氷雨の心





 今日の天気は曇りのち雨。

 降水確率は40%だったが、念のために傘を持っていった。これが正解だったようだ。

 放課後になった時、窓の外を眺めてみれば、外の世界は雨が降り注いでいた。

 俺――高木彰は雨が嫌いだ。

 だから、雨を降らせた神様を呪いたくなる。何で、こうも鬱陶しい雨を降らせてくるんですか、と。

 愚痴ってもしょうがないので、鞄を手に教室を出ることにした。

 俺は今、イラスト系の専門学校に通っている。今年で20になる。

 父は仕事の都合上、家を空けていることが多い。数ヶ月に一度帰ってくるか帰ってこないかというぐらいなので、事実上、
一人暮らしも同然だ。

 母は俺が小学の頃頃に死んだ。交通事故だった。その日は、雨が降っていた。母の死に雨が絡んでいるのは確かなのかも知れない。
小学の頃だったため、どんな事故かは大きくなってから父に教えられた。

 それだけの理由で、雨を嫌いになったというわけではない。単に憂鬱な気分にさせられるからだ。

 そして、もう一つだが――母が死んでから、俺の心の中では時間が止まってしまった。いつも氷雨という名の、冷たい雨が降っている。

 ともかく、重苦しい話は止めにして、今日の夕食は何にすべきか考えよう。

 一人暮らし同然の生活が長く続いたのだから、家事が得意になるのは必然的なことだった。幸いにも、料理の腕は母譲りらしい。

 だから苦労しないが、独りぼっちという寂しさを紛らわせることまでは出来ない。

 時折、友人を呼んで一緒に騒ぐこともある。だが、それはあくまでも一時しのぎ。やはり、一緒に暮らす人がいなければ意味がない。

 そうは思っても、どうにもならない。本当、神様は不公平だ。

 不公平どころか、不条理な存在だ。所詮、神様という存在は心の弱い人が救いを求めるために生み出した幻だろう。

 ――と、もう玄関に着いたか。

 手に持っていた傘を広げ、雨で濡れているアスファルトへ足を踏み入れる。

 これからやるべき事は、夕食の買い出しだな。

 確か、商店街で何かの割引セールが行われているような気がしたが……。

 後で行ってみよう。まずは、荷物を減らすため一旦家に帰ることにした。

 学校から家はさほど離れておらず、歩いて十数分で着く。

 リュックを玄関に置くと、再び雨の中に躍り出る。

 昼過ぎから降り始めた雨は今も、一向に止む気配を見せない。それどころか、学校を出たときよりはますます強くなっている様な
気がする。

 洗濯物を外に干さないで正解だったとつくづく思った。

 取りあえずは――

「今日の夕飯は何にするか……?」

 それが先決だった。





「しまったなぁ……」

 あそこのスーパーは実に反則的だ。半額セールや割引セールを頻繁に利用し、多くの客を集めている。世の中不景気だから、客が
集まるのは当然の成り行きといえる。

 尤も、俺も利用者の一人だから何とも言えない。逆に、ありがたみを感じる。

 買いすぎなければ、の話だが。

 現在、手元にぶら下がっている袋の中身は、当然だが食材ばかり。それも一週間分の。

 よほどのことがない限り、あそこに足を運ぶのは当分の間ないだろう。大人しく家へ帰ることにした。

 雨の音を聞く度に、それは俺を少しずつ不愉快にさせていく。

 途中で残念そうな顔をして歩く、小学生とおぼしき三人組を見かけた。

 恐らく、雨で楽しみにしていた行事が中止にでもなったんだろう。同情したくなるが、かといってどうすることも出来ない。

 思うに、天気の神様は気まぐれで人の心を狂わせるのだろう。

 全くもって不条理な存在だ。

 しかし、雨がなければ自然のサイクルが成り立たないというのも現実。それが分かっているから、嫌いになりきれない。

 今は、そんなのはどうでもいい。早く帰って夕食の準備に取りかかろう。





 家の前に辿り着いた俺は、玄関に何かがいることに気付いた。高校生ぐらいの少女だ。

 だが、そいつには全く見覚えがない。そもそも、何でここにいるのかすら分からん。お互い初対面の筈だ。

 取りあえずは、言葉をかけてみることにした。

「お前……誰?」

「はい?」

 声をかけられて、少女はようやく顔を上げた。年相応の可愛らしい顔立ちで、雨に降られたためか、髪だけでなく服まで濡れている。

「雨宿りか?」

 少女は首を横に振った。

「うぅん。あなたは高木彰……君だよね?」

「ああ」

 頷いてから、気付いた。俺は少女に一度も名乗っていない。なのに、あの少女は俺の名前を知っていた。

「……どうして俺のことを?」

 が、そんなことはお構いなしなのか少女はいきなり飛び込んできた。

「お、おい!?」

 いきなり飛び込まれたため、思わず狼狽えてしまった。しかし、落ち着かなければならない。落ち着くんだ、俺。

 内心の動揺を抑えるようにして、
「詳しいことは中でゆっくり聞こう。ついでにシャワーを浴びてきたらどうだ?」





 あの少女がどうして俺の名前を知っていたのか? それが気になる。そもそも、外は雨だ。いつから待っていたんだろう。

 一度家に帰ってきたときはいなかったから、スーパーへ買い物へ出かけていた間であることに間違いはない。となると、長くても
十数分ぐらいから待っていたことになる。

 ともかく、家の中にあげた後、風呂場に直行させた。着ている服以外、何も持っていなかった。もちろん、替えの服などあるはず
がない。

 しょうがないので、俺の服を貸すことにした。問題はサイズが合うかどうかだが……ないよりはマシだろう。

 手元で、入れたばかりのココアが湯気を立てている。好みを聞いていないが、身体を温めるだけでなく心を落ち着かせるには
温かいココアが一番だろう。そう言うことで、ココアを選んだ。父は大のコーヒー嫌いであるため、コーヒーメーカーは全くない。
俺もコーヒー嫌いである父の影響を受けてか、コーヒーをあまり飲まない。

 紅茶や緑茶という選択肢もあるが、あの少女が気に入るかどうかは分からない。初対面と言うこともあって、あの少女のことなど
何一つも知らない。分かっていることといえば……俺に会いに来たことぐらいだ。

 少女が戻ってきたら、詳しいことを聞いてみることにしよう。「家出でした」とか「ただの雨宿りでした」ならシャレにはならん。

 それにしても、何処かで会ったことあったか?

 答えはたった一つ。ノーだ。単に俺が忘れてしまったという可能性がないとは言えない。

 まあ、事情を尋ねてみれば分かることだ。温かいココアに口をすすりながら、少女が上がってくるのを待つことにした。

 待つことおよそ5分――時計の針を確認したので、ほぼ間違いはない――少女がやって来た。案の定、俺が貸した服は少しサイズが
大きいらしく、だぶだぶだ。ここになってよく分かったのだが、身長はそんなに高くない。大体155p前後だろう。

 とにかく、きちんと話を聞くため、少女を座らせることにした。向かい側のソファに座るのを待ってから、疑問をぶつけた。

「聞きたいことは色々あるが、まず名前から聞かせてくれないか?」

「名前……?」

 少女はキョトンとした顔で、俺の方を見つめてくる。まさか、記憶喪失ですとかいうオチではなかろうか。

「えっと……名前は……」

 キョロキョロと部屋の中を見回す。思い出そうとしているのだろうか。それとも、そのきっかけを掴むものを探しているのだろうか。

「……すみれ……かな?」

 最後に「かな?」を付ける辺り、本当の名前かどうか分からない。だが、取りあえず呼び方は決まった。

「すみれでいいな」

 少女は頷く。

「じゃあ、俺の名は……と言いたいところだが、名前を知っているから必要ないか。呼び方は何でも構わない」

「じゃあ、彰くんでいい?」

「構わないぞ。次の質問は、どうしてあんなところにいたのかだ」

 言うまでもなく、俺の家の前にいたことを指している。

「ん……と、彰くんに恩返しをしたかったからかな」

「恩返し?」

 思わず鸚鵡返しに訪ねていた。一体、いつどこですみれを助けたんだろうか? 俺の知る限りで、そう言った記憶はないはず。

「あ……多分、彰くんは覚えていないと思うの」

「とにかく、話は分かった。お前の名前はすみれで、俺に恩返しをするためにわざわざここへやって来た。それで間違いないな?」

 すみれは頷く。

 これで、すみれがここにやってきた理由は分かった。しかし、他に幾つか分かっていないところがある。

「家は何処なんだ? 家族が心配するだろう」

 だが、すみれの返事は意外なものだった。

「家族も家もないの。でも、大丈夫」

 ……まさか、ここに住み込むつもりなのだろうか?

 見ず知らずの他人をここに住まわせることには気が引ける。しかも、いつ父が帰ってくるのか分からない状況だ。まあ、数週間程度
なら問題ないだろう。それに、外はまだ雨が降っている。追い出すのには気が引けるし、追い出したところで風邪を引かれでもしたら
後味が悪い。

 しかし、だ。彼女をあっさりと信用しても良いだろうか?

 答えはたった一つ。

「駄目だ」

 きっぱりと答えてやることにした。

「ど、どうして何ですか?」

「理由は簡単だ。ここは俺の家。で、お前は赤の他人……」

「関係あるんですよっ!!」

 予測できなかった大声に、思わず硬直してしまった。

「あ……」

 自分が何をしたのか気付いたらしく、すみれはしまったというように口を押さえた。だが、関係ないという部分が引っかかった。

「関係ある、とはどういう事なんだ?」

「…………」

「今度はだんまりかよ」

 よく見ると、膝に付けている手が小さく震えているのが分かった。

「……何か事情でもあるのか?」

 でなきゃ、見ず知らずの人の家で待っているわけがない。俺の名前を知っている理由は別として、だ。

「だが、ずっと住まわせるわけにはいかない。少しの間だけだ」

 当分の間、父は帰ってこないだろうから、いくらでもごまかしが利くだろう。それに、雨の中に少女を放り出すほど鬼ではない。

「えっ。いいの?」

「ああ。さっき言った通り、少しの間だけだ。いいな」

「うん」

「それと、事情を説明してくれるか」

「時が来れば言うから、今は何も聞かないで」

 いつか話してくれると言ったからには、これ以上深く詮索するのは止めておこう。

「分かった」

 しかし、問題はもう一つ。こいつには家事能力がどれくらいあるのだろうか。ここは一つ試してみるべきだ。

「すみれ。料理は出来るか?」

「ん……と、初めてだから……大丈夫だと……思う」

 初めてという部分に一抹の不安を覚えたが、取りあえずはやらせてみよう。

「無理しないで、簡単なものを作ってくれ」

 その方が、失敗しても被害は少ないだろう。

「はーい」

 ココアを飲み干したすみれが台所の中へ消えていく。

 しかし……不安は的中したようだ。台所から聞こえてくるのは、「あぁ〜っ」とか「どうしよう〜」などという、悲鳴じみた声と
何かが割れる音。見に行かなくとも、中が惨事になっていることはほぼ確実だ。

 それからしばらくして、すみれは悄然とした顔で戻ってきた。炊事担当が俺に決まったのは言うまでもない。

 掃除や洗濯とかにもついて訪ねてみたが、驚いたことにすみれはそれすらも知らないという。こんな居候がいると激しく不安を
抱くのは当然なのだが、住み込む許可を与えてしまった以上、追い出せない。

 ある程度説明が終わったとき、時間は八時を過ぎていた。いつもなら夕食を食べ終えて、くつろぐか課題に取りかかる時間だ。
幸いなことに課題はない。それだけが有り難かった。

 そして、説明の合間に少しずつ料理に取り組んでいたこともあって夕食にありつけるのだった。

 だが、またも不思議なことがあった。すみれは菜食主義者らしく、肉や魚の類を一切食いたがらない。普通なら、栄養とかに
ついて心配するのだが、すみれとは全くの赤の他人。どうのこうの言う立場ではない。

 それから数時間後にはベッドの横になっていた。すみれは一階の和室で寝ていることだろう。それにしても、やっぱりどことなく
不思議な子だ。そんな子を居候させることにした俺も不思議と言えば不思議なのだが。

 しかし、だ。俺は一体、いつすみれを助けたんだろう。

「…………」

 やっぱり思い出せない。考え込んでいるうちに睡魔に襲われたのか、いつしか眠りについていた。





 雨の日だというのに、俺は浮き浮きしていた。大好きなお母さんと一緒に歩いているからだった。

 雨は嫌いじゃない。好きだった。雨粒が針に見えるから、空を見上げるのだけは怖かったが。

 その時の俺は、花というものに興味を持っていた。だからなのか――

「ねぇ、お母さん」

「なぁに?」

「このお花、かわいそう」

 空き地でポツンと咲いている花が気になった。

「どうして?」

「だって、寂しそうだもん」

 それが、その花の第一印象だった。紫色の花。

「そうね」

「庭に移してもいいの? そうしたら、寂しくなくなるよ」

「でも、引き抜いたら花が痛いというからシャベルを持ってきてから移しましょうね」

「うん」

 お母さんの笑顔は綺麗だったが、紫色の花も綺麗だった。後で、その花の名前がすみれであることを知った。





「……夢か」

 確か、小さい頃に母親と一緒に、道ばたで寂しく咲いていた花をシャベルで掘り起こして家の庭に移した記憶がある。

 もうかなり前なので、どんな花だったのかはすっかり忘れてしまった。しかし、あんな夢を見るのは実に久しぶりだ。

 今となっては、どうしてあんなことをしたのかが不思議に思える。でも、悪いことをしたとは思っていない。しばらくして、
その花が咲いていた場所は工事のために行けなくなったことを知った。それならば尚更のことだった。

 でも、あの花はもうない。その年のうちに枯れてしまった。だけど、その時には既に花の美しさに惹かれていた。

 だから、種を取ってはもう一度育てた。それを繰り返しているうちに、庭の一角は花壇と化している。今は別の花を育てて
いる最中だ。

 ともかく、起きないことには一日が始まらない。ベッドから上体を起こした。

 そのまま一階へ降りると、すみれにバッタリと出くわした。

「彰くん、おはようございます」

「ああ、おはよう」

 取りあえず、挨拶を交わした。

 いつもは一人で朝を迎えることが多かったから、すみれとの挨拶が新鮮に思えた。そして、キッチンの方から何か香ばしい匂いが
した。

 ……香ばしい匂い?

 炊事担当は俺に決まったはずだが……? 父は当分帰ってきていないから、料理に取り組めるのはすみれしかいないはず。

「すみれ」

「はい」

「この匂いは何だ?」

「パン焼いてたの」

 パンか。すみれなら、それぐらいは出来るだろう。外は未だに雨が降り続けている。これでは水やりという日課が出来ないが、
雨が降ったからやらなくてもいいだろう。

 ……そこまで考えて、矛盾に気付いた。雨が嫌いな俺と、雨が降ったから水やりが省けて助かると思っている俺。一体、どっちが
本当の俺なんだ……? そもそも、俺はどうして雨を嫌いになった? 分からない。

「彰くん?」

 すみれに呼びかけられたため、思考を中断する。トーストの匂いはいつの間にか、焦げた匂いに変わっている。

 焦げた匂い? 嫌な予感がするので、キッチンの方に目を移す。そして、嫌な予感が的中したことを知った。

「すみれ! パンが焦げてるっ!」

「え……きゃあああぁぁぁっっ」

 案の定、完成したのは半ば炭化したトーストだった。

「ごめんなさいっ。ごめんなさいっ」

 しおらしく謝ってくるすみれを見て、怒る気にはなれなかった。どんな恩があるのかは知らないが、健気に恩返しをしてくる
彼女をそう簡単に追い出す気にもなれない。

 まあ、それ以前にどんな恩があるのか甚だ疑問なのだが。

 もったいない気もするが、炭化したトーストはゴミ箱に送るしかなかった。テーブルに並んでいるのは言うまでもなく、俺が
作った簡単な朝食だった。

「頂きます」

 挨拶を交わしてから、ご飯を頬張る。食パンは最後の二斤が炭化し、ゴミ箱送りとなったため、もうない。そのため、主食の
選択肢はご飯しかなかった。どっちを選んでも、炭水化物を摂取することに変わりはないから同じ事だと思うが。

 そして、俺とすみれの食事はほとんど同じ。違うとすれば、すみれの食事には目玉焼きがないことだろう。肉はおろか魚や卵すら
駄目らしい。これほど極端なベジタリアンをこれまでに見たことがあるだろうか。恐らくない。

 ともかく、食後の皿洗いはすみれに任せることにし、学校へ行く準備に取りかかった。





「今日の課題は周りの人をモデルに、印象画を描いて下さい。提出期限は一週間後です」

 教室に、先生の声がよく響き渡った。

 印象画、つまり、誰かをモデルにし、背景に何かを足した絵を描いて来て下さいということだ。

「もちろん、忘れた人は罰せられますから気を付けて下さいねー」

 遠回しに、課題をちゃんとやってきて下さいという言葉を残し、先生は教室を去った。あの先生は普段はいい人だが、課題を忘れた
人に対してはかなり厳しい。どれほどの厳しさなのかを、かつて一度だけ経験している俺にとっては、身に染みている。

 まあ、課題をきちんとこなしていけば問題はない。

「なあ、高木」

 隣に座っていた、学友の南雲繁満が声をかけてきた。高校は別だったが、俺と同じく絵の勉強をするために、この学校に入ってきた。
見た目はほっそりしていて、台風とかに見舞われれば、吹き上げられてしまいそうな程細い。多分、体重は50キロ前後かそれ以下
だろう。ご丁寧に眼鏡を掛けているから、漫画とかに出てきそうなキャラに見えなくもない。

 性格の方はというと、物静かな外見に似合わず積極的なところがある。特に、絵の話になると熱く語り出すことがしばしばだ。

 そんな人だが、何故かウマが合う。しかし、この場合は少し警戒しなければならない。絵の話になると、十数分以上も熱く語る
可能性が非常に高いからだ。

「何だ?」

 熱く語り出さないよう祈りつつ、会話を始めることにした。

「今回の課題は誰をモデルにするつもりだ? 言っておくが、鈴音をモデルにするのはお断りだ」

 鈴音というのは、繁満の妹だ。二つ離れているから、今年は高3で間違いない。兄に似ず、少しふっくらした外見の持ち主で、
お世辞にも美人とは言えないが、標準よりも少し上だろう。言い忘れていたが、繁満は相当なシスコンという一面を持っていたりする。

 繁満曰く、「鈴音と付きあうには俺を倒してからにしろ」との事だが、そんな気はまっさらもなかった。これは事実だ。

「誰もそんなことを言ってないって」

「そうか……。ならいいんだ。で、どうする?」

「うーん……」

 その時、頭に浮かんだのはすみれの顔。

 そうか、そうだった。すみれをモデルにすれば問題はない。

「あ、俺は当然だが鈴音だ。偉いだろう」

「ああ、立派な兄貴だよ、お前は」

 やりすぎて、鈴音に嫌われなければ良いのだが……まあ、当分の間は気にする必要はないだろう。





「ってことで、ちょっとモデルをやってくれないか?」

「っええっ!? わ、私でいいの!?」

「と言うか、それ以外に頼める相手が少ない」

 事実だったりするだけに悲しくなってくる。常にクールを装ってきたため、親しい友人が少ないだけだ。当然の事ながら、人付き
合いの輪は限定されている。

 単に、俺が他人をあまり寄せ付けなかったからなのかも知れない。

 亡き母をモデルにしても良いのだが、故人をモデルにすることには抵抗がある。それが親ならば尚更だ。高校時代の友人は、大学が
忙しかったり、仕事に追われているからなかなか捕まりそうにない。

 結論として、モデルを頼み込めるのはすみれしかいないと言うことになる。

「私に出来ることでしたらこれぐらい……」

 そう言って、服――昨日身に着けていた服は乾いていたのだが、俺が貸した服の方が気に入っているらしい――を脱ぎ出そうと
するすみれ。

 普通の男なら、間違いなく慌てる光景だろう。かくいう俺もそうだったりするが、取り乱したくなるのを必死に抑えながら――

 ぽかっ

「うにゅっ」

 訳の判らない声を上げつつ、叩かれた場所をさすりながら、こっちを見下ろしてくるすみれ。そんなに力を込めなかったので、
対して痛くはないだろうが、オーバーなリアクションを取っている。何処でそんなリアクションを覚えたのだろうか。

 突っ込みたくなるところだが、それを堪えることにした。

「何で叩くのっ」

「モデルになって欲しいとは言ったが、服を脱げとは一言も言っていないぞ」

「あぅ」

 ったく、どこでそんな常識を覚えてきたんだか。

 まあ、それはどうでもいい。了承が得られたからには、スケッチに取りかかることにしよう。

「で、ソファに座ったままでいい。じっとしているのが辛かったら言ってくれ」

 すみれが小さく頷く。それを確認してから、あらかじめ用意してきたスケッチブックと2B鉛筆を手に取った。





「彰。今日もスケッチか?」

 母がいなくなってから、家の様子は変わった。父さんは仕事に打ち込む日が多くなり、いつしか会話は少なくなっていった。

 俺の面倒を見てくれたのは、母を亡くした俺を不憫に思った隣のおばさんだった。母とは仲が良かったから、尚更不憫に思えて
ならなかったのだろう。

 夜遅くまで帰らない父との会話は少なかったが、久しぶりに家でくつろいでいた父が珍しいことに自分から話しかけてきた。その時、
俺は家族を顧みない父に少なからずとも嫌悪感を抱いていた。

 だから――

「そうだよ」

 素っ気なく答えた。

「そうか……」

 沈黙が訪れた。聞こえてくるのは鉛筆を走らせる音と、テレビの音だけだった。

 どれほど経ったのか。不意に、父がまた話しかけてきた。

「母さんがいなくなって寂しいか?」

「うん」

「今も寂しいか?」

 その質問を投げつけられて、返事に戸惑った。隣のおばさんが面倒を見てくれるし、暇なときはスケッチで時間を潰している。
だから、寂しくとも思わない。

 その時になって、母を失った悲しみが薄れつつあることに気付いた。

「どうなんだ?」

「……分からない」

 すると、父はポツリと呟いた。

「そうか。私は、お前ほど強くはないのだよ……」

 その言葉の意味を理解したのは、中学に上がってからだった。

 雨が降り注ぐ庭で、三本のすみれが色違いに咲いていた。





 また、雨と花の夢。

 しかし、今度は場所が違った。俺の家で、そして父も登場していた。

 あの時、確かに俺は父を少し嫌っていた。しかし、今は別だ。仕事に打ち込むようになったのは、妻――つまり、俺の母を亡くし
た悲しみから逃げるためだったと言うことを理解している。

 そして、あの時に聞いた「私は、お前ほど強くはないのだよ……」という言葉がどんな意味なのかも既に理解している。心の強さだ。
父は、それが弱かった。だから悲しみから逃げていた。そう言うことだ。

「それにしても、何で雨と花にまつわる夢をよく見るんだ……?」

 それも、すみれがやって来てからの話だ。

 彼女がここに住み込むようになってから五日過ぎた。相変わらず、自分のことは思い出せていないらしい。

 料理については、俺がコツを教えたため、最近は簡単な料理なら失敗しなくなった。そのため、最近の朝食はすみれが担当と
なっている。おかげで、朝の負担が減った。

「さて……」

 昨日の夜に完成させたばかりのスケッチを眺めてみる。草原の中で、花に包まれて微笑んでいるすみれ。最初、すみれの表情が
少し堅かったので、緊張を解きほぐすのに苦労した。

 出来としては、会心の出来だと思ってもいい。

 繁満が見たら、ほぼ間違いなく「だ、誰をモデルにしたんだっ!?」と詰め寄りかかってきそうだな。

 まあ、それはともかく、だ。準備をすませたとき、下から悲鳴が聞こえてきた。不安を抱きつつ、階下に降りた俺が目撃したのは、
見事なまでに炭化した卵焼きと、その処分に困っているすみれだった。

「…………」

 頭を抱えたくなったが、取りあえず俺の参入で朝食がきちんと出来上がったことを付け加えておく。





「だ、誰なんだっ!? そのモデルは!」

 案の定、繁満に詰め寄られた。胸ぐらを掴まれ、更に揺さぶられているので、返事したくてもまともに出来ない状況だ。

 今が昼休みで良かった。授業中だったら、先生のお叱りが待ち受けているだろう。

「だ、だから、お、落ち、着け」

 言って、舌を軽く噛んでしまった。血は出ていないが、少し痛い。時間が経てば痛みは引くだろうが、食事の時はきついぞ。

「あ、すまん」

 ようやく解放された。服に新たなしわが出来ているが、アイロンをかけるなり洗濯するなりすれば何とかなる。OK。

 改めて繁満と向き直った。

「確か、お前の家は父子家庭だったよな?」

「母が死ぬまでは、な。それに、父が仕事の都合で家を空けていることが多いから、事実上一人暮らし同然だよ」

 といっても、この間までの話だ。

「じゃあ、知り合いの子か?」

「まあ、そうなるな」

 間違っても、「家にやってきたすみれを預かっています」なんて言えるわけがない。言ったところで、シスコンなこいつがすみれに
興味を持つとは思えないが。

 それにしても、すみれはいつまで居着く気だろう。

「それにしても、結構可愛い子じゃないか。まあ、鈴音には及ばないけどな」

 こいつの頭の中では、どんな美女でも妹には敵わないと思っているんじゃなかろうか。

 ……口が裂けても訪ねるわけにはいかない。黙っておくことにしよう。それならば問題ない。

「で、その子はお前のことをどう思っているんだよ? まさか、彼女だとか? いや、絶対にありえないよな。うん、ありえない」

 俺のことをどう思っているのか問い質してみたいところだ。

 だが、繁満の言葉が引っかかった。まるで澱みのように、俺の心にずっしりとのしかかってくる。

 すみれは、俺に恩返しをしたいという。そのための理由で、記憶さえ戻っていない――これについては、もうどうでもよくなって
きた――のに、見ず知らずの他人である俺のために毎日働いている――家事程度だが。

 見た目は悪くはない。美人とは言えないが、可愛いのは確かだ。ドジっぽいところがあるが、何故か憎めない。彼女の純粋な心が
そうさせているのだろう。

 それに比べて、俺はすみれのことをどう思っている?

 寂しさを紛らわすための居候? いや、それだけでは収まらない。最近は、すみれと一緒にいるとホッとしてくる。不思議な気分だ。

「高木?」

「ん?」

「お前、もしかして、そのモデルの子が好きになったんじゃないのか? そうだとしたら、今日は雨が――既に降っているから、槍か雪
だな」

「…………」

 取りあえず、一発殴っておいた。

「痛ぇな! いきなり殴ることはないだろ!?」

「不謹慎な発言を行ったお前が悪い。そう言うことにしておけ」

 だが、澱みが少し取れたような気がした。

 しかし、まだはっきりとした気持ちは未だに分からない。





 帰り際、久しぶりにあの場所へ足を運んだ。

 子供の頃、遊び場だった空き地は今、病院が建っている。

 決して大きいとは言えないが、利用者が多く、市民病院同然の賑わしさがある。

 その病院で、母は死んだ。雨の中、車に撥ねられたとき、母はまだ生きていた。救急車で病院に運ばれたときはもう虫の息同然だった。
失った血が多すぎたのだ。治療の甲斐もなく、あっけなく死んだ。

 今も、その病院の中で人が死を迎えているのかも知れない。遠くで、サイレンの音がする。

 サイレンの音などどうでもいいが、とにかく、あの病院は命を巡るドラマが毎日行われる。俺の家の庭だって、似たようなものかも
知れない。違いがあるとすれば、それは人間と植物の差。

 しかし、ずっとここにいるわけにはいかない。大した用もないというのに、病院の前でずっと立ち止まるのは無意味なことだ。

 帰るべく足取りを変えようとしたところで、一つの花壇が目に入った。すみれの花が咲いている花壇。それも、彩りに。

「…………」

 天気が雨じゃなければ、その花壇をスケッチしたくなるところだが、晴れの日を選んで実行することにしよう。

 しかし、雨だというのに、俺と同じようにすみれの花を眺めている子がいることに気付いた。それも、見覚えのある後ろ姿――服
もまた然り。

「すみれ?」

 間違いない。すみれだ。何でこんなところに? しかも、傘を差していないじゃないか。

「すみれ。すみれ!」

「えっ……彰くん!?」

 驚いて振り返った、その顔はすみれに間違いなかった。

「どうして、ここに?」

「それはこっちの台詞だ。傘を差していないなんて無茶じゃないか。風邪でも引いたらどうするんだ?」

 だが、すみれは首を横に振るだけだった。

「ご免なさい」

 いきなり謝られた。

 言葉の意味が分からず、「どうして?」と聞き返した。

「私、一つだけ嘘をついていた」

 嘘? 一体、すみれはどんな嘘をついたんだ?

「本当は、彰くんに助けて貰ったのは私じゃなかったの」

「……なんだって?」

 すみれの言葉が本当だとするのなら、俺はすみれを助けていないと言うことになる。では、どうして俺のところに現れたりしたんだ。

「でも、彰くんのお世話になったのは本当のこと」

「……どういう事だ? 詳しいことを教えてくれないか」

 そうしないと、頭が混乱してしまいそうになる。

 すみれは俯きながら、言葉を紡いでいく。

「あの時、彰くんが庭に持っていったすみれの花は私の仲間でもあり、私でもあるの。他に、彰くんが家の庭で育てていった花も同じ
で、私でもある存在。つまり、私は彰くんが大切に育ててきた花の想いが集まって実体化した存在なの」

 これは驚いた。嘘を言っているのかと思ったが、すみれの瞳は真剣なものだった。つまり、嘘ではないと言うことだ。

 しかし、まさかこれまでに育ててきた花が枯れた後も、俺のことを思って恩返しをしに来るとは思いもよらなかった。

 だが、同時に辻褄の合う部分が幾つかある。

 まず、すみれは何も知らないと言うこと。花は自分で動けないから、自ずとも庭で得た知識しか持たないということになる。OKだ。

 次に、すみれは極度のベジタリアン。花は水と土の中の栄養で育つ。肉を栄養にするのは食虫植物の類だが、生憎と俺はそれを育てた
ことがない。つまり、すみれが食べられるものは限られてくる。これもOK。

 三番目に、すみれは陽の当たるところを好む。晴れている日には、縁側にへばりついていたのだが、元々が植物だからその習性が抜け
切れていないってわけだ。これもOK。

 三つとも、普通の人間とは変わらない――いや、一つ目だけは別か。少し変な子と思われるのは確かかも知れないが、すみれがかつては
花だったというのならば、納得できる。

 つまり、俺は、すみれがかつて花だったという事実を受け入れなければならないって訳だ。

「だ、だからといって――」

 そう簡単に信用できるほど、俺という人物は甘くできていない。

「目で見えるもの全てが真実とは限らないんですよ。彰くんは相手の気持ちを考えるとき、何を基準にして信じるんですか?
 それは難しいですよね。
 私という存在を信じるのは、それと同じ事なんです。分かりますか、彰くん?」

「……少しだけ、時間をくれ」

「はい。でも、もう帰りませんか?」

「ああ……」

 その日の夕食はどんな味だったのか覚えていない。すみれという存在が、俺の味覚を麻痺させたのかも知れない。





 次の日は幸いなことに土曜日だった。折角だから、すみれのことについて考えてみることにした。

 第一印象は、まあ、変わった子だ。家事のことを知らなかった上に、記憶とかがないと言っていたから無理もなかった。

 でも、すみれの正体を知っている今となっては、それは当然と言えただろう。

 とても危なっかしくて目が離せないすみれ。

 一生懸命に身体を動かしているすみれ。

 常に明るく振る舞うために、笑顔で居続けているすみれ。

 恩返しのために、健気に動くすみれ。

 どのすみれも、身体の中に強さを持っていた様な気がする。そして、可愛いなと少しずつ思った。

「――あ」

 気付いた。ようやく気付いたのだった。

 俺という人間は、いつの間にかすみれを好きになってしまっていたんだ。

 でも、それはとても恐ろしい。すみれは普通の人間じゃない。果たして、人間ではない存在との恋は許されるのだろうか?

 否に決まっている。

 無神論者というわけではないが、俺は神を信じていない。だから、神様とやらが「そなたとすみれの恋は認める故、お互いを
愛するがよい」などと言ったところで、それをあっさりと受け入れるなんてのは俺の信義に反することだ。

 どうせなら、こっちから言ってやる。

 言って……?

 何を?

 簡単だ。すみれに、「お前のことが好きだ」か。変わった告白だな。

 まあ、言葉をきちんと選んでおこう。

 すみれへの想いがはっきりした今、心の中のもやもやはいつの間にか消え去っていた。





「彰くんや。また花を育てるのかい?」

「俺にとって、この花は大切なものなんだ」

 趣味が絵と花を育てることだったから、学校ではよく女みたいな趣味だと色々言われもした。だが、何度言われようとも止めよう
とはしなかった。花がどれほど綺麗なものか、どれほど素晴らしいものかを、よく理解してくれている人は、周りには少ない。

 女友達は「綺麗」と褒めてはくれるが、それだけだった。花を育てるという素晴らしさが全く分かってない奴だ。

 ああ、そう言えば、一人だけは別だったっけ。園芸部の人だったから、その素晴らしさを理解してくれていた。それだけではなく、
色々とお世話になったものだ。

「まあ、あたしは何も言わないよ。でも、彰くんが育ててくれた花はあたしも好きだってことを覚えておいで」

 驚いた。まさか、おばさんからもこういう言葉を聞くことになるなんてちっとも思わなかった。

 花を育てるようになってからはや十年。母との別れという、辛い事があったが、それでも俺は花という美しい存在を未だに守り続けて
いる。こういう生活が繰り返されたから、花壇の花たちはもはや俺の半身と言っていいだろう。

 止める気なんてまっさらもなかった。多分、死ぬまで続けるだろうな。それでもいい。

 そして、この花を好きだと言ってくれたのは今ので二人目。

「……ありがとう」

「おや、彰くんからそんな言葉を聞けるなんて夢にも思わなかったよ」

 あははは、とおばさんは豪快そうに笑って見せた。それにつられて、俺も笑った。






 また花の夢。だが、一つだけ違った。夢の中で、雨は降らなかった。

 実に不思議なことだ。

「彰くん」

 ドア越しにすみれの声が聞こえてくる。

 いつもなら、そのまま部屋に通すところだが、今回だけはそう言うわけにはいかなかった。

「着替えてくるから、少しの間待ってくれ」

「うん」

 ベッドから身を起こすと、クローゼットを開ける。高校時代の学生服はもうとっくに押入の中へと押しやられている。だから、
中に入っているのは私服――季節が夏ということもあって、Tシャツばかりだ。その中から一枚を取り出す。

 着替え終わってから、改めてすみれを入れることにした。部屋の中は元々からきちんと整えてあるから、すぐに片づけなければ
ならないものは存在していない。あるとすれば、半分ぐらいが紙の山で埋まったゴミ箱ぐらいだ。

「入って良いぞ」

 ガチャリという音と共に、すみれが控えめな表情で入ってくる。

 椅子に座ろうとして、一つのスケッチブックが目に入った。

 折しもすみれの笑顔が描かれたページがめくられている。見られる恥ずかしさは多少あるものの、それを手に取る。

「彰くん。これは……?」

「お前だよ」

 必死に背を伸ばしながら――俺よりも一回り低いので、なかなか見えないのだろう――スケッチブックを覗き込もうとしている
すみれの為に、それを手渡した。ペラペラと、紙をめくる音が聞こえてくる。

 紙を一枚めくるたびに、すみれの表情に微かな変化が見られた。時には安堵の笑みを浮かべ、時には嬉しそうに笑い、時には悲しそう
な顔、時には感心したような顔。そのどれも、すみれが持つ魅力の一つに思えた。

「彰くん。どの絵も上手いね」

「ありがとう」

 口に出してから、感謝のためにありがとうと言ったのは、隣のおばさん以来で、三人目だという事に気付いた。

 しかし、これからもっと重要なことを口に出す覚悟がある。いつものように、平静を保つんだ、俺。いつものように、想いを言葉に
するだけだ。それなのに、まだ心の中で迷いが残っている。

 俺の迷いを見透かしたかのように、すみれが口を開いた。

「ところで、彰くんの心の中にはまだ雨が降っているのかな?」

「…………」

 反論出来なかった。

 母が死んだ、あの時から心の中はいつも雨が降っている。いつ終わるとも知れない程、長く降り続いている雨。

 俺はクールを装うことで、心の中の雨を隠し続けていた。繁満でさえ、俺の本心を知らない。それなのに、すみれは見抜いた。

「私は知っているよ。いつも、黙々と花を育てながら絵を描き続けていることを」

「……何で、何でそんなことを……」

「彰くんの前に現れたもう一つの理由は、とても簡単。あなたの中の雨を上がらせるため」

 ああ、そうか。そう言うことだったんだ。

 単に育てて貰った御礼だけでなく、俺の心の中にある悲しみを知ったからこそ、目の前に現れたんだ。すみれという少女――いや、
存在は。

 そして、俺はそのすみれを好きになってしまった。実に不思議だ。

「話は終わり?」

 すみれが頷くのを見届けると、今度は俺が口を開く番だった。

「お前の言う通り、俺も父と同じように、母の死という現実から逃げるために花を育て、絵に夢中になっていたのかも知れない。
今も、その事を引きずっているのだろうな。
 だが、次に言うことは、これまでのとは関係ないのかも知れない。それでも聞いて欲しい」

 深呼吸。

「俺は、すみれのことが好きになってしまった」

 言った。言ってしまった。だが、一度口に出したからには、もう後戻りできない。

「彰くん……」

 そんなことを言われるとは思いもよらなかったのか、すみれは目を大きく見開いている。

「今すぐにとは言わないから、考えて――」

 途中で言葉を失った。すみれが目からぽろぽろと涙をこぼしていたことに気付いたからだった。

「すみれ……」

「あれ……? おかしいなぁ。悲しくなんかないのに、どうして涙が出ちゃうんだろう……」

 子供のように、手の甲で溢れ出てくる涙を拭う。しかし、それでは物足りないから、タオルを貸してやることにした。

「これを貸してやるから、きちんと拭いてくれよ」

 全く、俺としたことがどうかしている。泣かせてしまった訳じゃないのに、取り乱してしまい、しかもタオルを貸してあげると
いう有様。

 いつからだったか? すみれと一緒にいると、クールという名の仮面がはがれてしまいそうになったのは。だが、そんなのはもう
どうでもいい。

「あり、がとう……。彰くん、って、優しい、のね……」

「そんなわけない」

 口では否定しても、何故かその言葉を完全に否定しきれなかった。

「さ、洗面所で顔を洗ってこい」

「うん」

 すみれがいなくなった後、急激な虚脱感に囚われた。

「これで良かったのかな……?」

 俺の言葉を受け止めてくれるかは、彼女次第だろう。とにかく、俺はベストを尽くしたんだ。そう思いたい。

 ベッドの上で横になりながら、天井をぼんやりと見つめた。そして、いつの間にか眠りについていた。

 夕方に目が覚めたとき、すみれの姿は家の中になかった。たった一つの書き置きを残して、どこかに姿を消したのだった。

 書き置きには、こう書かれていた。

『彰くんへ

 これを読んでいるとき、私は家の中にはいないでしょう。でも、悲しまないで。しばらくの間、彰くんの前からいなくなるだけ
だから。
 ごめんね。駄目って姿を消したから、彰くんはきっと怒っていると思うの。だけど、彰くんと一緒に過ごした時間はとても楽し
かったと思います。

 もし、約束できるのなら、私の帰りを待ってください。さようなら。

                                                       すみれ』


 すみれの字を初めてみたような気がする。書き置きの傍にあった一輪の花を見て、一瞬だがドキッとなった。薄い紫色の花。それは
紛れもなく、あの日に、家へ持ち帰ったすみれの花だった。

 震える手で、すみれの花を手に取った。

 その時になって、すみれの存在が大きくなっていることに気付いた。また孤独な生活に逆戻りしたのかと思うと、虚しさと悲しさに
包まれた。布団で横になった後、久しぶりに、静かに泣いた。





 すみれが姿を消してから一ヶ月ほど流れた。学校は夏休みに入り――課題こそはあるものの、やる気が入らなかった。

 あの時と同じように、俺の心はまたも時間が止まった。

 外はいつも通り、暑い夏。それとは反対に、俺の心の中は未だに雨が降っている。

「あのモデルとなった子はどうしたんだ?」

「知らん」

 花の面倒を見ることと、繁満との他愛もない会話こそが数少ない安らぎの一時だった。

「知らんって……どういう意味だ?」

「いなくなった」

 引っ越したのだろうと思ったのか、それ以上何も聞いてこなくなった。

 引っ越した、か……。本当のことを言いたい気分に囚われそうになったが、それを堪えることにした。言ったところで、誰が信じる
のだろうか?

「ま、俺としては早く立ち直って貰いたいところだ。どうせなら、気分転換に海へ行こうぜ。あ、言っておくが――」

「鈴音には手を出すな、だろ」

「その通りだ。よく分かったな」

 好き好んで兄によって過保護にされている、人の妹に手を出すものか。心の中で毒づいた。

「あ、今日は夜から用事があるんだった。先に失礼するよ」

 鞄を手に立ち上がると、千円札一枚をテーブルの上に置いた。

「これは俺の分だ。余ったら、取っておけ」

「じゃあ、有り難く頂こうか」

「もちろん、その代わりに貸し一つな」

 こいつの貸しというものがどんなのかは知らないが、それも悪くはないだろう。

 もしかしたら、俺は誰かに対して心の支えを渇望していたのかも知れない。繁満の姿が見えなくなってから、精算をすませ、喫茶店
を後にする。

 もし、もう一度すみれに会うことが出来たら、神様にでも感謝したい気分だ。

 ああ、こうしている間にも、すみれへの想いがそれほど強くなっているなんて思いもしなかった。自嘲したくなる。

 家に帰ったところで、花の面倒を見ること以外にやることがない。出迎えてくれる人もいない。一種の牢獄だ。そう考えると、
家への足取りは自然と重くなる。

 どうせなら、いっそのことしばらく旅行にでも行きたいところだが、花の面倒を放置していくわけにはいかない。

 炎天下の中、汗をかくのが億劫になってきたので、家に帰ってから一度冷たいシャワーを浴びてこようと思いつつ、家の前に到着した。

 そこで、暑さのあまりへばっている人影を認めた。一体誰だ? 他人の家の前でわざわざ倒れているのは。

「……こんなところで何をしているんだ?」

「見て分かりませんか?」

「分からないから聞いているんだ、すみれ」

 そう、へばっている人影は他ならぬすみれだった。

「彰くんを待っていたんですよ」

「俺を?」

「はい」

 目の前には、間違いなくすみれがいる。これは夢ではなく、現実なのだ。再開できた嬉しさがこみ上げてくるのと同時に、別の感情も
こみ上げてきた。

「その前に、どうして勝手にいなくなったんだ」

「ごめんなさい。でも、もう限界だったんです」

「限界? どういうことだ」

 立ち上がりながら、
「それを、今から説明します」

 すみれの話によれば、想いや願いが具現化した存在は長い間、実体を伴って現世に留まることが出来ないという。一種の幽霊みたい
な存在だが、人間の目にはっきりと見えるところが大きな違いとなっている。

 それならば、密かに姿を消さなければならなかった理由が分かった。目の前で姿を消されるよりも、隠れて姿を消した方が、悲しみが
少ないからだろう。

 しかし、それでも居なくなったことに変わりはない。

「いいか、じっとするんだぞ。出来れば目をつむってくれると有り難い」

「わ、わわわ。な、何を言ってるんですか。心の準備というものがまだ――」

「良いから、さっさとするんだ」

「は、はいっ」

 すみれが目をつむったのを確認すると、空いている左手を差し出した。そのまま、デコピンを喰らわした。

「はぅっ」

 赤くなった額をさするすみれ。

「痛いよお。いきなり叩くなんて酷いっ。それに、乙女心を踏みにじったぁっ」

「勝手に居なくなったのが悪い。おかげで、どれだけ寂しい想いをしたことか……」

 言ってから、しまったと思ったが、もう手遅れだった。

「あ、彰くん。もしかして照れているんですか?」

「黙れ。で、今度は何をしにきた?」

「あ、そうでした。私、すみれはこの度、また彰くんのお世話をするために帰ってきました」

「また消えたりはしないよな?」

「大丈夫です。今の私はきちんとした人間ですから」

 えっへん、とさほど大きくない胸を張るすみれ。

 それはともかく、きちんとした人間?

「それはどういう意味だ」

「私にも分かりません。分かるとしたら、神様が願いを叶えてくれたんじゃないかなと」

「神様ねえ……」

 信じている訳じゃないが、すみれがここにいる以上、信じないわけにはいかない。まあ、一度は姿を見せろよと言いたいところだ。

「言い忘れていましたが、あの時の返事を言います。私も、彰くんのことが好きです。ですから、これからもここにいさせて下さい」

「もちろんだ」

 戸籍とか、服とか、色々大変だとは思うところもあるが、何よりもすみれが傍にいてくれることの方が嬉しかった。

 だから、俺はすみれを抱きしめた。

「これからも、ずっと傍にいてくれ」

「私も、彰くんをずっと支えていたいよ……」

 この時、心の中の雨は上がったような気がした。すみれが、心の太陽となって、雨を上がらせてくれたのかも知れない。

 これからも、二人で一緒に居ような。なあ、すみれ。