雨が降っていた。

冬を越えた家の屋根を打ち付けていた。

ゆっくりと体を起こす。

目覚まし時計を見る。

目覚ましが掛かる時間には遠かった。

制服に着替え、部屋を出る。

静寂が包んでいる家。

自分以外に気配がない。

ここは居場所じゃないという様に、目の前がうっすらと歪む。

気が狂いそうなくらい、ゆっくりと。

それを振り払うかの様に、階段を下りた。








買い置きのパンをトースターで焼き、ラベルの貼っていないオレンジ色のジャムを塗って食べる。

やはり、今居るリビングも歪んでいた。

なんで歪んでいるのか、わからない。

食事に集中しよう。

トーストをかじる。口にはよく分からない味が広がった。

それも数口で止まる。

ここも、違う。

歪んでいく、ゆっくりと。

なんとか全部食べきる頃には、自分の平衡感覚が信じられないくらいに、周りが歪んでいた。

一歩踏み出す。

気が狂いそうだ。






                       なんで、ここには、誰もいないんだ。






溜まらなくなって、膝を曲げて自分の体を抱き込む。

深く息を吐き出す。

もう、何もかもが狂っていた。

何度も息を吸っては吐き、気持ちを落ち着ける。

落ち着いた頃には、世界は戻っていた。

立ち上がり、何とか食器を片付ける。

鞄も持たずに、玄関に立つ。

靴を履き、戸を開ける。



「………行ってきます、秋子さん」



戸が閉まる。

完全な静寂の中で、

「あさ〜、あさだよ〜、朝ご飯食べて、がっこういくよ〜」

目覚まし時計からの音が、無人の家に、響いた。





































                          Regenschirm





































無人の通学路を歩く。

誰もいるわけがない。

まだ、夜中と言っていい時間だ。

ゆっくりと踏みしめる様に歩く。

雨が、制服を濡らしていく。

肌に制服が張り付く。

だが、そんなことは気にならない。

また、世界が歪み始めたから。

歪みを気にせずに歩く。

歩くことに集中して、歪みを消す。

ただ、目的の場所まで歩く。





































意識を歩くことだけに集中して、たどり着いた場所は学校。

校門を越え、開いている窓から校舎に入る。

校舎に入った瞬間、歪みが襲いかかってきた。

今までの反動というばかりに、歪んできた。

壁に手を突き、前に進む。

たどり着いたのは、階段の踊り場。

三人で、レジャーシートを敷いてお弁当を食べた場所。

そして、あの日の………


「祐一、邪魔」

「………祐一の言っていることはよく分からない」

「………まだ一体、残ってる」

「…そんな……急に言われても理解出来ない」

「あの日の男の子は………みんなと同じように私から逃げた」

「………どうすればいいのかわからない」

「剣は捨てられない………私はずっとこれに頼って生きてたから」

「………捨てられない」

「………剣を捨てた私は本当に弱いから」

「………祐一に迷惑かける」

「一緒にいてくれるという祐一に迷惑をかける」

「それでも、祐一はかまわないの?」



景色が、にじむ。

そして、歪む。

耐えきれず、膝を折る。

体の震えが止まらない。

ただ。

泣き続ける子供の様に、体を抱きしめる。

やがて、震えが収まる。

体を起こす。

三人でいた記憶を振り払い、階段を下りる。

しかし、後ろを向き、

「佐祐理さん、舞。じゃあ、また」





































学校を後にする。

歪みは薄い。

歩きに集中する。

思考はゼロ。

なにも、考えない。

ただ、歩く。





































駅のベンチに座り、辺りを見回す。

人の影は既に無く、周りは闇が支配していた。

七年前に交わした約束。

彼女はここで待ち続けた。

俺も、返事が出来た。

拒絶は、当たり前と覚悟していた。



「私、馬鹿なんだよ」

「ずっと昔のことひっぱってて」

「…ダメ……だよ」

「ダメだよ、祐一」

「祐一に言いたかった言葉………」

「もう忘れちゃったよ………」

「………ひどいよ」

「今頃そんなこと言うなんて…ずるいよ………」

「私、分からないよ………」

「…突然そんなこと言われても、分からないよ………」



それでも、最後には答えを出してくれた。

ずっと待っていた七年間は、長かっただろう。

だから、

「七年間もありがとう。そして、ごめんな、名雪」






































歩く。

歩く。

もはや前すら見えない雨の中で。

歩く。





































夜の公園は、とても冷たかった。

あの日のように、噴水がライトアップされていた。

今は、雪のかわりに、雨が降っている。



「祐一さん………」

「今日は楽しかったです…」

「今度、行きたいところがあるんです」

「この前、祐一さんと一緒に入った喫茶店に、もう一度行きたいです………」

「それから、祐一さんと一緒に、商店街を歩きたいです………」

「もちろん、買い物もしますよ」

「ダメですよ、たくさん買って貰いますから」

「欲しい物もあります…」

「それに………」

「…昨日、新しいお友達ができたんです………」

「他のクラスの人ですけど…今度、一緒に遊びに行こうって………」

「誘ってくれたんです………」

「行きたい場所………」

「やりたいこと………」

「まだまだ…たくさん………」

「たくさん…たくさん……あるのに………」

「でも…私……祐一さんを困らせることばかりしていました………」

「それなのに…最後の最後まで……迷惑掛けていますよね………」

「少し、横になりたいです………」

「私、芝生の上がいいです………」

「雪の上、冷たそうです………」

「冷たくて、綺麗で………」

「私、雪が好きですから………」

「だから………」



雪の代わりに、雨が降っていた。

白く、大地を覆うことは叶わないが、

熱くなった体を、

燃える様な心を、

冷やし尽くすのは一緒だ。

だから………

「雨も捨てた物じゃないな………栞」





































ぬかるんだ道を歩く。

舗装されていない道は容赦なく足を滑らせる。

いくら転んでも、前に進む。

今は、前にしか進めないから………





































雨の中にして、その景色は全く変わっていなかった。

妖狐が棲むと言い伝えられてきた丘。

ものみの丘。



「はじめまして、天野といいます」

「………」

「ほら、お名前は?」

「あぅ………」

「お名前は?」

「あ、あぅ………」

「おいで」

「………」

「………こうしたら、落ち着くんです」

「お名前は?」

「あうーっ………」

「ほら、頑張って」

「お名前は?」

「うーっ………」

「ほら、お名前は?」

「あぅ……ま………」

「ま?」

「まの次は?」

「こ…」

「まこ? まこでいいの?」

「まこ…の続きは?」

「あぅ………」

「ほら、もう少し」

「………と」

「と? まこと? 真琴でいいの?」

「まこと、あぅ、まことっ」

「いい名前ね、真琴」

「あぅーっ」



人肌が恋しくて、

人にふれあってしまった為の悲劇。

ただ、そこに幸せがあったかどうかは彼女にしか分からない。

後に残った物は、幸せだった思い出だけ。





































もはや、進むべき道は一つしかなく、

退路も、逃げ場も無かった。





































ぽっかりと開いた場所だった。

大きな切り株を中心に、その周りだけ地面が顔を覗かせていた。

さながら好奇心旺盛な子供の遊び場になりそうな、そんな空間だった。

大人三人が手をつないでも囲めそうにない、大きな切り株だった。



「…嘘……だよ………」

「……どうして………」

「ボク…どうして………」

「ここ……知ってる………」

「ボク…ここで………」

「…学校………」

「…嘘……だよ………」

「そんなの…嘘……だよ………」

「…だって……だって………」

「ボク……ここにいるよ………」

「……だったら……………どうして…………」

「ボク……ここにいたらいけないの…………」

「いたら……いけない人間なの………?」

「……嘘………」

「…嘘……だよ………」

「…嘘……だよ………っ」

「そんなの嘘だよっ!!」

「………そうだ……鞄………」

「…今日も……学校あったもん………」

「……だから………だから…………」

「……え………」

「どう……して………」

「…たいしたことじゃないよ………」

「…昔のこと……思い出しただけだから………」

「…ボク……探さないと………」





































捜し物は見つかった。

差がしている本人ではなく、俺が見つけた。

彼女は、忘れてくださいと言った。

俺には、忘れられなかった。

彼女もまた消えた。

「捜し物は見つかったよ、そして、叶えるべき願いも………みつかったよ、あゆ」

ずっと、ポケットに入れていた人形を取り出す。

「俺の………俺の願いは………」





































                           雪が降っていた

                 重く曇った空から、真っ白な雪がゆらゆらと舞い降りていた。

                      冷たく澄んだ空気に、湿った木のベンチ。

               俺はベンチに深く沈めた体を起こして、もう一度居住まいを正した。

              屋根の上が雪で覆われた駅の出入口は、今もまばらに人を吐き出している。

           白いため息をつきながら、駅前の広場に設置された街頭の時計を見ると、時刻は3時。

                まだまだ昼間だが、分厚い雲に覆われてその向こうの太陽は見えない。

「………遅い」

              再び椅子にもたれかかるように空を見上げて、一言だけ言葉を吐き出す。

                視界が一瞬白いもやに覆われて、そしてすぐに北風に流されていく。

体を突き刺す様な冬の風。

そして、絶えることなく降り続ける雪。

心なしか、空を覆う白い粒の密度が濃くなった気がする。

もう一度ため息混じりに見上げた空。

その視界を、ゆっくりと何かが遮る。

「………」

雪雲を覆う様に、女の子が俺の顔をのぞき込んでいた。

                 無限に繰り広げられる追復曲の様に………女の子が言葉を紡ぐ。





































                         「雪、積もってるよ」














                             END