雨の中、二人









 雨の日の雰囲気って、僕は結構好きだったりする。

 だって、何故か雨が降っている時間だけは、特別な空間が生まれるから。



 雨を降らさせている分厚い雲が太陽の光をとことん弱くしている為に、外は薄暗い。

 だから僕――碇シンジは、昼の一時だというのに台所の電気をつける。

「……」

 カチン、と紐を引っ張ると光が灯る。

 誰もいない台所。

 扉を挟んで六畳の部屋が隣にあり、今は襖を開けているから部屋の中が台所からも見える。

 台所の中央には四脚の木製テーブルには四つの椅子が設置してあり、もちろんこれも木製。

「ふぅ……」

 椅子の一つを引っ張り出すとそのまま座る。

 ベランダの向こう側を見ると、土砂降りの雨が上から下へと線を描いて落ちていく。

 微かに聞こえてくる雨の音以外は、何も聞こえてこない。


 ざーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 『本日の降水確率は100%です、夜にも止む気配は見せないようなので、皆様くれぐれも傘のご用意をお忘れなく』

 朝見ていたテレビで、お天気お姉さんが明るい声でそんな内容を教えてくれた。

 今日は日曜日なので僕は学校が休み。

 だから別にどうってことはなかったけれど、母さんはとても残念そうに溜息を吐いていた。

 新聞を見ていた父さんはいつも通りだったけれど。

「さて、どうしようかな」

 重い足取りで玄関から出て行く母さんを思い浮かべたところで、これからどうしようかと考える。

 母さんも父さんも仕事、家には僕一人。

 買い物に行こうとしても、さっきから言っている様に外は大雨。

 多分傘を持って出ても、地面で跳ねた水がズボンや靴下を濡らすことは目に見えている。

 友達の家に行くのもありだけど、これも濡れてしまうので却下。

 友達を呼ぶっていうのも、今言った理由から却下。

 多分、友達のトウジとケンスケの二人ならば電話をしたら来てもくれそうだが、僕が二人を濡らしたくない。

「うーん……ゲーム……ってのもなぁ……」

 残念ながら、一週間前に買ったばかりのゲームも昨日終わらしたばかり。

 最近のゲームは映像や絵が綺麗になっているばかりで、どうにも内容に面白みが感じられない気がする。

 これならば一昔、いや二昔ほど前のゲーム機種のほうがよっぽど楽しめたというものだ。

 昔のゲームは技術がない分、内容に凝っていた。

 最近のゲームはその反対で、映像や背景の技術が上がった分だけ内容が薄い。

 この半比例を是非とも比例グラフにしてほしいと思うのはきっと僕だけじゃないはずだ。

 と、話が逸れた。

「本当にどうしようかなぁ……」

 一言で言ってしまえば退屈、二言で言えばものすごく退屈。


 ぎ……


 椅子の背もたれに体重をかけながら両手を頭の後ろに回し、天井を見上げる。

(そういえば……)

 ふと、ある人物のことを思い浮かべる。

(レイちゃんは今何してるんだろう……)

 透き通るような蒼い髪と、白い肌。見つめられると自分の意識が全てそこに引き付けられてしまう、紅い瞳。

 綾波レイ――物心つく前から一緒に遊んだりしている、僕の幼馴染だ。

 出会ったきっかけは、ありきたりなもので。

 親と親が昔からの親友だったとか。

 お互いの子供が生まれたのが偶々同じ年だからと、未だよちよち歩きしかできない僕とレイちゃんを会わせて見たところ、なんとその瞬間から仲良さげに遊び始めたという。

 これは将来結婚させないといけないわねぇ、と言っていたのは僕の母親なる碇ユイ。

 はっきり言って、本当にあった瞬間からそんなに仲がよかったなんて疑わしい。

 実は母さんとレイちゃんのおばさんがでっちあげたデマなんじゃないだろうか?

 今だにそう思ってしまう。


 ざーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 でも、レイちゃんと僕が仲がいいのは、今は事実だ……と思う。

 レイちゃんはあまり自分から他人に話しかけたりはしないし、仲良くなった友達とでもたまに相槌をうつ程度しか喋らない。

 僕と一緒にいるときは、ごくごく偶にだが、今日あったことや楽しかったことを自分から話してくれる。

 ほんの僅かだが、僕は他の人よりもレイちゃんとは仲がいいのかもしれない。

「はぁ……」

 仲がいい、と断定できない自分につい溜息が出る。

 レイちゃんが好きだ。

 トウジとケンスケにはばれてしまったけれど、これは父さんにも母さんにも言っていない。

 ひょっとしたら二人とも気づいているのかもしれないけれど……

 勇気が出せなくていつも言い出せないが、小学生の頃からずっと好きだった。

 普段無表情な彼女が笑うと、心臓の鼓動は早くなる一方。

 冗談や脚色なしに、その微笑みは天使のようで、目が離せなくなる。

 汚れやその他のものが一切排除……いや、最初から存在しない。

 彼女の蒼い髪、白い肌、紅い瞳、鈴のような声。

 そのどれもが僕を魅了し、夢中にさせる。

(だけど……)

 その肝心のレイちゃんは全くと言っていいほどに、僕の気持ちには気づいてくれていない。

「はぁ……」

 また溜息を漏らす。

 気づいてくれていないのは当然なんだ。

 だって……僕は彼女に自分の想いを伝えていない。

 一度だって、“好き”と言った事はない。

「それなのに……気づいてほしいなんて……なんて、傲慢なんだ僕は」

 天井の一点を見つめていた瞳をまたベランダの外へと向ける。


 ざーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


「……よしっ」

 頭の後ろに回していた手で頬を叩くと、椅子をけって立ち上がった。

 こんな雨の日に悩んだって答えなんて見つかりそうにない。

 そう思った僕は部屋で勉強することにした。

「最初は数学でもしようかなぁ……」

 膝の裏で蹴ってしまった椅子を収めると、部屋へと向かって歩き出す。

 玄関の前にある自分の部屋に入ろうとしたその時だった。


 ぴんぽーん……


 玄関に響くインターホンの音。

「誰……?」

 こんな雨の日に尋ねてくる人といえば、宅配のくらいのものか……

「はーい、今出ますー」

 一体何が届いたのかと思いながらサンダルを履き、レンズの付いた覗き窓から玄関の外を見ると……

「レイちゃんっ?!」

 何故かずぶぬれのレイちゃんがじっとレンズを見つめていた。

「い、今あけるからっ」

 何でレイちゃんが?

 突然の事に心臓を高鳴らせながらも、急いで玄関を開ける。

「……碇君」

 ぽたっ……ぽたぽたっ……

 レイちゃんの髪から雫が落ち、マンションの床が鼠色から薄い黒色へと変わる。

「レイちゃん、そんなに濡れてどうし……っていうか傘はっ?」

「……忘れたの」

「忘れたって……」

 雨は朝から降っているんだから、決して“忘れる”ということはないと思うんだけど……

「と、とにかく上がってよ。今タオルと暖かい飲み物だすからっ」

「……うん」

 取り合えず、先ずはタオルで濡れた体を拭かないと。

 レイちゃんを玄関に招き入れると、サンダルを脱いでタオルを取りに行く。

 脱衣所に入り白いバスタオルを掴むと、走って自分の部屋へと走る。

「……て、あれ? レイちゃんどうしたの?」

 僕が部屋の前まで行くと、レイちゃんはまだ玄関に佇んでいた。

 いつもなら僕の部屋の中に入ってまっててくれるのに。

「レイちゃん……?」

 何も言わずじっと僕を見つめるレイちゃん。

 しばらくして、その小さな桃色の唇を開いた。

「……床、濡れちゃうから……」

 目線を自分の胸元に落とし、ぽそと呟く。

「い、いいよそんなの気にしなくてもっ。後で拭けばそれでいいんだからっ」

「でも……碇君を困らせるのは嫌だから……」

「じゃ、じゃあこれで体の雫をとって、靴下を脱げば大丈夫だよね?」

 そういってバスタオルをレイちゃんの前に差し出す。

「……うん」

 レイちゃんは頷きバスタオルを受け取ると、広げて頭に被せた。

 最初に髪や腕といった露出した部分に付いた雫を軽く拭き取ると、今度は服やスカートにタオルを押し当てていく。

 そこで気が付いた。

 突然レイちゃんが来たことに驚いていて全く気づかなかったけど、今のレイちゃんの服装は淡い水色のロングスカートに……白いロングTシャツが一枚。

 雨に濡れたロングTシャツの向こう、薄っすらと見えるロングスカートと同じ色の、それ。

(み、見ちゃダメだ見ちゃダメだ……)

 気づいた途端、いつの間にか収まっていた動悸が再び勢いをましてきた。

 見てはいけない、と視線を壁に向かって逸らす。

 けど……

(見ちゃ……)

 ちらとレイちゃんの方を見る。

 頭の水気を取ろうとバスタオルで髪を拭いている姿が目に映る。

 つまり両手が上に上がっているわけで。

 胸元がいつもより僅かだけど服に押し付けられているわけで。

「……」

「……? どうしたの、碇君?」

「!? 何でもないよっ!」

 自分でも知らず知らずの内に視線がレイちゃんの胸元に向かっていたようだ。

 レイちゃんは不思議そうに紅い瞳で見つめてきた。

「大丈夫? 顔が赤いけど」

「う、うん大丈夫、大丈夫だからっ。ほら、それよりレイちゃん、もう上がっても大丈夫そうだから上がってよ」

「……うん」

 納得のいかない顔でこっちを見ながらも、靴と靴下を脱ぐレイちゃん。

 脱ぐときに体を傾かせたために見えた水色のそれは見なかったことにして、僕は部屋のドアを開けて中に入った。

(何も見てない、何も、何も……)

「じゃ、じゃあレイちゃん。紅茶でも淹れてくる……」

「碇君」

 どさ……

(えっ?)

 部屋に入って振り返った瞬間、視界に入る蒼色、そして体を包まれる感触。

 鼻の奥に染み渡る……女の子独特の香り。

 昔から馴染みあるレイちゃんの匂い。

 今はそれが雨に濡れ、いつもより鮮明に感じることができる。

「……レイちゃん?」

「……」

 目の前には蒼色の髪。

 拭いたとはいえ湿り気を取りきれていないレイちゃんの服が僕の服を濡らしていく。

 だけどそれ以上に、濡れた服から感じられるレイちゃんの体温がとても心地よく感じることができた。

「レイちゃん?」

 二度目の呼びかけ。

「……」

 しかし聞こえてくるのは、肩にかかる暖かい吐息の音だけ。

 僕の服は既にレイちゃんの服と変わらないほどに濡れていたけれど、全く気にならない。

 それどころか、その濡れた部分が二人を繋いでくれているように感じられる。

 突然抱きつかれ、当てもなく宙で彷徨っていた両手をレイちゃんの背中へと回していく。

「……レイちゃん」

 何がどうなっているのか、何でこうなっているのか。

 そんなことは全然わからないけど、今はこうしてレイちゃんを抱きしめていたかった。

「レイちゃん……ん?」

 再びレイちゃんの名前を呼んだ時、ふっとレイちゃんの体から力が抜けた。

 重力に引かれて床へと落ちようとするレイちゃんの体を腕で支え持つ。

「レイちゃんだい……」

 大丈夫? と言いかけたままの形で口が固まる。

「……すー……すー…………」

 レイちゃんは安らかな寝息をたてて眠っていた。

 安心しきった穏やかな表情と、普段めったに浮かべない笑み。

 僕の腕の中で、静かに眠るレイちゃん。

 冗談も、比喩も、贔屓も何もなしに、レイちゃんの寝顔は天使のようにきれいだった。

「……レイちゃん」

 ふぅ、と息を一つ。

 安心して、僕はレイちゃんを抱きしめたまま床に座った。

 もう一度レイちゃんの寝顔を見る。

(可愛いなぁ……)

 子供のころから見ている僕でも、ここまで無防備な寝顔を見るのは始めてだ。

(それにしてもレイちゃん、本当に幸せそうに寝てるなぁ……)

 その寝顔を見ていると、こっちまで眠たくさせられてしまうほどだ。

(というより……眠くなってきちゃった……)

「ふぁ……」

 小さく欠伸を一つして、重くなってきたまぶたを擦る。

(まぁ……いいか)

 レイちゃんを起こさないようにゆっくりと壁まで床の上をすべると、僕は静かに目を閉じた。

(おやすみ、レイちゃん……)

 部屋の中には、窓から入り込んでくる雨音と、僕ら二人の寝息だけが存在していた。