トントントントン……

 音がした。
 朝の静寂、まだ目が覚めない意識化に訴えかける音。
 階段を駆け昇る音だな。ちなみに「怪談」は駆け昇らないぞ。
 どうやら、猫好きの幼なじみが起こしに来る時刻の様だったが、俺はまだもう少しだけこの朝の貴重な時間の惰眠を貪りたい気分だ。
 仕方がない。いつものように……



『おにぎり』【〜Reset of Game〜】





 ガチャッ
「……朝です。起きて下さい、浩平」
 当然のように起こしに来る長森。なんだかいつもと口調が違うな。まるで茜みたいだ。
「あと三冊だけ眠らせてくれ〜」
 ……
 新しい展開に戸惑っているようだな。
 これで長森のヤツが混乱している間は眠れるというものだ。
「……単位が違います」
 なんだかやっぱり長森じゃなくて茜みたいだぞ。 
「長森……なんだか茜みたいだぞ」
「ナガモリ……さん? 誰ですかそれは。」
 今日の長森はなんだか調子が狂うな。新手の起こし方か?
 余り俺が寝起きが悪いので策を講じて茜の声帯模写を会得したのかも知れない。
 そこまでする暇があるなら、俺なんか見捨ててさっさと登校すればいいのにと思いつつ、新技を編み出さした長森に少しだけ敬意を表して薄目を開けると……
「ん? あ……かね?」
 本当に茜が居た。
 まあ、必要はないと思うが茜とは俺の恋人でクラスメートの里村茜。
 自他共に認める公認の仲、運命の人と言っても過言ではないと思う。……って説明していてかなり恥ずかしいぞ。
「誰に対していっているの」
 不思議そうにこちらを見ていた。
「いや、特に意味はないが……というより、心の声をどうして」
 精神感応を会得したのか?
「……違います」
 そう言って微妙に疲労感を見せながら
「全部口に出してます」
「そうだったのか!」
 すると本人の前で臆面もなく『運命の人』とか言ってしまったんだな。よく見ると茜の頬は微妙に紅潮している。
……この恥ずかしい癖どうにか何とかならないんだろうか。
 俺は、『運命の人』――もはやヤケクソ――と話が成立しないので、話を意図的に逸らそうと試みるどうしたらしいい?
 そうか、それというのも……
「長森が悪い」
 俺はそう決めつけることにした。
「長森にしては気を利かせたつもりかも知れないが……」
「ナガモリさんて誰ですか?」
「まるで本物の茜みたいじゃないか……ってゑ?」
 俺は『運命の人』――だからそれはもういいって――こと茜と視線が交わった。
「茜です」
 それは分かっているんだが……
「いや、その前」
 何か変なことを言いましたかと言うような表情で
「何か変なことを言いましたか……」
 とホントに言うところが間違いなく茜だった。
「いや、だから……なんだ」 
「『ナガモリさんて誰ですか』」
「それだ」
 俺は右手に作った拳をハンマーのように左手の平に打ち付けた。
「俺の幼なじみ。猫好きで語尾に『だよ』とか『もん』とか付けるヤツで、『長森瑞佳』っ……あれ?」
 俺の方がどうかしてしまったのだろうか。
 まるで茜の方はそんな人始めから知りませんと言った風情で
「浩平の幼なじみは、私と詩子と澪……だけですよ」
 と言ってからもう一度『長森』が誰かと付け加えた。
 そう言えばそうだな。
 俺の幼なじみと呼べる奴らは茜以外では、前向きで喋れないハンデがあるにもかかわらず、少しもそんな素振りすら見せず、いつも俺達に――空回りはするけど――元気をくれる澪と、茜のことになったら目の色を変える柚木――自分のことを『詩子さん』という太々しいヤツだ――ぐらいのものだ。
 『ナガモリ』なんて言うヤツはいた試しがない。
 一体何を勘違いしていたのだろう。

 時計を見ると少しばかり時間があった。まあ、少しと言っても限度があるが。
 俺一人なら兎も角、茜と二人だと全力疾走って訳にもいかないからな。
「この時計鳴らなかったのか」
 起こしに来る時間を考え、茜に負担を掛けないようかなり早めにセットしていたはずだが……
「故障か」
 普通なら、そこで買い換えをかんがえなければ行かないところだが、無碍に捨てる訳にはいかない代物だった。何しろこれは俺の寝坊体質を改善するべく、茜から贈られた俺への誕生日プレゼントだった。
 だからといって、俺の体質が改善されることは遂になく……まあ、時計としては十分役に立っているから良いんだが、鳴らなくなったとなると何か考えないといけないな。
「浩平」
 徐に時計を手に取った茜が言う。
「目覚まし機能止めてます」
 そう言って俺に目覚ましを手渡す。
「なんですと!」
 確かに目覚まし解除ボタンが押されていた。
 そう言えば、寝ぼけて止めた様な気がするが……
 だとすれば俺の人為的なミスと言うことになるな。
「今後もそちの働きに期待いたす」
 ベッドの棚にそれを置き直した。捨てずに済んで取りあえず一安心だった。
「浩平。遅れますよ」
 そう言って自主的に部屋を退室しようとする茜。
「どうした。遠慮はいらないぞ」
 俺は上着のボタンを外し、ズボンに手を掛けながらそう言う。
「……嫌です」
「柚木や椎名はノリノリだったぞ」
 午後一の授業が体育だったとき、なかなか退去しない柚木達に対して、住井や南と組んで寸留めストリップの真似事をしたことがある。
 勿論冗談でだ。
 あの時は、柚木は当然のように囃し立て、椎名は完全に柚木に乗せられてみゅーみゅー喜んでいた。偶々脱出し損ねた澪は、真っ赤になって顔を背け、乙女の前で七瀬からはデリカシーが怒られた。そのあと七瀬から事情を聞いた茜にその日中口を利いてもらえなかったのが痛かった。
「常識的に考えて下さい」
 確かに……。
 それは痛感している。
 年頃の血の繋がらない男女が、たとえ幼なじみとはいえ一つ屋根の下、同じ部屋にいるだけで不純だと騒ぐ大人がいるそうだ。まあ、そんな大仰なことを言わずとも、親しき仲にも礼儀有りというのは人として当然のことだろうな。
 部屋から出てドアを閉める茜を余所に、いつも通り一気に着替えを済ます。
 部屋を出て居間で待つように茜に伝えると、濡れないよう洗顔……といっても多少濡れるのは已む終えないけど。
 一通り準備を終えて居間いと、茜がテレビの天気予報を見て待っていた。
 今日の天気は……
 全国的に傘マークだった。
 画面隅に表示される時刻ももそれなりの時間だったので、茜に即してテレビの電源を切らせる。

「傘がいりますよ」
「……そうだな」
 もちろん茜はそれを見越して傘を用意していることだろうから、あとは俺が持っていけばいだけというになる。
 俺が居間を出ようとすると、包みを二つ渡された。
 いつものあれか。中身を確認しようと一つを開けるにかかる。
「そっちはお昼の分です」
 そう言われたのでそちらをバックパックに押し込んだ。
 今ひとつ残った方を開放すると、いつも通りラップに包まれたおにぎりが二個ばかり。
 俺はそのうち一つを靴を履きながら頬張り残りの一つは制服のポケットに放り込んだ。
「あんゆうな」
 サンキューなと言ったつもりでもぐもぐやりながら傘を持って外に出る。
 やっぱり今日は一日傘マークだった。
「行儀が悪いです」
 あとから傘持った茜がいつものように玄関に鍵を掛ける。
 由起子さんも不用心だよな。
 この家の住人以外に鍵を預けるなんて。気の置けない仲だとはいえ、茜じゃなかったら不用心この上ないぞ。
 気の置けない仲……か。俺にとっても由起子さんにとっても、茜は家族と同等なのかも知れないな……。
 そういば、やっぱり茜以外の誰かが、毎朝スルーで入って来ていたような気がする。まるで今さっきの茜みたいに…… 

「なあ、茜」
 歩きながら茜謹製おにぎりを二つとも腹に収めると、隣を歩く茜に話しかけた。茜の傘は、何時もどおりのピンク地に白い水玉模様。はじく雨の滴が、その水玉の一つを拡大させ何処かアンバランスに見えた。
「どうしたの」
「どうにも引っかかることがあるんだが……」
 茜はまた何か不可解なことでも言い出すんじゃないかといいたそうな顔だ。
「俺達は幼なじみだよな」 
「そうですよ」
 何を分かり切ったことをと言いたげだ。
「一緒によく茜の家の風呂に入ったよな。三人で流しあいもしたし」
 この場合の三人の残り一人は茜の弟だ。
「……よく悪戯されました」
 そう言えばそうだな。えろモードのガキ二人が組んで茜の身体にあんな事やそんなことをっ……て、何しろ子供がすることだから、擽ったり、一寸揉んだりする程度の他愛もない悪戯に過ぎないが。
「貴重な体験をさせてもらっていたんだな」
 といったらすかさず
「受難の日々でした」
 と厳しい突っ込みが入った。
 そうか受難の日々だったのか……よくよく考えたら、今の俺達があるのも不思議だな。大体幼なじみなんてモンは、小学校卒業までに自然に解消されてしまうものだ。昔の人は『初恋は実らない』などと言っているが実ってしまう場合は想定しなかったのだろうか。
 それはさておき……
 そこからが本題だった。
 茜達以外に幼なじみがいたような気がするのだ。
 いや、もっと異質な感覚だ。或る一定期間、『誰か別のヤツが茜の代わりに幼なじみをやっていた』様な気がしてならなかった。
「なあ、茜……」
 俺がその話を切り出そうとしたときと茜が立ち止まった。
 俺の言いたいことでも察してのことと思ったら、
「中森さん?」
 と誰かの名前を呼んだ。
 雨に濡れる空き地に佇む一人の少女。
 こちらに気付いて振り返るが、一瞥したのみで、またその先の雨の巷を望むように静かに身を翻した。

……全てを拒絶するように。

 ……既視感。そして違和感
「へえ、未だこんな処があったんだな……」
 話に乗ってこない。
 
「中森? こんなところで何やっているんだ」
 中森瑞穂、確かそんな名前だったはずだ。
「誰?」
 何処かで見たような光景。
「覚えていないのか。クラス替えも無いから一年以上も同級生やっているのに。俺って印象薄いんだな。同じクラスの折原だ」
 その折原君がどうしたのと言いたげにこちらを向いたが、彼女が某かの言葉を俺に向かって発する前に
「あ、か、ね!」 
 と其れを妨げるように、現れたのは柚木だった。
「……と折原くん。どうしたのよ。二人してこんなところで黄昏ちゃって……」
「柚木、俺は茜のおまけか!」
「何もそこまでは言ってないよ。ねえ、茜」
 柚木は、俺に言われたことに意義を申し立てて茜にに同意を求める。
 口ではあんな事を言ってはいるが、多分、あいつは昔から俺のことを『茜のおまけ』と認識しているに違いない。何しろ茜至上主義で、『やっぱり茜分が足りない』と折角入った進学校からウチの学校に編入してくるほどだ。しかも二年の終わりにだまあ、それまでもしょっちゅうウチのクラスに混ざっていたからいまさらといったところだったが……
まあ、「茜分」に関しては俺も人の事は言えないな。
「あ……、はい」
 茜はと言うと、柚木の言葉に対して上の空と言った具合で、空き地に佇む中森を見ている。
 そんな茜に見とれていたい気分だったが、
「時間大丈夫?」
 と柚木が言うので携帯電話の時計表示を確認すると際どい時間だった。
「茜、行くぞ」
 俺は、茜の肩をポンと叩いて、左手で右腕を掴んむ。
 名残惜しそうだったが、
「教室で又逢える。中森も、そんなところで何時までもいると風邪引くぞ」
 茜も
「遅刻しますよ」
 とだけ一言伝えて俺達に従った。
 彼女は、「大丈夫だよ」と一言だけ言うと、俺達が立ち去るのを暫く見送っていた。
 
 道すがら柚木に、
「中森ってどんなヤツだ」
 と訊ねてみた。
「稲城さん達の友達じゃないかな」
「うーん、それだけじゃなあ」
「変わった子だよね」
 中森もきっと柚木にだけは言われたくはないだろうな。柚木基準で言ったら地球上に存在する全人類が『変わった人』に分類されかねない。
「なんだかあたし達を避けてるみたい」
 そう言うことか。それなら理解できた。
 稲城達の仲間内だという以外は俺にとって印象が薄かったし、妙にこちらを避けているような、気がするのも事実だった。納得できた。そして特に柚木の意見を否定する材料はない。でも、だからといってやつの言い分を全て認めてしまうのは少しだけしゃくに障ったので
「それは、個人的に柚木を避けて居るだけじゃないのか」
「あんな事言ってるよ」
「浩平も詩子も似たようなものです」
「「一緒にされたくはない」」珍しく柚木と同意見だった。その続きの抗議を口にしようとすると、クイクイっと誰かが袖を引っ張った。それは多分……
「澪か。おまえもそう思うだろ」
「澪ちゃんもそう思うよね」
 何の説明もなく、いきなり同意を求められて当惑する澪。
 その眼は明らかに茜に助けを求めていた。
「澪が困っています」

 そしてその話はそこでお終いになり、いつものじゃれあいになる。
 しかし、全く気にしていなかった中森という同級生。普段はどうということもないが、ああやって雨の中、意味深に佇む彼女を見ると無性に気になった。
 あいつはあの雨の中で一体何をしていたんだろう……
 最初に感じた感覚は何だったのだろう。
 茜も何故か彼女のことを気にしていたようだし、『中森瑞穂』に確かめてみる必要があるかも知れない。

 ……授業中。
 ノートを取っていて消しゴムを落とす。
 勢いよく前方に転がっていく。
 それを拾おうと屈み込もうとすると、消しゴムが俺の前に差し出された。
 見ると、中森だった。
 そういや俺の斜め前だったな。
「おっ、サンキューな」
 それっきり運とも寸とも返事も無しだ。
 気になるとずっと気になるもので、ノートを取ることもそっちのけで、中森の方を見ている。
 何か気配を感じたらしく、中森もこちらを見る。俺は、中森の視線からなにか感じ取れないかと必死で読みとろうとしたが、一瞥をくれるように前を向いてしまった。
 アイコンタクトでもと試みたが結局失敗に終わる。
 隣でそんな俺を不思議そうに見ていた茜は
(どうしたんですか、浩平)
 と視線で訊ねる。
 それじゃあと茜で試してみる。
(いや、俺にもさっぱりわからん)
 と視線を投げ返すと
(それならいいです)
 と納得したようなので、
(後でノートを写させてくれ)
(仕方がないですね)
 と眼で訴えると、やれやれと言った視線を向けた後に黒板に向き直った。
 なんだ。しっかりアイコンタクト取れるじゃないか。まあ、茜だからと言う話もあるが、その気になれば、七瀬や柚木とも出来るはずだぞ。
 試しに、そんな様子を茜の後ろで見ていた柚木の方を窺うが、こちらを見てにやにやしているばかりなので、この際無視することにした。七瀬の席は俺や茜よりも前なので確認は不可能だった。
 
 でも、さっきの中森は一体……

 その日の昼休み
 茜の席に机を隣接させて茜謹製弁当を開きながら、斜め前の席に声を掛ける。
「なあ、中森……今朝はあそこで……」 
 しかし、そそくさと立ち上がって稲城を誘って出ていってしまった。
「置いていくよ、佐織」
「あっ、うん。折原くんゴメン」
 呼ばれた稲城もそそくさと教室から抜け出していく。
「茜、柚木、何だアレは?」
「分かりません」
「さあ」
 白々しい空気だけが残るが、それを柚木が打ち消す。
「ところでさっきのなに」
「アイコンタクトを試してみたんだが」 
 隠すほどでもないので一応正直に答えてみる。
「へえ〜。怪電波を送信してたんじゃなかったんだ。『電波……届いた』って」
 少し前に流行ったゲームのヒロインのように明後日の方に視線を向けて棒立ちしてみせる柚木。
「そんな物は屋上で受信してくれ」
 ……柚木には怪電波発信中としか感じなかったようだ。アイコンタクト失敗。
 丁度、七瀬がこちらを向いていたので
(弁当のおかずを分けてくれ)と訴えてみるが、
「折原壊れた?」
「前からでしょ」
 七瀬&広瀬の連係プレーにその野望は打ち砕かれる。
 俺が凹んでいると茜からノートを差し出される。
「明日までには返して下さい」
「やっぱり茜だけにしか通じない技なのか……」
 弁当の卵焼きを頬張りながら呟いた。
「それで誰に試したんですか」
「中森に……な」

 真横にある誰もいないはずの席に向かって視線を泳がせると……
『お昼一緒に食べるの』
 住井に案内されたらしい澪が、そう書かれたスケッチブックを持って仲間に入りたそうに立っていた。


 翌朝、やっぱり雨が降っていた。
 珍しく茜が訪ねてくるよりも早く目が覚めたのでカーテンを開けると昨日に引き続いての本降りに雨だった。
 時間も大分早かったが、二度寝する気にもなれなかったのでカーテンを再び閉めてから電気をつけて制服に着替える事にした。
 着替えながら考える。中森のやつがあんなところで雨の中で佇んでいようと俺には関係のないことだったが、どうにもあの感覚が引っかかった。

 用意を調えて降りて菓子パンのストックでも探そうと台所に降りる。
 いつもなら、茜のおにぎりがあるのだが、変に早起きしてしまうとそれまでの時間が待てないらしく、胃袋の大合唱が収まらない。
「あら浩平、今日は早いのね。一寸待って。何か用意するから」
 珍しく由起子さんと遭遇する。そうか、七時前のこの時間ならまだいるわけだ。
「たまには早起きすることもあるさ」
「いつも早ければ茜ちゃんも苦労しなくて良いのにね」
 雨ばかり伝えるテレビの天気予報を横目に、用意されてきたトーストにジャムを塗って囓りながら確かにその通りだなと思った。
 それなら、今日は茜が来るより早く出掛けてみるか。
 確かめたいこともあるしな。
 食事が終わり歯磨きなどを済ませても普段からは信じられないくらいの時間が余ったが、
「俺、今日は先に出るわ。茜には由起子さんから伝えて」
 と早々に家を出た。
 傘を差して歩く道のりはいつもとは違って見えるかと思ったけれど、寸分の違いもなかった。ただ、隣を歩くピンクの傘がないことが少しだけ寂しかった。

 いつも茜のペースで歩いていたせいか、本来の自分のスピードに戻ったとき、普段よりハイペースだと感じた。
 そして、昨日のよりハイペースでその空き地に辿り着いた。
 まさか、二日続けてこんな処に佇んでいるわけはないだろうと、空き地に立ち入ると……
 やっぱり独りそこにいた人影は……
「よう中森」
 ……
 やっぱり返事はなかった。

 人を待っている風にも見えるが、そうでないようにも見える。
「そこに何かあるのか」
 と聞いても梨の礫。
「電波を待っているなら屋上の方が受信状態がいいらしいぞ」
 やっぱり答えは返って……
「電波なんか、受信していないんだよ」
 来たな。
「それじゃあ誰か待ってるのか」
「待ってないよ」
 それじゃあ……
 それ以上は何を質問しても返事が返ってこず、独り芝居のような状況が続いた。
 暫くすると……
「……浩平」
 耳慣れた声が聞こえた。
 茜だ。由起子さんに言われて漸く追いついてきたようだ。
 どうしたんですかと聞きたそうな表情で
「どうしたんですか」と本当に聞いてくるのが茜流だった。
「いや……な。あれだ」
 空き地を見ると既に中森の姿はなく、通学路前方に彼方を行く姿が目に映った。
「早起きしたからたまには迷惑かけないようにだな」
「浩平。行きますよ」
 そのことに対して咎める風でもなく、ただ呆然と佇む俺を先導するように前にたった茜。
 俺はその後に続くしかなかった。


 結局、それからの数日間、なんども中森に接触を試みたが意図的に避けられ続けることになった。
 俺以外にも俺の周囲の連中皆が避けられているところを見ると、案外、無視が好かない奴らだと思われているだけかも知れない。
 もっとも、俺に幼なじみって言う特権がなかったら、茜にだって避けられ続ける自信が在る。何しろ茜は割と人見知りが激しい方だからな。それは自信があったがとても嫌な自信だった。
 とは言え、中森のヤツが人見知りには見えない。どっちかっていったら
「七瀬みたいなタイプだな」
「七瀬さんのそれとは違うみたい」
 そんな気もする。
 七瀬の場合は、『乙女でありたい』という願望が先に立って肩肘が張って空回りする傾向がある。
 だけど中森の場合は、
「茜と同じくらい自然な振る舞いだ」ったから。
「そうよね。茜とか、中森さんとかみたいな人をきっと本当の『乙女』って言うんだわ」
 いつもならくってかかるはずの七瀬も茜や彼女を持ち出すと急にしおらしくなる。
 何だ少しは理解しているじゃないか。
 まあ茜と中森では全くタイプが異なるが……。
「折原くんて興味を持つと突っ走るタイプよね」
 そう言って人の話に混ざろうとするのが柚木。
「ホント、折原には感服するわ」
 七瀬もそう相槌を打つ。
「むしろお褒めの言葉と受け取るべきかな」
「もし、私が浩平と幼なじみでなかったら、やっぱりあんな風にしつこくされるんじゃ無いかって考えるとぞっとしません。」
「里村さんはかなり人見知りだもんね」
「そうだな。もし茜が、こないだの中森みたいに雨の中空き地に突っ立ってると気になるよな……」
「……でも、私はそんなことはしません」
 茜は俺の方を見ていった。
「浩平がいてくれるから」
 妬けるわねと、七瀬、柚木がそれぞれに言った。 
 案外、中森の理由もそんな風に単純な物で、ただ恋人と別れた場所があそこだったのかも知れない。ならば、俺が最初に感じた感覚は何だったのか……。

 
 その日の午後。
 女子とサッカーの交流試合をする事になっていた。
 普段堂々と見られない女子のブルマー姿を堂々と拝めると住井や南ははしゃいでいる。
 俺も少しは期待したが、むしろそのことよりもこの機に乗じて、普段避けら続けている中森に接触して、あの時感じた既視感の手がかりを得られるんじゃないかと言う期待の方が大きかった。

 男女で分けたら戦力的に不平等が出るからと、出席順で二クラス分の生徒が予め何チームか編成されていた。
 俺はと言うと、柚木や七瀬、南などと同じチーム。
 そして、対戦するチームは住井がまとめ上げ中に中森と茜がいた。
 柚木は「茜と同じチームになれなかったのはきっと当てつけだ」と言って俺に愚痴をこぼしていたが、寧ろ俺にとっては好都合だった。
 それこそ、当てつけで暴走気味の柚木は俺が止めるのも聞かずに的の作中に見事に填っていく。
 完全にマークされていたんだ。司令塔は住井。しかもその采配は見事だった。結局、救援に言った七瀬に渡そうとしたパスは広瀬に奪われ、茜に渡り、茜は住井の指示どうりに忠実に、中森にパスを回した。うーん戦力を見事に使いこなしてるな……。かくなる上はディフェンスの俺が中森からボールを奪わねばなるまい。
 俺は、中森の前方に回り込んで阻止するコース取った瞬間。
 ゴツッン!
 それは、中森の渾身の一撃だった……。
 




『えいえんはあるよ』






 白い霧で辺りが霞んで見えない。
――それを五里霧中っていうんだよ。五里先まで見えないって言う喩え。
 昔の人はよく言ったもんだな
 



『ここにあるよ』



 茜ではない別の少女と通学路を走り抜ける俺。
 知っている女生徒だ。
 七瀬……
 いや、違うな。
 七瀬には、この先でぶつかるんだ。そして俺は悪態を付いて……
 ……すると柚木?
 柚木は……
 まだ出逢ってなかった。
 そんなはずはないだろ?
 何しろあいつは茜や澪と同じように俺の幼なじみだ。

 いや、ここでは違うな……
 ここでは?
 それじゃあ誰だって言うんだ
 俺の後を慌てて付いてくる猫好きの幼なじみは、
 いつものように心配だ心配だと俺の顔を見る度連呼するんだ。

 なかもり?
 そう中森瑞穂

 いや違うなあれは長森。俺のよく知る長森瑞佳だ。
 



 ……


 ……これは夢。多分そうだ。
 中森の蹴った球で昏睡状態にでも陥ったんだろう

 それにしてもリアルな夢だ。
 白い世界に中森瑞穂が一人で立っている夢。
 いや、あいつは背中を向けて立っているが俺の知っている「長森瑞佳」だ。

 ……長森、ここは何処なんだ?

――ここは……

「えいえんの盟約」によって構築された世界。
――……浩平が拒んだ世界。閉じた世界。
 俺が?
――そう。そして……


『長森瑞佳』がかつていた世界だ。
 俺はふとそう思った。

――これからから説明するのは一種の実験。
 不思議なことを言うな。長森にしては。
――そんなことないもん。何時も浩平がはぐらかすだけだもん

 長森はそう言うと振り返る。

―― 一人の女の子の存在を賭けた思考実験。
 思考実験というと昔、独逸のなんとかって教授の猫がどうとかって物理学の有名な実験があった。
 猫って言うくらいだから、きっと長森も好きなんだろう。 
――シュレディンガーの猫』のこと?
 そう言えば、そんな名前だったな。
――好きじゃないもん。だって、死ぬんだよ、その猫。五割の確率で。
 そうだったのか。物理の時間は丁度いい睡眠時間だ。今更ながら思うが、真面目授業を受けていれば良かった。
――高校の物理学じゃ量子力学なんか習わないんだよ……。
――はぁ〜……今更だけど心配だよ。
 またいつもの長森の心配性だった。
 長森、今は思考実験の話の続きだぞ。
――浩平が訳の分からないことを言うからだよ……
 俺は何も言ったつもりはなく、ただ頭の中で考えただけだった。
――ここでは、それでも喋っているのと同じなんだよ
 それは迂闊だったな。
 ところでさっきの続きはどうなったんだ。
――そうだったよね。浩平が話の腰を折るから……。
 そう言うと長森は(長森によると俺が原因らしい)脱線した話を軌道修正にかかった。
――えーっと。そう。あれとは違うと思うけど……、ニュアンスとしては似てるかも知れないよね。――つまり世界は無数に存在するんだよ。
 無数にある並行世界、無数に存在する物語を捏造することも可能だって言うことだな。
――それでか
 俺が茜が起こしに来たことに最初矛盾を感じたのは
――違うよ。そっちが正しいんだよ。
 なんだって?
――でも、それこそが、私の実験の本質だよ。時間のない形而上の仮想時空に寸分変わりない世界を構築して……

 背筋に寒さを感じた。これ以上追求してはいけない。そんな警鐘が頭の中で鳴り響いた。
 長森の言うことがいつもの長森ではなく、何時になく現実離れしていたから
 違和感……。そう、中森と居るときに感じた違和感だった。
 もう結論が出ている様な気がした。そして尤も怖れていた嫌な結論に行き着きそうだった。
 そう……か。これが、中森に感じた違和感の正体の一端……

――『長森瑞佳』なんて始めから存在しなかったんだよ……
 
 記憶が再生された。
 幼い心の記憶。
 俺が由起子さんの家に引き取られて直ぐの記憶だ。

『……浩平』 
『ねえ、折原くんてば!』
 家の外から声がする。
 俺が叔母さんから子供部屋として与えられた部屋は二階だったからかなり大きな声のはずだ。
 その声は二人分。
 幼なじみの女の子。
 一人は、それでもまだ限界と言った風ではなくてまだまだ声が出せそうだったけど、一人はそれで精一杯で、それでも限界いっぱいの声で俺を呼んでいるのだ。
 あまりに何度も
『うるさい!』
 窓を開けずにそう叫ぶ。聞こえていようがおるまいが構うもんか。
『折原くん。あんたが構わなくても茜が構うんだけど!』
 お構いなく叫んでくるのところは柚木らしかった。
 それでも放置していると硝子にコツコツ何かが当たりだした。どうやら小石らしい。
 ガラッ!
『近所めいわく……』
 俺がそう叫びきる前に何かが顔面に激突した。
『いってぇ! なにするんだよ』
 下を見ると茜が泣いていた。
 それを投げたのはどうやら茜だったらしい。
『茜を泣かしたー!』
 ……悪いのは俺じゃないハズなんだけど、何となくばつが悪くて、泣かせたことを謝りもせず、そのまま雨戸を閉めて、俺はその後暫く引きこもることになった。

 ……これが真実だ。
 仕方がなかったんだよ。
 家族がみんないなくなったんだから……
――だから、それを受け容れるための一時的なクッションとして『契約』が必要だったんだね。
 寧ろ現実から隔絶された別の憩いの場所が欲しかったんだ。
 そう現実逃避だって知っていたけど一時的に必要だったんだ。
 それが長森の居る世界。
 忘れ去られるための盟約。

――『えいえんの盟約』だね。
 そう『えいえんの盟約』だ。
 
 停滞した時間を構築した。
 理想の現実が必要だった。
 そして、全てに対して言い訳できる自分だけの世界が欲しかった。
 もちろん、それは現実の世界ではなくて……
……いつ頃の話だろう。
 呆れて来なくなった柚木とは違って、茜はいつでも側にいてくれたのに……
 数日か数時間か、それとも数秒?
 そこに取り込まれていたのはどれくらいだったんだろう。
――永遠であって一瞬の出来事。だって、ここでは時間なんか関係ないんだから。
 何時の頃だろう……
 長森瑞佳という『幻』を構築して、その世界の入り口で彼女と盟約を結んだ。


――えいえんはあるよ ここにあるんだよ


 現実と少しだけ違う世界
 現実と似て否なる世界
 でもそれは、幼い俺の頭の中だけの理想の世界で終わるはずだった。
 記憶も全て消去されて……
 長森も存在しなくなるハズだった。
 でも、長森は再び現れた。理由は分からない。
 それでも再び現れた長森は、頭の片隅に残るその残滓を利用し、仮想空間に四ヶ月間を構築し「盟約」を実行した。
 幼なじみだった長森と過ごした四ヶ月あまりの偽り。そもそも、期間なんか元々無かったんだ。
 長森が言うように「実験」などではなくとは実験なんてものじゃなく、再生されてしまった長森が、ただ俺とささやかな日常を演じたかっただけなのかも知れない。多分、それこそが長森の行った『実験』の真相なのだろう。
 それを長森が望んでいたとしてもだことだとしても、俺はそれを咎めるはずもない。ただ、茜達の意思も巻き込んだのはやりすぎだと思うぞ。
 だって、幼い頃結んだ『現実逃避の盟約』で少しは俺も救われたのだから、長森にもそこで得た利益の還元を受ける権利ぐらいはあるはずだ。
 だから、俺が言いたいのはそのことじゃない。
 そんな物は、俺の記憶から『長森瑞佳』が消えた時点で失効するはずだ。
 それじゃ何故、長森はここにいる?

――……
 それじゃ、『中森瑞穂』は何だったんだ?
――あれはわたしの残像。もう少しだけ浩平を見ていたかったから。心配だったんだよ。
 長森らしいな。
 それで似たような名前をみんなに刷り込んだんだな。『中森瑞穂』って。
 仮想空間での茜を真似たのは、茜に対する嫉妬と俺に自分の存在に気付いて欲しかったからなのだろう。そして、これがあの時感じた既視感の正体だな。
――そうだよ。結局巻き込んじゃった里村さんには悪いことしちゃたけど……これで最期だから
 でもそれじゃ長森は?
――わたしは、浩平との日常の夢をここで再構築して繰り返す。永遠に…… 
 そこに、白い虚空に立っていたのは、俺の知る「長森瑞佳」でも「中森瑞穂」でもなく、『出逢った頃』の姿をした白いキャミソール。
 ……みさおによく似た「ながもりみずか」だった。

 それで長森は良いのか?
 彼女の姿は徐々に色を失い背景に溶けこんでいく
 本当にこれで良かったんだな、長森。
 もうそこに彼女の姿はなく、白いキャンバス地のような虚空から声だけがきこえてきただけだった。


――さようなら……こうへい……
 

 …………


 寝汗をかいていた。
 どちらかというとそれは、冷や汗に近いものだった。
 まだ朧気に夢の内容を覚えていた。何となく同級生の『中森瑞穂』に似た少女と話していたのだ。『長森瑞佳』
 その名前は何となく俺にとって懐かしい名前のよう気がしたが、結局考えても何も思い浮かんでこなかった。
 
 ふと、周りを見ると俺の部屋だった。
 枕元には、ずっと昔、茜から貰った誕生日祝いの目覚まし時計が、俺の不安を煽る様にカチカチと耳障りな音を立てる。その針は深夜の時間を指していた。そう言えば……俺はどうやってここに還ってきたんだろう。倒れたのは学校だっはずだ……

 それは兎も角、無性に喉が渇いていた。
 さっきの汗のせいだろう。
 そして、空腹だった。
 たぶん、昼食と夕飯を食べていないせいだろう。
 俺は、椅子に掛けてあった褞袍を羽織ると、慎重に立ち上がりドアを開けて、そのままおぼつかない足取りで階段を下りて台所へ向かう。
 そこへ行くと、ドア越しに台所にはついていないはずの照明が灯っていた。たぶん、由起子さんが消し忘れたのか、俺が目を覚ましたときのために気を利かせて付けてくれたんだと思う。近づくと、霞んだガラス格子のドアの向こうには誰かがいる様だった。
 誰だろう?
 俺は、何故か恐る恐るキッチンのドアを開ける。
 たぶん由起子さんだろうな。
 そうだ。あの事故以来、この家に住んでいるのは、俺の唯一の身内である叔母の由起子さんだけだから。でも、ダイニングテーブルとセットで置いてある椅子に腰掛けてテーブルに突っ伏していたのは由起子さんじゃなかった。茜だった。
 制服の上からうちの台所に常備してある自分用の前掛けを掛けいる。どうやら、疲れ切った様子で寝息を立てているたので、俺は茜が目を覚まさないように気を付けながら、何か空腹を満たすような物がないかと本来此処へ着た目的に戻り、その辺を物色する事にした。

 そう言えば、あの時以来だな。こんな茜を見るのは。

 そうきっかけは、夜中、健康優良児だった妹のみさおが、珍しく高熱を出して親父とお袋が慌てて病院へ連れて行ったことだ。あの時は、俺一人じゃ物騒だからと、近所に住む親父の同僚の里村さんの家、つまり茜の家に一晩厄介になることになったんだ。茜の家とは家族ぐるみで付き合いがあって、茜とは幼なじみだったし、柚木――当時はまだ澪とは知り合っていなかった――を含めた幼なじみでお泊まり会を相互にやった仲だったから別段兼ねすることは無かった。そして、その日はあんな事になろうとは思っても見なかったから、遅くまで茜とその弟の三人で――まあ、主に暴れていたのは男二人だったんだが――、茜のお母さんに遅いからもう寝なさいと注意されるまではしゃいでいたんだったな。
 翌日の早朝、茜の家に掛かってきた電話。それは警察だったらしく、電話のあと茜のお父さんから親父の運転する車が居眠り運転のトラックが衝突され押しつぶされたと告げられる。でも、その時は全く現実味がなかった。
 そして、なにもかもが俺とは関係なく終わり、俺はそう遠くない場所に住む叔母の由起子さんの家に引き取られた。その後の一時期は俺にとって、現実の受け入れを拒み泣いて過ごした時期だった。
 由起子さんも俺を慰めるために色々手を尽くしてくれたようだが、やっぱりそればかりじゃ暮らしていけないから、いそがしい現実に戻っていった。
 そして、その後のその役を仰せつかったのが幼なじみの柚木と、そして、茜だった。
 意固地になってトイレ以外は宛われた部屋から出ない俺に対して、匙を投げて早々試合放棄したのが柚木。
 それでも粘り強く付き合ってくれたのが茜だ。
 何を言っても返事がない俺の部屋の前に、それでも諦めずにやって来ては、ラップにくるんだおにぎりをそっと置いていってくれる。自分だって子供なのに……
 そんな日が数日続いてある日の夕方。
 茜が降りていったのを確認してドアを開けると、いつものお盆の上には、いつものおにぎりの代わりに、女の子が使う様なキャラクター入りレターセットの封筒が置いてある。
 封を開けて中の便箋を開くと茜の丁寧な字でこう書かれていた。

『こう平へ
 こう平にとってのえいえんはそこにありましたか
 ずっとそのままのしあわせなじかんはありますか
 えいえんなんかないんです
 ずっとかなしんでいてもときはすぎるだけ
 こう平がずっとそのままでいるなら私は……
 こう平のことをわすれます』

 悲しかった。
 茜にだけは忘れられたくなかった。
 大切な友達。大切な幼なじみ。……それ以外の何かが俺の心の中をかき乱す。
 頬を伝って何かが零れてきた。手で拭うと、それは俺の涙だった。
 俺は、その手紙をポケットに押し込むと、勢いよくドアを開けて、矢も盾も構わず駆け出して、階段を駆け下り危うく転び掛けた。もちろん茜の家に行こうとしてのことだった。ふとどういう訳か台所のドアが開いているのに気が付いた。普通玄関までいくにはスルーする事が出来る配置だったが、ふしぎとその奥から差してくる西日が気になったのだ。
 叔母さんでも居るんだろうか……そんなわけないだろう。あの人は何時も忙しいんだ。
 でも誰か居るような気配がした。
 キッチンのカウンターを抜けるとダイニングテーブル。そこの椅子に腰掛けてラップにくるんだおにぎりの置かれたテーブルに突っ伏しているヤツがいる。
 ……茜だった。
 そして、そこに茜が待っていてくれたことを彼女の寝息を聞きながら安堵する俺がいた。
 それが、初恋だと気が付いたのはずっと後になってからだったんだけどな。


 そんなことを思い出しながら感慨に暫く耽り、ふともう一度テーブルの上に視線を移した。そして、突っ伏した茜の前にある物に気付いた。
 お盆に乗ったおにぎりが三個。あの頃、茜が置いてくれた物と同じメニューだった。
 おにぎりの横に、『浩平へ』と相変わらず几帳面な字で認められたメモが置いてある。
 あの時と同じだな……。
 そのメモに使われた便箋は、あの時茜が俺当のメッセージを書いた物と同じデザインだった。
 
『浩平へ
 おにぎりを作っておきます。
 たぶん、起きたらお腹が空いているはずだから。
 昼食を抜いているんだから余り無理して全部食べなくてもいいです。
 これを作っているとき、何となくあの頃を思い出しました。

 ところで、私の蹴ったボールが当たったんだそうですね。
 ごめんなさい。
 たぶん起きたら自分の部屋で驚いているはずです。
 校医の先生が、眠ってるだけだから連れ帰って宜しいと言われて由起子さんに運んで貰いました。
 後で由起子さんにお礼を言っておいて下さい。
 でも……もし、このまま浩平が目を覚まさなかったら、私は……
 私は何故か浩平がこのまま消えてしまうような気がして……』

 メッセージはそこで途切れている。既に書かれていた文章も少し涙で滲んでいた。
 テーブルの下には転がり落ちたのであろう、茜のボールペンが転がっている。
「心配掛けてごめんな。茜」
 俺はそう言うとそれを拾い上げた。

 そう言えば、文中で一つだけ気にかかることがあった。ボールのことである。あれは茜が蹴ったパスボールがこちらに飛んできたのではなく、茜のパスボールを中森が蹴りとばした結果、それが俺の方に球が飛んできたんだ。
 ひょっとしたら、あれもわざとやったことだったのかも知れないな。
 たぶんこれは「中森瑞穂」の存在が消えた影響なんだろう。
 彼女が初めからいなかったように世界が辻褄を合わせたんだ。
 でも、もし長森があの世界を完全に閉さず、彼女と取り交わした盟約が失効しなかったとしたら、ひょっとしたら閉じた世界の住人に俺もなっていたかも知れない。だとしたら長森やその影の中森と同じように、皆から忘れられながら消えていたんだろうか。今となっては検証不可能なことだった。
 仮に俺が消えたとしたら茜は、俺のことを中森のことと同じ様に忘れてしまうのだろうか?
 いや、案外誰にも言えない悲しみを抱えたまま、時たま俺の消えた場所に立ち寄っては俺の帰還を待ち続けるはずだ。茜は昔からずっとそう言うやつだってことは、俺が一番よく知っているのだから。
 それは悲しすぎるな。
 今の考えを打ち消したかった。
 俺は茜を悲しませたくなかったし、茜の居ない世界に消えることなど考えたくもなかったからだ。
 今となっては何処にもないその答えを、ずっと考えていても仕方がない。今ある現実を精一杯過ごすのが、茜や俺、そして「存在しなかった」長森の為でもあるんだからな。
 そこまで考えてふと思った。

 長森? 中森? いったい誰だそれは……

 それより、俺は何を考えていたのだろう……
 俺は頭を左右に振った。
 そうか、こいつに返事を付け加えてやるんだったな。茜には心配を掛けっぱなしだ。
 俺は茜のボールペンを手に取り、使い慣れない情けない文字で、もとの文章の下の余白にこう書き込む。

『なあ、茜。
 俺は絶対居なくなることなんか無いから。
 もし、他のみんなが茜の敵になっても俺だけはずっと茜の味方だぞ。
 茜が嫌だって言ってもずっと一緒にいるからな
 その時になって後悔しても遅いからな』

 月並みで頗る恥ずかしい事を書き込んだ、そのメモと万年筆をお盆の前に揃えて置いく。
 そして、彼女の肩から自分が着てきた褞袍を掛けてやる。
「風邪引くなよ」
「……こうへい……」
 返事が返ってきたけど、たぶん寝言だろうな。幸せな夢だといいな。茜。
 そして、俺はテーブルからおにぎりを一つだけ掴む。
 今の俺の存在意義はこのおにぎりが肯定してくれる。
 だからもう、どんな世界も必要がなかった。 
 

 ……

 
 音がした。
 朝の静寂、まだ目が覚めない意識化に訴えかける音。
 階段を駆け昇る音だな。ちなみに「怪談」は駆け昇らないぞ。
 どうやら、劇甘党でお下げをした幼なじみがやってくる時刻のようだな。
 惰眠を貪る俺を、この微睡みの中から喧噪と戦慄の巷へ引き戻す足音だ。
 俺はまだもう少しだけこの朝の貴重な時間の惰眠を貪りたい気分だったが……もちろんそんなことはお構いなしだ。
 仕方がない。いつものように……
「……浩平にとってのこの世界は喧噪と戦慄の巷?」
 ……とはいかないようだった。調子狂うぞ。
 喧噪はともかく、戦慄というほどでもはないんだけどな。
「少し安心しました」
 まあ或る意味柚木や七瀬が俺にとっての戦慄すべき対象かも知れない。 
「詩子や七瀬さんもきっと同じ事を言います」
 やつらと同レベルにはなりたくないものだな。
 ところで、ドアを開ける音がしなかったぞ。茜は何時から瞬間移動が使えるようになったんだ?
「そんなこと器用なことは出来ません」
 まあ、そんな器用なヤツを幼なじみの恋人に持った憶えは俺にもない。
「……」
 ところでどうやって入ってきたんだ。
「ドアが開いていました」
 そういえば、夜中にドアを閉めた記憶がないな。
 あの後おにぎりを食いながら階段をぼったのは憶えているんだけどな。
「行儀悪いです」
 死んだお袋みたいな事言うなよ……ん?
「なんですか?」
 茜は不思議そうに聞き返した。
 よくよく考えてみる。
 思うに、全部俺の心の中の声の筈だけど……。もしかして、精神感応ですか、茜さん?
「……違います」 
 それじゃ何で答えが返って来るんだろう。
「折原くん全部口にだして話してるよ」
「なにぃ!」
 ガバッ!
 俺は、勢いよく掛け布団を跳ね上げた。
「あっ、起きた」
 茜の後ろで、柚木がにまっと笑っている。実に薄気味悪い。
 それより……
「茜、あと三点バーストで眠らせてくれ」
「……嫌です。永眠してしまいます」
 茜は心底悲しげな顔をした。
 どうやら三点バーストが何か理解したらしい。
 流石は茜だ。付き合いが長い分侮れない。
「それは俺も嫌だ」
 でも柚木とは違って、そう言った後の茜の微笑みは柔らかな春の日差しのようで俺に好意的だった。
 茜は徐に制服のポケットから何かを取り出すと徐に読み上げた。
「『茜が嫌だって言ってもずっと一緒にいるからな』」
 おい待て、それは……
「嫌です」
 そうか、俺と過ごすのはそんなに苦痛だったのか……。何だか無性に悲しかった。でも、茜の言いたいとは違った。
「浩平と離ればなれになるのは……」
 確かに茜の言う通りだ。
「それもそうだな」
「……後悔なんかしませんから」
「なにかなぁ」
 そう言うと柚木は茜の手から件のメモ書きを奪い取った。
 その後、柚木のお陰で、学校で柚木を初め七瀬や住井達にも散々からかわれることになった。

 ……
放課後、
「なあ、茜」
 帰宅途中にいつもの公園で。
「……なんですか」
 俺たちは山葉堂のワッフルを囓っている。
 俺が囓っているのは普通のチョコ入りだが、茜が囓っているのは最近売り出した強化新型(!)劇甘ワッフルだ。どうやら茜の味覚は、あの店の店主の職人魂に火を点けてしまったようだな。
 前のも相当な物だったが、今回のは企業秘密の材料が入っていて、更に凶悪と来ている。
 柚木組んで澪と椎名を丸め込み、前作との食べ比べ(人体実験とも言う)を試みさせたことがあるが、その時は口に入れた途端に二人とも泣きながら降参したからな。
 従ってこれは事実上茜専用メニューだ。
 そんなことをしていて採算がとれているのか心配になって来るぞ。

 そう言ってもう一囓り。一口が小さいんだよな。
 これで食ぺてるものさえ気にしなければ、普通に可愛いんだけどな。
「何か不穏なこと考えませんでしたか」
 やっぱり茜は鋭い……。
「いや、そんなことはない。それより……」
 茜が気を悪くする前に聞きたかった質問を繰り出してみる。
「長森瑞佳って名前に聞き覚えあるか?」
 そう訊ねてみる
「……知りません。詩子なら知っているかも知れないですけど」
 本当に心当たりがないようだった。
「中森瑞穂って心当たりがあるか?」
「知りません。詩子なら……」
「いや、いい」
 やっぱりな。
 頭の片隅の整理できていない領域に引っかかった名前を言ってみたんだが、
「やっぱりそんなヤツは存在しないか……」
 そう納得せざる得ないようだった。
「どうかしたんですか?」
「いや何でもない」
 存在しないヤツのことを考えても仕方がない。

 ふと見上げた蒼空。
 頭上高く自衛隊機が飛び去っていく。あっちは入間だ。多分……(確証はない)
「……フルクラムです」
 茜が徐に言う。でも空自にMiG-29は在籍しない(ハズだ)から、そんな物が日本の空を飛んでいたら明らかに領空侵犯だぞ。
 たぶん、柚木か住井にでも吹き込まれたんだろう。
 後であったら文句を言ってやろう。
 少なくとも有りもしない妄想を追い続けるよりは、その方が建設的だ。
 いや、もっと建設的なことが有るな。
「あれはイーグルだ」
 俺は、隙をついて茜の唇を奪う。
 既に鋼鉄の猛禽が彼方に消え、晴れ渡る蒼空に残されたものは、虹を掠る飛行機雲だけだったけれど、今の俺達にとってはそんなことはもうどうでもよいことだった。



 〜劇終〜