今日も、いつもと同じ一日のはずだっだ。雨が降る事で何となくブルーになりながら、学校へ行くだけの日常。

その日常と少し違う事があるとすれば、それは今日が終業式と言う事だけ。夏休みになっても明けないような、例年になく長い梅雨が終わるまで、それがずっと続いて行く。至って平凡な毎日を俺――小鳥遊優人は過ごすのだろう。そう思っていた。

だが、俺は知る事になる。『いつもと同じような毎日』なんていうものは、脆く簡単に崩れやすいものだという事を。例えば、いつもと違う道を通るだけで、何か変わるかもしれないのだと。

俺の『いつもと同じような毎日』は、もう少し分かりやすく終わったようだ。

学校からの帰り、家の前に倒れている女の子を見つけた。浅く早い息。俺の中に、放っておくという選択肢は見当たらなかった。

大丈夫か! と声をかけながら近付き、状態を調べる。

顔色はゾッとする程に白く、艶やかだったであろう黒髪は泥で汚れていた。目立った外傷は無いようだが、相当体が冷えているように見える。とりあえず家に入れて、何らかの対処をしなければ、最悪の事だってありえるかもしれない。

だが、この時の俺は気付いていなかった。この女の子と出会った事が自分の人生の転換点だった事を。

「……ぅ…ぁ…」

小さく呻く少女を抱き上げる。両腕にかかる重みを感じながら、俺は急いで家に入っていった。

























Whereabouts

































「それで、何があったの?」

俺が少女を家に入れた後、始めに聞いた声は、少女の感謝などではなく、幼馴染の詰問だった。

俺に迫ってきている女の子は周防翠。いわゆる幼馴染で腐れ縁。実は良いところのお嬢様なのだが、ちっともそんな素振りを見せない、結構気の良いやつだ。

性別を超えた親友という存在で付き合いも長く、一番気軽に付き合える相手…それが俺にとっての翠という存在である。

女の子を家に入れて客間に布団を敷き寝かせた後、俺が最初にした事が翠に連絡を取る事だった。母親は仕事で日中は出払っている。だから女の子をどう扱えばいいか分からなかったのだ。そこで俺が白羽の矢を立てた相手…それが翠であった。

最初、翠は訝しげな様子で聞いていたが、俺が冗談で言っているのでは無いと気付くと、直ぐに小鳥遊家に駆けつけ、そして適切な処置をした。その代わりに、今現在、俺は詰問されているのだけれども。

とりあえず、翠に見たままを言ってみた。とは言っても分かっている事は少ない。何故か小鳥遊家の前に少女が倒れていた、俺に分かっている事はそれだけなのだ。

事情を聞いた翠は呆れたように言う。

「優人…あんた少しは怪しいとか思わないの? 何も考えてないのかお人好しなのか…。全く…いっつもそうなんだから。いつか絶対苦労する事になるわよ?」

そう言われても、こればかりはそうそう変えられるものでもないし、変えるつもりもない。俺はそういう性格なのだ。

とは言うものの、だからこそ気にする事もある訳で。

「翠にはいつも迷惑かけてるよな…ゴメン。今日の事だってそうだ。今度からは自分で何とか出来るように頑張るよ」

何かあると、つい翠に頼ってしまうのは悪い癖だと思っている。

「だからそうじゃなくて…ああもう!」

歯痒そうに頭を掻く翠。

何をそんなに怒ってるんだろう?

首を捻る。

「そういう性格だって分かってるけどさ。…あのね、あたしが優人に頼られる事を迷惑になんて思うわけ無いでしょ。長い付き合いなんだからそれくらい分かってなさい!」

ああ、そういう事か。

「だったら、翠だって俺がこういう性分だって分かってるだろ?」

「あたしはいいの!」

無茶苦茶な論理で優人を押し切ろうとする翠。そしてポツリと漏らす。

「その誰にでも優しい所が問題だっていうのに…」

「ん〜? 何か言ったか?」

翠が何か呟いた。しかし聞こえなかった為に聞き返す。すると、翠は溜息を吐いた。

「はぁ…まあ、こういうぽやっとしたところも、誰にでも優しい所も含めて優人なんだから仕方ないよね…ホント、こんな性格でこの先無事に生きていけるのかしら」

再び深く溜息を吐く翠。

翠が『叩けば直るのかな?』と物騒な事を考えている事も知らず、俺はただ少女の事を見ているのだった。



そうして俺と翠が世間話を交えつつじゃれあっていると、少女が身動ぎする音が聞こえた。

俺と翠は雑談を止め、寝ている少女に注目する。

「ん……」

うっすらと目を開き、何かを確認するように、周りを見回す少女。

「……ここは……っ」

そして俺たちの姿を認めると、息を呑み、見るからに警戒している少女。その姿に困惑してしまう。

少女は、警戒心をあらわにしたまま、動かない体を必死に動かそうとしている。

俺は惑いを振り払い、少女に話しかける。

「ああほら、体弱ってるんだから動いちゃ駄目だって」

少女を宥めようと布団に手を伸ばす。すると、キィンと耳鳴りが。

「……っ」

―パン―

という乾いた破裂音とともに、俺の手が弾かれた。

驚いて手を離してしまう。原因を探ろうと、周りを見回しても何も見つからない。後ろで見ていた翠も、同じように驚いていた。

「翠、今の…」

「…うん、何も無かったはず」

分からない。少女は指一本動かしてない筈なのだ。だが、弾かれたのは事実。俺の体が、弾かれた手がそれを覚えている。

少女が何かしたのだろうか? 聞いてみるしか方法は無い。

「ねえ君、今の――」

「――ここはどこで、あなた方は何者ですか」

俺の問いを遮って響く、凛とした声。考えるまでも無く、目の前の少女の声だろう。

こうしてよく見るまで気付かなかったが、少女は相当な美人だった。見惚れてしまう程に。

俺と少女目が合う。その瞳には、未だ警戒の色が浮かんでいる。

アホみたいに呆けていると、再び少女の声が響く。

「私の声が聞こえないのですか。ならば他の連絡手段を考えます」

少女は目を閉じると、本当に何かを考え始めているようだった。

このままじゃ誤解されてしまう。慌てて声を出した。

「あ、いや、聞こえてるよ。大丈夫」

何が大丈夫なのかは俺も良く分からないが。

俺の声が聞こえたのか、少女はすぐさま目を開けると、何事も無かったかの様に、平坦な声で同じ問いを繰り返した。

「ならば説明を求めます。ここはどこですか? そして、あなた方は何者ですか?」

「あ、ああ。ここは俺の家。君が家の前で倒れてたから連れてきたんだ。俺はこの家の人間で、後ろのあいつは俺の友達」

頷く少女。俺の説明で一応納得はしたようだ。

「それで、君はどうして倒れてたの? 倒れる前に何をしてたとか、覚えてない?」

考え込む少女。しばらく沈黙が続いた後、無表情のまま首を横に振る。

「そうか…。君…っと、いつまでも『君』じゃ失礼だな。俺の名前は小鳥遊優人。君の名前は?」

「………」

静寂。耐え切れなくなったのか、今まで事の成り行きを見守っていた翠が口を出す。

「ちょっとあんた、聞いてるの?」

「………」

無視し続ける彼女に、とうとう翠が怒り出した。

「ちょっと!」

「翠、落ち着け」

今にもつかみかかりそうな翠をたしなめる。

「何か事情があるのかもしれないんだから」

「…分かったわよ」

後ろに下がって横を向きながら憮然とした表情でブツブツと呟く翠。これは後でご機嫌を取らなきゃいけないな…。



翠の方は大丈夫の様なので、少女の方へ向き直り、尋ねる。

「それで、何か言えない理由とかあるの?」

「名を明かす必要性を感じないだけです」

即答。理解するまでに少し時間がかかった程に、予想もしない、簡潔な理由だった。

「な…なんで?」

「私は直ぐにここを出て行きます。そしてその後会う事は恐らく無いでしょう。ならば名を明かす事も無い。違いますか?」

「そうだけど…って、直ぐ出て行く? その体で?」

「はい」

「今すぐに?」

「はい」

淀み無く答える少女。

「む、無理だって! さっきも見てたけど、体動かないんだろ! 腕一本動かない体でどうしようって言うんだよ!」

「貴方には関係の無い事です」

とりつくしまも無いとはこの事か。後ろでは、翠が『関係無いって言ってるんだから放っておけば良いじゃない』とブツブツ言っている。

「放っておけって言われてもな…そういう訳にも行かないだろ」

後ろを振り向く。翠は、俺が聞いているとは思っていなかったようで、一瞬驚いた顔をした後、また憮然とした表情で横を向いてしまった。

ありゃ根に持ってるな…普段は良い奴なんだけど、一旦へそを曲げると長い。

やれやれと思いつつ、少女の方へ顔を戻す。すると、彼女の顔に初めて感情と言う物が浮かんでいた。戸惑いという感情が。

その感情を浮かべたまま、少女は問う。

「何故です? 私と貴方に関連など無いはずです。今日、偶然にもこうしているだけの関係。あらゆる事象を考慮しても、気にする理由など見当たらない」

「ある」

今度は俺が即答する。すると、少女の困惑した表情が更に深まる。

「ここで君を放っておいたら、俺は自分を許せなくなる。俺が俺じゃなくなってしまう。至って個人的な理由で、理解はしてもらえないかもしれないけど」

「その通りです。私には理解出来ない」

「そりゃそうでしょ」

ここで翠が口を挟んで来る。

「長い付き合いのあるあたしだって不思議なくらいのお人好しなのに」

むぅ、酷い言い草だ。俺はそういう風に見られていたのか。



「ま、まあ、体が動かないのに外に出たら、また同じような事になるよ。それは分かるよね?」

「それは…その言葉の正しさは認めますが…しかし私は」

先程とは違い、迷いが見て取れる少女。俺は少女の声を遮って言う。

「そういう事だから、とりあえず体が動くようになるまではウチに居たらどうかな?」

「ちょ、ちょっと! 優人の家にこの子を置くの?」

何故か翠が慌てた様子で口を挟む。

「…当たり前だろ。他にどこがあるんだ」

話の流れからして想像は付いてるだろうに。

「だって、おじさまやおばさまが居るって言っても若い男と女が一つ屋根の下で暮らすのよ?」

「あ、ああ。そうだな」

妙に意気込んでいる翠。テンションが高いままマシンガントーク。

「お風呂場でばったり会って第一印象は最悪。顔を合わせる度に目を逸らして、だけど優人の優しさに触れている間にわだかまりはなくなって、二人は目を合わす度に赤くなって。ふとした時に体が触れ合い、目が合って、そのまま顔が近付き……きゃー優人不潔っ!」

「そんなベタな……痛っ! 痛いって!」

顔を真っ赤にしていやんいやんと首を振りながらバシバシと肩を叩かれる。

「あの…彼女は何かの病気なのですか?」

「問題無い…って言いたいんだけど」

俺もこんな翠は初めてだから何とも言えん。



ようやく翠の暴走も収まって。

「ま、結局は父さんと母さんに聞かなきゃ駄目なんだけどな」

俺の言葉に応えるのは、まだちょっと顔が赤い翠。

「おじさまとおばさまなら楽しいからって理由でOKしそうだけど…どっちにしても私は認めないからね」

「何でお前に認められなきゃいけないんだよ」

不機嫌な声を出すと、翠は慌てたように。

「わ! 私は! その…優人の監督責任があるのよ!」

「いつそんなものが出来たんだ!」

ぎゃーぎゃーと騒ぐ俺たち。その俺たちを見て少女が一言ポツリと呟く。

「あの…当事者は私なのですが…」

その声は喧騒の中に空しく消えていった。



騒ぎも一段落し、俺と翠が疲れ果てた頃、ただいまー、と明るい声が小さく聞こえた。

「あ、おばさま帰って来ちゃった…」

「だな。もう6時だし」

ドタドタと廊下を走る音が近付く。さて、母さんのテンションに飲み込まれない間に話を出来るかな?

ノックもせずバンッとドアが開く。

そこから見えるのは、見たところ30代前半から後半といったところの女の人。しかしもっと若く見えるのは女性が纏う雰囲気のせいか。その女性がおもむろに口を開く。

「優人ー、ご飯作ってー!」

「だから…部屋に入る時はノックをしろ。廊下は走るな。それと第一声がそれってのは母親として…ああもうどこから直せと言えばいいやら」

「いいじゃない別に。あら、翠ちゃんいらっしゃい」

この元気一杯の女性こそ、我が母である小鳥遊幸江。俺の小言を聞き流しつつ翠に話しかける。

「おじゃましてます、おばさま」

ぺこりとお辞儀。

「翠ちゃんは相変わらず礼儀正しいわねぇ。…あら」

母さんは少女の事に気が付いたようだ。首を捻り何事かを考える。

「んー…ねぇ、優人」

「何?」

「…誘拐は犯罪よ?」

「攫ってない!」



母さんの一言のせいで、事情を話したはずの翠の視線が痛くなりつつも、とりあえずこれまでの経緯を話す。その最中、横目でちらりと布団の中に居る少女の様子を窺う。少女は黙ったままこちらを呆然と見ていた。

「行き倒れ…このご時世に珍しいわね。見たところ、どこか悪いという感じでもなさそうだし」

「ああ、多分疲労か何かじゃないかな。連絡先らしきものも分からないし、あの子も自分の事をあまり言わないから何か事情があるんだと思う」

それで…と話を続けようと思ったら、翠が割り込んできた。

「聞いてくださいおばさま。優人ったらとんでもない事言い出すんですよ?」

「しばらくウチに置いてあげられないかな、でしょ?」

言おうとした事を先に言われてビックリする翠。

「む、やっぱり分かったか」

俺が生まれてからの長い付き合い。やはり父さん母さんには隠し事が出来るとは思えない。そんな俺の心を再び読んだように、母さんは悪戯っ子のような笑顔で。

「何年あんたの母親やってると思ってんのよ」




「ところで」

「ん?」

「肝心の当事者はさっきから喋ってないんだけど。優人、あんた何かやらかしたの?」

「そんな訳無いだろ。何つー言いがかりだ…」

母さんの言葉に思わず脱力してしまう。でも、確かに全然喋ってないな。

少女に近寄る。

「どうした?」

少女は今気が付いたように、目をパチパチさせる。

「あ、いえ。ちょっとお二人のやりとりに圧倒されてしまって…」

「そうか? 普通だと思うが」

「普通……。そう……かもしれませんね」

少女の声が沈む。何か拙い事を言ってしまったのだろうか?

そんな少女の様子を、母さんは気付かないフリをして、真面目な顔で話しかける。

「まあ、息子はこう言ってるし、お父さんにも相談はするけど、多分貴女をここに置いておく事は大丈夫だと思う、私も歓迎する。でも、結局は貴女の意思次第。無理強いはしないわ。話したくない事や知られたくない事があるなら踏み込まない。お父さんが帰って来るまで、考えていて構わないから」

『何か事情があるみたいだし、よく考えなさい』と、言外にそう少女に伝え、母さんは笑顔で部屋を出て行った。



「やっぱり大人なのよね…」

翠が呟く。

「ああ」

俺が思った事も同じだった。こういう時は、やはり自分が子供なんだと感じる。

現に、少女はさっきの俺との会話の時のように頑なになる事も無く、母さんに言われた事を考えている。それは母さんが纏う雰囲気のせいなのかもしれない。

そんな事を考えていると、またドタドタという足音が近付き、バタンとドアが開き、母さんが入ってくる。

「うぅ…優人…夕飯まで待てそうにないよ…。何か食べる物ないー?」

「…軽いもの作るから居間で少し待ってなさい」

「はーい。やったー、優人のおやつー!」

子供の様に手を挙げて、入ってきた時と同じく、足音をドタドタと立てて部屋を去っていくMy母3?歳(精神年齢10歳)。

「やっぱり子供なのよね…」

「…ああ」



「翠、ちょっとここ頼む」

少女は悩んでいる。多分直ぐに結論が出る事でも無いだろう。だから、先に母さんの方を優先する。あの母親は、お腹が空くと何をしでかすか分かったものじゃないからだ。

翠も俺と同じ事を考えているのだろう。苦笑しつつ送り出してくれる。

「ん。ご機嫌を損ねないようにね」

「善処するよ」

「………」

俺は、横目でこちらを見ている少女を少し気にしつつ、客間を出て台所へ向かった。







優人が出て行った後の客間――。


「――で、さっきから、何でアンタは優人をチラチラと見てた訳?」

睨むという表現が合う程の視線の強さで少女を睨む翠。

「…どうして、あんなに無警戒で居られるのかが不思議だっただけです」

それを軽く受け流しながら淡々と話す少女。

「あいつはドが付くお人好しだからね。あたしは危ういと思ってるけど、本人に直す気が全く無いから」

「論理的じゃないですね。いつか騙されますよ」

「その為にあたしが居るのよ。あいつが自分より他人の事を考えてしまうのなら、あたしはそれ以上にあいつの事を考える」

その言葉に、少女は軽く笑う。

「自己犠牲ですか。偽善ですね」

今更だね、と翠。

「偽善で結構。あいつは止める人が居ないと突っ走って行ってしまう。あたしの口出しする事じゃないって分かってるけど。それに、これはあたしがやりたい事だから。犠牲になってるつもりはないわ」

「…幸せな事ですね」

少女は小さく小さく呟く。

「…喧嘩売ってんの?」

翠の声色に剣呑な響きが混じる。

「違いますよ。言葉通りの意味です」

少し睨み合った後、翠は大きく深呼吸した。

「…ふぅ。あたしには、どうしてアンタはそこまで張り詰めてるのかって方が不思議だけどね」

少女は遠くを見ると、一拍を置いて言った。

「…貴方達には分からないですよ」

――幸せである事の怖さは。








「ホントに母さんは大人なんだか子供なんだか…」

待ちくたびれたっていうのは分かるんだけど、まだーって後ろ抱きついてくるのはどうにかして欲しいですよ母上。

ついでに夕飯の下拵えもしておいたから、今日くらいは母さんにやらせよう。こんな日くらいは許されるはずだ。面倒くさがりやなだけで、料理出来ない訳じゃないんだし。

それにしても…。

「もうちょっと親としての自覚を…」

と言いつつ客間のドアを開けると。

「…………」

「…………」

「おや」

何か凄く空気が重かった。

「何があったんだ?」

とりあえず翠に聞いてみる。

「何でも無いよ」

続いて少女の方を見てみる。

「…………」

スルーされた。

何でも無い事は無いだろうけど、これは聞いても教えてくれそうに無いな。放っておくしか無いか。



その後も部屋に充満している重い空気。それを取り払うべく、どういう話題を振ろうかなと考えていたその時、玄関が開く音が響き、次いで帰ったぞーという声が聞こえた。

「父さんか? 今日は随分早いな…」

時間を置いて聞こえる『おかえりー』の声。どうやら間違いないようだ。いつもは7時を過ぎるのに、今日は6時半か。まあ、そういう日もあるのだろう。

再び二人に意識を戻す。そして少女の方を向く。

「さて、思ったより早くなったけど…どうする?」

少女は俺の顔を見ると、瞼を閉じ、そして開けると同時に口も開いた。

「本当に、お願いしてもよろしいのですか?」

「ああ、父さんには聞いて無いが多分大丈夫だ。駄目って言っても俺が何とかする」

真っ直ぐに目を見て言う。視線が絡み合う。

「分かりました。少しの間、よろしくお願いします」

「はい、よろしくお願いされます」

そして確かめなければならない事があった。

「ところで美しいお嬢様、名前が分からないと何かと不便なのですが、お教え願えますでしょうか?」

少しカッコをつけつつおどけて聞いてみる。すると、少女は笑みを零した。それは多分無意識の内に出たもので、一瞬しか見る事は出来なかったが、心に残るには充分だった。

そして、彼女は淡々とした声で、しかしその表情に今まであった険は消え。

「――彼方。東雲彼方と言います」

少しは心を許して貰えたかなと思った瞬間だった。




少しの間見惚れていると、冷たい声が背後から聞こえてきた。

「……で、二人の世界はもう終わりでいいの?」

「あ」

翠の事完全に忘れてた…。




「どーせあたしの事なんてどうでもいいのよねー」

拗ねられた。俺に背中を向けながら、時々こちらを恨みがましい目で見る翠。

そんな翠を見て、目で『良いのですか?』と聞いてくる彼方。

俺もどうにかしたいところだが、翠が拗ね始めると、しばらくは人の話を聞きゃしない。放っておくしか無いのだ。

とは言え、この無言の圧力はちょっと辛いな…口実付けて抜け出すか。

「あ、俺父さん探してくる」

そう言い残して、とっとと部屋を後にする。『逃げるなこらー』と聞こえた気がしたが気にしないでおこう。




とりあえず玄関から順に探していくか。

靴はある。また出かけたという事は無さそうだ。となると、居間か部屋か。まず部屋から探してみよう。



…あっさり見つかった。部屋で今から着替えるところみたいだ。

「父さん父さん」

ネクタイを解いている後姿に話しかける。ちなみに父さんの名前は小鳥遊和人。俺の名前の一文字は父さんから取ったという話だ。

「何だ我が息子」

「ちょっと話があるんだけど」

言うと、少し間が空く。

「…俺には幸江という伴侶が居るからお前の気持ちには応えられんぞ」

「んな事言ってないだろ!」

夫婦揃って、俺をからかう事を生きがいにでもしてるのだろうか。

「ふむ、仕方ない…あいつには内緒で」

「だから言ってねー!」

もうやだ…。



「冗談を軽く流せるくらいの度量が無いとモテないぞ」

「頼むからもう黙ってくれ」

とりあえず父さんを一発シバいた後、大切な話があるからと言って連れ出した。

「重要な話なんだからな」

と言いながら部屋のドアを開ける。翠も少しは落ち着いた様子だ。

部屋に入り、次いで父さんが部屋に入ると、翠が父さんの存在に気付いた。

「おじゃましてます」

「おお、今日も可愛いなぁ、翠ちゃん。ふむ…全く、息子には勿体無い。どうだ? 今度の休みにでも俺とどこかに出かけるというのは」

「あはは…遠慮しておきます」

苦笑しながら応える翠。こういうやりとりは毎回の事なので、翠も慣れたものだ。でも、俺には勿体無いってどういう意味だろ?

そして父さんの視線が布団の中の少女に移る。

「む…」

首を捻る父さん。少し考えた後、おもむろに携帯電話を取り出し、どこかに電話をかけた。

「もしもし……ああ……そうだ、3人分だ。直ぐに手配出来るか? うむ、分かった、後で」

「父さん、どこに電話してんの?」

「ぎぞ…ゴホンゴホン! あー…パスポートの手配をな」

「今、何を言おうとした…。っていうか、どうしてパスポートが必要なんだよ」

「そりゃ当然だろ」

父さんは笑顔でキラリと歯を光らせサムズアップ。

「日本じゃ重婚は犯罪だ!」

「失せろクソ親父!」



父さんに付き合っていると、何時まで経っても話が進まない。強引に本題に入ろう…と思ったら、父さんが先に口を開いた。

「優人、この美しいお嬢さんの紹介をしてもらえるかな?」

彼方を見ながら、芝居がかって言う父さん。翠、『血は争えないわねぇ』とか言うんじゃない。

まあでも、丁度良いな。

「話ってのはその事なんだよ父さん」

事情を説明する。

「っていうか、母さんから話を聞いて無いの?」

説明し終えた後、ふと気付いて聞いてみる。

「あー…そういえば、幸江が『面白い事になってるわよ』って言ってたな」

「面白い事って…」

どういう認識してるんだ母さん。




「まあ、それは置いとくとして…彼方を家に置いておく事はOKなの?」

駄目だと言われたら、何か手を打たなければいけなくなるのだが。

「結論から言うとOKだ。幸い、部屋も幾つか余ってるしな」

「そっか、良かった…」

ホッとする。翠は『やっぱり…』という感じの顔。何がそんなに不満なんだか。

彼方の方を見ると、彼方はドアを見ていた。何かあるのかと俺もそちらを見てみる。すると、母さんが顔を覗かせていた。

「何してんの?」

「もうそろそろご飯作り始めようかなって思ったから来たんだけど、お話中だったみたいだし邪魔かなって思って」

ひよこがプリントされたエプロンを身に付けた、いかにもな格好をしている母さんを手招きする。

「ああ、もう結論出たから待ってる事はないよ」

言うと、ちょこちょこと部屋に入り、父さんの隣に立つ。そして一言二言話すと、彼方の前に座り、話しかけている。

手持ち無沙汰になった俺。さっきから不機嫌にしている翠に話しかける。

「何をそんなにぶーたれてるんだ?」

翠は、俺をしばらく見た後、ふいっとそっぽを向き

「鈍感…」

と呟いた。

「何が鈍感なんだよ」

何となくバカにされた気分で、ムッとして聞き返す。

「それが分からないから鈍感なのよ」

「むぅ」

最もな意見だった。

「もしかして、俺以外は全員分かってる?」

「…多分ね。少なくとも、おじさまとおばさまは分かってるはずよ」

何か疎外感が…まあ、それは置いておくとして。

「だから、その事と翠が不機嫌なのとどう関係があるのか聞いてるんだよ」

翠ははぁ、と溜息。

「その理由は優人が見つけてくれないと意味が無いわ」

訳が分からないな…。




そうしてウンウン唸っていると、向こうの話に入れなかったらしい父さんがこちらに来た。

「優人、何難しい顔してるんだ?」

俺は今までの会話内容を話した。すると。

「そりゃ気付かないお前が悪いよ」

バッサリ切られてしまった。

「ですよね」

「我が息子ながら、どうしてこうも朴念仁なんだろうな…」

こらそこ、心底情け無さそうに言わない。

でも、その言葉から考えると…。

「やっぱり分からないのは俺だけなのか」

「まあ、自分の事は分かり辛いという事もあるんだろうが、それにしたってな」

「いつか分かってくれる日が来るんですかね…でも、優人の鈍さは筋金入りですから」

しみじみと言う二人。

「もしかしてバカにされてるのかな」

「「うん」」

ハモられましたよ?





「ああ…でも…大丈夫かな」

俺と彼方を交互に見ながら何かを考えている翠。

母さんを呼んで、相談する翠。母さんは笑顔でそれに答えている。

話を聞いた後、母さんは父さんに話しかけた。父さんはニヤニヤとしている。あれは絶対に何かを企んでいる顔だ。

どうやら結論は出たようで、話を終え、母さんが俺の前まで来た。

「優人。翠ちゃんもウチに泊まる事になったから」

「はぁ!?」

翠を見ると、携帯で電話をしていて、聞こえる内容からすると、恐らく家にかけて今の状況を話しているのだろう。それで母さんが言ってる事が嘘では無い事が分かった。

電話が終わる。

「おばさま、お母さんもお父さんもOK出ました〜」

「何ですと!?」

「流石にノリがいいな。我が友人なだけはある」

「あの二人も変わらないんでしょうねぇ」

俺の驚きをよそに、しみじみと語る両親。

「娘の事よろしくお願いしますって」

「そんなあっさりと…」

まあ、彼方を家に泊めるとか言い出した俺が言えた事じゃないが。

いやでも、困ってる人を助けないというのは…って、俺は誰に言い訳してるんだ?

そんな内面の葛藤をよそに、母さんはあくまでも軽く言う。

「昔から、お互いの家に泊まったりしてたから別に良いじゃないねー」

そういう問題じゃなくて! 何で俺の周りの大人はこうも軽いんだ…。



「翠、どうしてこんな事になったんだ?」

聞く相手を変える。父さんと母さんにはのらりくらりとかわされそうだからだ。

急に矛先が自分に向いた翠は『うっ』となり、視線を宙に彷徨わせながら答えた。

「そ、それはその…あの…そう! 優人があの子を襲っちゃったりしないように見張る為にっ」

「俺ってそこまで信用無いのか…?」

恨みがましく翠を見ると、翠はますます慌てて、わたわたとしながら言葉を続ける。

「それは信用してるけど…ほら! お、男は上半身の意思と下半身の意思が別にあるって言うじゃない!」

「……………いや、その意見が正しいとすると、お前も危ないんじゃないか?」

「う゛」

言葉に詰まる翠。

「で、でもさ! あたしだよ? あたしなんだよ!?」

「それは分かってるけどさ…お前さっき上半身の意志と下半身の意思はどうとかって」

「うう゛」

再び言葉に詰まる翠。口をパクパクさせているが、声は出てこない。

しばらく待っていると、思わぬところからの横槍が。

「良いじゃない。少しの間家に泊まるくらいは」

母さんだ。しかも、その気の抜けるような声のままで

「あなた達、良く一緒に風呂に入ってた仲じゃない。どうって事無いわよ」

なんて爆弾を落としていきやがった。

「そ、それは保育園の頃の話だろ!」

慌てて大声で言い返す。しかし、母さんは笑ったまま取り合おうとしない。

「大体…ん?」

母さんの視線の先を辿る。そこには相変わらず無表情の、しかし目だけが異常に怖い彼方と、涙を流している父親が居た。

「………」

『不潔…』って目で見るのはやめてくれ、彼方。

「流石は我が息子…」

『成長したなぁ』じゃねぇよ。保育園の頃の話だって言っただろ。

「翠! お前も何か言……翠?」

赤い顔のまま呆けている翠。

「おーい、大丈夫かー」

目の前で手を振ってみる。

「………あ、うん、大丈夫」

気が付いたものの、まだ少し浮ついた様子の翠。

「ちょっとその時の事とか思い出しちゃって」

どこかまだ赤い顔で言う。

「んなものは思い出さなくてよろしい」

俺がそう言うと、母さんが『えー?』不満そうな声を出す。

「えーじゃない!」

がー!と一喝。それで母さんは黙ったのだが。

「お風呂に入りすぎて二人とものぼせたり」

「………」

「お互いの頭を洗いっこしたり」

「…翠、思い出しても良いから言わんでくれ」

「お風呂から出たら、お揃いのパジャマ着たり」

「だから言うなって」

「一緒の布団に入って、まるで『ふーふ』みたいだねって言ったり」

「だー!」

翠はどんどん俺達の恥ずかしい思い出を暴露する。こいつ、自分で何言ってるのか分かってないんだろうなぁ。普段は結構恥ずかしがりやだから。

って、翠を観察してる場合じゃない。後ろをを怖々と振り返る。そこに居たのは…

「その辺の話は初耳ね〜」

『もっと聞かせてよ』と、目を輝かせている母さん。

「……俺を越えたな」

滂沱の涙を流しながら肩を震わせ、グッと親指を立てている父さん。

「……………」

彼方に至っては、目も合わせてくれなかった。


ここに居ても状況が酷くなるだけと悟った俺は、翠の肩を叩くと。

「翠、後よろしく。俺は夕飯作ってくるから」

ようやく正気に戻った翠に事態の収拾を任せ、部屋から逃げ出した。

自分の発言を思い出し、後ろを見て今の自分の状況に気付いた翠が

「ちょっと!」

と叫んだ時には、既に俺は部屋の外。ま、あんな事言った罰だ。

「帰ってきた時、もっと酷くなってなければ良いけどな…」

などと無責任な発言をしつつ、台所へ向かう俺だった。







夕食を作り終えて戻ってくると、どうやったのかは知らないが、父さんも母さんも普通のテンションに戻っているようだ。安心して、作った夕食を持って部屋に入る。

いつもなら居間で食べるところだが、彼方に無理をさせる訳にもいかない。多分両親も同じ事を考えているだろう。

そして、俺が持って来た夕食をみんなで食べる。珍しく何事も無いまま食べ終える事が出来た。

食べ終えると、翠は自分が泊まる部屋を、母さんは彼方が泊まる部屋を片付けに行ってしまった。残ったのは俺と父さんと彼方だけ。

特に会話も無くボーっとしていると、ピンポーンと音が鳴った。

「お客さんか? こんな時間に誰だろうな」

部屋を出て玄関に向かう。父さんと彼方を二人っきりにするのがイマイチ心配だけど…




玄関を開けると、そこには居たのは初老といった感じの男の人が一人、大きな荷物を持って立っていた。

「レットさん?」

俺は、その顔に見覚えがあった。

翠の家である周防家は、古くからの名家というやつで、かなり大きな家だ。そして、例に漏れず、使用人と言うものが居る。

レットさんは、本名をレット=ロウと言い、翠の親父さん…要するに周防家の当主お付の使用人…いわゆる執事と呼ばれる人である。何でも、翠の親父さんがイギリスに行った時に、一目で気に入ってしまって、ついには連れて帰ってきてしまったとか。

ちなみに、若い頃は凄腕の傭兵だったらしい。俺には気の良いお爺さんにしか見えないんだけどね…。

「これは優人様、ご機嫌麗しゅう。お嬢様のお召し物をこうして運んできましたのですが…お嬢様はどちらへ?」

「あー…っと、今は自分が泊まる部屋を片付けてますね。案内しましょうか?」

「お願い致します」

恭しく頭を下げるレットさん。どうもこういうのは苦手だなぁ…。




レットさんを翠の部屋に案内し終えて客間を見ると、母さんも戻って来ていた。しかし父さんは居ない。部屋にでも戻ったかな。

彼方は相変わらず無表情。母さんの問い掛けにも必要以上の事は答えようとしない。これからどのくらいの間一緒なのかは分からないけど、その間に少しでも仲良くなれればいいんだけどな。

そういえば、レットさんの事を言わなきゃな。そう思い、声をかけようとする。

すると、今まで黙っていた彼方が不意に言葉を発した。

「何で…」

彼方へと顔を向ける母さんと俺。

「貴方達はここまでしてくれるのですか?」

その声が帯びるのは疑念。ただ不思議だという感情。

「そんなに変な事?」

首をかしげる母さん。

「はい。私を保護しても、得になる事は何も無い。だってそうでしょう? 身元すらはっきりしていない。そんな私を放っておいても、決して不利益は無かったでしょう。少なくとも自分ではそう思っています」

うーん…損得勘定だけで行動するのはちょっと好きじゃないな。とはいえ、これは俺の価値観だし…どう言ったもんか。

俺が悩んでいると、先に母さんが話を切り出した。

「んーとね…私達には私達なりの考え方があるの。でも、多分それは言っても分からないと思う。だから、彼方ちゃん流に言うのなら…うーん…」

母さんは上手い例えが出てこないみたいだ。代わりに言おうか、と目で合図をする。頷く母さん。

「俺がもし、そこで出ていって良いよって言ったとして、それで出て行ったら、俺はしばらく悩み続けるだろうね。それって、結構な不利益だと思うよ? だから、俺だって、自分の為にやってるんだ。深く考える事は無いんだよ」

だから居て欲しい。そう伝える。

「しかし…」

まだ納得しない様子の彼方。母さんはそんな彼女をなだめるように言う。

「だったら、体が良くなってからでいいから、色々手伝ってちょうだい。私、娘が居たら一緒にやってみたかった事とかあるのよ」

彼方はきょとんとした顔で。

「娘…ですか?」

そして、微妙に苦虫を噛み潰したような顔をすると、声を漏らす。

「わ…たしは…」

何かに耐える彼方。慌てて母さんがフォローに入る。

「…彼方ちゃん。私は…私達は貴女に何があるのかは聞かない。けど、嫌だとか辛いとかって事は、言ってくれた方が嬉しい。我慢、しなくていいの。抑えつける事は無いのよ」

「…努力は、してみます」

言ったそばから何かを抑えた声。何でだろうな、辛そうなのに。

「…とりあえずはそれでいいわ。貴女が良ければ、体が治ってもここに居ていいから」

それじゃ、私は翠ちゃんの様子を見てくるからね。と、部屋を出て行く母さん。

「んじゃ、俺も部屋に戻るよ。彼方はゆっくり体を休めて」

彼方は何も答えず、ただ俺の顔をじっと見る。

「な、何?」

「…いえ、何でも無いです」

「…そっか」

部屋を出る。そして、部屋を出て振り返った時、目が合った。

「ここは…居心地の良いところですね。誰もが優しく…疑いもしない。私が悪人かもしれないのに」

穏やかに語る彼方。

「悪人はそんな事言わないよ。それに、こう見えても人を見る目はあるつもりなんだ。今のところは外れた事無いから」

「そうですか…光栄な事と考えても良いのでしょうか」

「それは大袈裟だって。それじゃおやすみ」

「おやすみなさい」

ぱたん、とドアが閉まる。

「でも…」








夜中、甲高い音に彼方が目を覚ますと、外に野良猫を見つけた。発情期か何かなのか、かなり五月蝿い。これでは私も、近くの部屋に居る優人や翠も寝られないだろう。

響く、キィンという高い音。同時に、野良猫が居る地点の近くで小さい破裂音がする。野良猫は驚いて逃げていってしまった。

彼方は思った。寝る前に優人が言った言葉を。

『居て欲しい』

あの人は、私と言う存在を欲してくれた。

でも。

「でも…ね、優人さん」

――私に、居場所なんてものが在ってはいけないんです。




















こうして、3人家族の我が家に二人の同居人が増えた。

我が家が5人家族になって3日間くらいの間は、表面的には何も無かった。ただ、あいつとあの子に会話が無かったのが少し気になったくらい。今思えば、それは多分冷戦みたいなものだったんだろう。それが4日目の朝に分かった事だった。

キッカケは些細な事だった。父さんと母さんは仕事へ行き、俺と翠と彼方で少し遅い朝御飯。翠が、俺と翠の中間辺りにあったを取ってと言った時だった。

「醤油取って」

「ん」

少し体を乗り出して取り、翠に渡す。

「ありがと」

「………」

「どうかしたか、彼方?」

表情は相変わらずだったが、何となく気配が変わった様に思えたので、気になって聞いてみる。

「いえ、優人さんは気にしなくても大丈夫です」

平坦な声で答える彼方。

「随分含みのある言い方ね?」

そこに突っかかってきたのが翠だ。

「そう聞こえましたか? ならそうなんでしょう」

「何かは分からないけど、はっきり言ったらどう?」

急に一触即発の空気になる食卓。ぶっちゃけ怖くて口を挟めない。翠が動なら彼方は静。共通してるのは、二人とも『こいつムカつく』と目が言っている事である。

「それなら言わせて貰いますが、ここ3日見ていましたが、翠は優人さんに甘えすぎだと思います。細かいところで。自分で出来る事は自分でやるべきでは無いでしょうか。今の事だって、自分で取れたでしょう」

「何でそんな事をアンタに言われなきゃいけないのよ」

「翠がはっきり言えと言ったのです。大体、翠は言動がいちいち大雑把で論理的ではありません。感情のままに行動し過ぎる」

「二言目には論理論理…そんなのつまらないじゃない。そもそも、感情で行動してどこが悪いのよ」

「つまるつまらないの問題ではありません。それに、あなたが感情に任せた行動をしてると、周囲の把握が出来ないでしょう。今回の事でも、まず優人さんに醤油を取ってもらうという事が先にあり、相対的な距離差などは二の次だったでしょう?」

「う…けど、大して距離は変わらなかったじゃない。そもそも距離の事を考えれば、アンタの方が醤油に近かったでしょ。取ってくれても良かったんじゃないの?」

「私は言われてませんから」

「それだってアンタの感情じゃないの。大体、何で醤油の事くらいでわーわー言われなきゃならない訳?」

「私は今回の事を例にとっただけです」

睨み合う二人。たった3日同じ家で暮らしてるだけなのに、どうしてこうも仲が悪いんだ? ともかく、このままじゃいけないよな。何とか止めないと。けど、どうすれば止まるんだろう?

考えていると、二人はふんっ! と目を逸らし、ごちそうさまと言って席を立ってしまった。後に残ったのは、洗い物をしていない食器と取り残された俺。それでも、この時の俺は、この喧嘩は直ぐ終わると思っていた。後で思うと、本当に見通しが甘かったとしか思えないが。




その日の昼。やはり俺と翠と彼方の3人で食事。元から俺と彼方の間に会話は少なかったが、翠も会話をしなくなった。昨日までも会話は少なかったが、ここまで空気が殺伐としているとな…。


夜。やはり同じ。父さんと母さんも気付いた模様。俺に聞かれても良く分からんのだ。とりあえず事情を説明したら、『俺らじゃ無理だ』とか、『頑張ってね、優人』と言われた。俺にどうしろってんだ。

とりあえず、一晩寝て冷静になってくれる事を祈るしかないな。あの空気では、飯もロクに喉を通らない。明日も同じだったら、何か働きかけてみるか。とりあえず寝よ…。



翌日、朝。僅かな希望を胸に、食卓に着いたが、やはり昨日と変わらなかった。むしろ酷くなっていたような気がした。流石にこれはどうにかした方がいいだろう。

今日から何日かは両親とも居るが、昨日の様子から考えて、手伝ってもらるとは思えない。俺がどうにかするしか無いんだよな。何か根底に深いものがあるかもしれないし、とりあえずは行動するしかない。

という事で、翠が先に戻った隙に、まずは彼方へ聞いてみた…のだが。

「優人さんには関係ありません」

と一蹴された。前もそうだったが、こうなった彼方はとりつくしまが無い。

仕方ないから翠の方から攻めてみよう。

「これはあたしとあの子の問題よ」

「いや…しかし」

「負けるわけには行かないの」

こちらも珍しく強情な翠。そして直ぐに部屋を追い出された。

俺は一人廊下で佇む。父さん母さん、俺にも調停は無理そうです。へるぷみー。







それから一週間。時折機会を見計らって話してみるものの、答えはいつも同じで、いい加減胃が痛くなってきた。

二人の関係は、冷戦というよりむしろキューバ危機な状態で、いつ暴発するかも分からない。時々起こる小競り合いは見てて心臓に悪い。

暴発は遠くない間だろう。その時はどうするべきか…とぼんやり考えていた、それは夕飯が終わった後の事だった。玄関の方で大声が聞こえた。

あれは…翠の声?

声のする方へ駆けつける。

そこには、今までと表情は大差が無いものの、迫力が数段増している二人が居た。ついにここ一週間溜め込んだイライラが爆発したらしい。翠が彼方へ詰め寄っている。

「もういい加減にしてよ! その声も! その態度も! 優人やおじさまおばさまが話しかけても何も言わないし!」

「………」

あくまで無表情に受け止める彼方。

「ほら、今回もそう! 本当に人の話を聞いてる!?」

「聞いていますよ」

やはり平坦な声で答える彼方。

「っ! …まるで機械。そうやっていれば傷付く事も無いんでしょうね。ずっとそうやっていればいいわ」

彼方を見下ろす翠。流石に言いすぎじゃないかと彼方を見ると、彼方は小さく震えている。

「……なたに」

聞こえる小さな声。しかし、そこには抑えられない何かが感じられる。

「…彼方?」

気になり、呼ぶ。すると。

「あなたに何が分かるって言うのよ!」

初めて見る、彼方の激しい感情。

「あなたは何も知らない! 私の何を知ってる訳じゃない! そんな事言う資格無い!」

涙を流さんばかりに叫ぶ彼方。その剣幕に押されていた翠だが、歯を食いしばり言い返す。

「分かる訳無いじゃない! 何も言わずに知ってもらおうだなんて、虫が良すぎるのよ! 努力もせずに理解してもらおうなんて甘えてるのよ!」

「それが何も分かってないって言う事なのよ! 言えない事がある! 言ったら大切な物を失くしてしまう! 言える訳無いじゃない!」

「失くすって決まった訳じゃないでしょ! それは周りの人を信じてない証拠じゃないの! アンタは自分の勇気の無さを誰かのせいにしてるだけよ!」

「……あなたに…私の何が分かるっ!」

その彼方の叫びと共に、キィンと高く、鋭い音が響く。

「痛っ…」

俺も翠も今までの事を一瞬忘れて思わず耳を塞いだ。彼方は大丈夫だろうかと思って、そちらを見る。

彼方は、青ざめていた。ただでさえ白い肌がさらに青白くなり、このまま倒れるのじゃないかと思える程に。

耳鳴りは収まった。だが、彼方の顔色は戻らない。声をかける。

「…彼方?」

彼方はハッと顔を上げ、泣きそうな目で俺を見ると、俯き、反転して靴も履かずに外へ逃げ出してしまった。

呆然と立ち尽くす俺。ふと、後ろから声がした。父さんの声だ。

「優人」

「…何? 下らない話なら後にしてよ」

「知ってたか? 最近の彼方ちゃん、お前に関係無いって言う度、辛そうな顔して、お前が去って行く時、いつも呼び止めようと手を伸ばしかけていたんだぞ」

愕然とする。知らなかった。俺は、どうせ無駄だろう、もしかしたらその内どうにかなるのかも思って、半ば諦めていた。彼方の事を本当に見て、考えていたのだろうか。色眼鏡で見てはいなかったか。俺に、何か出来たんじゃなかったのか。

グルグルと回る思考。ふと、袖が引っ張られる。そこに居たのは翠。翠も泣きそうな目で俺を見ていた。

「…どうしよう優人…あたし…今…酷い事言った…」

冷静になって、自分の発言を思い直してみたらしい。

「翠ちゃん」

そんな翠に母さんが優しく話しかける。

「あのね…喧嘩っていうのは、必ずしも悪い事じゃないの。相手を見てるからこそ、喧嘩が出来る。でもね、悪い事も含まれてるのは間違いないわ。それは、傷付ける事。傷付けてしまった事は、もう取り返しがつかないわ」

「…はい」

「でも、だからこそ出来る事がある…分かるわね?」

「…謝る事?」

「そう。簡単そうで、最も難しい事よ。言葉でだけじゃなく、自分がどう間違えたのか、どう傷付けてしまったのか。それを考えて、心から直さなきゃいけない。しかも、謝れば許してもらえる訳じゃない。もしかしたら、ずっと消えない傷を付けたのかもしれない。罵られ、責められるかもしれない。それでも、謝る勇気はある?」

「分かりません…けど、このままはイヤです…」

「なら、頑張りましょ。大丈夫よ、優人が信用した子ですもの。悪い子じゃないわ」

笑顔で頷く翠。どうやらもう大丈夫な様だ。父さんと母さんが目で俺に行けと合図をする。俺も頷き、急いで靴を履き、外に出た。



外は相変わらずの雨。彼方が飛び出してから、時間が経ってしまった。

マズい…どこへ行くのか、皆目見当もつかない。どうする…知り合い連中に片っ端から連絡かけて探すか?

玄関前の軒下で考える。しかし、こうして考えてる間にも少しずつ彼方は遠ざかっているのだ。考えるよりはまず行動!

傘を二本持ち、外へ飛び出す。

「優人様」

「おうわっ!」

飛び出そうとしたら、物陰から急に声がした。この声は…。

「レットさん?」

「はい」

周防家執事のレットさんだ。でも、何故ここに…ってそれどころじゃない!

「すいません、今急いでるんで!」

走り出そうとする俺。

「お待ちください」

しかしレットさんに引き止められる。

「何ですか。マジで急いでるんですけどっ」

「もし違うようなら御容赦下さいませ。急いでる用件とは、もしや、彼方様の事ではございませんか?」

「…そうですけど…もしかして、彼方の行方知ってるんですか!?」

レットさんに詰め寄る俺。

「はい。先程向こう側の公園のベンチに座っておられました」

「ありがとうございますレットさん!」

駆け出す。すると、背後から、レットさんの忠告が飛んできた。

「近頃怪しい輩が徘徊しているとの噂もあります。お気を付け下さいませ」

「分かりました!」

益々早く見つけないとな。
















持って来た傘も差さず走り、公園に辿り着く。彼方は…居た!

「彼方!」

ビクっとする彼方。逃げようとする手を捕まえる。

「…離して下さい」

「嫌だ。話したら彼方はどっかへ行ってしまう」

「………」

「座ろう?」

隣に座る彼方。

「怒りにでも来ましたか?」

いつもの様に表情を見せず、声に抑揚をつけずに話す彼方。一見、先程までとは違い、落ち着いて見える。しかし、彼方はやせ我慢をしているだけだ。さっきから落ち着かない様子で、俺を見ている。

「いや、別に? たださ…辛い時は誰かが居るだけで楽だからさ…」

「………」

「別に何か聞こうとは思わないし言おうとも思わない。ただ、俺はここに居るから」

「………はい」

俯き、膝を抱える彼方。しばらくはこのままで居るか…。

傘を、二人とも雨がかからないように差しながら、俺も深く腰を落ち着けた。






そうして少し経った頃、俯いたまま、彼方は大きく息を吐き、ポツリと零した。

「今から、少し独り言を言いますね」

「……ああ」

「翠が言った事、合ってます…私には勇気がありません…怖いんです…」

今にも泣き出しそうな震える声。

「機械って言われるのは一番辛いです。多分気付かれているとは思いますけど、私は意図的に感情を抑えています。私がこうなったのは周りの環境がそうならざるをえなくした…私はそう思い込む事で自分を守ってきた。でも…それは…」

そこで一旦言葉を止める彼方。

「すいません、訳分からないですよね。肝心な事も言わずに、支離滅裂な事を言って…。どれもこれも、私の勇気が無いせい」

大きく息を吐く。

「…翠が、誰も信用してないって言った時、凄く頭に血が上りました。それは、自分でもどこか分かっていた事だからです。だから…」

「これも俺の独り言だけどさ。出会って一週間で信用するのは難しいんじゃないか?」

「いえ…確かに今回の事はそうかもしれません。でも、今までに出来た事はあったかもしれない」

「月並みな言葉かもしれないけど、まだやれる事はあるよ。彼方がかかえてるモノが何かなんてのは分からないけどさ」

「それは…いつか、いつか言います…けど…今はまだその勇気が無い」

握り締めた拳に力が入る。

「嫌なんです、あの目で見られるのは…私を否定されるのは…」

震える体を必死で抑える彼方。心の中は、俺が計り知れない程の不安で一杯なんだろう。俺に出来る事は、傍に居る事くらいだろう。

「大丈夫だからな…俺はここに居るから…」

手を繋ぐ。

「……暖かいですね…本当に…人ってこんなに暖かかったんですね」







「…落ち着いたか?」

「はい…」

話す事もなく、ただ傘に雨の当たる音だけが響く。そうして10分程経った頃だろうか。不意に彼方が言葉を発した。

「優人さん…もしもの話なんですが」

「ん?」

彼方を見るが、その表情は俯いたままで見えない。

「貴方の近しい人が、自分でもどうしようもないものに振り回されているとして、それでもその人の傍に居られますか?」

何か意味があるのだろうか? いまいち抽象的で分かりづらいが、ともかく、ふざけられる状況では無いようだ。

「…そうだな。居る。居るようにするよ」

顔を上げる彼方。

「例えば、それが優人さんを傷付けるとしても?」

「うーん…傷付けられないようにはするよ」

彼方の目を見ながら言う。

「それは、多分その人自身が一番傷付いてるだろうから」

目を逸らす彼方。

「怖く、ないですか?」

「んー…そりゃ、その時になってみないと分からないけど、それでも俺の出来る限りの事はするよ」

「それじゃ、例えば……」

「例えば?」

「…いえ、何でも無いです。そろそろ行きましょう」

立ち上がる彼方。

「良いのか? 何て言うかその…」

俺が言い淀むと、彼方はかすかに笑顔を浮かべた。

「はい、励ましてもらいましたから。それに…私は謝らなければいけない」

その瞳には、強い光が浮かんでいた。これならもう大丈夫だろう。

「…翠も同じ事を言ってたっけ。もしかしたら、二人はどこかが似てるのかもしれないな」

「…ああ、それはあるかもしれませんね」

俺を見て言う彼方。クスっと笑い。

「多分、優人さんには分からないでしょうけど」

俺の隣に立った。

「行きましょう」

「…ああ」

色々あったけど、少しは変われたのかも知れないな。良く見なければ分からないくらいではあっても、少しずつ出てきている彼方の表情を見て、そう思った俺だった。






家に着き、まずは中の様子を覗いてみる。すると、玄関では翠が座って待っていた。それはさっき彼方が座って待っていたのと同じような体勢で、思わず笑ってしまった。

俺の笑い声を聞いて顔を上げた翠が、彼方が居ないのを見て取り乱して俺に詰め寄って来る。本当に心配していたのだろう。まず落ち着かせ、外で不安そうに待っている彼方を連れて家に入った。


二人はお互いの顔を見るなり。

「「ごめんなさい!」」

と同じタイミングで頭を下げる。


その後も

「酷い事言ったあたしが悪いの」

「いえ、翠は間違った事は言っていないです」

と言った会話が延々と繰り返される。キリが無い。このままにしておきたい気もするが、彼方は雨に打たれていし、折角良い雰囲気だが止めよう。

「彼方、まず風呂入って来い。体冷えてるだろう」

「あ、気付かなくてゴメン。話は明日にしよう、彼方」

「…はい、ありがとう、翠」

大分雰囲気も良くなっている。一時はどうなるかと思ったが…良かった良かった。





朝、日の光で目が覚める。久しぶりに晴れた気がする。気分良く目覚められたな。さて、顔を洗って朝御飯っと。



朝の食卓。会話が無いに等しい事には変わらないが、気のせいか、昨日までのギスギスした雰囲気は無くなっている。二人が発する空気が柔らかい。

まあ、気のせいって可能性もあるんだけど…考えるのは後にして、とりあえず朝御飯を食べよう。

3人とも黙々と食べる。ふと、翠が箸を止め、何かを探している。

目が醤油の瓶に止まる。しかし、翠からは遠い。俺が取ろうか? と聞こうとすると、先に彼方が醤油を取った。

「これですか?」

「ええ、ありがとう、彼方」

「いえ」

そしてまた黙々と食べる二人。俺はというと、少し驚いていたりして。良い雰囲気になってるとは思っていたが、まさかここまでとは。もしかしたら、昨日の夜か今日の朝までに、何か話したのかもしれないな。





朝御飯を食べ終わって少し休憩した後、俺は前々から考えていた事をおもむろに切り出した。

「二人とも、これから予定ある?」

「いえ、ありませんが」

「あたしも無いわよ?」

「なら、今日はこれから出かけないか?」

「良いわね。今日は晴れてるし」

「……はい、たまには良いかもしれませんね」

二人から了承を貰い、出かける事に。さて、どこへ行こうか。希望は無いか聞いてみると…

「あたしは別に無いかな」

「私もありません。今まで興味を持たなかったですから…」

という答え。

ふむ…困った。出かける事しか考えていなくて、行くところを考えていなかったからなぁ。

「なら、色んなところ出かけようよ。気の向くままって言ったら変だけど、特に行き先も決めずにさ」

翠が言う。

「…そうだな。彼方もそれでいいか?」

「はい。たまには感情のままに騒ぐのも良いと思います」

薄くではあるが、笑顔を浮かべる彼方。意見を出してくれた翠の為にも、楽しみにしてくれてるらしい彼方の為にも、今日は頑張らないとな。

こうして、俺たちは三人で遊びに出かけた。







映画を見て。


「うっわぁ…すっごぉ……」

「翠、キスシーンで声を出すな、恥ずかしい」

「………」

「うお、彼方がゆでだこ状態…」


美術館に行って。


「…優人さん、これは落書きですか?」

「それは抽象画って言ってそういう絵なの! 頼むからその絵を描いた人が居る前でそんな事言わないでくれ。視線が痛い」

「源氏物語絵巻かぁ…光源氏ってホント…」

「何で俺を見る」


水族館にも足を運んだ。


「………かわいいです…すごくかわいいです…」

「彼方がペンギンにこれ程食いつくとは…」

「はぅ〜…お持ちかえ「はいはい、そこまでな」な、何をするんですか優人さん!」


「あのまま彼方を放っておいたら、マジで持って帰りそうだったな。……っと、そういえば翠はどこだ……あ、居た」

「…………鮪、美味しそうだなぁ」

「…そろそろ昼御飯にするか」





昼、少し値段は張るが、美味しいと評判の店へ行く。

「それにしても、今日は二人の意外な面が見れたな…彼方は当然にしても、翠とは付き合い長いんだが…随分知らない面もあるもんだ」

それまでに行った場所での二人を思い出してしみじみと語る。

「女は秘密を着飾って美しくなるものなのよ」

負け惜しみのように言う翠。俺はニヤニヤと笑いながら言い返す。

「そりゃまあ、鮪見て美味しそうなんて言ってしまう食い意地は秘密にしておきたいよな」

「うぅ…不覚だった…」

「というか、そんな秘密着飾ったら魚臭くなりそうだ」

「うっさい優人!」

俺と翠のやりとりを見て、堪えきれずにクスクスと笑う彼方。

「…何よ彼方。そこまで笑う事ないじゃない」

「いえ…本当に仲が良いんだなと思って」

「ま、十数年来の腐れ縁だからな。一人っ子の俺にとっては姉であり妹…家族みたいなもんだ」

「…家族、ね…まあ、優人には期待してないけどさ」

溜息を吐く翠。そんな心底情けないって声を出さなくても良いじゃないか。

「翠は苦労してますね」

こっちもこっちで心からの同情の声。

「何か馬鹿にされてる気がする…俺、今そんなに悪い事言ったか?」

正直に言った筈だ。そう思い聞くと、翠は肩を落としながら、彼方は苦笑いを顔に貼り付かせ、答える。

「…これだからね。何でもないわよ」

「優人さんらしいなって言ってるんですよ」

「彼方も苦労する事になるわよ」

「…実感が篭ってますね」

「長い付き合いだからね…自分でも良くもってると思うよ」

「覚悟が必要ですね」

コロコロと変わる彼方の表情。ああ、あの仮面の下にはこんなにも豊かな感情があったのか。話の内容は俺の悪口の様な気がするのが少し不満だが、二人は楽しそうだからな…ま、いいか。








何故か俺の話題に終始した昼食の時間もおわり、昼からは街を中心に遊ぶ。


まずはお店へ。彼方は装飾品と言われるものをほとんど持っておらず、翠が『それじゃ女の子失格!』と言い出したからだ。


「買い物か…女の子の買い物ってホント長いんだよな」

「ブツブツ言わない。今日はとことん付き合ってもらうんだから」

「あ、あの、私は別に…」

「ああ、彼方は気にしないでいいよ。俺が好きでやってるんだから」

「あたしは無視か!」


肩を怒らせ、ずんずん前を進んでいく翠。その隣に並んで、宥めながら歩く彼方。後ろから見ていると、雰囲気はまるで数年来の親友のようだ。うむうむ、仲良き事は麗しきかなっと。


まあ、そうは言ったものの…やはり女の子二人の買い物は長い。色んな場所を回る割には買う事はほとんど無い。所謂ウィンドウショッピングというやつだ。まあ、綺麗なものや可愛いものに惹かれる気持ちは分かるんだけどな…。


まずは服を見に行く事に。


「次はこれを着てみて!」

「ま、まだあるのですか翠…」

「まだ終わらないのか…?」

「着飾るのも着飾らせるのも女の本懐!」

「私は着せ替え人形ですか」

「まだまだかかりそうだな…」



次は化粧品店。


「化粧をすると、女は変わるのよ…と、出来た!」

「出来ましたか。じっとしてるのは結構辛いですね」

「ふむ…悪い事は言わない。直ぐ落とせ」

「えー!? 時間かけたのにー!」

「そんなに酷いのですか…」

「悪い意味で最高傑作だな」



最後にジュエリーショップに来た。


「オーッホッホッホ! 綺麗でしょ綺麗でしょ」

「何をしているんですか…」

「お前が全部の指に指輪を嵌めてると、指輪というよりナックルガードに見えてくるな」

「……このままアンタを殴ってみようか?」

「翠、そんな事しちゃ駄目ですよ。その指輪全部で幾らすると思ってるんですか」

「俺の心配はしてくれないんだな……」



どこにいても騒がしい俺たちだった。





「あー、楽しかった! まだまだ色々回りたいけど、もう夕方だしね」

大きく背伸びをする翠。

「ああ、いい加減帰らないとな。まあ、機会は幾らでもあるだろ。また行こう」

そう彼方へ言う。

「はい、また誘ってくださいね」

彼方は笑顔で答えてくれた。そして小さな声でボソっと呟く。

「…出来たら今度は二人が良いけど」

ふむ…成る程。翠とは随分仲良くなったみたいだし。

「確かに、男が居たら話し辛い事もあるだろうしな」

というと、二人は大きく溜息を吐く。

「…時々ワザとやってるのではないかと思います」

「だったら良かったんだけどね…始末が悪い事に100%天然なのよ」

「まだまだ先は長いですね…」

「あたしが10年以上かけても辿り着けないんだから当然でしょ」

再び溜息を吐かれる。俺はまた何か悪い事を言ったんだろうか。謎は深まるばかりだ。







「でも、本当に今日は楽しかったなぁ…誰かと一緒に居るって、こんなに楽しい事だったんだなぁ…」

帰り道、会話が途切れた時に、ふと彼方が漏らした呟き。

「どうしたんだ、彼方?」

翠も心配そうに彼方を見ている。

「何ていうか…今、凄く幸せなんです。でも……」

そこで彼方の声が止まる。どうしたのかと思い見てみると、前方の一点を凝視している。

そこにあったのは、夕日を背に受けながら佇む女性のシルエット。

逆行で見えないが、視線がこちらに向いている事は分かる。もしかして、彼方の知り合いなのか? 

そう思い、彼方に視線を戻す。彼方の顔色は青ざめ、立ち尽くしている。この反応から推測するに、彼方にとっては招かれざる客なのだろう。

女性が近づく。彼方は俺の袖をつかむ。距離が縮まる度に、掴む強さが強くなっていく。

女性が彼方の前に立つ。俺は庇うように前に出た。すると女性はふっと笑い、俺の横を通り過ぎて行った。

ホッと一息吐く俺と翠。しかし、遠ざかるかと思われた足音が止まる。

「彼方…お前忘れちゃいないだろうね? 今その子達の隣に居る人間は、どこにでもいる誰かなんかじゃなく“あんた”だ。もし何も考えずにその場所に居るのなら、傷付くのはお前だけじゃ済まないよ」

そして再び足音が鳴り始める。今度は遠ざかっているようだ。

それにしても、今の言葉は…それに、彼方の名前を知ってた。関係者である事は間違い無さそうだが。

「………」

彼方は、両腕を抱え震えている。顔色も悪いままだ。とても何かを聞ける様子ではない。

「とりあえず、家に帰ろ? 彼方をこのまま放ってはおけないけど、多分道端で話せる事じゃないだろうし」

「そうだな…」

翠の勧めに従う。家は直ぐそこだし、昨日喧嘩した後の彼方の様子からしても、複雑な事情があるのだろうし。







その後の彼方は、日中の様子が夢だったかと思える程、出会った頃の様な無表情になってしまった。

俺が話しかけても、翠が話しかけても上の空。もしかしたら、出会った頃より酷い状況かもしれない。

彼方と話をするのは明日にした。無理に話をしようとして、昨日みたいな事になると困る。そう都合よくレットさんが居る訳ではない。今出来る事をする方が先決だ。とりあえずは、現状の情報の整理だな。

原因はあの女性に間違いないだろう。あの言葉がどういう意味だったのかは分からない。分かるのは、恐らくあの女性と彼方だけ。

しかし、彼方にはとても聞ける状況じゃない。となると、あの女性を探すしかないが、俺が分かるのは顔だけ。

「うーん…」

あまりに情報が少なすぎる。やっぱり、彼方に話を聞くしかないか…。

情けないなぁ。そう思いながら、俺は睡魔に身を委ねた。












翌日。外は再び雨。それはまるで彼方の心を表してるようで。やはり彼方は沈んだままだ。

俺も翠も、上手く話のキッカケをつかめない。時間が無駄に過ぎていく。今日は両親とも休みなので、二人にも協力を頼もうとも思ったが、どうやら関わる気は無いらしい。

「どうしたもんか…」

そう独りごちて、ふと外を見る。

「…あれは!」

そこには、昨日の女性が居た。おまけに手を振っている。これは、俺に話があると言う事だろうか。ともかく、動かなければ始まらない。俺は、取るものも取らずに外へ向かった。






「おー、君は足速いねー」

パチパチと手を叩く女性。俺は息を切らしながら声を出す。

「ふ…ざけ、ないで、下さい」

すー、はー。と深呼吸をして、息を整える。

「昨日、貴女と出会ってから、彼方の様子が明らかにおかしい。貴女は、一体彼方の何なんですか?」

女性はしばらくの思案の後、答える。

「ふむ、何…と言われると何と表現すれば良いのやら。まあ、あの子に一番近かった存在としておこうか」

俺はさらに問う。

「それで、その近しい存在の貴女が何をしに来たんですか」

俺は警戒心を最大にする。どう考えても良い事ではない。そう思ったからだ。

「そうだね…最大の目的は忠告かな。君達にも、彼方にもね」

「忠告?」

「そう。離れなさい。近くに居れば、彼方は傷付く事になる。彼方の事を本当に『知って』いない限りは」

知ってを強調する女性。何かしらの意味があるのか。

「…どういう意味だ?」

「…ふむ、やはり知らないか。まあ、教えているなら、あの子も昨日のような反応は返さないだろうな。問うまでも無かった事か」

女性は勝手に自己完結している。しかし、当然俺には分からない。

「俺が何を知らないって言うんだ! 答えろ!」

「おお、怖い怖い」

おどける女性。

「けど、その話はまた後だね。ほら、お客さんだ」

後ろを見る。そこには、表情の無い彼方が居た。

「悪いけど、君は一時ご退場っと」

その声と共にキィンという耳鳴り。そして手と足が動かなくなった。

何だこれ! そう叫んだつもりだった。しかし、声も出る様子が無い。大人しく雨に打たれるしかなかった。

俺はゴミ捨て場にあった机の下に転がされた。彼方はだんだんと近づいてるようだ。その音をかき消すように、女性は俺に聞かせるように呟いた。

「止まない雨は無い、明けない夜は無い…そりゃそうだ。いくら梅雨でも晴れる日はある。時がくれば朝が来る。時間が経てば、自然と終わる…けど、あの子にとってのその時ってのは何時だい? それまで、あの子は一人で耐え続けなければ駄目なのかい?」

女性は大きく溜息を吐くと、言う。

「まあ、こんな事言ってても仕方ないって分かってるんだけどね。君には私が何を言っているのか分からないだろうけど、多分直ぐ分かるよ。そして考えて欲しい。あ、あと…」

そこで気が付いたように。

「…もう忘れてしまってたんじゃないかと思ったあの子の笑顔、それを見せてくれた事には感謝してるよ」











彼方らしき足音が近くに止まった。

「久しぶりだね、彼方」

「姉さん…どうして…ここに、いるの」

姉妹? 彼方とこの女性が? 随分似てないが…。

「妹の様子を見に来るのがそんなにおかしな事かい?」

「冗談はその位にして」

聞いた事も無いような彼方の冷たい声。

「そうだね、それじゃ本題に入ろうか」

一呼吸。

「私達は普通じゃない。このままじゃ、あの子達は元より、あんたも傷付く事になる。あの子達は、私達のチカラを知らない。あんたはチカラの事を教えてない。…違うかい?」

怯んだように息をのむ彼方。

「っ………! 優人さんも翠も、必ず受け入れてくれる!」

言い返す。しかし、言葉には力が無い。

「ほう。ならば、何故言わない。孤独になるのが怖いんだろう? あの目で見られるのが怖いんだろう? 信じて…いないんだろう?」

「…そんな! …そんな事は…ないっ」

「へぇ…それじゃあ試してあげるよ」

嘲るような声。

「ちょっとした昔話をしてあげようじゃないか」

そして、女性は滔々と語り出す。

「あるところに、女の子が居ました。その女の子は親が居らず、孤児院で育ちました。
少女は、物心ついた頃から苛められていました。何故かというと、少女は普通ではなかったからです。所謂超能力と言われるものを持っていた、それが苛めの理由でした」

「……言うな」

押し殺した声。

「子供は残酷なもので、自分達と違うというだけの理由で、毎日少女を苛めていました。少女の味方は二人。時々孤児院に食べ物を持ってきてくれる、自分と同じような力を持っていた年上の少女と、その孤児院の院長先生です。少女は、その二人を心の支えにして毎日を過ごしていました」

「言うな……言うな」

「辛いながらも頑張っていた少女。しかしある時、少女にとっての宝物を苛めっ子が持っていってしまったのです。それは、院長先生がくれた、小さな腕輪。少女は追いかけました。それだけは持って行かないで。必死に追いかけました。苛めっ子を追いかけていくと、そこには他の苛めっ子達が待っていたのです。そして、少女の前でその腕輪を叩き割ってしまいました。その時、少女の中で、何かが切れてしまいました」

「…言うなーっ!」

絶叫。そして聞こえるこれまでに無く高く響くキィンという音。そして。

ドガァッ!

俺の体を隠していた机が、何かによって穿たれ、そして弾き飛ばされる。

下に居たから分かる。特別な機材を使った訳でも無く、人一人では動かせそうにも無い机を吹き飛ばしてしまった。

彼方の声が物語っていたのは、今までの話が彼方の昔の話だと言う事。そして、それを実証したのが今のこの状況。これを彼方がやったと言うのか。これがもし俺の体だったら…。

何時の間にか自由になっていた足が震え、膝が笑う。未知への恐怖。それが今の俺の中にある全てだった。

そんな俺に関わらず、女性は話を締めくくる。

「そして、少女の力で、部屋も、部屋の中に居る全てが吹っ飛んでしまいました。物も…人も…あの机のようにね…どう、彼方? これが、貴女が見なければいけない現実よ」

その声に引き寄せられるように、俺は恐る恐る顔を上げる。そこには。

「ゆ…うと…さ…ん」

雨に濡れた顔を拭う事も出来ず、絶望の色に顔を染めた彼方の姿があった。





何か…何か言わなきゃ…。誤解させてしまう。誤解? 何がだ。彼方に恐怖を感じた事は事実だろう。しかし、彼方は傷付いている。優しい言葉をかけなきゃ。だけど誤魔化しは余計傷つけるだけだ。どうすればどうすればどうすれば。

頭の中を言葉がグルグルと回る。とりあえず行動を、行動をするんだ。まずは立て。立たなければ何も始まらない。

膝を立て、立ち上がる…いや、立ち上がったはずだった。しかし、そのまま尻餅をついてしまう。

「おや、腰でも抜けたかね。そんなに怖かったかい。ま、そりゃそうだろうねぇ」

嘲笑を含んだ声。それは誰に向けたものなのか。

そして、それに反応したのは彼方。ハッとなり、後ろに向かって一目散に駆け出す。

駄目だ、このまま行かせたら駄目だ! 今度こそ、彼方は消えてしまう!

そう思い、震える足を無理矢理立たせ、昨日のように追いかけようとする。しかし。

「来ないで!」

彼方は拒絶した。肩を震わせ、何かに耐えるように。

俺が立ち竦むと、後ろから彼方のお姉さんの声がした。

「近くに公園があるわね? もしあの時と同じようにしたいのならそこで待ってなさい


それを聞くや否や、彼方は立ち去ろうとする。

「彼方!」

止めなきゃ。その一心でその背中に向かって叫ぶ。

彼方は振り返ると、何もかも諦めた顔で、震えを隠せない声で。

「もういいんです……人の温もりなんて、忘れていれば良かった」








彼方が立ち去った後、俺はただ頭の中が真っ白で、その場に立ち尽くしていた。

「済まないね、騙すような事をして。けど、あの子とあんたは違うんだ。聞いていただろう? 分かっているとは思うけど、さっきの話はあの子の事だ。いずれ、今と同じ事になっただろう。今ならまだ傷は小さくて済むんだ。だから、あの子の事は忘れなさい」

女性は一息置き。

「…さっきの話の続きはまだあってね」

再び語り出す。

「自分を取り戻した少女が見たものは、気絶した苛めっ子達、破壊された部屋、そして恐怖という感情を目に湛えた園長先生の姿でした。園長先生の責めるような目に耐え切れなくなった少女は部屋を飛び出します。そこに居たのは、大きな音を聞いてやってきた年上の少女。少女は状況を悟ります。そして少女に言いました。一緒に行こう? 少女は頷きました。それは、ここに居れば、あの園長先生の様に怯えた目で自分を見られるからだと分かっていたからです。そして、少女は感情を閉ざし、年上の少女と共に、どこへとも知れぬ旅に出たのでした…」

ふぅ、と大きく溜息。

「分かるだろう、あの子が何に怯えていたのか。自分を否定される事、そして自分に怯えられる事…それは副次的なものに過ぎない。本当に怖がっているのは孤独。例えあの子が君のところに戻ってきても、今の君が傍に居ればあの子は傷付く」

女性は踵を返す。そして一度振り返ると。

「けれど、もし何もかもを受け入れられるのなら…」

呟くと、今度こそ雨の街へ消えていった。






俺はまだ立ち尽くしたままでいた。色々な事がありすぎて、何も考えられないでいる。女性の声は聞こえていた。けれど、頭に入っては行っていない。ただ分かるのは、俺が彼方を傷付けてしまった事だけ。

どうすればいいんだ。

その言葉だけが頭を回る。何かをしなきゃと、ただ焦る俺。その時いきなり携帯が鳴った。

「…翠か?」

「優人、どこに居るの? いつの間にか彼方もいなくなってるし」

「彼方…彼方は…」

言い淀む。そんな俺の様子に何かを感じ取ったのか、翠は強い口調で聞いてきた。

「何か…あったのね。とりあえず家に戻ってきて。その後、また考えましょう」

「ああ…」

頭の中が混乱したまま、俺は家に戻っていった。





家に入るなり、翠はびしょぬれの俺にタオルを渡し、事情を聞いてきた。俺は、女性に会ってから起こった事を順番に話した。ついでに昨日の夜会っていた時の話もして、俺が傷付ける態度を取ってしまった事も。

翠は、黙って全部聞いていた。

「俺は、どうすればいいんだ?」

誰とも無く口に出す。すると翠は言った。

「ねぇ、優人。優人はどうしたいの? どうすれば、じゃなくてどうしたい?」

「どうしたいって…それは」

傷付けた事を謝りたい。何より…。

目の前の翠を見る。心強かった。俺は一人じゃなかったんだ。そう思えた。

「彼方は独りじゃないんだって伝えたい」

翠はにっこりと笑う。

「答え、出たね」

「ああ、サンキューな、翠。俺、行って来るわ」

「あ…けど、彼方がどこに居るか分かる? 何ならレットに言って探してもらうけど」

「大丈夫だ、予想は付いてる。彼方は昨日と同じ場所に居るさ」

それじゃ、行ってきます、と言って飛び出す。彼方が居るであろう公園に向かって。








「良かったの? 翠ちゃん」

優人が出て行った扉を見ていた翠に向かって、幸江が話しかける。

翠が振り向く。

「そりゃ、放っておけば恋敵が一人減りますけど、放っておくような優人は見たくないですから」

正々堂々勝負するのが私の流儀ですよ。そう握りこぶしで言う翠に、幸江の後ろから和人が顔を出す。

「何、簡単に解決出来る方法はあるさ」

手のひらサイズの手帳のようなものを3つ取り出す。

「このパスポートで重婚可能な国へ」

ガンッ。

「この人の言う事はまともに受けちゃ駄目よ?」

「おばさま…流石にフライパンは危ないかと…」

「大丈夫大丈夫」

この人は丈夫だから、と幸江。

「それで、追いかけなくてもいいの? 言いたい事があるって顔に書いてあるわよ」

「……分かりますか?」

「長い付き合いですもの。優人と同じくらいにね」

考える翠。結論は直ぐに出た。。

「…それじゃちょっと叱りに行って来ますね」

「女の子なんだから程ほどにね〜」





「少年少女は行った…か。優人は愛されてるのかアテにされてないのか。まあ、両方だろうな」

いつの間にか復活している和人。

「あの子、誰に似たのか頼りないのよねぇ…」

嘆息する幸江。

「だから、しっかりした人が一緒に居ないと心配なのよ」

「まあ、翠ちゃんに任せておけば大丈夫だろう」

「そうね。それに、女の子を立ち直らせるものは古来から決まっているし」

天を仰ぐ。昔を思い出しているかのように目を瞑る。

「それは二つ。好きな人の言葉と」

「親友の励まし、か」

二人は顔を見合わせて笑った。












俺は走った。何も考えず、ただひたすらに。歩いて10分。走れば5分。その距離を3分で着けるように。

「はぁ…はぁ…はぁ」

公園に着き、息を整える間も惜しんで彼方を探す。

「どこだ、どこだ、どこだ!」

周囲を見回す。

「居た!」

彼方は、昨日と同じ場所に膝を抱えて座っていた。俺は彼方に近付く。




「帰ろう、彼方」

ビクッとする彼方。顔を上げる。そこには表情という物が無い。

「寄らないで…」

その声にも力は無く、生気すら感じられない。

「見ましたよね…聞きましたよね…。私は、容易に人を傷付けてしまう力がある。私が居て良い場所なんて無いんです」

再び俯く彼方。

「もう、怯えた目で見られるのは嫌なんです…いっそ出会わなければ、知らなければ、こんなに辛い思いはしなくて済んだのに」

「それは違うよ」

彼方の声を遮る。

「出会わなければ良かったなんて事は無いよ」

そして、俺は彼方に語りかける。

「確かに、出会えばいつかは別れが来る。別れは辛いし、悲しいよね」

「………」

「でも、その出会えた人との思い出は、別れの悲しみだけ?」

彼方は黙って首を横に振る。

「楽しかった事あったんだよな」

首を縦に振る彼方。

「それでも、その別れの為に、出会った事を無かった事にしたいか? 俺、今日は凄く楽しかった。彼方も楽しんでくれてたと思ってた。そういう事、全部無しにしたいか?」

俯き、何も言わない彼方。俺は彼方の言葉を待つ。少し待つと、小さな小さな声で彼方が喋り出した。

「………ずっと…優人さんから逃げ出して、ずっと考えてました。辛い思いをする事が分かってて、何で私は貴方達に心を許してしまったんだろうって。出会わなければ、暖かな場所を知らなければ、こんな辛くて悲しい想いをしなくて済んだのにって」

顔を上げる彼方。その目にあるのは雨か涙か。

「こんな辛くて悲しい想いをするのなら、いっそ出会わなければ良かったって…。そう思い続けてここに来ました」

手をもう片方の手で握る。








「もう…誰とも出会いたくない…こんな悲しい思いをするのは嫌だから」

いつも、独りだった。

「だから」

みんな、私を見て怯えていた。

「だから」

そして今もまた、大切な人を傷付けそうになった。

「だけど――」

それでも。

「出会えたから、幸せで…っ…いられた」

腕輪をくれた院長先生の笑顔を見ると、幸せになれた。

「あの、暖かさを…感じる事が出来た…」

貴方は、孤独に怯えた私を暖めてくれた。

「……一緒に………ひっく………居たいんです」

許されないかもしれないけれど、それでも、私は――。







彼方が涙と一緒にこぼした言葉。そして、俺が聞きたかった言葉。そして言いたかった言葉。

「だったら「一緒に居ればいいのよ」…翠?」

後ろを振り返る。そこには、傘も差さずに走ってきたらしい翠が、腰に手を当てて立っていた。

「捨てないで! とか言えば良いのよ。こいつもおじさまもおばさまもお人好しなんだから」

「翠……どうしてここへ」

「優人から話を聞いたからね。全部聞いた。貴方のチカラとやらも聞いたし、さっき見てきた」

不安を堪えるように、手を握り締める彼方。

「それなら分かるでしょう? 私は…」

翠は、彼方の前まで来て、頭に手を乗せる。

「正直、怖いと思ったよ。実際に見た優人程じゃなくても、どれ程のものかはよく分かったから。怖いけど…でも、それでもあたし達は彼方と居たいのよ。大体、全部知った上で、あたしも優人もここまで来てるのよ。彼方こそ、それで分からない?」

「………翠っ!」

翠に抱きつく彼方。

「一人じゃないって事、もう忘れないようにね…」

俺のセリフが取られた…まあいいか。これで多分元通りだろう。





「これは皆さんお揃いで」

彼方が泣き止んだ頃、不意にあの女性の声がした。翠と彼方を後ろに庇う。

「おやおや、これは嫌われたもんだね。で、彼方…どうするんだい?」

その言葉を聞くと、彼方は俺に『どいて』と合図する。

「大丈夫か?」

「…一人じゃないから」

心からの笑顔を浮かべる彼方。


そして、女性の前に立つ。

「私は、あの人たちと一緒に居る」

女性は、眉根をピクリとさせる。

「傷付く事になっても?」

頷く。

「悲しい思いをする事になっても?」

頷く。

「独りになるかもしれない…それでも?」

「決めたんです…もう、迷わないって」

女性は天を仰ぐ。雨は止み、青い空も見え始めている。

「そっか…彼方、あんたの雨は止んだんだね…」

踵を返す女性。

「姉さん!」

女性は何も言わず、右手を上げて軽くばいばいと手を振り、俺らの前から立ち去っていった。








「追いかけなくて良かったのか?」

いつまでも女性が去った方を見ている彼方に話しかける。すると、彼方は振り返り返事をした。

「はい。きっと、また出会う為の別れでしょうから」

すっきりとした顔の彼方。

「それじゃ、帰ろっか」

翠の言葉に頷き、歩き出す。しかし、ふと隣を見ると彼方が居ない。彼方は立ち止まってしまっている。

「どうした?」

「あの……私……一緒に…行って…良いんですよね」

不安そうにこちらを見る彼方。俺は翠と顔を見合わせ、同時に手を出す。

「当たり前だろ?」

「おじさまおばさまも待ってるわよ?」

「……はいっ」













俺達は、きっとこれからもこんな日常を続けていくのだろう。新たな出会いと、新たな別れを繰り返しながら。いつかは別れる道だけど、その時までは隣の道で。








「それにしても、何で私達は三人で手を繋いでるのかしらね」

「まあ、たまには良いんじゃないか?」

「そうですよ。それは勿論、二人で手を繋ぐほうが良いですけど」

「んー……もしかして、俺は邪魔か?」

「……だから何でそうなるんですか」

「言ったでしょ。無理だって」

「……負けませんよ、絶対。過ごした年月の差なんて、ひっくり返して見せます」

「あたしだって負けないわよ。勝負は真っ向から、が身上だからね」

「何か良く分からんが頑張れー」

「「…はぁ」」

「どうして二人とも俺を見て溜息吐くのかな?」

「何でもないわよ…とりあえず今日のところは」

「このまま行きましょうか」







貴方の傍に居場所があって、貴方が居場所としてくれて。それは凄く素敵な事で、そんな毎日を過ごしていける。それは予感に過ぎないけれど、きっと確かにある未来。

















「それじゃ、三人一緒に入るわよ」

「はい」

「せーの」











「「「ただいまっ!」」」












雨は上がり、降り続ける事はもう無い。時々は夕立もあるかもしれないけど、その時はいつでも手を伸ばせばいい。帰るべき場所は、いつもここにあるのだから。