雨だ。
雨が降っている。
時刻はもう朝と言っても良いくらいであるにもかかわらず、世界は夜のように暗い。
その、厚く、どこまでも続く黒い雲が光というものを遮っているから。
―――冷たい。
麻痺した感覚がそれだけを訴える。
だが、どうでも良い。いまは…なにもする気がしない。
だからこうしてただ立ち尽くして、シャワーのような雨を一身に浴びている。
「なにやってんだ、こんなところで」
不意な声は横から。
しかし、顔を動かすことさえ億劫なあたしは、視線を移動させるだけでその姿を探す。
いつの間にいたのか、そこには一人の青年が立っていた。
ここ最近で馴染みになった顔。前まではただ人伝で聞くだけでしかなかった彼は、けれどいつの間にかここまで近くなっている。
「それはこっちの台詞。なにやってるの、こんなところで傘も差さずに」
ここまでずっと傘なんか差してないんだろう。全身ずぶ濡れだ。
けれど彼は苦笑し、
「それこそこっちの台詞だろ。傘も差さずに雨に濡れて、寒くないか?」
「寒いに決まってるじゃない。いま何月だと思ってるの?」
その問いかけに、彼の表情がわずかに崩れる。
そんな彼をどこかで微笑ましく思い、あたしは空を見上げた。
「...もう、二月だもの」
おかしな文法。おかしな会話。
でもそれも仕方のないことだ。
彼とあたし―――相沢祐一と美坂香里。二人にはとある、しかし強烈な共通点が存在する。
それは...、
―――大切な人を失った、ということだ。
雨のち...
ザー、ザー、と耳にうるさいくらいの喧しい音が地面を叩く。。
雨は止む気配を見せない。いや、それどころかますます雨脚を強くしている。
「風邪、引くぞ」
「そうね」
「...風邪も、舐めてかかると痛い目見るぞ?」
「そんなことわかってるわよ」
冷たい応答。
でも、それも仕方のないことだと思う。
「ねぇ、相沢くん」
ん、と首を傾げる相沢くんにあたしは訊いた。
「起きなかったわね、奇跡」
雨が大地を強く打ち付ける音の中、相沢くんの息が詰まるような声が聞こえた。
あたしは、嫌な質問をしている。
それを自覚していてもなお、あたしの口は言葉を紡ぐのをやめようとしない。
「...ね、相沢くん。あたし、前に一度訊ねたことあったわよね? 栞は、なんのために生まれてきたんだろう、って」
「...あぁ」
「あたし、いまになってもだがその答えが見つからないの。ねぇ、相沢くん。あなたには...わかる?」
相沢くんの視線はただ地面に注がれていた。
なにを見ているのだろう。不意にそんな意味のないことを思う。
おそらくは何を見ているわけでもないだろう。あたしと同じく、その瞳に映るものに意味はない。
...でも、前々から思っていたんだ。
相沢くんの見る風景は、いったいあたしとなにが違うんだろう、と。
彼は、なぜか不思議な雰囲気を持っている人。
そして...綺麗なままに強さを持った人。
正直...羨ましかった。
その強さが、羨ましかった。
「栞にも...生まれた意味はある。いや、意味なく生まれる人なんていないんだ」
ほら。またそういうことが言える。
辛くない筈がないのに、現実を受け入れたくない気持ちだってあるだろうに、それでもしっかりとした瞳を掲げこっちを見る相沢くん。
...あぁ、だからこの人は。
「それじゃ...栞の生まれた意味って何? 教えてよ」
自嘲気味の笑みと同時に口をついた言葉は、それこそ嫌味な言葉だ。
けれど、相沢くんは揺れない。
「栞は...皮肉だけど、命の尊さを知っている。命の重みを知ってた」
ふっ、と無意識に笑みが浮かぶ。
確かにそれは皮肉だ。命、という普通あまり強く考えないイメージに、しかし栞はいつも突きつけられていた。
とても身近で、そしてとても...危うい存在として。
「栞はあれで頭の良い奴だ」
知っている。
あたしなんかよりも、栞はずっとずっと聡明だ。
テストで点数が高いとか、良い成績を取ることなんかよりも、はるかに大切なことを栞は知り、そして受け止めていた。
「だから栞は一生懸命探していた。自分が生まれた理由、存在する意味を」
「存在する…意味」
思い出す。あの夢のような一週間を。
栞が制服を着て学校に来ていた。
栞が友人と談笑を交わしていた。
栞が相沢くんと名雪と...そしてあたしと喫茶店に入った。
そんな当たり前のような...夢の一週間。
その先にあるはずの未来を知りながらもなお、栞と相沢くんは一生懸命になにかを手探りで探していた。
傍から見れば、それこそ滑稽に見えるまでに。
「...で、栞は見つけられたの? その意味を」
「...わからない」
「なによ、結局見つからなかったんじゃない」
「それは違うっ!」
「っ!?」
不意に肩に熱が篭った。
なに、と思えばそれは手で、―――気付けばあたしは無理やり相沢くんに身体を振り向かされていた。
目の前に、どこか怒った様子の相沢くんの顔。
...いや、怒ったよう、ではなく怒っているのだろう。本気で。
「あいつは最後の最後まで何かを探してた! 限られた時間の中で、でもそれを自覚して、めげず、負けず、怖くても、それでも必死で前を向いて探してたんだぞっ!」
握られる肩は、痛くて、熱い。
それは、彼の思いの代弁だろうか。
そして...それをどこか羨ましく感じるあたしはおかしいだろうか。
「だから、だからきっと何かを見つけられたはずだ!」
そこまで言って、不意に肩にかけられた手の力が抜けた。、
なにが、と思い、視界に入ったのは笑顔だった。
それは優しい、そしてどこか儚い笑顔。
「...だって栞は...、最後には笑っていられたんだから」
それは、わからない。
笑っていた...?
どうして栞は笑っていられたの?
どうして相沢くんは笑っていられるの?
こんな...、苦しくて苦しくてどうしようもない、世界すら憎みそうなくらいに沈むこの心境で。
理解できない。それは...本当に、理解できないことだった。
そしてなぜか、怒りが込み上げてくる。
「なんで...なんで笑ってなんかいられるのよ!? 死ぬのよ!? この世から消えるのよ!? 自分という存在が...。
なのに、なのにどうして笑ってなんか...。死ぬのが怖くなかったとでもいうの...?」
無意識にあたしは相沢くんの胸倉を掴んでいた。
けれど相沢くんは首を横に振る。
「死ぬのが怖くない人間なんてきっといやしない。栞だって怖かったんだ。
身体は震えてた。声だって震えてた。涙だって流してた。きっと、すごく怖がってた。
...でも、でも栞は最後まで笑顔を絶やさなかったよ。最後まで、自分の意地を通したんだ」
諭すようなその声に、あたしは思う。
...そう、栞は昔から強い子だった。...ううん、それは違う。強がりの上手い子だった。
大丈夫だよ、と。どれだけ過酷な状況下にあろうと栞は涙を見せず、終始笑って見せていたものだ。
それに両親は安堵の笑みを浮かべた。
でも、あたしは...ただ不可解だった。
もし、もしも自分が同じ立場だったら...。あたしは両親に罵詈雑言を並べたかもしれない。
どうしてあたしを生んだりしたの、と。
発狂したかもしれない。
どうしてあたしがこんな目に、と。
それだけ死とは怖いことのはずなのに...、栞はただ笑うだけだった。
「...最後まで強がりなのね、栞は」
「あぁ、そうだな。栞は強がりだ。でも...じゃあ、なんで栞はそんな強がりをしてまで笑顔を向けていたんだろうな?」
「それは...」
「死という恐怖を誤魔化す意味もあっただろう。そして自分を心配するものたちへ安心させるための意味もあっただろう。
でも...最後の笑みだけは、別の意味も込められてたんだと...俺は思う」
…あぁ、敵わないな。そんなことを思う。
ある種滑稽にまで思えてしまえるほどに、栞を想い信じられる相沢くんのその姿に。
でも…あたしは駄目だ。
どれだけ栞がなにかを得たのだとしても、あたしは栞という存在を失った。
その悲しみは…きっと一生消えない。
「…勘違いするなよ、香里」
「え?」
「俺は栞を失った悲しみを失ったわけじゃない。俺はそこまで強い人間でもなければ…薄情な人間でもない。
栞が死んで俺は悲しい。心が潰れそうに痛い。…でも、俺は泣かない。泣きたくない。意地を通したい。
栞が…、俺の大切な彼女の栞が最後まで笑ってたんだ。なら…俺も意地を通す。
俺は、美坂栞の彼氏であると胸を張れるように生きていく。そうでなくちゃいけないんだ」
……時々、相沢くんは卑怯なくらいに鋭いと思う。
人の感情の変化に敏感で、そして心底から心配してくれる人。
「…ううん、相沢くんは強いわよ」
……そして、とても強い人。
「香里。お前は栞の姉だろう? 前を向けよ。
悲しみを捨てろなんて言わない。いや、捨てちゃいけない。受け入れて、それで強がってでも前を向け。
お前は栞の自慢の姉なんだ。だから、栞が…向こうでも自慢だと言えるくらいの姉でいてやってくれ」
どうして、と思う。
どうしていま相沢くんはあたしよりも泣きそうな表情をしているんだろう。
泣きそうな表情で、でも笑ってそんなことを言えるんだろう。
けど、同時に思う。
―――羨ましいな、と。
「...ねぇ、相沢くん。ちょっと...ちょっとだけで良いからもう一度胸を貸してくれない?」
「俺の胸は栞専用なんだがな」
「いいじゃない。誰も栞から相沢くんを取ったりしないわ。もう一度、もう一度だけ...。これで最後」
「そっか。じゃ...今回で最後だ」
すっと、体が包まれる感覚。
...温かい。
そこは、とても温かい。
体温だとか、体が冷えていたとか、もちろんそういうこともあるだろう。
けど、それとはまた別な温かみ...、強いて言うなら、『心』がそこにはあった。
―――ここが、栞の好きになった場所なのね。
浮かぶ涙。
いまのいままで抑えていたものが...、もう止まらなくなっていた。
泣く、
泣く、
泣き続ける。
泣き声は雨音に消え、その零れ落ちる雫さえも洗い流してくれるようだ。
これ以上流せないというほどに泣き、
これ以上出ないというほどに叫んだ。
少し上のほうからも嗚咽が聞こえたのはきっと気のせいじゃない。
でも互いに何も言ったりしなかった。それがきっと答えだから。
...しばらく経って、雨は止んだ。
「…雨、止んだな」
「…そうね」
いまなお空は厚い雲が覆っているけれど、所々から漏れる光がある。
それを見上げて、思った。
最後まで、自分の意地を通した少女がいた。
その意地を受け止めてなお強く前を向く青年がいた。
...なら、
「ねぇ、相沢くん」
「なんだ?」
「…ううん、なんでもない」
...ならあたしも前を向かないと。
妹が最後まで頑張り抜いたのだ。姉であるあたしも、これからを頑張らなきゃ。
いつまでも、どこででも、自慢のお姉ちゃんでいられるように。
「...あ」
風の音だろうか。不意に...声が聞こえたような気がした。
それは...もしかしたらただの妄想で、都合の良い幻聴なのかもしれない。
「...うん。わかった」
でも、それであっても良い。
その言葉に返事を返し、あたしは前を向く。
「もう、朝なのね」
「そうだな」
…新しい、朝が来る。
あの子のいない、朝が来る。
…けれど、あたしは前を向こう。意地を張ろう。
さぁ、行こう。
ここからが、あたしの―――新しいスタートだ。
空は、もう青かった。
雨のち...、晴れ。
揺れる風はただ遠く。
響く音は、どのようなものより澄んでいて。
風は小さな声を運ぶ。
『頑張れ、お姉ちゃん』
ただ、ひそやかに、思う。
その、儚さを。愛しさを。
呟くようにそっと、小さな軌跡。
刹那の交錯。一瞬の邂逅。
終わり。
役目を終えた一つの風は、たおやかに舞う。
向かう先は―――風の辿りつく場所。