしていたのだが。


 「――さて、行くか」


 頃合を見計らって部屋を出る。

 時刻は日付が変わる少し前。

 ――魔法は十二時で解けるもの。

 王子様が迎えに行ってやらないと、お姫様は何をするか分からないからな。

 そこまで考え、苦笑する。

 お姫様は別として、俺は王子様って柄じゃないな。

 さすがにこの時間はみんな寝ているのか、家の中は静かなものだった。

 誰も起こさないように静かに階段を下り、玄関へと出る。

 靴を履き玄関の扉に手を掛けたところで、一度だけ家の中を振り返った。

 何処か暖かい空気が流れている気がして、耳を澄ませばみんなの笑い声が聞こえてくるように思えた。

 一瞬だけ戸惑ったが、逡巡したのは本当に一瞬だけで後は一度も振り返ることなく家を出た。


 「――じゃあな」


 それだけを残して。

 ……人が一度に掴めるモノには限りがある。

 それを理解していないと、何も掴めないで終わってしまう。

 ――俺が掴んだのはあいつだったから。

 心中で呟き、学校へと急いだ。

 後ろ髪を引かれながらも、前だけを見つめながら。















 「……良い月だな」


 学校の中庭に着くなり、空を眺めながら呟く。

 空には、綺麗に真円を描いた月が浮かんでいた。


 「……そうですね」


 満月のおかげで、本来は暗いはずの中庭でも相手の姿をきちんと確認出来た。

 栞は、いつかのように中庭に立ち尽くしながら、何処かを見ていた。

 俺の言葉に頷きながらも、その目は月を見てはいなかった。

 ……正確に言えば、何処も見てはいないのだろうが。


 「ところで、今日って本来は満月だったっけ?」

 「さあ、どうなんでしょうね?

  最近は雨ばかりで月を見ていなかったですから。

  それに、今晩が何時かなんてことも分かりませんし」

 「……それもそうだな」


 栞は何処かを見ながら応える。

 そして、そのまま話す。


 「そういえば、よく私がここに居ることが分かりましたね?」

 「ああ――お節介な天使が教えてくれたからな」

 「……なるほど」


 そのまま二人とも黙ってしまう。

 沈黙が場に落ちる。

 でも、それは特に不快ということもなく、とても自然な感じだった。

 栞はしばらくそのままで居たのだが、不意に目を瞑った。

 そのまま時間が過ぎる。

 俺は、ただ待っていた。

 何をするでもなく、栞の姿を眺めていた。

 やがて、栞の目が開く。

 そして俺の方に振り向き――


 「帰りましょう」


 この世界との決別を告げた。


 「もう良いのか?」

 「はい。

  ――幾ら似せようと、居心地が良かろうと、ここはやっぱり私達の世界とは違いますから」

 「……そうか」


 大丈夫だろうと思っていたとはいえ、栞が自信の力だけでこの世界との決別を決めてくれたのは嬉しかった。

 不安が無いわけではないが――


 「大丈夫、だよな?」

 「……確証は持てませんけど」


 二人ならば大丈夫だろうと思った。


 「それに、今回のことでやっぱり分かったんです」

 「何をだ?」


 分かっていながら聞く。

 答えはやはり――


 「やっぱり、私はお姉ちゃんとああいう風に過ごしたいんだって」

 「……そうか。

  まあ、二人とももう少し自分に素直になった方が良いな」

 「自分に素直に、ですか?」

 「ああ」


 二人の仲がギクシャクしてるのなんて簡単な理由だった。

 お互いにお互いのことを気にしすぎていた。

 それが裏目に出てしまった。

 ただ、それだけだった。

 だから、後は――


 「相手のことを気遣うだけじゃなくて、自分のやりたいようにやることも大事だってことだ」

 「自分のやりたいように……」


 栞は何かを確認するかのように数度繰り返していた。

 さて、後は二人次第だな。

 ま、心配はいらないだろうが。


 「さて、んじゃそろそろ帰るか。

  みんなも心配してるだろうし」

 「……そうですね」

 「それじゃ、また向こうでな」

 「はい」


 瞬間、視界が真っ白に染まる。

 ガラガラと、何かが崩れていくような音が聞こえた気がする。

 やがて視界は暗転し――意識は闇に落ちた。















 目を開くと、白い天井が見えた。

 ぼんやりと病院の天井だということがわかった。

 ――帰ってきたのか。

 朦朧とする意識の中でそんなことを思う。

 次第に意識もはっきりとしてくると、周りの状況が気になり始めた。

 ――俺は一体どれぐらい寝ていたんだろう?

 何か手掛かりになるものはないかと視線を彷徨わせ――真横で止まった。

 ベッドの横にある棚。

 その上には花瓶が置いてあった。

 そして、そこに居る人物。

 どうやら花瓶の花を代えているようだった。

 ちょうど俺に背中を見せる形になったいるので、まだ向こうは気づいていない。

 しかし、これは少し困ったな。

 どうやって声を掛けるべきか。

 別に普通に声を掛ければ良いのだろうが、何となく戸惑われた。

 そのままどうしたものかと考えていると、不意にこちらに振り向いた。


 「……え?」


 互いの目が合う。

 そのまま相手は固まってしまった。

 黙ったまま見つめ合う俺達。

 ……何となく気まずい。

 とりあえず、このまま黙ってるのもあれだったので、俺から話しかけてみようとしたのだが――


 「え〜と、あ――」

 「祐一さん!」

 「ぬお!」


 いきなり抱きつかれた。

 さすがにこの反応は予想外だったのでかなり驚く。


 「え、ちょっ、秋子さん?」


 ――まさか、あの秋子さんがここまで取り乱すとは思わなかったなぁ。

 声を掛けてみたが、俺に抱きついたまま秋子さんの反応は無かった。

 と、その時不意にドアが開いた。


 「お母さ〜ん、こっち――」


 ドアから現れたのは名雪だった。

 何かを言いかけていたが、俺達を見て固まってしまった。

 ――まあ、そりゃそうか。

 ドアを開けたら従兄と母親が抱き合っているのだから。

 とりあえず誤解を解こうとしたのだが――


 「あ〜っと、名雪、これはな――」

 「祐一!」

 「ってお前もか!」


 名雪にも抱き付かれてしまった。

 というか、名雪が驚いてたのは俺が目覚めてたからのようだ。

 ――二人がここまで取り乱すってことは、俺はどれだけ寝てたんだろうか。

 ……まあ、後で聞けば良いことか。

 それよりも今はこの二人をどうするかだが……

 ――ま、いいか。

 一瞬このままでは恥ずかしいから無理やり引き剥がそうかとも思ったが、結局このままにしておくことにした。

 確かに恥ずかしいことには違いないが、俺のためにここまで喜んでくれていることが素直に嬉しかった。

 さて、向こうはどうなったのやら――


 「水瀬さんの声が聞こえたけど、何かあったのか!?」

 「よう、お前も来てたのか」

 「相沢!?」


 ドアが開きっ放しだったから声が廊下まで響いていたらしく、北川が姿を見せた。

 俺の起きてるのを確認するなりこっちへと駆けてきて――


 「目が覚め――へぶっ!」


 吹っ飛んだ。

 拳に嫌な感触が広がる。

 まあ要するに、俺が北川を殴った。


 「事故にあったお前を心配して来た親友に向かってなんてことをするんだ!」

 「お前が抱きつこうとなんかするからだろうが!」


 文句を言いながらも、特に痛がる様子も見せずに立ち上がる北川。

 まあ、殴ったとはいっても軽くだから当然か。


 「ま、冗談は置いといて……無事目が覚めて安心したぞ」

 「ああ……心配かけたな」


 言いながら軽く拳を小突き合わせる。

 北川とはこのぐらいで十分だ。

 と、何やら隣の部屋が騒がしくなったような気がする。

 なるほど――


 「栞が目覚めたのか」

 「ん?」

 「隣の部屋だよ」

 「ああ……みたいだな。

  ……あれ?

  何で栞ちゃんも入院してること知ってるんだ?」

 「……ま、俺も寝てる間に色々あったんだよ」

 「……そうか」


 俺の口調に何か感じたのか、北川はそれ以上は聞いてこなかった。

 それきり会話が途切れる。

 そこで何気なく窓へと視線を向けると、外では雨が降っているようだった。

 でもそれは小雨のようであり、何となく梅雨の終わりを予想しているかのようでもあった。

 そして、雨を眺めながらふと思う。

 ――ところで二人はいつまでこのままなんだろうか……















 目を覚まして最初に感じたのは白。

 一瞬まだあそこに居るのかと思ったけど、すぐに違うことに気がつく。

 それは天井だということに気づいたから。

 それで自分は今病院にいるのだということが分かる。

 辺りに視線を送ってみたけど――誰もいなかった。

 多少の落胆と、それが当然だと思っている自分がいた。

 でも、その時扉が開いて部屋の中に入ってきた人が。

 ――私の姉である美坂香里。


 「……お姉ちゃん?」


 私は少し驚いて呟いた。

 すると、お姉ちゃんは一瞬目を見開いて固まった。

 でも、それも本当に一瞬のことで、すぐにお姉ちゃんは私のところに文字通り飛び込んできた。


 「栞!」

 「お姉ちゃん?」

 「栞……良かった。

  目を覚まさなかったらどうしようかと思った……」


 お姉ちゃんの肩が震えている。

 声も押さえようとしていたのだろうけど、震えているのが分かった。

 ――お姉ちゃん、泣いてるの?

 何故と思うと同時に私は理解したような気がした。

 思い出される祐一さんの言葉。

 ”自分に素直に”

 ……私もお姉ちゃんも互いに遠慮しすぎていた。

 相手を想い過ぎるが故に、それが相手に伝わらなかった。

 でも、それも多分もう大丈夫。

 私は分かったから。

 お姉ちゃんが私のことを想ってくれてるって。

 やっぱりお姉ちゃんはお姉ちゃんのままだったって分かったから。

 だから――


 「栞!?」

 「栞、目を覚ましたのか!?」


 その時、扉のところから聞こえる二つの聞き覚えのある声。

 そちらへと視線を向けると、やはりそこには私のお母さんとお父さんが居た。


 「お母さん、お父さん」


 私が呟くと、それが合図であるかのように二人は私のところに来た。

 お母さんはそのままお姉ちゃんと同じように私に抱きついてきて、お父さんは少し離れて見ていたけど目尻に光るものが見えていた。

 その時に、私は家族から愛されていたのだと、ようやく気づくことが出来た。

 隣からも少し喧騒のようなものが聞こえてきていた。

 ――祐一さんも目を覚ましたんですね。

 私は何となく、そう感じていた。















 「しかし、大変だったよなぁ」


 商店街を栞と歩きながら、あの時のことを思い出して呟く。


 「何がですか?」

 「いや、事故そのものよりも、目を覚ましてからの検査とかの方が大変だったなぁ、と」

 「まあ、一週間も眠り続けていたらしいですからね。

  仕方無いですよ」

 「そりゃそうなんだが、まさか検査のために三日もかかるとは思わなんだ」

 「確かにそうですねぇ」


 まあ、それだけならまだよかった。

 しかし問題は――


 「……クラスメートが全員来るとはなぁ」

 「毎日賑やかでしたからね、祐一さんの病室」

 「まったく、あれのせいで何度怒られたことか」


 愚痴を言いながらも口元が緩むのを抑えきれない。

 本当に良い奴ばかりだと、今度のことで改めて分かった。

 天野も当然のように来てくれたし、どこで聞きつけたのか佐祐理さんたちも来てくれた。

 色々文句を言いながらも久瀬とかも来てくれたし。

 そのせいで怒られはしたが、喜びの方が遥かに大きかった。

 ――事故が起こったのは、俺たちが雨について話していたあの日。

 俺が雨についてのことを話そうとした瞬間だった。

 栞は空を見ていたし、俺は話をすることに気を取られていた。

 雨のせいで視界が悪くなっていたため、車の運転手は俺たちにギリギリまで気づかず事故が起こった。

 それでも後遺症などはまったく残らないらしい。

 運が良かったのか悪かったのかよく分からないが……多分良かったのだろう。

 色々な意味で。

 と、そうだった。


 「なあ、栞」

 「何ですか?」

 「一つ、言い忘れていたことがあった」

 「言い忘れていたこと、ですか?」

 「正確に言えば、あの事故のせいで言えなかったんだが」


 それで分かったのか、栞は黙って耳を傾けてきた。

 まあ、今更言う必要も無いのかもしれない。

 栞は香里は互いに互いを想い合っているのだとすでに確認できたはずだから。

 でも、何となく伝えたい気分だった。

 栞にそれを再確認してもらいたかったのかもしれないし、違うのかもしれない。

 だが――


 「栞は雨が嫌いだと言ったが、俺は雨は好きだぞ?

  雨は全てを洗い流してくれるような気がするし、哀愁が漂う感じも何となく好きだしな」


 かつて雨が降っていた青天を眺めながら。


 「……雨が降ってると嫌な気持ちになるかもしれないが、雨はいつか必ず止む。

  その後は、すぐじゃないかもしれないが、いつかは太陽が顔を覗かせる。

  青空が広がる」


 これから待っていることを思い浮かべながら。


 「嫌な時期かもしれない梅雨も、終われば夏だ。

  ……夏休みとかも待ってるしな」


 ――こんなことを言うのは俺の柄じゃないんだけどな。

 そんなことを思いながら。

 ――自分の想いを紡いでいった。


 「雨はいつまでも降り続けてるわけじゃないんだ。

  雨そのものが嫌いでもその後のことを考えれば――少しは雨を好きになれるんじゃないか?

  ……俺はそう思う」


 栞は――

 「……そうですね。

  私も」


 一瞬だけ空を見上げ――


 「もしかしたら雨が好きになれるかもしれません」


 笑顔でそう答えてくれた。

 空にはあの時のような雲は無く、抜けるような青空が広がっている。

 梅雨は終わりを告げ、季節は本格的な夏に入ろうとしていた。